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善悪二種類の「人間の条件」

イギリスによるインド支配の後、インド独立を機にインドはインドとパキスタンに分裂したが、その分割の理由はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立にある、と(たぶん)理解されているかと思う。しかし、それまでは平和に共存していたこの二宗教が、国家分裂によって対立関係になった、という見方も可能だろう。
この前、市民図書館から借りた「夜の日記」という本の著者(インド人女性)後書きによると、

「インド各地の特定の場所で、ときおり紛争が起こります。けれども分割(夢人注:1947年)の前には、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、シク教徒、それにパールシー教徒、キリスト教徒、ジャイナ教徒などの少数派の宗教教団の人たちが、なかよく暮らしている地域もありました。国境をこえるときに緊張が大きく高まり、パキスタンに入国するイスラム教徒とインドに入国するヒンドゥー教徒やその他の宗教の人たちのあいだで戦闘や殺人が起こります。暴力が起こったのは、ほとんどがかつては平和だった場所です。千四百万をこえる人が国境をこえたと考えられていて、そのあいだに少なくとも百万人が死んだといわれています(もっと多いという人もいれば、少ないという人もいます)。」

下線部が少し分かりにくいかと思うが、パキスタンがイスラム教中心の国になる、という決定があって、インド内にいたイスラム教徒がパキスタンに移る際にもともとパキスタン所在地にいた他教徒との間で闘争が起こり、殺人が起こったということ、そしてヒンドゥー教中心となるインドに入ろうとした、パキスタン側の地にいたヒンドゥー教徒が、インド内の他教徒との闘争になったということかと思う。
まあ、いずれにしても、宗教というものが人をキチガイ(殺人鬼)にする例である。
なお、仏教がインド発祥でありながら、インドでまったく発展しなかったのが私には謎なのだが、誰かこれについて納得のいく説明をしてくれないものだろうか。
はっきり言って、ヒンドゥー教もイスラム教も私には愚劣な思想だと思われるのだが、たとえばイスラム教徒は世界に十六億人いるという。もはや、キリスト教を超える世界宗教と言っていいのではないか。イスラム教の何がそれほど魅力があるのだろうか。単に私のような一知半解の馬鹿には理解ができない深遠な宗教なのだろうか。それなら、その信者たちの殺し合いは立派な行為となるのだろうか。

この「夜の日記」の本文は未読だが、翻訳者の後書きに、こうある。

「どうやら人間は『自分(たち)ではないもの』との関係で自分を定義し、意味づけをせずにはいられない生き物のようです。ヒンドゥー教徒であるには、ヒンドゥー教徒でないものの存在が必要です。日本人であるためには日本人でないものの存在が必要です。男であるためには男でないものの存在が必要です。健常者であるためには健常者でないものの存在が必要です。さまざまな境界線を引いて「わたしたち」と「かれら」をわけ、ちがいを強調し、自分とちがうものを排除して、対立するのは、人間という生き物に深く組みこまれた条件なのかもしれません」

まあ、「人間の条件」とは、「非人間的な悪」に対する倫理的立場を示すのが普通だろうが、ここに書かれたのも、或いは(悲しむべき)「人間の条件」かもしれない。
そして、翻訳者山田文さんは、こう続ける。

「けれども、そうしたちがいを暴力につなげることなく、ちがいを抱えながらともに生きていくことができるのもまた人間ではないでしょうか。」







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