「マドモワゼル愛」のブログから転載。
私は現実生活では真面目そのものの人間であり、たまに冗談を言ってもそれが冗談と受け取ってもらえないような男である。まあ、単に冗談が下手なだけだが、周囲とは冗談やユーモアの感覚が違うとも言える。そもそも筒井康隆を好むような人間の冗談が普通の世界で受け入れられるわけがない。だから、あえて真面目を装っているという部分もある。
たとえば、こんなジョーク(いわゆるシック・ジョーク、あるいはブラック・ジョークだ。)を人前で話したら、とんでもない人でなしだと思われるのは請け合いだ。
(ここで「セカンドベース」というジョークを書いたのだが、やはりあまりにひどいジョークなので消してしまった。障害者差別ジョークというよりは、「人間そのものを物のレベルに引きずり下ろして笑う」というスラップスティック的な笑いなのだが、そういう笑いを嫌う人は多いだろうから、あえて地雷を踏むことはしないでおく。臆病者と笑わば笑え。)
どうでもいい話が長くなった。下記記事で言う「真面目病」の人というのは、現実生活では周囲とよく協調し、お互い冗談なども言ったりするが、実は生活の大半が「仮面」の維持に費やされていて、その生活のストレスを心の中に溜め込み過ぎて鬱病になるというタイプだ。実際、鬱病になる人間はかなり多いらしいし、鬱病予備軍は膨大な数に上るだろう。そういう人には、それが「真面目病」だ、と教えれば、それだけで治るのではないか。
もっとも、真面目病は社会で成功する要因の一つでもあり、社会全体が維持される要因でもあるから、それを「完治」させるのはまた問題かもしれない。真面目病の完治とは、いい加減人間の出来上がり、なのだから。(というわけで、昨日の「『いい加減』は『良い加減』」へと話がつながるわけだ。)
私自身のストレス対策は単純で、「対世間」の時間とプライベートな時間を完全に分けること、そしてプライベートな時間ではあくまで怠惰に、気楽に過ごすことである。いやまあ、ストレス対策と言うよりはただの怠け者の自己弁護なのだが。(念のために言うが、これでも若い頃は「生きるべきか死すべきか」で毎日のように悩んだ真面目人間でもあったのだ。ある意味、真面目病を克服してただのゴクツブシ・駄目人間になったとも言える。まあ、他人に迷惑さえかけなければ、人間、どう生きようがいいのである。)
(以下引用)
2014-05-23 23:36:15
私は現実生活では真面目そのものの人間であり、たまに冗談を言ってもそれが冗談と受け取ってもらえないような男である。まあ、単に冗談が下手なだけだが、周囲とは冗談やユーモアの感覚が違うとも言える。そもそも筒井康隆を好むような人間の冗談が普通の世界で受け入れられるわけがない。だから、あえて真面目を装っているという部分もある。
たとえば、こんなジョーク(いわゆるシック・ジョーク、あるいはブラック・ジョークだ。)を人前で話したら、とんでもない人でなしだと思われるのは請け合いだ。
(ここで「セカンドベース」というジョークを書いたのだが、やはりあまりにひどいジョークなので消してしまった。障害者差別ジョークというよりは、「人間そのものを物のレベルに引きずり下ろして笑う」というスラップスティック的な笑いなのだが、そういう笑いを嫌う人は多いだろうから、あえて地雷を踏むことはしないでおく。臆病者と笑わば笑え。)
どうでもいい話が長くなった。下記記事で言う「真面目病」の人というのは、現実生活では周囲とよく協調し、お互い冗談なども言ったりするが、実は生活の大半が「仮面」の維持に費やされていて、その生活のストレスを心の中に溜め込み過ぎて鬱病になるというタイプだ。実際、鬱病になる人間はかなり多いらしいし、鬱病予備軍は膨大な数に上るだろう。そういう人には、それが「真面目病」だ、と教えれば、それだけで治るのではないか。
もっとも、真面目病は社会で成功する要因の一つでもあり、社会全体が維持される要因でもあるから、それを「完治」させるのはまた問題かもしれない。真面目病の完治とは、いい加減人間の出来上がり、なのだから。(というわけで、昨日の「『いい加減』は『良い加減』」へと話がつながるわけだ。)
私自身のストレス対策は単純で、「対世間」の時間とプライベートな時間を完全に分けること、そしてプライベートな時間ではあくまで怠惰に、気楽に過ごすことである。いやまあ、ストレス対策と言うよりはただの怠け者の自己弁護なのだが。(念のために言うが、これでも若い頃は「生きるべきか死すべきか」で毎日のように悩んだ真面目人間でもあったのだ。ある意味、真面目病を克服してただのゴクツブシ・駄目人間になったとも言える。まあ、他人に迷惑さえかけなければ、人間、どう生きようがいいのである。)
(以下引用)
2014-05-23 23:36:15
真面目病
テーマ:ブログこの世にあるもっとも重い病気は真面目病。 まあ、そんなことはないだろうが、時代が押し迫ってくると、一番割に合わなくなるのが、真面目な人だ。 会社が言うままに、、、国が言うままに、、、お医者さんが言うままに、、、真面目だから反発せずに従う。 本気で従うのならいいが、心の片隅には不信があり、気は乗らない。 でも反発したり、反抗することなどはできない。真面目な人なのだから。上が言うままに、従うのが美徳であると信じているが、本当のところは怖いからだ。 ノーというのが怖い。真面目でいれば周囲から浮き上がらない。嫌われない、、そう本気で思ってしまうのだろう。 言いたいことも言えず、真面目に生きてきた人が、不運にも亡くなったとしたら、その葬式は本当に暗いものになると思う。 きっと、どこかで恨んでいることだろうと、、、葬儀に来た人はなんとなく感じてしまう。 この世で善人、、、あの世で悪魔に変身、、、きっとそうなるのではと人は恐れる。 反対に好き勝手やって長寿をまっとうした人の葬式なら、思い出話しにも花が咲く。厄落としの酒も安心して飲める。 もともと、真面目というのは、周囲から期待された人物を演じるという役であり、しょせん無理がある。 癌にかかり、医者が言うままに抗がん治療を行う、、、あまりの苦しみにもうやめたいというのが、絶対の本音だと思う。 しかし、もう一度やりましょう、、という医者の魔の声にノーと言えない。そしてのたうちまわる苦痛。もう死んだってこんなことよりはましだ、、、と怒鳴れない。 怒鳴れば、道が開けるかもしれないのに。一番大事なイノチを見ず知らずの医者に預けてしまう。 医者は決して自分が癌になったら抗ガン治療などしないというのに、そんな医者の進めに従う。 でもどこかおかしい、、、どうしても嫌だ、、、でも真面目だから言えない。 そんな日本人が本当に多いと思う。どうせ殺されるのなら、もっと、感情的な抵抗してもそろそろいいのではないかと思ってしまう。 真面目に苦しみに耐える限度を今の日本は越えてしまっているように感じるのだ。 ブラック企業がのさばるのも、政治のあまりの圧政が続くのも、真面目な人が多いからインチキが通用してしまうのだ。 癌に関しては、世界の主流はとっくに抗ガン治療などやっていないと聞く。じゃ何が主流かというと、「放っておく」と。私も最初は耳を疑った。 真面目な人の上に、白衣を着た悪魔が踊っている、、 白衣は医学であり、科学であり、法曹であり、教育であり、政治であり、経済であり、金融であり、、、 そろそろ真面目病からさよならする時期が来ているのではないか。「これじゃ殺されちまう」と言っていい頃合いではないだろうか。 本当に殺されちゃうかもしれないのだから。真面目に我慢しても、もう誰も喜ばない。イノチが悲しむだけ。 食堂チェーンで一斉にバイトがストライキを行う、、、という話しがあるが、そこまで本当に追い詰められているのだと思う。 アメリカでもすごい人の数がワシントンに集まりだしたようだ。退役軍人が怒りだしている。私がイノチをかけて守ろうとしてきたアメリカとは違う、、、きっとそういう気持ちなのだと思う。 日本も同じだろう。下級裁判官とはいえ、やっと原発再稼働をダメと言ってくれた。偉いものだ。一縷の望みを感じて、心がスーッとした日本人も多かったと思う。 天皇皇后両陛下はその頃、足尾銅山に出向かれた。私的に行かれたようである。足尾銅山では公害により多くのイノチが奪われた、負の記録を記念した場所だ。 原発再稼働の違法性を裁判が認め、同時に天皇は足尾銅山へ出向かれた。偶然かもしれないが、思いは一つとの希望が湧いてくる。 面白いことに、政権のブレーンの一人は、天皇のご発言が安倍政権を批判しているように国民が誤解すると、大御心を批判した。 天皇は憲法順守をお述べになっただけで、当たり前のことである。それは日本の決まりごとなのだから。天皇も政治家も国民も憲法を守る、、当たり前のご発言。 憲法を順守するのが政治の仕事。憲法解釈が首相の自由なら、憲法など不要。 一体何がしたいのか。真面目な人はまだそれでも従うのか。今の日本は真面目な人の口を無理やり押えて抗がん剤を流し込むような暴挙に出ているように、私には思えてしまう。 しかしあまりにおかしすぎるので、ここまで来ると、やはり多くの人がおかしいと思い出す。 おかしなもののあぶり出しと考えると、逆に納得がいく。誰の目にも、今、おかしなものが、各地で各階層で、あぶりだされつつあるのではないだろうか。 |
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