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他者への執着と、自我の放棄

「バカ国民帝国日本の滅亡」から転載。
記事も面白いが、コメント間の問答が面白い。
母親が、子供のために自分の死を忘れる、というのはいわば子供という存在に執着する執着心から、自分自身の死の恐怖を忘れることであり、君子が死を恐れないのは、この世の何物にも執着しないから死を恐れないのである。つまり、この二つは、まったく違う方向から、同じ結果になっている。
私の考える「宇宙の原理」は、「無限大はゼロに近づく」というものだが、他への愛着心の極限は自我の放棄に至るわけだ。逆に、自我を放棄すればするほど、この世界そのものへの愛(世界と自分は同一であるという思い)に至る、ということもあるだろう。表と思って進んでいたら、いつのまにか裏側に回っていた、というメビウスの輪のようなものである。

余談だが、「観念する」という言葉は面白い。「観念する」とは本来哲学的(仏教的)思索へ没頭することだが、それが「あきらめる」意味になるというのは、実はこの言葉の本質を見事に示している。また、「あきらめる」とは本来、「明らめる」、つまり「明らかにする」意味だったというが、「明らかにする」ことが「あきらめる」につながるというのも、日本人が仏教というものの本質を体感的に知っていたことを示しているのではないだろうか。



(以下引用)


”君子の自由”と”小人の自由”
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まったく内実の異なるものが、同じ「自由」ということばで呼ばれている…





奴隷や囚人にとっての「自由」とは何だろう?




喰えることであり、痛い目に遭わずに済むことであり、




いつかは、この境遇から脱することができると信じられる”希望”であろう…





自分が、自由でいられること、自由にできるモノがあること。




そして、自由な時間があることだろう。





欲望が満たされていること…




恐怖から逃れられていること…





それが、”奴隷の自由”、”囚人の自由”である。





日本人の多くが求めている「自由」はこれである。





ゆえに、彼らはたやすく権力に支配される…




権力に支配されて、「自分が自由である」と錯覚している…





豚舎でブタは腹いっぱい食えて、寒さもなく、天敵の襲来にも脅かされず、「自由」を満喫している。




だが、彼らはなにひとつ自分で決定できはしないし、生死も飼い主に委ねられている。





ブタどもにとって、欲望が満たされることが、「幸福」であり、「自由」なのである…




ブタどもにとって、「安全」を信じられ、恐怖のないことが「幸福」であり、「自由」なのだ。





喰われるために生きている者たち…





君子は、権力に支配されず、主体的な立場を維持しようとする。




だから、くだらぬ欲をそもそももたない…




偽りなく生きているので、怖いモノがない…




欲をもたず、恐怖しない…




だから、君子は権力から自由である。




権力に対して、常に主体的な立場を維持することができる。





そもそも権力とはなにか?…




欲で釣り、刑で脅すことである。





欲と恐怖によって、人間を支配することができる。




だが、君子は支配されることがない。





欲がないから釣られない。




死ぬことも怖くないから、脅しが通じない。





ゆえに、君子は常に”自由”である。





君子は力を求めない。いや…求めはするが、求め方が違うのだ…




何も支配しようとしない…ゆえに、万物が自分にしたがうようになる…





他力に寄り添うことで、他力を自力に変えてしまう…




相手や仲間の力を利用する…引き出す…それに乗る…





無欲恬淡、柔弱謙下不争の徳は、権力に支配されない自由な自分を維持する極意である。


 

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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