「神戸だいすき」記事の一部で、まあ、自分の属する宗教教団の宣伝臭いが、実際に神様仏様のような人間も存在はするだろう。そして、そういう人の一部は名が歴史に残ることもある。
ただ、私はそういう人間(宗教家)よりも、文学のほうがはるかに人類の知的向上をもたらし、人間の徳性(あるいは品性)を高めてきたと思っている。特に児童文学である。子供のころに読んだ本から得た「人間の品性」についての印象が、その人の品性を高めるわけだ。(ちなみに、今朝の起き抜けに読んだ本が、市民図書館から借りてきたJ・M・バリーの「ピーター・パンとウェンディ」である。)トルストイの大長編は読まなくても、子供のころに「イワンの馬鹿」を読むだけでも、「頭で稼ぐ」詐欺的労働と、「手に汗して物を作り出す」本当の労働の違いは一生記憶に残るわけだ。(品性のある知的労働は社会全体に貢献するものなので、金儲けには向かない。)
作者の品性と作品の品性はイコールではない。たとえばオスカー・ワイルド本人は男色の罪(これは時代の風潮の問題だ)で社会的に破滅したが、彼が子供のために書いた童話は永遠の価値を持つだろう。「作品の永遠の価値」は宮沢賢治や小川未明、新見南吉、浜田ひろすけも同様だ。
童話だけでなく漫画も子どもの精神発達に与える影響は大きいと思う。手塚治虫が日本に存在したことの意味は、あまりにも大きい。その後の子供向け漫画やアニメはすべてそこから派生したと言える。特に「可愛さ」(kawaii)は、手塚キャラが源流だと思う。だから、手塚治虫の存在しなかったアメリカのアニメのキャラはまったく可愛くないのである。(もっとも、手塚治虫自身がウォルト・ディズニーの影響が大きいが、ディズニーの死後、デイズニープロ作品ではそのキャラの可愛さは失われた。)
(以下引用)
キリスト教だって、仏教だって、教えることは同じです。ただし、究極は同じということで、この世の宗教が、汚れはて、罪深くなってしまったのも、本当。今や、なかなか真の宗教者には会えません。私は、その「まこと」に出会いました。最初は、そんな一点の濁りもない人なんかいるはずがないと、思いました。けど、調べれば調べるほど、信じられるようになりました。かすかな濁り、人であるからには避けられない罪ケガレと、最後の最後まで戦い続けた人に出会いました。おのれを、磨いて磨いて磨きぬいた人です。信者たちは、生き仏様のように、崇拝しました。ところが、その生きた仏の生涯は、苦難に満ちていました。ひとつひとつの苦難が、その人を磨きぬいたのです。最初から、完璧な人なんかいません。最初はただの人です。それにしても、なんで、これほどの人が、ここまでつらい目に遭わねばならないの?神も仏もないものかと、思うことばかりでした。あのころは、神と仏の「極愛」とは、人として越えられるギリギリの修行を与えて磨きぬくことだと、知らなかった。磨きぬかなければ輝き渡る玉にはならない。仏道修行の道は、険しくて、貧困、誹謗、妨害の連続でした。なぜ、ここまで?神も仏もないものかあるなら、こんな高い志の人を、なぜ、守ってくれないのか?近づくにしたがって、その理由がわかりました。その人が、苦難を前にして、くじけず、挑戦と研鑽を重ね、一歩一歩のぼっていく生涯、その真剣さに打たれた弟子は、その人の志を受け継ごうと真剣になります。あの、苦労を無駄にしてはならない。灯を私が継ぐ!心底真剣に道を求めた人に出会えたのは、この上ない幸福でした。その幸福とは、師匠と同じく苦難の道を歩くことで、実際に、自分で味わってこそ知る醍醐味。
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