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「中世の暗黒」は虚偽の説と言えるか

「泉の波立ち」から転載。
面白い問題だと思うが、議論の内容には疑問がある。
結局、筆者南堂氏の考えは、「ギリシア文化が中世アラブに継承され、それをさらにルネサンス期の欧州が再輸入した」「その原因は、中世欧州には(ラテン語以外)文字言語が無かったからだ」ということになると思うのだが、私の疑問は2点。

1)たしか、最古の聖書はギリシア語で書かれていたはずだ。つまり、ギリシアは文字言語を古くから持っていた。(おそらくその他の国でも自国文字言語は持っていたと思う。それが特権階級だけの知識であったにせよ。)自国言語でなければ文化は発達しないというのが南堂氏の考えのようだが、ならばなぜギリシアだけでも文化が古代ギリシア以降発達し続けなかったのか。
2)ラテン語では文化は発達しない、となぜ言えるのか。

やはり、ここは一般常識に従って、教会による知識の独占と、宗教に対立する科学的思想の禁止が中世ヨーロッパの文化的停滞、科学の未発達の原因であったと考えるべきだろう。
そういう意味では、やはり「中世の暗黒」という考え方は正しい、と私は思う。


(以下引用)

2014年10月28日

◆ なぜ中世アラブは先進国だったか?

 中世では、欧州よりもアラブの方が先進国だった。なぜか?

 ──

 これははてなブックマークで話題になっていた話題。

 最初の質問は、こうだ。
 イスラム科学の社会で、アラビア科学が発達した理由はなんですか?
( → 知恵袋

 文章が滅茶苦茶なので、正しい質問に直すと、こうだ。
 「中世では、アラブ社会が欧州社会よりも、文明が発達していましたが、それはなぜですか?」

  ※ 近代科学と呼べるようなものはまだできていなかった。
    近代科学が始まるのは、ニュートン以後だ。( → 
別項


 これに対する回答は、下記のものがある。(上記ページのベストアンサー)
当時のキリスト教社会の場合、「神がきめたことを人が疑ってはいけない」という考え方がありました。キリスト教の経典で書かれていることを疑ったり、それと違うことを話すことは「異端」とみなされていて、そのために命を落とすことが多くありました。

科学とは「客観的根拠のある知識を探求する」ことですが、カトリック教会の権威は支配している社会では真理を探究する行動はしにくいです。今の近代科学の発展につながる「考え方のしくみ」ができるようになるためにはルネッサンスと宗教改革、つまり16世紀、17世紀まで待たないといけませんでした。 )
 
 一方、他の意見として、下記のようなものがある。
antonian 歴史 当時のイスラム圏は先進国で財力があったからじゃないかね。中世はイスラム圏が今の先進諸国で、欧州はローマ帝国崩壊後の群雄割拠で内戦に明け暮れてる第三世界。
 ──
kitayama ローマ帝国崩壊後のヨーロッパは暗黒世界で、一方イスラムは安定しており、余裕があったので、科学等が発展した。ヨーロッパは十字軍でイスラム世界から情報を仕入れ、ルネッサンスになったという理解なのだが。
( → はてなブックマーク

 しかし、いずれも妥当ではない、と私は考える。

 ──

 私の回答は、こうだ。
 「中世の欧州では、学問というものが存在しなかったし、学問を教える学校というものも存在しなかった。なぜか? そこに存在したのは、ラテン語学校というもので、ラテン語の文法などを教える学校だけだった。
 この時点では、文字言語というものが存在しないに等しかった。文字言語としては、ラテン語だけがあったが、ラテン語を覚えることだけがすべてであり、ラテン語で何かを考えるというようなことはなかった。何かを考えるとしたら、自国の言語で考えるしかないのだが、自国の言語には文字がないので、文字表現が不可能だった。
 要するに、中世の欧州では、文字言語が存在しなかったのである。これが決定的に文明を遅らせた原因だった」

 さらに説明すれば、こうなる。
 「ルネッサンス期になると、ラテン語学校の教育から、人文主義の教育へと移行して、学校は学問を教えるようになった。このときようやく、西洋文明が開化した。
 このころ、同時に、ルターが口語聖書を普及させた。それまでのラテン語の聖書から、自国語の聖書へ、聖書の言語を転化した。同時に、自国語の文字表記が始まった。これに少し先だって、グーテンベルクの活版印刷も始まった。」

 ──

 年代を示せば、下記のようになる。( Wikipedia による)

 1455年:グーテンベルク聖書(ラテン語)
 1524~1545年 :ルター聖書(口語)
 さらに、ラテン語学校については、下記の通り。
 ルネサンス期の人文主義者たちは、中世ラテン語を「野蛮な隠語」だとして批判した。オランダの人文主義者デシデリウス・エラスムス(1467年 - 1563年)は、ラテン語の教え方が悪いとして教会を非難した。エラスムスはローマ・カトリック教会内部における改革のためには、古典の学修がなされなければならないと主張した。人文主義者たちの影響力は大きく、イタリア各地の領邦国家の住民たちは、新たな形態のラテン語教育を求めて声を上げ始めた。こうして、ラテン語古典文学、歴史、修辞、弁証法、自然哲学、算数に、少々の中世ラテン語、古典ギリシア語、近代諸語などを教える様々な形態の学校が、登場するようになった。
( → ラテン語学校

 こうしてルネサンス以後のラテン語学校は、学問を教えるようになったが、そのとき、学問というものはもともと存在していなかったから、外部から翻訳するしかなかった。外部とは? 当時の先進国は、ギリシヤ文明を引き継いだアラビア社会だけだった。だから、アラビア社会から学問を翻訳の形で導入した。
 ルネサンス期のヨーロッパの学者たちは、膨大な百科全書的なギリシア-イスラム文献に取り組み、こうした文献は、最終的には、多くのヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の飛躍的な革新によってヨーロッパ全土に普及した。イスラム文化が衰退の一途をたどりはじめた時代と相前後してギリシア-イスラムの知の遺産を継承した西洋がルネサンスによって旺盛な活力を獲得し、イスラム文化にとって代わって世界史の表舞台に登場したことは歴史の皮肉にほかならない。
( → ルネサンス

 ──

 以上から、真相がわかるだろう。
 (1) イスラムの方が先進国だったのは、教会が学問を禁じていたからではないし、欧州が暗黒世界だったからでもない。(中世欧州が暗黒世界だったというのは、古い歴史認識であり、今日では否定されている。)
 (2) イスラムの方が先進国だったのは、イスラムの方に金があるとか何とかいう、特別な理由があったからではない。
 (3) イスラムの方が先進国だったのは、単に、欧州が自国の文字言語をもたなかったからにすぎない。(比喩的に言えば、日本が中国語[漢文]を使うしかなくて、万葉仮名による自国語の表現ができなかった、という状態。)
 (4) ルネッサンス期になって、欧州は自国の文字言語をもつようになった。このとき、学問を学校で教えることも可能になった。かくて、学問が開花した。これ以後、欧州は学問や科学が発達することが可能となった。
 (5) のみならず、欧州は「翻訳」の形で、アラビア社会の文明をすべて流入させることができた。かくて、「自国の文字言語 + アラビア文明からの翻訳」という形で、欧州は一挙に世界最先端に追いついた。(これは日本の文明開化に相当する。日本も明治期に活版印刷を導入して、急激に文明開化がなされた。)
 
 ──

 結局、大切なのは、文字言語なのである。これを獲得する以前は、欧州は未開社会だった。しかしこれを獲得した以後は、欧州は文明社会となったのだ。



 [ 付記 ]
 最初の質問に戻って答えるならば、こうなる。
 中世アラブが先進国だったのは、中世アラブに特別な理由があったからではなくて、中世欧州の方に「後進国である理由」があったのだ。それは、「自国語の文字言語をもたない」ということだった。文字を書くときには、自国語で書くことはできず、ラテン語で書くことしかできなかった。(日本で言えば漢文で書くしかないようなものだ。)……こういう状況では、科学や文明というものは生じにくい。
 比喩的に言えば、アラブが徒競走で1位になったのは、特別に足が速かったからではなくて、単にライバルが勝手にこけたからだ。それだけのことだ。
 


 【 関連サイト 】
 
 → 「銃・病原菌・鉄」への私見2(知的な書評ブログ)

 ※ ここでも「印刷術とアラビア文明」という話題で、いろいろと述べてある。
   参考になるので、読むといいだろう。本項と深く関連する。
 

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