私は「モラルの土台は(理性よりも)感情にある」と最近考えている。つまり「分別知」を持つ以前の、両親の有言無言の教えの中からモラルは身についていくものだ、ということだ。
「善行を分別知がいらないままで行える」からこそ、モラルは法律よりも社会全体のために役立つのである。そして、社会全体の「風紀」が乱れた国で、子供がまともに育つはずはない。それが現在のアメリカであり、欧米諸国である。その影響を受けて、アジア全体もモラルの退廃が進行しつつある。
私は父の晩年の子供で、父親とあまり会話した記憶は無いが、珍しく父と浜に遊びに行った時に、父が海岸に落ちていた幾つかのガラスの破片を拾い上げ、それを人が誤って踏まない場所に片付けたのが記憶に残り、道にゴミを捨てたりするなどの行為(些細に見えても他人に害を与える行為)はしてはいけないのだ、ということが心に刻みつけられ、それは私の一生を律している。親の行為が子供に与える影響は、それほど強い。
「母は子に信をどう教えるかといえば、信頼を裏切らないようにすればよいのである。」
母親には限らない。父親もそうである。最初に我が子を腕に抱くとき、嬰児は「この人(存在)は自分が信頼していい人(存在)か」ということを確認しようとし、薄目をあけてじっと「観察」している。だから、嬰児が安心して眠りにつくまでは、どんなに腕が疲れても、嬰児を腕から離してはならない。それだけで、子供との深層心理の中の信頼関係は結ばれ、それは子供が成人するまで続くはずである。子供が親を信頼する限り、夜泣きなどすることもないし、粗暴な性格に育つこともないだろう。深層心理というものの重要さは、さまざまな場面に潜んでいる。
(以下引用)
(次は引用にあらず、岩田の解釈)。日本は日本的情緒の国で、それは善行を分別智がいらないままで行えることである。それを教えるのが道義教育で、それは「他を先にし自分を後にせよ」ということである。教育や政治はこれに合わせて作るしかなく、特に義務教育は重要なのである。義務教育の要諦は「道義的センス」をつけること、そのことにある。
いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っているといえば合っているというだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答えが合うことよりも、自分で合っていると認めることの方が大切なのに、それがわかっていない。
グループ活動などといって、ひとところに大勢集めて勉強させるのもよくないことで、何にもならない。ボスができるばかりである。ボスができてからなら道義の入れようもない。言語道断なことをするなといいたい。
母は子に信をどう教えるかといえば、信頼を裏切らないようにすればよいのである。幼児が母の手をしっかり握っていて、向こうから知人がやってくる。そのとき挨拶のために子供の手を振り払うと、それ以後は知った人に会うたびに手を振り切られはしないかとびくびくするようになる。
人だから一つぐらい長所は必ずあるだろう。それを大きくクローズ/アップすればよい。ただ、競争意識をあおるのは害あって益のないものであろう。
しかし、また考えれば、日本は滅びる、滅びると思っていても案外滅びないかもしれない。というのは、日本民族はきわめて原始的な生活にも耐えられるというか、文明に対するセンスが全く欠けているというか、そういうところがあるので、自由貿易に失敗して、売らず買わずの自給自足となっても、結構やっていけそうにも思えるからである。先日、故障で停電したが、家中のだれも直し方をしらない。ローソクを頼りにふろにつかりながら、ああ、万事これでいけば心配することはないと思ったことだった。