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少年マルス 22

第二十二章 飢餓の中で

しかし、事はそう簡単には運ばなかった。
マルスの弓を警戒した敵は、城を遠巻きにして持久戦に持ち込んだのだった。
幸い、川の側の城であるから、水には不自由しなかったが、二月半が過ぎて食糧が備蓄の半分を切ると、篭城側には焦りの色が濃くなってきた。

「病人の数がどんどん増えてますわ」
トリスターナが暗い表情で言った。
「今日も一人死んだわ。これで六人目よ」
マチルダも呟くように言う。
城壁の上で見張り番をしていた兵士が叫んだ。
「敵の使者が来たぞ!」
町の参事たちは広場に集まって、敵の使者を迎えた。使者は単騎である。
「何の用だ」
「町の代表に話がある。我々は赤髭ゴッドフリートとその仲間だ。我らの名は聞き及んでおろう。わしはその一の子分のシルヴェストルだ」
使者を取り囲んだ町民たちはざわざわと声を上げた。盗賊騎士赤髭ゴッドフリートと、その一の子分、命知らずのシルヴェストルの名は、国中に知られていたからである。彼らに滅ぼされた町は、小さな村は数知れず、城砦を持った大きな町も二つが彼らの為に滅んでいる。
町民のざわめきをシルヴェストルという男は満足げに眺めた。彼は四十前後の、骸骨のように痩せて筋張った男で、長い口髭を顎の下まで垂らしている。額には癇症らしい青筋が走っており、顔は日に焼けている。いわば、まったく愛嬌のないドン・キホーテといった趣であるが、この男と、もう一人、赤髭の配下の血まみれジャックの残忍さは広く国中に知られていた。
「どうだ、二月半も城に閉じこもって、飽き飽きしたことであろう。そのうち、食い物が無くなって、お互い同士食い合う事になる前に降参したらどうだ」
町民たちは顔を見合わせた。篭城戦の恐ろしさは誰でも知っている。篭城戦の末期に食べ物が無くなったある町では、子供達を殺して食ったという事も、事実、あったのである。
「今、降伏すれば寛大な処置を取ってやろうとゴッドフリート様は言っておられる。条件は只一つ、我々の仲間を散々殺した、憎むべき弓の射手をこちらに引き渡すだけでよい」
「言うことはそれだけか。我々がそのような条件を呑むとでも思うのか。そもそも、盗賊の言葉など我々が信じると思っておるのか」
イザークが怒りで声を震わせて言った。
シルヴェストルは肩をすくめてみせた。
「信じる信じないはそっちの勝手だ。せっかくの申し出をそっちが受け入れないなら、こっちはいつまででもお前たちが飢え死にしていくのを見物させてもらうだけだ。われわれには急ぎの用など無いのでな」
シルヴェストルは耳障りな高笑いを上げて、馬の首を後ろに向け、城門を出て行った。

シルヴェストルの言葉は、井戸に毒を投げ込んだようなものだった。
参事たちは連日、参事会堂で論議を重ねていたが、シルヴェストルの来た日の参事会では、マルスを敵に引き渡して降伏しようという意見が出たのである。
それを言ったのはやはりヨハンセンだった。
「どこの者とも知れぬ男一人を引き渡すだけではないか。それで町が救われるなら、引き渡せば良いのじゃ」
「お主は悪魔か! マルスが我々の為にあれほどの働きをしたのを見ていながら、彼を敵の手に引き渡してむざむざ殺させようというのか」
イザークがヨハンセンを怒鳴りつけた。
「戦の途中でいくら敵を殺そうが、戦に負けたら何にもならん。それに、敵が遠巻きに包囲している限り、マルスとやらの弓も何の役にも立たんではないか。つまり、奴はもはや我々にとって無益な存在じゃ」
ヨハンセンは言い放った。
「ヨハンセン、お主なぜそれほどに彼らにつらく当たるのだ。たとえ余所者じゃろうと、一月も一緒に過ごせば仲間であろうが。それに、連中はこの町にも珍しい、いい気立てを持った者たちじゃのに」
イザークは悲しげに言った。
他の参事の一人が、ゆっくりと口を開いた。
「わしはマルスを引き渡すのには反対じゃ。と言っても、それが可哀想だとかいうよりも、野盗どもが約束を守るはずがないと思うからじゃよ。マルスを引き渡して連中を城内に入れたが最後、奴らは我々を皆殺しにするであろう。野盗の約束とはそういうものじゃ」
もう一人の参事も言った。
「わしも同じ意見じゃな。マルスを引き渡すよりは、いっそこちらから城門の外に打って出て、決戦するのがよい」
「何を馬鹿なことを! 相手は百戦練磨の盗賊たちだぞ。この町に剣を取って戦える者が何人いるというのだ」
ヨハンセンは怒鳴った。
この日はとうとう結論は出ず、さらに日が過ぎ、食糧の配給は日に日に少なくなっていった。
そして、食糧の備蓄があと十日分ほどになった時、最後の参事会が開かれることになり、町民たちは正午に行われる参事会のその決定を首を長くして待った。

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少年マルス 21

第二十一章 篭城戦

マルスたちを探して町のあちこちを探していた他の仲間も皆オズモンドの側に来ており、マルスたちと一緒に連行されることになった。
「皆一緒なら安心ですわ」
とトリスターナは暢気なことを言っているが、参事会堂の一室に放り込まれた五人は、それから半日、何の食事も与えられず、さすがに意気消沈してしまった。
参事会堂の建物は、この国の他の建物同様、木造だから、その気になれば壁を壊して脱走することも出来そうだったが、そうすると彼らを庇ったイザークという老人の体面を潰すことになる。
イザークが彼らの前に現れたのは、天井近い小窓から見える夕日が沈みかかる頃だった。
「すっかり遅くなって済まなかった。篭城の手配で忙しくてな。ここに回ってくる暇がなかったのだ。まあ、これでも食べるがよい」
五人は目の前に出された食物に飛びついた。
「ところで、ヨハンセンの言ったことは本当か」
イサークの言葉に、マルスは捕らえられた時のいきさつを話した。
「ふむ、ヨハンセンらしいやり方だ。だが、ヨハンセンの言葉が嘘だという証拠も無い以上、お前たちをわしが勝手に釈放するのは難しい」
「簡単な証拠があります」
マルスが言った。
「ふむ? と言うと?」
「明日、私に弓を返してください。そうすれば城の壁の上から外の野盗たちを何人でも射てみせましょう」
「ほう、弓に自信があるみたいだな。よかろう。明日連れに参ろう」
「私たちは病人や怪我人の看護をさせてください」
トリスターナが言った。
「そうしてくれれば助かる。お主らの働き次第では、きっとヨハンセンも自分の誤りに気づくだろう」

翌日、マルス、オズモンド、ジョンの三人は城壁の上に連れて行かれた。
鋸の歯のようになった壁の上部の間から覗くと、町の周囲を囲む野盗の騎馬隊が見える。
その数は、歩兵を含め、およそ二百人くらいだろうか。町の裏は切り立った崖であり、その下は川になっているので、敵は前と右と左の三方にいる。
敵は今、正面の堀にどんどん土を入れて、堀を埋めにかかっている。その後ろにある大きな機械は破城槌である。堀が埋められたら、次はその破城槌の出番である。破城槌で門が破られたら、もはや為す術はない。盗賊たちの前に町民はすべて殺戮されるだろう。その前に女たちがどのように凌辱されるかも想像できる。
マルスは敵を皆殺しにする決意を固めた。このような場合、敵への同情や憐れみは無用である。敵への同情や憐れみは自分たちの死につながるのだ。いや、マチルダやトリスターナの身には死よりもひどいことが行われるだろう。
マルスは弓に矢を番えて、きりきりと引き絞った。
狙いをつけて放たれた矢は、およそ二百歩ほどもある堀の向こうに居並ぶ盗賊の一人の胸板を射抜いて、矢尻はその背中まで突き抜けた。
わっと驚いて、盗賊たちは動きを乱し、城内に向けて手に手に矢を射掛けたが、そのほとんどは石壁までも届かず、堀の中に落ちた。
マルスは続けざまに矢を射た。自分で持っていた二十本の矢はすぐに尽き、周囲の弓兵の持っていた矢を借りて、二時間ほどの間でおよそ五十人ほどの敵を射殺し、あるいは傷を負わせた。もしも自分で作った矢であれば、ほとんど百発百中だっただろうが、質の悪い矢では、この距離ではどうしても命中率は六、七割程度に落ちる。それでも、敵の矢がほとんどこちらに届かないことを考えれば、マルスの存在によって敵がこの城を攻略するのが非常に難しくなったのははっきりしていた。
こちら側の被害は、敵の投石器による怪我人が数名と、矢による被害が一人だけである。
敵がマルスの矢を恐れて、ずっと後ろに退避し、矢が届かなくなったので、マルスは一休みすることにした。
「素晴らしい腕前だ!」
傭兵隊長のギーガーが握手を求めてきた。彼は城壁の上に立って、マルスが散々に敵を射殺す様をずっと見ていたのである。
「お主がいる限り、この戦いは勝ったようなものだ」
マルスはギーガーの手をほどいて、仲間たちの所に戻った。
オズモンドの隣に立っていたイザークが、傍らのヨハンセンに言った。
「どうだ、これでこの方があの盗賊たちの仲間でないことははっきりしたであろう」
ヨハンセンは気難しい顔をして言った。
「確かに、あの盗賊の仲間ではなさそうだ。だが、他の盗賊の仲間かも知れぬて」
そして、ぷいと立ち去った。
「まったく頑固で疑り深い男じゃ。だが、お主らの嫌疑はこれで晴れたぞ。それどころか、お主らには最高の待遇をしよう。まことに、マルスとやらのあのような弓の腕はこの国始まって以来じゃ。まさしく神技じゃな。お主らの御蔭で、もしかしたらこの戦いは勝てるかもしれん。大事なお客様じゃ」
その夜はイザークの言葉通り、マルスの今日の武功を称える祝宴が行われた。
篭城戦が始まって暗く閉ざされていた人々の顔は、今はマルスのために明るかった。

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少年マルス 20

第二十章 広場での論争

男はマルスの抗弁にはまったく耳を貸さず、側の兵士にマルスとマチルダの処刑を命じた。
「広場の処刑場でこいつらを切り殺せ」
男がそう命じると、兵士の一人が
「女もですか? そいつは勿体無い。町の女郎屋に売れば、高く売れますぜ。こんな美人は上級市民の奥方にもいない。なんなら、わしにくださいよ」
と、よだれを流しそうな口ぶりで言った。マチルダはそれを聞いて、ぞっとした。
「いかん。罪人は生かしてはおけん」
マルスとマチルダは後ろ手に縛られて、兵士に護衛され、町の広場に連れて行かれた。
マルスは、その気になれば、手を縛られていても一人で逃げる自信はあったが、マチルダだけを残すわけにはいかない。それに、広場に行けば仲間たちの目にも留まるだろう。いいチャンスを待とうと考え、マルスは連行されるままになっていた。
広場では人々が朝日の中でそれぞれの朝の営みをやっている。
店を開ける者、露店の準備をする者、荷車で野菜や品物を運ぶ者。人間だけでなく、犬や鶏や豚の声が騒がしいが、活気に溢れたその物音や動物の匂いさえ、処刑を目の前にした二人には愛しく感じられる。
「マルス! マチルダ! その姿はどうしたんだ」
連行される二人を見つけてオズモンドが二人に駆け寄って叫んだ。
「近寄るな。この二人は火付けの、いや深夜徘徊の罪で処刑される。手を掛けるとお前も同罪になるぞ」
兵士が言った。
「深夜徘徊の罪だと? この町ではそれくらいで処刑されるのか。どういう罰を受けるのだ?」
「死刑だ。斬首されることになっている」
オズモンドはあまりの事に声を失った。
その時、オズモンドの後ろから声が掛かった。
「深夜徘徊で死罪になるという法はないぞ」
オズモンドが振り向くと、一人の老人が立っていた。年は六十過ぎくらいだろうか、禿頭で白髭の、非常に威厳のある、知的な顔の老人である。
「これはイザーク様、しかし、これはヨハンセン様がお決めになった事で……」
「ヨハンセンか……。参事と言えども、掟に反した振る舞いは許されぬはずだ」
「はっ、しかし、私としては参事殿のご命令に背くわけにはまいりません」
「ならば、ヨハンセンを呼んで参れ。私が話してみよう」
やがて兵士の後ろから大股に、先ほどマルスたちに死刑の命令を下した男がやってきた。
「イザーク、筆頭参事といえども、他の参事の下した決定を勝手に変えることは出来んはずだぞ!」
ヨハンセンと呼ばれた男は大声で怒鳴った。
「ヨハンセン、お主の独断専行のやり方には他の参事も皆迷惑しておる。確かに参事には町の諸事件を判断し、決定する権利があるが、それは他の参事との合議の上で行うのが不文律ではないか。仮にも人を死罪にするほどの判決をお主だけの判断で行って良いと思うのか」
イザークは静かに言った。
「町の危急を救うためだ」
「それはどういう事だ」
「この者たちは余所者だ。余所者が深夜に町を徘徊していたというだけでも十分に怪しいではないか」
「ふむ、町の決まりを知らなかっただけではないか」
「我が町の法には、知らなかったから許されるという条項はない」
「深夜徘徊で死罪にするという条項もないぞ」
「参事は危急に際して人を死罪に出来る権利がある」
「だから、それは合議の上となっておるではないか! それに、何が危急だというのだ」
マルスとマチルダはこの論争がどうなるかと息を呑んで見守っていたが、決着は思わぬ所から現れた。
城の門に立っていた兵士が、赤い旗を掲げ、大声で怒鳴った。
「敵の来襲だ! 野盗どもがやってきたぞ!」
それまでマルスたちの事件を眺めていた広場の人々は、この声でたちまち右往左往し始めた。
町の大門と中門は閉められ、大門の前の堀にかかった跳ね橋は上げられた。
「それみろ、こいつらはきっとあの野盗どもの仲間に決まっておる」
ヨハンセンが勝ち誇ったように言った。
「それは分からん。たまたま出来事が重なっただけかもしれん。だが、とにかくしばらく取り調べてみることにしよう。この者たちを参事会堂に連れて行って監禁しておけ」
イザークの言葉に、オズモンドは思わず
「我々もその二人の仲間だ。その二人を監禁するなら、我々も一緒に監禁しろ」
と言った。
マルスは内心、まずいなと思ったが、オズモンドの気持ちは嬉しかった。本当は、全員が監禁されるよりも、外で自由に活動できる者がいた方がいいはずなのだが。
イザークという老人は、ほう、と言うようにオズモンドを見た。
「囚われの仲間の身を案じて、自ら仲間だと名乗り出るとは、立派な義侠心だ。どうだ、これだけでもこの人たちが立派な人達である事が分かるではないか。ヨハンセン」
「無考えなだけだ」
 ヨハンセンは言い捨てて大股に歩み去った。

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少年マルス 19

第十九章 誤解

最初の出会い以来、マルスはマチルダをことさらに冷静に眺めようとしていた。只の高慢な貴族の娘であり、自分とはまったく縁のない相手だと思い込もうとしていたのである。しかし、旅に出て以来、ふと気づくとマチルダのきれいな横顔を思わず眺めていることがよくあった。マチルダの方もトリスターナのことでマルスをわざと意地悪い言葉でからかったりしたが、その言葉にはもはやほとんど毒はなかった。今ではマルスをすっかり信頼し、頼りきっているくらいだ。そうなると、明るく美しく頭のいいマチルダのような少女が、同じ年頃のマルスを引き付けないはずはなかったのである。そして、実のところ、マチルダの方も決してマルスに無関心どころではなく、マルスほど純朴な少年でなかったら、マチルダは自分に気があると確信できる態度もしばしば見られたのであった。
やがてマルスは荷台から体を起こし、他の者を起こさないようにそっと馬車から降りた。
夜明けまであと三、四時間くらいだろうか。眠れないまま荷台に身を横たえているのも耐えがたいので、町を歩いてみようと思ったのだ。
後ろから小さな声がマルスを呼び止めた。
「マルス? どこへ行くの」
マチルダだった。
「うん……眠れないんで、ちょっと散歩してくる」
「私も行くわ」
マチルダも馬車から滑り降りた。
二人は黙って肩を並べて歩いた。
城内は敷地の一辺がおよそ七、八百メートルくらいだろうか。その中には大通りがあって、その両側に住居が立ち並んでいる。かなり大きな池もあり、その周囲は果樹なども植えられている。
「さっきは有難う」
マチルダが小さく、恥ずかしそうに言った。
「うん。何もなくて良かった。驚いただろう?」
「ええ、あんな奴もいるのね。あんな人、初めて見た」
「そうだな。気をつけなきゃあな」
「マルス……」
「うん?」
「これまで意地悪ばっかり言って御免ね。ううん、助けられたから言うんじゃないの。一度謝ろうと思っていたんだ」
「……何も謝ることはないさ」
「この旅に一緒に付いて来たのもマルスには迷惑だったでしょう?」
「迷惑なんてことはない。来てくれて良かったと思ってるよ」
「本当?」
「ああ、君たちのお陰で、随分慰められている。一人で旅していたらと思うとぞっとする」
「良かった。迷惑がられているんじゃないかと気になってたんだ」
二人はまた黙り込んで歩いた。
 前方から人が来るらしい様子があった。
「夜警かな」
マルスの胸に不安が過ぎった。こんな夜中に外を出歩いていると、何かまずいことになるんじゃないだろうか。
その不安は的中した。
「おい、お前たちは何者だ。こんな夜中になぜ出歩いている」
カンテラを手にして近づいてきた数人の男は、兵士ではなく普通の市民のようだが、夜警であることは確からしい。
「怪しい奴らだ。この町では見かけぬ顔だが、もしかして他の町の者か。火付けでも企んでいたのではないか」
マルスは、両手を上げて、火付けの道具など持っていないことを示したが、夜警たちは納得しなかった。
「とにかく番所まで来い。そこで取り調べよう」
マルスとマチルダが連れて行かれたのは、町の中心にある大きな建物だった。
マルスが説明するのに一切耳を貸さず、夜警の男は
「尋問は参事会の方が行う決まりだ。言いたいことは明日参事様の前で言うがいい」
の一点張りだった。

翌日、日が高く上った頃、マルスとマチルダの閉じ込められた牢屋に、兵士二人を連れた一人の男が入ってきた。
年の頃は五十前後だろうか。白い髭に眉毛は黒々とした精力的な顔つきの男である。
「昨夜火付けを企んだというのはお前達か」
 男は、冷酷な目でマルスとマチルダを見て言った。
「火付けなど企んでいません。誤解です」
「ではなぜ、真夜中に町をうろついていた」
「月がきれいなので散歩していただけです」
「散歩だと? この町にはそのような物好きはいない」
「我々とは風習が違うのでしょう。アスカルファンでは夜に出歩くのはごく普通のことです」
「アスカルファンの者か。では、アスカルファンの者が何でこんな所に来た。その方がよほど怪しいぞ。この町を攻めるための下見か」
「馬鹿な」
マルスは言ったが、この男を説得するのは難しそうだと感じざるを得なかった。

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少年マルス 18

第十八章 マチルダの災難

一行はとりあえず宿屋を探し、そこで昼食を取った。
「アルカードのビールはうまいが、ワインはたいしたことありませんな」
ジョンが口一杯にパンと肉を詰め込んで言った。
「この鰊と鱈はうまい。さすがに北の海に近いだけある」
オズモンドが答える。
 他の客たちは、見慣れない服装のこの一行を珍しげに眺めている。その中から、ひどく派手な赤白模様の服を着た若い男が彼らに近寄ってきて話し掛けた。
「あんたがた、この国の人じゃないね。どこから来なすった」
「アスカルファンだ」
オズモンドが言った。
「そいつは珍しい。アスカルファンの人間がこの国に来たのは十何年ぶりだ。俺が子供のころ、一人来たが、それ以来だな」
「あんた、その人を見たのか」
マルスは勢い込んで言った。
「ああ、まだ若い男だったが、女を捜してわざわざアルカードまでやってきたと評判だった」
父のジルベールだ、とマルスは思った。やはり、ここに来ていたのだ。
「その人はどうなった」
「忘れたな。来た時のことは覚えているが、なんせ俺も子供だったから、その後のことはよく覚えていない。多分、別の町に行ったんじゃないかな」
マルスは少しがっかりしたが、それでもジルベールの足跡が少しでも分かったのは大きな収穫である。
マルスはその若い男を食卓に招いて、食事をおごった。
男は旅芸人のアキレスと言って、アルカードはくまなく歩き回ったが、アスカルファンはまだ行ったことがなく、アスカルファンの話を聞きたがったので、マルスたちはアスカルファンの話をしてやった。
だが、アキレスの関心は実はトリスターナとマチルダにあることが、その視線から感じられ、マルスはだんだん不快になってきた。
一行にまとわりつこうとするアキレスをなんとか追っ払って、マルスたちは寝室に下がった。しかし、マルスたちが眠り込んですぐ、事件は起こった。
深夜、隣室からの悲鳴に目を覚まし、跳ね起きたマルスはマチルダのいる隣室へ向かったが、ドアは錠がかかっている。
「僕だ、マルスだ。ドアを開けるんだ」
中から応答はない。しかし、争う物音がする。
マルスは足でドアを蹴破った。
中では床に倒れてもがいているマチルダの上に屈みこむ黒い影があった。
マルスは怒りに我を忘れて、その影に体当たりした。
男はアキレスだった。
マルスは尻餅をついたアキレスに飛び掛って殴りつけた。アキレスは下からマルスの喉を掴んだが、マルスがあと一発殴ると気を失った。
マチルダは立ち上がって二人の格闘を見ていたが、マルスが勝ったのをみて、ほっと安堵の息をついた。
「大丈夫か」
マルスはマチルダに声を掛けた。
「ええ。寝ている時に、窓から入ってきたの。目を覚まして大声をあげたんだけど、マルスが来てくれなかったらどうなっていたか」
オズモンド、ジョン、トリスターナもマチルダの部屋に入ってきて、事情を見て取った。
「こいつ、どうしてやろうか」
オズモンドは顔を真っ赤にして叫んだ。
ちょうどそこに宿の主人も来たので、マルスとマチルダは事情を説明した。
「うちで迷惑は困りますな」
主人はまるでマルスたちが迷惑を掛けたかのような言い方をした。
「とにかく、こいつを放り出してくれ」
「放り出せと言われても、うちのお客さんだからな」
「なら、我々が出て行こう」
オズモンドは腹を立てて言った。
マルスたちは宿屋を出たが、まだ深夜である。
良く晴れた夜空には月が中天にかかっており、明るいが、ひどく寒い。
五人は馬車を引き出して、乗り込んだが、夜が明けないと町の城門は開かない。
「しょうがない。今日はこの荷台で寝よう」
「せっかく町に入ったのに荷台で寝るとは……」
マルスの言葉に、ジョンが情けなさそうに言った。
「お月様がきれいだから、ちょうどいいですわ。月でも見ながら眠りましょうよ」
トリスターナが一同の気を引き立てるように言った。
やがて一同は荷台の上でなんとか眠りについたが、マルスはなかなか寝付かれなかった。
先ほどの出来事で気が高ぶっていたのである。
マチルダの上に男がのしかかったあの情景を思い返すと、胸がナイフで切り裂かれたような気分になる。一体、この気持ちは何なのだろう。もちろん、マチルダは無事だったのだが、それでも今でも胸に残るこの動悸と不快感が、マルスを苦しめた。
マルスは自分の心の中の声に耳を傾けてみた。

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少年マルス 17

第十七章 アルカード

朝日が出るのを待って、一同は出発した。
「おそらく、この近くには魔物の棲家があると思います。なんだか嫌な気配が漂ってますもの。できるだけ早く、ここを離れましょう」
トリスターナの言葉にマルスはうなずいた。マルスの動物的勘も同じ気配を感じていたからである。一行は急ぎ足で山の中を進んでいった。

山を越え、もう一つ小さな山を越えた後、視界が開けて、一行の目の前に、道が現れた。
マルスたちは歓声を上げて、斜面を駆け下りた。
やっとアルカードに出たのである。道があるということは、この道を行けば必ず人里に出るはずである。
まだ目の前には小さな山々が連なっているが、それらは山というよりは丘という程度であり、さほど難儀をしそうな山ではない。
そして、さらに一日後、道の途中に民家が見え始めた。
マルスたちはすっかり陽気な気分になってきた。
アルカードの国は北国らしく、春なお寒いが、山を下りると森や林が広がり、川や湖があちこちにあって美しかった。
民家の一つでマルスたちは干し肉と引き換えにパンとチーズとワインを貰い、川べりの草の上、で久し振りに食事らしい食事をした。
「アルカードの言葉は、ほとんどアスカルファンと同じだな。ところどころわからない言葉はあるが」
オズモンドがやっと文明の地に出た喜びを隠し切れない口調で嬉しそうに言った。
「ところで、アルカードのどこに向かえばいいんでしょう」
ジョンがマルスに聞いた。
マルスはトリスターナの方を見たが、トリスターナは肩をすくめた。
「そもそも、ジルベールがアルカードに来たかどうかもはっきりしないのだから、当てはないよ。とにかく、町を探してみよう」
マルスはそう答えて立ち上がった。
先ほどの民家に入って、しばらく話したマルスは皆のところに戻ってきた。
「アルカードには首都というものはないそうだ。大きな町は五つ、小さな町が二十ほどあって、それぞれ領主が治めているらしい。その中で、もっともここから近い町はスオミラという町で、そこは領主ではなく五人の長老が合議制で治めているということだ。そこがここから一番近い大きな町のようだから、そこに行ってみよう」

マルスたちは農家で馬を二頭と荷馬車を買い、マルス以外は荷馬車で旅をすることにした。それまでの驢馬はその農家に売り払ったのである。ついでに干草も大量に買って荷馬車の荷台に敷き詰めたので、乗っている者は馬車の振動をあまり感じず、ついでに馬の食糧も確保したわけであった。
三日後、マルスたちの前にスオミラの町が見えてきた。
町の周りは水濠が巡らされ、町は石の塀で囲まれていて厳めしいが、番兵は少ない。
門の前でマルスたちは番兵に止められた。
「お前達はどこの者で、この町に何の用で来た」
マルスがその質問に答えた。
「私たちはアスカルファンの者です。ある人を探してずっと旅をしているのです。ここにその人がいなければすぐに出て行きます」
「誰を探している」
「私の父です」
「名は何という」
「ジルベールです」
「そんな者はここにはいない。この町にはアスカルファンから来た者などいないぞ。残念だが、他の町に行くのだな」
「そうですか。しかし、せっかくここまで旅をしてきたのですから、二、三日だけでも滞在させてはくれませんか。皆疲れていることだし」
番兵は荷車の上のマチルダやトリスターナを見た。
「まあ、四、五人ほどなら町に入れても差し支えないことになっているが、三日で出て行くのだぞ」
番兵はそう言ってマルスたちを町の中に入れてくれた。
石壁に囲まれた町の中は、さらに内壁がその内側を囲んでいた。
内壁の入り口での同じような問答の後、そこも通ってやっとマルスたちは町に入った。

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少年マルス 16

第十六章 魔獣の襲来

山を下りるに連れて、だんだんと森は深くなり、空気の湿度も高くなってきたようである。木の種類も針葉樹から広葉樹に変わり、腐葉土の匂いが鼻をつく。
山間を流れる谷川には、鱒や鮎などの川魚が時折ぱしゃっと音を立てて跳ね上がるのが見えた。
雪解けの水は水量が多く、岩を砕くような勢いである。
夕暮れが近づくと、あたりは霧がたちこめ、不気味な気配が漂ってきた。
「ひどい霧だな。鼻をつままれても分からんという奴だ」
オズモンドが呟く。
「そろそろ今夜の寝る場所を探したいが、どうもどこも気に入らない。獣の気配がするし、他にも何かいそうな感じだ」
マルスはオズモンドだけに小声で言った。
「何の気配だ?」
「分からん。とにかくいやな感じだ」
あたりはますます暗くなり、霧はなおも濃くなってくる。
「仕方ない。この辺で止まって、宿営を作ろう」
川から少し上に上がったところに乾いた場所を探し、そこに草を積んでその上に皮を敷き、即席のベッドを作る。
男三人は交代で見張り番をすることにした。ジョン、マルス、オズモンドの順である。
真夜中、マルスは夢うつつに人の悲鳴を聞いた。
気力を振り絞って目を覚まし、意識を取り戻したマルスが最初に見たのは、焚き火の前に立ちすくむジョンの姿であった。
ジョンの視線の先を見たマルスは、ぞっとした。
そこにいたのは、大きさが人間の二倍ほどもある巨大な猿であった。
闇に光るその目は邪悪な意思を感じさせた。
これまでマルスが見た動物は、熊であれ虎であれ、凶暴な力は持っていたが、邪悪な意思を感じたことはなかった。
これは動物とは違う何かだ、とマルスは思った。もちろん人間でもない。強いて言うなら悪魔が動物の姿をとって現れたものだろう。
よく見ると、巨大な影は一つだけではなかった。少なくとも三つはいる。もしかしたらもっといるかもしれない。
マルスは側のオズモンドを起こした。
「敵だ。目を覚ませ」
オズモンドは寝ぼけ眼で起き直り、巨大な猿人たちを見て、声にならない悲鳴を上げた。
マルスはトリスターナ、マチルダを次々に起こした。女達も目を覚まし、悲鳴を上げる。
大猿の一頭が、唸り声を上げ、ジョンに襲いかかった。
マルスは弓に矢を番え、その猿の心臓を目掛けて矢を放った。
矢は見事に突き刺さった。だが、何ということだろう。大猿は一瞬苦痛の声を上げたものの、向きを変えてこちらに突進してくるではないか。
マルスはとりあえず、後ろの二頭目掛けて次々に矢を射た後、側に置いてあった槍を手にして大猿に向かって突撃した。
オズモンドは剣を抜いて横から同じ大猿に切りつける。
マルスの槍は大猿の胸に深々と突き刺さった。だが、大猿は槍を胸に刺したまま、マルスを片手でなぎ払った。それを避けられず、マルスの体は傍らの木の茂みに叩きつけられた。
オズモンドは猿の左腕に切りつけたが、刃先が合わず、松の木の皮のように固い毛皮の上ですべり、跳ね返された。
向こうではジョンがもう一頭の大猿につかまり、頭上高く差し上げられ、今にも地面に叩き付けられようとしていた。
突然、鋭い女の声が響き渡った。トリスターナの声である。
何かの呪文らしいその声を聞くと、不思議なことに、猿たちは悲鳴を上げ、闇の中に消えていった。
男たちは呆然としていた。
今ここで起こった出来事が信じられない思いである。
あのような大猿を見たのも初めてなら、それがトリスターナによって撃退されたのも信じ難い。
「トリスターナさん、今のは?」
オズモンドがやっと口を開いた。
「悪魔払いの呪文です。きっとあれは悪魔の使いだったのでしょう」
トリスターナも青ざめているが、思ったより平静である。さすがに元修道尼だけあって、妖魔には詳しいのだろう。
「トリスターナさんにこんな芸があったとは知らなかった」
オズモンドが感心したように言った。
「私も知りませんでしたわ。こんなことしたのは初めてです。修道院に、悪魔払いに詳しい老尼がいて、仲良しの私に呪文を幾つか教えてくれたんですの」
そう言うトリスターナを、一同は救世主を見る目で眺めるのであった。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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