(以下再引用)
今は「自分の悪の部分」を直視することで乗り切ることができる時代のような気さえします。
水戸黄門なんかでも、悪代官とかワッハッハッとか笑ってるじゃないですか。
あれは健康にいいのです。
映画「ロボコップ」なんかでも悪人たちは主人公を殺しながら爆笑し続けています。
結果として、先ほどの論文に出てきた「呼吸構成要素」とか「笑いの筋肉緊張に及ぼす効果」により、悪人は健康となるので、悪人は世にはびこる。
世にはびこるようになるには、悲惨の中でも笑うことだと思います。
悲惨な時代の中でも。
私はもともと自分の中の悪の比率が高い人ですので、このような時代でも、そんなに落ち込まないですが、悪魔と天使が内在しているとすれば、自分の中から天使を一時的に排除するような、そんなことが必要な時代になってしまっているかもしれません。
映画エクソシストのオープニングでは、イラクで発掘された古代の石像の頭部に「悪には悪を」と書かれているシーンが描かれていますが、それを思い出します。
悪には悪を。
(以上引用)
「自分の中から天使を一時的に排除する」という意味がはっきりしないが、自分の中の天使を排除したら、後には純粋な悪しか残らないだろう。まあ、善も悪も半分以上主観でしかない、という考え方もできるが、世の中の人間が「心の中が真っ黒」な社会というのは、考えてもゾッとする。「悪と戦うためには自分も悪にならねばならない」という思想かもしれないが、それもどうかと思う。もちろん、私は戦うこと自体、つまり暴力自体を基本的には否定する者だが、悪を否定する方法はいくらでもあるだろう。たとえば法律も道徳もある。自分自身が悪になる必要性はまったくないと思う。
そもそも、「生存のためには自ら悪にならねばならない」というところまで人類は、あるいは日本人は追い詰められているか。そんなことはあるまい。危機的状況においてこそ、善の価値が問われるのではないか(、と「偽善的」に聞こえそうなことを言ってみる)。
そもそも、悪になってまで自分の生命というのは守る必要があるのか。生命の価値というものは「他人の生命」と「自分の生命」では天地ほどの差があるのかもしれないが、その大事な生命を自ら捨てる(自殺する)人間が毎年何万人もいるのである。彼らは、自分が「悪」になりきれなかったから死んだのか。自分が悪になって、他人を無数に殺してでも生きるのが「人間のあるべき姿」だと岡氏は言うのだろうか。いや、これは話を飛躍させたが、「悪」として生きるというのは究極的にはそういうことなのである。
まあ、「倫理」問題は、私の重要考察課題なので熱くなったが、容量の関係もあるから、「笑い」についての考察は別の機会にする。
ちなみに、「カルネアデスの舟板」状況での殺人は私も完全否定はしない。しかし、沈没する船の中で、女性や子供に救命船の先を譲って死んでいった無名の人々は人間を超えて神に近いと思っている。まあ、危機的状況では善人ほど先に死ぬものだ。で、その死は無価値で、悪人として、他人の足を引っ張ってでも生き延びるのが正しい、というのが岡氏の思想なのだろうか。