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「物はあるけど貧しい」とはどういうことか

私などは、飢え死にしないだけでも幸福ではないか、と考える人間だから、「物はあるけど貧しい」というのは「物の価値に(恣意的に)上下の値付けをする」、ブルジョワの思想だと思ってしまう。問題は、実は今の日本では飢え死にしている人間がかなりいるだろうということだ。生活保護すら拒否されている人間やホームレスの人間である。中には犯罪に走る人間もいるだろう。それは、「物がある」とは言っても、それが行き渡らない層があるということだ。百均やコンビニやストロングゼロやユニクロが利用できるのはまだ恵まれているわけである。私などには、ユニクロ製品など贅沢品に思える。コンビニの存在には生存を助けられている。百均はデパートなどより庶民生活にはるかに貢献していると感謝している。
そうしたものを「貧しい」と思うのは勝手だが、では、ゴッホやセザンヌやフェラーリを私有できるような生活が人間の理想なのだろうか。価値観というのは、実は自分で決めることが可能であり、私は、いくらカネがあっても、孫正義や柳井や前澤何とかと自分の人生を取り換えたいとはまったく思わない。数億円の宝石より、草の上の露や青空や白い雲が美しいと思う。
まあ、物があるけど貧しいと言うのなら、それは、たとえば利休が褒めたからと言って、朝鮮の尿瓶を茶器として有難がるような人間のことだろう。いや、尿瓶を茶器としてもいいが、要するに「高い値段がついたから」有難がる心根の卑しさを私は貧しいと言っているのである。
なお、私は、「自分が江戸時代(でも奈良大和時代でもいいが)の人間だったら、今の最底辺の生活でもたいへんな贅沢だと思うだろうな」、と、よく想像する。そういう意味では、人類は確かに進歩しており、時代が進むほど幸福なはずなのである。それが幸福でないのは、実は、「他人と自分を比べる」ことから来ているのだ、と思っている。自分と他人ではなく、今の時代と過去の時代を比べるのは、精神衛生的に有効な思考法である。言い換えれば、幸福も不幸も主観が一番の決定要素だということだ。これをさらに言い換えれば、「我はただ足るを知る」が幸福への指針だ、となるだろう。と言うのは、不幸とは不満とほぼ同じであるからだ。「足るを知る」なら不満ではありえないわけである。
などと言うのは、形而上的な問題解決であり、現実にはカネが無いがゆえの無数の悲惨にこの社会は覆われている。だから私は(世の不幸の救済策として)社会主義を主張するのである。




百均やコンビニやユニクロやストロングゼロに衣も食も満たされている生活のことです。












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酔生夢人
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男性
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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