「勉強への過剰適応」という言葉はまさに言い得て妙である。対人関係では、東大生より、高校で遊びまくったか、あるいは部活で運動ばかりしていたFラン大学生の方がはるかに上なのではないか。社会に出て必要な能力はもちろん学力ではなく対人能力だ。
まあ、天才というのも、或る種の過剰適応だろうが、その人生が凡人の人生より幸福だった例は少ないようだ。もちろん、創造の喜びは日常生活の幸福に勝る、という考えも可能だろうが。
(以下引用)
2018-03-14
■東大の学生生活は本当に病むから気をつけたほうがいい
東京藝術大学の学生生活は本当に病むから気をつけた方がいいを読んで思うところがあったので書きます。
百数十万人の同い年に生まれた子供のうち、3000人くらいしか入れない大学です。
そこに入るには、日本でトップクラスの学力を要するといわれています。
芸術よりも、お勉強の道を選ぶ人は多いので、まあ、入学するには最難関の大学の一つですね。
東大に入ると、せっかく東大に入ったのに自信がなくなるのは、当たり前です。
なんせ、駿台模試とか東大オープンとかで、自分の点数(440点満点で220点くらい)から見ると理解困難な点数(330点とか)を取っていた秀才がリアルに目の前にいるのです。
人の学力をけなすような低劣な人格だったらまだ溜飲が下がるってもんですが、そういうのに限っていいやつなんだな。
そういう秀才を目の前にして、ひがんで屈折してしまう自分の、人格的な弱さと、その根底にある学力の弱さに涙した東大一年生は何百人もいるはずです。
誰もそんな恥ずかしいことは口にしませんが、そうやって自分のせいで人間不信になって、大学に来れなくなったり第二外国語をさぼって放校になる駒場生は何十人もいます。
それでも、学力という、偏差値という唯一の物差しを信じて人生18年生きてきた東大生は、病むほどに勉強します。
だって進振りがあるんだもん。教養の平均点を偏差値に置き換え、平均点の優劣で人生が決まると思って勉強します。
病むほどに点数は上がります。病むほど勉強しないと、同級生の秀才たちには太刀打ちできないのです。
東北の某県で無敵を知られた秀才君も、九州で男子を蹴散らし英語無敵を謳われた彼女も、ここではただの一東大生。
そんなレベルは、男女御三家(武蔵を除く)やツッコマには掃いて捨てるほどいるのです。
田舎から出てきた東大生は、東京というものに強い憧れを抱いていたんですね。
クリームがいっぱいに乗ったパンケーキ、お洒落なブティックとかドラマで見る東京の恋愛に、ただ漠然といいなぁ素敵だなぁと胸にトキメキを馳せておりました。
実験し大教室に通う毎日と、倒しても倒しても出てくる自分より賢い同級生の前にひれ伏す毎日を過ごします。
東京という街は、そういうところなんですよね。
実際、東京大学に対しても大きな憧れを抱いていました。その理由はやはり「日本トップの国立大学だから」というのがあったと思います
そういう理由で大学にきてしまったので、憧れの理想と現実の差に心を痛めました。
日本トップの授業があるわけでは無いし、合格したからと言って自分の学力が日本のトップになるわけでは無かったからです。
大切なのは、自分が将来何になりたいかであって、東大は通過点でしかないということを身にしみて感じています。
この年になるといろいろなものを見てきました。
キラキラしていた秀才が、国家公務員試験を上位で合格し、某省で組織防衛に身も心もさいなまれ、書類の書き換えの何が悪いと言い放つ姿も。
誰もがかなわないと思った研究者が、研究に疲れ果てたタイミングで引っ掛かった男に身も心も搾取され、売春でその彼に貢ぐようになってしまった姿も。
勉強ができたから、当然のように理学部物理学科に進学しあるいは司法試験に受かったのに、それらの職が本来求める対人調整能力がなかったがゆえに、人生で唯一得意な受験勉強で食ってくために予備校講師になった姿も。
18歳の時に知り合ったキラキラした秀才が、そういう風にして、堕ちていく姿をたくさん見てきた。
きっと彼らも、キラキラして見えたけど、東大にいた四年間に何か病むことがあって、そうして社会に出たときに、単に幸せを追求することができなくて、不幸せになっていったんだと思う。
上には上がいる。
そして、一つの物差しで「上」を計ろうと思うと、全体として自分が如何にあれば幸せになれたのかということが分からなくなってしまうのだと思う。
勉強が出来過ぎたがゆえに、勉強の物差しで人生は幸せになれると思い込まされる。
そして、自分より勉強ができる数多の秀才に出会ったが故に、もっと上に行きたくて勉強して、結果、勉強への過剰適応で世の中に適応できない若者を量産する。
それが東大。