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「義は利の和」という言葉の一解釈

「正しい」とはどういうことか。
論理的な正しさなら客観的な判断はできる。道徳的・倫理的な正しさは、時代や場所で異なってくるから簡単には判断できない。というのがまず普通の認識だろう。いや、普通ではないかもしれない。世間の大多数は、論理的な正しさと道徳的・倫理的な正しさの区別もしないだろうし、自分の正しさについて何の疑いも持たず、それを主張するのではないか。
で、道徳的倫理的な正しさというものに普遍性は無い、という認識もまた困ったもので、そうなると道徳や倫理の基盤も失われてしまうことになる。
さて、今朝の眠りからの覚醒時の思考の中で思い浮かんだのが「義は利の和」という言葉である。これはたぶん「墨子」の中にある言葉のようだが、印象には残っていたが、同意はできなかった言葉であった。つまり、私は、「義と利を弁別せよ」という孟子の言葉の方が好みで(それは、義と利が対立する時は義を選べ、という、社会に処する際の峻烈かつ根源的な思想だ。)、「義は利の和」という言葉は「(自分にとっての)利を集積して生じる結論こそが正しい答えだ」みたいなものだと思われたのだ。だが、それを「自分にとっての」利ではなく、「多くの人にとっての」利だと考えれば、話はがらりと変わる。そして、その解釈の方が、墨子という思想家のキャラクターや中心的思想(兼愛非攻)にも合致しているのである。
ある問題に対する答えが、私には利益だが他人には不利益を与えるならば、それは「義」ではない。その答えが私にも他の関係者にも、ひいては、あらゆる人に利益を与える時に、その答えは「義」である、というのが「義は利の和」だとすれば、これはあらゆる問題を解決する、単純かつ便利な基本方針になりうるのではないか。
今日の「播州武侯祠偏照院」ブログに載っていたいじめ問題に関する記事の中で、「いじめられる方にも悪いところがある」「悪いところがあるからいじめられる」という考え方についての議論があったが、そもそも「悪い」とは何か、「正しい」とは何かについて、子供のころから考える習慣が無いからこそ社会的な悪がはびこるのではないだろうか。
自分の行為の前に立ち止まり、(それが正しいかどうか)ためらうという習慣があるだけで世間の小さな悪(これが、その被害者にとっては命にも関わるほどの巨大さになる。)の多くは無くなるのではないだろうか。

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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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