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「自由」論 1

「自由」について考察しようと思うが、先に「自由意志」について考えてみる。

ドストエフスキーの「死の家の記録」の中にこういう一節がある。

『囚人』という言葉の意味は自由意志のない人間ということである。

では、「自由意志」とは何か。それは「意志の自由」である。「自由に意志することができる」ということだ。それは、「思考の自由」とは別だ。ここで「意思」と「意志」の違いが問題になる。
「自由に意思すること」は囚人にでもできるが、「自由に意志すること」は囚人には不可能だ。それは、「意志」とは、「何かをしようとすること」だからだ。当然、あらゆる行動が命令と監視の下にある囚人には「自由意志」はほとんど許されない。
これは、何かに似ていないか。あらゆる行動が命令と監視の下にある生活。言うまでもなく、「学校生活」だ。あるいは「軍隊生活」だ。あるいは、会社などもそれに近い。ただ、その中で許可される「自由」や「自由意志」の分量が違うだけである。
つまり、「集団や組織の中に在ること」は必然的に何かの拘束を生じるのである。その拘束の度合いによって「奴隷度」あるいは「囚人度」が異なるわけである。

さて、では「自由」であれば即座に幸福になるか、と言えば、当然そんなことはありえない。集団や組織に属することで得られる「目的物」もあるのである。つまり、「意志の目標」が何であるかが問題だ。「自由」自体が目標なら、話はとても簡単だ。「完全に独り」になればいい。「集団や組織に属すること」が必然的に拘束を生むのだから、世捨て人や隠者になれば自由になる。しかし、そのような自由では「物質的幸福」はほとんど不可能だろう。世界に貨幣が生まれて以来、物質的幸福はカネで得るものと決まっている。あるいは権力によって得ることも多いだろう。ヤクザが市民を脅して何かを巻き上げるなどである。
つまり、この世界では「カネ」と「権力」が「自由獲得の手段」だと言える。「死の家の記録」の別の場所で「貨幣とは鋳造された自由である」と言っているのはそういうことだろう。「権力」に関して言えば、監獄の所長や学校の校長は、囚人や生徒には無い自由を満喫できるわけである。
まあ、権力に従うのも他人に権力をふるうのも嫌いだ、という私のような人間は世捨て人や隠者になるのが一番だろうが、それでも最低限のカネは必要であるわけだ。

「自由」についてはまだまだ考察する必要があるだろうが、いったんここで切り上げる。





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