第十二章 トリスターナ
ガレリアからさらに山の方に向かう坂道を半日登りつづけ、やっと目指すグルネヴィアに着いたのは、翌日の昼過ぎだった。
グルネヴィアはアスカルファンの国教であるエレミエル正教の寺院が中心となって興った町である。ここには聖なる泉と呼ばれる泉があり、その泉の水を浴び、あるいは飲んだ者には霊験があるとされている。町には、泉や、寺院の発行する免罪符を目当てに各地から参詣に来た人々が溢れていた。
マルスたちはエレミア寺院に参詣した後、そこから一里ほど山奥にあるエレミア修道院に向かった。
修道院はブドウ畑に囲まれた簡素な石造りの建物であった。
院長の老女は最初マルスたちを修道尼に会わせるのを渋ったが、オズモンドが身分を明かすと態度を変え、召使にトリスターナを呼びに行かせた。
食堂で待っていたマルスたちの前に、一人の尼がやってきた。
一見、少女のようにも見える、非常に若々しく美しい女性である。
マルスの側にいたマチルダが女性の美しさに思わず息を呑むのが、マルスには分かった。
「あなた方は?」
「僕はあなたの甥のマルスです。ジルベールの息子です」
「えっ、でも、ジルベールは結婚してなかったはずですよ」
「オルランド家の女中をしていたマーサとジルベールの間に生まれたのです」
「ああ、そう言えば……。覚えています。お父様が怒ってマーサを家から追い出し、ジルベールがその後を追うように家を出たまま行方不明になったのでした。それでは、ジルベールは今、あなた方と一緒なのですか?」
「いいえ、ジルベールは結局マーサを見つけきれなかったのです。父の行方は僕にも分かりません。むしろ、あなたが御存知じゃないかと思って聞きに来たんですが……」
「そうですか。いえ、わたしも分かりません。ここに入ってからもう十二年になりますから、世の中の事にはまったく耳遠くなって……」
途切れた会話を救うように、オズモンドが口を挟んだ。
「ここに入ってから十二年ですか。外に出たいとは思いませんか?」
「無理ですわ。女一人で旅をする事が不可能なのは御存知でしょう。男でも大変なのに」
「では、我々と一緒にここを出ましょう」
オズモンドの言葉に、トリスターナは黙って考え込んだ。
「……少し考えさせてください。ここに入った時は外に出たくていつも泣いていました。しかし、今ではここの暮らしにすっかり慣れてしまって、かえって外の世界の方が恐ろしいのです。家に戻ったところで、アンリは私を迎え入れてはくれないでしょうし、私はどうして生きていったらいいのでしょうか」
「そんな事は大丈夫です。僕の家の食客になっていればいいのです」
オズモンドが言うのをマルスはさえぎった。
「いや、トリスターナ叔母は僕が面倒を見る。僕の叔母なんだからな。そりゃあ、オズモンドの家のように贅沢な暮らしをさせることは出来ないが、食べていくだけなら不自由はさせない」
いや、自分の家がいい、と二人で言い合うのをあきれたように見ていたマチルダが割って入った。
「どっちだっていいじゃない。とにかく、トリスターナさんの面倒を見る人が二人もいるのが分かったんだから、さっさとここを出ましょうよ」
マルスが、修道院長にトリスターナを連れて行くと言うと、院長は血相を変えて「そんな事は許されない、一度ここに入った者がここから出ることは神との契約を破ることだ」と言ったが、委細構わずマルスたちはトリスターナを連れ出した。
「わたし、なんだかドキドキしますわ。外の世界は久し振りですもの。なんだか、狭い部屋から大きな明るい野原にでたような気がします」
馬車に揺られながら、トリスターナは、顔を美しく上気させ、少女のように胸の前で手を組んで言った。
マルスは少々ボーッとした顔つきでそのトリスターナの顔を眺めていた。それはオズモンドの方も同じである。どうやら二人ともこの美しい女性に恋心を持ったようである。
マチルダはそれに気づいて、少々面白くない気分もあったが、しかしトリスターナには悪感情は持てなかった。本物の美しさは、男性女性を問わず、愛情を感じさせるものだからである。しかし、男二人の目がトリスターナに集中しているのを見て、マチルダは彼女に意地悪い質問をしてやろうと考えた。
「トリスターナさんは、さっきの修道院に十二年間いたとおっしゃってましたよね。すると、失礼ですけど、今お幾つなのかしら」
トリスターナは顔を赤らめた。
「二十八ですわ。本当におばあさんです」
「何をおっしゃいます。二十八はまだまだお若いです。僕の知っている人でも二十八で結婚して子供を三人産んだ人もいます」
オズモンドがかばうように言った。
「まあ、お兄さんったら。下品ね。子供を産むなんて言葉、女性の前で使うもんじゃなくってよ」
「何が下品だ。お前だって嫁に行けば毎年一ダースくらい子供を産むに決まってる」
「まあ、犬じゃあるまいし」
突然始まった兄弟喧嘩をトリスターナは目を丸くして見ていたが、やがておかしそうに笑い出した。
「まあ、二人とも仲がよろしいこと。いいわねえ、兄弟喧嘩ができるなんて」
ガレリアからさらに山の方に向かう坂道を半日登りつづけ、やっと目指すグルネヴィアに着いたのは、翌日の昼過ぎだった。
グルネヴィアはアスカルファンの国教であるエレミエル正教の寺院が中心となって興った町である。ここには聖なる泉と呼ばれる泉があり、その泉の水を浴び、あるいは飲んだ者には霊験があるとされている。町には、泉や、寺院の発行する免罪符を目当てに各地から参詣に来た人々が溢れていた。
マルスたちはエレミア寺院に参詣した後、そこから一里ほど山奥にあるエレミア修道院に向かった。
修道院はブドウ畑に囲まれた簡素な石造りの建物であった。
院長の老女は最初マルスたちを修道尼に会わせるのを渋ったが、オズモンドが身分を明かすと態度を変え、召使にトリスターナを呼びに行かせた。
食堂で待っていたマルスたちの前に、一人の尼がやってきた。
一見、少女のようにも見える、非常に若々しく美しい女性である。
マルスの側にいたマチルダが女性の美しさに思わず息を呑むのが、マルスには分かった。
「あなた方は?」
「僕はあなたの甥のマルスです。ジルベールの息子です」
「えっ、でも、ジルベールは結婚してなかったはずですよ」
「オルランド家の女中をしていたマーサとジルベールの間に生まれたのです」
「ああ、そう言えば……。覚えています。お父様が怒ってマーサを家から追い出し、ジルベールがその後を追うように家を出たまま行方不明になったのでした。それでは、ジルベールは今、あなた方と一緒なのですか?」
「いいえ、ジルベールは結局マーサを見つけきれなかったのです。父の行方は僕にも分かりません。むしろ、あなたが御存知じゃないかと思って聞きに来たんですが……」
「そうですか。いえ、わたしも分かりません。ここに入ってからもう十二年になりますから、世の中の事にはまったく耳遠くなって……」
途切れた会話を救うように、オズモンドが口を挟んだ。
「ここに入ってから十二年ですか。外に出たいとは思いませんか?」
「無理ですわ。女一人で旅をする事が不可能なのは御存知でしょう。男でも大変なのに」
「では、我々と一緒にここを出ましょう」
オズモンドの言葉に、トリスターナは黙って考え込んだ。
「……少し考えさせてください。ここに入った時は外に出たくていつも泣いていました。しかし、今ではここの暮らしにすっかり慣れてしまって、かえって外の世界の方が恐ろしいのです。家に戻ったところで、アンリは私を迎え入れてはくれないでしょうし、私はどうして生きていったらいいのでしょうか」
「そんな事は大丈夫です。僕の家の食客になっていればいいのです」
オズモンドが言うのをマルスはさえぎった。
「いや、トリスターナ叔母は僕が面倒を見る。僕の叔母なんだからな。そりゃあ、オズモンドの家のように贅沢な暮らしをさせることは出来ないが、食べていくだけなら不自由はさせない」
いや、自分の家がいい、と二人で言い合うのをあきれたように見ていたマチルダが割って入った。
「どっちだっていいじゃない。とにかく、トリスターナさんの面倒を見る人が二人もいるのが分かったんだから、さっさとここを出ましょうよ」
マルスが、修道院長にトリスターナを連れて行くと言うと、院長は血相を変えて「そんな事は許されない、一度ここに入った者がここから出ることは神との契約を破ることだ」と言ったが、委細構わずマルスたちはトリスターナを連れ出した。
「わたし、なんだかドキドキしますわ。外の世界は久し振りですもの。なんだか、狭い部屋から大きな明るい野原にでたような気がします」
馬車に揺られながら、トリスターナは、顔を美しく上気させ、少女のように胸の前で手を組んで言った。
マルスは少々ボーッとした顔つきでそのトリスターナの顔を眺めていた。それはオズモンドの方も同じである。どうやら二人ともこの美しい女性に恋心を持ったようである。
マチルダはそれに気づいて、少々面白くない気分もあったが、しかしトリスターナには悪感情は持てなかった。本物の美しさは、男性女性を問わず、愛情を感じさせるものだからである。しかし、男二人の目がトリスターナに集中しているのを見て、マチルダは彼女に意地悪い質問をしてやろうと考えた。
「トリスターナさんは、さっきの修道院に十二年間いたとおっしゃってましたよね。すると、失礼ですけど、今お幾つなのかしら」
トリスターナは顔を赤らめた。
「二十八ですわ。本当におばあさんです」
「何をおっしゃいます。二十八はまだまだお若いです。僕の知っている人でも二十八で結婚して子供を三人産んだ人もいます」
オズモンドがかばうように言った。
「まあ、お兄さんったら。下品ね。子供を産むなんて言葉、女性の前で使うもんじゃなくってよ」
「何が下品だ。お前だって嫁に行けば毎年一ダースくらい子供を産むに決まってる」
「まあ、犬じゃあるまいし」
突然始まった兄弟喧嘩をトリスターナは目を丸くして見ていたが、やがておかしそうに笑い出した。
「まあ、二人とも仲がよろしいこと。いいわねえ、兄弟喧嘩ができるなんて」
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