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「真・善・美」は一致するという思想

下の引用は、「はてな匿名ダイアリー」での「悪役(の悪行描写)は物語創作に必要か」的な物語創作論(つまり、「トンネルを抜けた時の明るさへの感動のためにトンネルの暗い道を歩くことの不快に耐えられない人もいる」、ということ。)に対するコメントだが、現実人生や現実社会の話としてもなかなか面白い指摘だと思う。

「悪の凡庸さ(悪人は特殊な人間ではなく普通人でも悪に陥る)」という思想が、悪への同情となり、悪への腰の引けた対処になり、あるいは悪に報いるに善を以てする、という宗教的な姿勢になり、その結果、悪が世界に拡大していく、ということもありそうだし、現実にそうなっている感じもある。だからと言って、「厳罰主義」でこの問題が根本的に解決できるかどうか。

この問題への対処は、「悪は美しくない」ということを倫理問題の基点にすることではないかと、ふと思った。つまり、倫理感覚とは「行動の美」への感受性である、ということだ。
我々は、たとえば統一教会問題での政治家たちの「行動」を醜悪だと思っているのではないか? その「醜悪」という言葉は「悪は(審美的に)醜いものでもある」という思想を包含するように感じる。それは、この「醜悪」という言葉が外面的な(外観の)美醜だけでなく、行動の美醜にも使われることからも言えるのではないか。
これは、昔から言われている「真・善・美は一致する」という思想に近い。言うまでもなく、ここでの「美」は外面の美ではない。美男美女の悪党は無数にいる。しかし、美男美女ではまったくないが、善人の善性がそのまま顔に現れている人も多いのである。で、内面が下品・下種であるような美男美女は、やはりそれが顔に現れているのである。俳優やタレントや有名人の誰それをここでは指摘しない。



(以下引用)


あー。一方で、「絵にかいたような悪役でも実は事情があってそれなりにはいい人でした」展開も、作者のリアリティ観の薄っぺらさがほの見えて萎える(「正義は人の数だけある」と言っておけばいいんでしょ、的な)。


なんというか、その辺にあふれてる自分正義言い訳にした低劣な人間の底の浅さみたいなのをリアルに描いた悪役像が、読んでいて一番好ましい。

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