「神戸だいすき」さんの記事タイトルだが、記事の中身は話があっちに飛びこっちに飛びで、タイトルとどうつながっているのかよく分からないのでタイトルだけ思考ネタにして考察してみる。
(以下引用)
最初に私の考えを言えば、宗教は最高にややこしいものだと思う。ややこしいというのは、扱いが非常に難しいものだということだ。民衆がひとつの宗教を信じていれば実に簡単だが、今の世界のように無数の宗教が、カルトや邪教(カルトと同じか)や詐欺宗教が氾濫している時代には、相手が何かの宗教、それも新興宗教の信者だと聞いただけで敬して遠ざける、いや蔑視して遠ざけるだろう。ある意味、宗教受難の時代だが、それは宗教には「絶対的な証明」は無いからだ。幽霊と同じだ。幽霊はいないと断定する人に、「では神も存在しないのですか」と聞いても、「いや、神(仏)は存在する」と答えるだろうが、その「神の存在の証明」というと、「これほど素晴らしい世界が偶然にできたはずはない。だから、神がこの世界を作ったのは明白だ」とキリスト教やその系列の宗教者は言うだろう。しかし、私は下手な絵を描く趣味があるが、偶然に動かした筆のタッチで素晴らしい効果が生まれることがある。世界とは、そういう偶然の産物だ、と見ても不合理だとは私は思わない。
ところで神と仏はまったく違う存在で、私の理解では「仏」とは悟った人間のことで、人間が成るものだ。死者を「仏」と言うのも、そこから来ているだろう。しかし、キリスト教では神と人間はまったく違う存在で、人間が努力しても神にはなれない。では、聖母マリアはいかなる手段で妊娠したのか、と問いたいところだ。キリストは神の子だというから、神には人間の女を妊娠させることが可能なのだろう。
仏教でも、多くの宗派は、人間は死後に天国か地獄に行く、としている宗派が多いと思うが、先祖が悪の限りを尽くしても、その子孫が幸運な恵まれた人生を送っている例が上級国民には多いから、「因果応報」は怪しすぎる思想である。せいぜいが、燃えているマッチを指で掴むと火傷する、程度の因果関係ではないか。小さな犯罪は厳しく処罰されるが、社会的大物の大きな犯罪はほとんど見逃される。では、因果応報はどこへ行ったのだ。
安部が行った無数の悪事の犠牲者は何百万人もいる(氷河期世代である)が、安倍が死ぬまで安楽に暮らしたのを見ると「因果応報」が実現するまで遅すぎないか。
要するに、こうした社会の有様を見ると、宗教とは「無知な民衆を騙して心の平安を得させ、同時にお布施を得る」という商売なのではないか、と私には思われるわけである。まあ、一種の無資格「診療内科」のようなものではないか。
私には占い師とさほど変わらないように思える。
私の好きな言葉だが、リラダンの或る短編小説の冒頭に「予言者ふたり出会えば、笑う」というのがある。つまり、どちらも相手が詐欺師であることを知っているからである。
(以下引用)
宗教って、そんなにややこしいものなの?
(引用終わり)
最初に私の考えを言えば、宗教は最高にややこしいものだと思う。ややこしいというのは、扱いが非常に難しいものだということだ。民衆がひとつの宗教を信じていれば実に簡単だが、今の世界のように無数の宗教が、カルトや邪教(カルトと同じか)や詐欺宗教が氾濫している時代には、相手が何かの宗教、それも新興宗教の信者だと聞いただけで敬して遠ざける、いや蔑視して遠ざけるだろう。ある意味、宗教受難の時代だが、それは宗教には「絶対的な証明」は無いからだ。幽霊と同じだ。幽霊はいないと断定する人に、「では神も存在しないのですか」と聞いても、「いや、神(仏)は存在する」と答えるだろうが、その「神の存在の証明」というと、「これほど素晴らしい世界が偶然にできたはずはない。だから、神がこの世界を作ったのは明白だ」とキリスト教やその系列の宗教者は言うだろう。しかし、私は下手な絵を描く趣味があるが、偶然に動かした筆のタッチで素晴らしい効果が生まれることがある。世界とは、そういう偶然の産物だ、と見ても不合理だとは私は思わない。
ところで神と仏はまったく違う存在で、私の理解では「仏」とは悟った人間のことで、人間が成るものだ。死者を「仏」と言うのも、そこから来ているだろう。しかし、キリスト教では神と人間はまったく違う存在で、人間が努力しても神にはなれない。では、聖母マリアはいかなる手段で妊娠したのか、と問いたいところだ。キリストは神の子だというから、神には人間の女を妊娠させることが可能なのだろう。
仏教でも、多くの宗派は、人間は死後に天国か地獄に行く、としている宗派が多いと思うが、先祖が悪の限りを尽くしても、その子孫が幸運な恵まれた人生を送っている例が上級国民には多いから、「因果応報」は怪しすぎる思想である。せいぜいが、燃えているマッチを指で掴むと火傷する、程度の因果関係ではないか。小さな犯罪は厳しく処罰されるが、社会的大物の大きな犯罪はほとんど見逃される。では、因果応報はどこへ行ったのだ。
安部が行った無数の悪事の犠牲者は何百万人もいる(氷河期世代である)が、安倍が死ぬまで安楽に暮らしたのを見ると「因果応報」が実現するまで遅すぎないか。
要するに、こうした社会の有様を見ると、宗教とは「無知な民衆を騙して心の平安を得させ、同時にお布施を得る」という商売なのではないか、と私には思われるわけである。まあ、一種の無資格「診療内科」のようなものではないか。
私には占い師とさほど変わらないように思える。
私の好きな言葉だが、リラダンの或る短編小説の冒頭に「予言者ふたり出会えば、笑う」というのがある。つまり、どちらも相手が詐欺師であることを知っているからである。
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