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天国の鍵64

その六十四 善への意思

 ここから帰れば、すべての宝が自分のものになる、帰らなければ、永遠に地上にもどれない、という二つの道の一つをえらばねばならないのです。たしかに、もう一つの道をえらべば、あるいは、地上に住むすべての人に天国への道が開かれるのかもしれませんが、そこにはハンスはいないのです。むずかしい言葉で言えば、自己犠牲(じこぎせい)というやつです。他人のために、自分の大切な物、時には命をも失うことです。
 ハンスはアリーナが好きでしたから、何よりも、アリーナと二度と会えなくなることはつらいことです。しかし、アリーナが自分の母親に見捨てられ、命さえもねらわれたというのは、この世に悪があるからです。ソクラトンの言ったように、本当に悪にも存在意義があるのでしょうか。たとえ、後でつぐなわれたとしても、罪のない人間の流す一滴の涙は、本当につぐなうことができるのでしょうか。善しか存在しない世の中というものは、退屈で無意味な世界になるのでしょうか。
 ハンスはこの世の悪というものをそれほど見てきたわけではありません。しかし、たとえば、貧しさのために飢え、苦しむ人々の姿は、あってはならないものであり、戦で親や家族を失った人々の悲しみも、あってはならないことだと思えます。じっさい、このお話には書かれていませんが、ハンスたちが歩いてきた道にも、そうした苦しみや悲しみの姿は本当はあったのです。お話というものは、楽しさが大事ですから、そうした悲しい姿は、作者の私はあまり書きたくないのです。自分の生活を考えてみてもそうでしょう? いつでも楽しい事ばかりの生活をしている人間なんて、そんなにいません。いたとしても、一家の働き手が仕事を失えば、あるいは、家族の一人が重い病気にでもなれば、その楽しさもいっぺんでおしまいです。明日からは、生きていくことは苦しみ以外の何物でもなくなるでしょう。中には、そうした中でも自分は明るく生きられるという自信のある人間もいるかもしれませんが、たいていの人間は、そうではありません。自分では気づいていなくても、常に、この世の悪におびやかされているのです。
 ハンスが生まれてすぐ捨てられたというのも、親からすれば自分が生きるために自分の子供を犠牲にしたのでしょう。自己犠牲の反対ですね。これも一つの悪です。ハンスが教会のお坊さんに拾われたのは幸運なことでした。でなければ、ハンスは生まれてすぐに死んでしまい、マザーグースのゴタムの賢人みたいに、この話はそこでおしまい、ということになったわけです。つまり、ハンスにとってこの世界が存在するのは、教会のお坊さんの一つの善行によってです。たとえ、それがいやいやながらした、義務的な善行だったとしても(実際、そうだったのです)、それはハンスにあらゆるものをもたらしたのです。
 そうしてみると、一つの善によって生かされたハンスは、自分では意識していなくても、その瞬間に心の底に善への強い意志が生まれたとしてもおかしくはないのです。例の、阿頼耶識ですね。現代風に、潜在意識(せんざいいしき)と言ってもいいですけど。これが、天国の鍵という言葉が、なぜハンスをここまで引っ張ってきたかという理由です。

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酔生夢人
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男性
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仙人
趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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