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隠居爺氏の歴史観と、その感想

「隠居爺の世迷言」ブログ記事の後半で、私には不賛成の箇所が幾つもあるが、面倒くさいのでいちいち書かない。というか、考えるのが面倒だ。しかし、書かれた中には非常に面白い部分もあるので、読む価値はある記事だと思う。前半部分は、私には「どうでもいい」印象なので、省略する。
安倍元総理暗殺の真相、意味については、隠居爺氏の推理が正しいのではないか。ただ、暗殺自体が目的だったのか、他に「隠したいこと」があって、世間を大騒ぎさせたかったのではないか、という疑いもある。まあ、岸田を脅し、いいように使うため、という安易な理由かもしれない。少なくとも、安倍が米国やDSにとってそれほど脅威だったとは思えない。まあ、うるさい蠅くらいの感じだったのではないか。だから、殺し方も安易というかお粗末だったわけだ。

まったく意見を異にするのが、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」が外国人(中国人)の視点だという部分。この思想こそが日本人の平和主義(うっかり閉鎖主義と書いてしまったww)の根本にあると私は思うからだ。中国の歴史のどこに「和をもって尊しとなす」思想があるのだよww ただし、儒教は、それに近い。そもそも、憲法十七条が仏教や儒教の思想をかなり取り入れているのは、常識だろう。ただ、儒教(理想主義・教条主義)は中国人の一般的精神性(現実主義)とは異なると思う。彼らが教条主義的に見えるのは、そう見せることが生存に有利だという現実主義にすぎないと私は思っている。ある意味、日本人は幼稚であり、彼らは大人なのである。
ただし、大人であることが幼稚であるより常に良いわけでもない。たとえば、国内の9億人のために同国人1億人を殺す、というのも「大人の計算」であり、合理主義ではあるのだ。DSの悪辣さも、ユダヤ的合理主義ではある。そこへ行くと、日本人にはやはり「大和(だいわ)の精神」がある、と私は思うわけだ。自他共栄というのが「大和の精神」であり、単なる我欲に基づく冷酷な合理主義など、糞合理主義でしかない。(ここでも「ただし」が付くが、「大東亜共栄圏」は、事実の上では、侵略主義、夜郎自大行為を糊塗するインチキスローガンだったと私は思っている。)
話を戻せば、要するに、明治以降、敗戦までの拡張主義、闘争主義こそが、イギリス傀儡政権による「非日本人的」心性だったと思う。
ちなみに、イギリスが海洋重視国家で侵略主義国家であったのは、彼ら(イギリスの上層部・支配層)が本質的にはバイキングという海賊の子孫だったからだと私は推測している。で、それはユダヤ絶対主義思想の精神的双子なのである。

どうでもいいが、「閉鎖主義」と「平和主義」も、親戚であると思う。外部に開くことは、常に騒動や衝突の元なのである。たとえば移民問題。その国に不満なら、内部から変えればいい。他の国に移民して、移民した先の国に文句を言うことはない。外国で不幸な人たちがいようと、それはその国の国内問題である。他の国が文句を言うことではない。
ひどい場合には、侵略したい国の政府は「民主的ではない」「独裁国である」とイチャモンをつけて武力攻撃し、相手国の全土を破壊したりする。独裁国で平和に生存するより、「将来の」民主主義国家の国民として爆弾の下で死ぬほうが幸福らしい。
つまり、現代のNPOやNGO、人権団体、マスコミは、昔のイエズス会宣教師以上に悪質な「侵略の手先」であることが多いようだ。




(以下引用)



日本には歴史観がゼロかといえば、私の知る限りでは「皇国史観」というものがある。これは「万世一系とする天皇による国家統治を日本の歴史の特色とする考え方。古事記・日本書紀の神話を歴史的事実とする。」(精選版 日本国語大辞典)という、大変に馬鹿馬鹿しいものだ。

 まあ無理もない。大日本帝国憲法(明治憲法)において、いきなり第1条で「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と決めてしまったのだから。そして第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と駄目押しをしている。日本人というのは昔から嘘つきだったのだろうなあ。嘘つきであると同時に、幼稚で民度が低いともいえる。

 国の建て付けを、そんな子供騙しみたいな幼稚な嘘で固めてしまったら、破綻するに決まっている。そして、実際問題としても、大東亜戦争の敗戦で破綻してしまった。憲法という日本の国の設計図を間違えたのだからそのようなことになる。欠陥住宅が地震で崩壊するようなものだと思えばいい。

 大東亜戦争の敗戦で崩壊してしまった日本だけれども、アメリカに支配されながら復興が行われた。当然皇国史観は否定され、より合理的、科学的な考え方が導入された。おそらく、私の世代は、現在よりもずっと合理的、科学的な教育を受けたのだろうと思う。団塊の世代には浸透しておらず、安倍元総理や岸田総理になると、もう薄れているように思える。

 ただし、アメリカは日本人が身に付けていなかった合理性や科学性を持ち込んだとはいえ、占領政策として自虐史観も持ち込んだ。これがまた、日本史を考える上で一層の混乱をもたらした。なぜなら、自虐史観もまた嘘っぱちだからだ。

 自虐史観は、アメリカが占領政策を行う上で、さらにはその後の日本を実質植民地として飼い殺すために都合のいい史観になる。まあ、敵としては当然のことだろうか。現在そのアメリカの思うがままにホイホイと踊っているのが岸田総理になる。

 話がそれたけれども、ついでに考えてみると、安倍派潰しは当然のことになるのかな。なにしろ安倍派は安倍元総理を含めて基本的に「皇国史観」の人たちだろうから。それに対して、アメリカは日本に自虐史観を押し付けたい。つまり、日本人は悪であると植え付けたい。だから、アメリカのポチである岸田総理は日本国民の虐待を始めたのだろうなあ。なにしろ日本人は悪なのだから、一人前の生活ができると思うなということだね。

 安倍元総理が暗殺されたのは、皇国史観は許さないというアメリカの断固たる姿勢の表れなのだろう。それにしても失礼な話で、 "人の国の元総理を勝手に殺すなよ" と言いたいけどね。とんでもない話だ。

 話を元に戻して、司馬遼太郎も自虐史観に問題を感じた人であったらしい。ただし、結果から見ても、自分の体験からしても、大東亜戦争は評価できるものではないというのが司馬遼太郎の感じ方だった。その一方では、日本を全否定したくはないという気持ちも強くて、大東亜戦争は愚かだったけれども、日本だってもっと遡れば立派な国だったとみなして作品を書いていった。

 つまり、大東亜戦争が敗戦に終わるまでの昭和の日本は評価できないけれども、明治までの日本は優れた国であると言おうとした。そして、盛んに日露戦争までの日本は立派な国であることや、維新の志士などの目覚ましい活躍ぶりを小説に書いた。今ではすっかりアメリカの傀儡放送局になったNHKも、以前は司馬遼太郎がお気に入りだったようで、大河ドラマ等に盛んに取り入れた。

 私は、司馬遼太郎のエッセイが好きだったせいで、明治維新以降の日本というのは何となくそんな国だろうと、つまり、英米に対抗するために、あるいは侵略を防ぐために、薩長土肥の志士たちが天才的な活躍を見せて、日本を救ったのだろうと思っていた。

 しかし、最近になって、それはあくまでフィクションだと思い始めた。考えてみれば、明治維新は、あるいは幕末の志士たちはそんなに格好のいい存在ではないよね。そのように思い始めたのは、最近YouTubeで見られる「西鋭夫」氏に影響されたせいかもしれない。

 西鋭夫氏の話を聞いていると、明治維新は英米の都合によって行われたものであると思えてくる。う〜ん、その方が合理的だなあ。史実にもピッタリ当てはまる。英米は大航海時代の最後として日本に目をつけ、もちろん侵略しようとしてやってきた。

 しかし、実際に来てみると、日本人は一筋縄ではいかない。素直に従わないし、すぐに切れて戦いを挑んでくる。軍事力も無視できないほどには強い。こりゃ通常の植民地としては不適格だと判断したのだろう。そこで、英米の直接の支配下に置くことはやめて、傀儡政権を置いて操る方針に変更した。それが明治政府になるわけ。

 これが英米にとっては大成功で、日本は英米に代わって、清国と戦争を行い、露西亜とも戦争して、そこそこの成果を収めることができた。ちょうど今のウクライナがアメリカの代理戦争をさせられているのと同じと思えばいい。ウクライナは失敗に終わったけれど。

 おそらく、そんなところが、右にも左にも偏らない、つまり、皇国史観でも自虐史観でもない日本史なのだろうと思う。物事は、自分たちの都合や利益で考えるのではなく、素直に合理的に考えなくちゃ。こうやって考えると、幕末の志士たちがなぜ250年以上も続いた江戸幕府に弓を引く気になったのか、無理なく理解できるような気がする。

 しかし、人間というのは変わらないね。明治維新から150年以上経過した現代において、やっぱり英米は同じことをしている。ウクライナに入り込んで、クーデターを行わせて、ロシアと戦わせるなんて、明治維新から日露戦争までの日本とそっくり同じ。ちょっと感動的ですらあるけれど、同時に成長しないものだとも思う。柳の下のドジョウはやっぱりおいしそうなのだろう。

 私の想像はさらに膨らむ。明治政府は西洋文明を積極的に取り入れ、あっという間に日本を欧米並の国に仕立て上げた。これはすごいものだったね。ちょんまげ結って、刀を差していた日本人が、女の人だと和服に日本髪、既婚者はお歯黒をしていた日本人が、ことごとく西洋化した。靴を履き、椅子に座り、電気がつき、鉄道が走り、洋食を食べるようになった。

 あまりの手際良さに驚くのだけれども、国民もよく付いていったものだと感心する。なぜそんなことができたのか不思議だけれど、実は日本人は昔同じことを経験していたというのが私の考え。それは中国との関係において行われた。

 歴史が苦手な私には何の知識もないのだけれど、推古天皇は592年に豊浦宮(奈良県飛鳥村)で即位したといわれていて、以後、794年に平安京(京都)にたどり着くまでの200年間、転々と宮(みや)や都(みやこ)が変わったようだ。そしておそらくそれらの宮や都は、全て中国の模倣だったことだろう。

 つまり、明治維新になって日本は欧米の文化を全てといっていいくらい模倣したけれども、それは今からおよそ1000年以上も前に、中国を相手に行っていたことになる。遣隋使や遣唐使は明治でいえば留学生だろうし、中国から教えを請うために技術者等も招いたに違いない。明治政府がたくさんの外国人を雇ったように。

 私は、聖徳太子は中国人だったろうと勝手に思っている。なぜなら、17条の憲法の有名な第一条に「和をもって貴しとなし 逆らうことなきを宗とせよ」とあるのはいかにも外国人の視点だからだ。

 日本人であれば当事者だから、このように客観的な記述はできにくい。俺に従えとか、悪いのはあいつだとか、そのような表現になるはずだ。第一条はその後以下のような内容になる。

 「人はみな派閥を作り、わきまえのある者は少ない。そのため君主や父親に従わず、近隣の人ともうまくいかない。しかし上の者が和やかで下の者の仲が良ければ、議論で対立しても自然に道理がとおり、何事もうまくいくものだ。」

 まるで、第三者が仲の悪い日本人の仲裁に入っているかのような書き振りに感じられる。また、ことによると聖徳太子は、中国から日本に渡った天皇家を応援しに来たのかもしれない。世界の先進国でもあった隋から日本に使わされた、助っ人ということになる。行政の事細かいところまで指導したのではないだろうか。

 私は、「五箇条の御誓文」の最初もイギリス人が作ったのではないかと感じる。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という文言は、どう考えても日本人の発想ではないと感じるからだ。

 それは今の岸田内閣を見ていても分かる。国民に知られないように閣議でこっそり決定し、都合の悪いことは隠蔽して、いつの間にか国民が不利益を被るようなことを実行に移している。それが日本人なのだと思う。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という文化は現在に至っても日本に根付いていない。

 以上のように、日本という国は元々が文明の遅れた国であって、古くは中国の真似ばかりをし、明治以降は欧米の真似ばかりをしている国であると日本史を理解してみた。もちろんそれが全てだとはいわないけれど、おおまかな理解としてはそれでいいのではないかと一人で頷いている。

 願わくは、真似をするばかりではなく、自分の頭を働かせて人間はどのような生き物であるのか、どうあるべきなのか、日本という国はどのような国で、どのように歩んでいくべきなのか、そのようなことを考えられる国、あるいは国民になってほしいと思う。現在の日本もやはり真似ばかりであり、いいところを真似するのならともかくも、アメリカの巨悪まで真似し始めた。

 アメリカに命令されるままに、日本とはほとんど何の関係もないウクライナに加担して、日本人を貧乏にするほどの援助をすることがいいことなのか悪いことなのか、さらには、現憲法では戦争を放棄しているはずなのに、それを無視して日本の防衛戦争でもないロシア・ウクライナ紛争に、資金や武器の提供をして参戦しているのがいいことなのか悪いことなのか、自分の頭で考え、判断できるような国になってほしいものだと思う。


 


 それにしても、与野党もマスメディアも裏金問題で大騒ぎすることによって、日本政府の憲法違反やワクチン問題等を隠蔽することに協力しているように見える。いつもの手口ではあるけれども、根から腐っているね、この国は。

 

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homelyという概念のこと

散歩の間ずっと、頭の中を流れていた曲があって、たぶん1970年代のヒット曲だと思うのだが、たいして好きでもなく、題名も知らない曲である。ただ、その単調さ、平凡さが散歩の歩調に合っていたのだろう。
その脳内演奏を聞きながら、頭の中にhomelyという形容詞が浮かんだのだが、その意味も私は知らない。起きる前に寝床の中で「いい加減読み」していた、J・M・バリーの「天晴れクライトン(原題は「賞賛に値するクライトン」と訳せるか。)の英語原文の中に出て来た言葉で、たぶん、文脈から想像すると「地味な、冴えない」の意味ではないかと思う。つまり、「公の場」に対する「home」だろう。で、なぜこの言葉が頭に浮かんだのかというと、私の頭の中の曲が、そのhomelyな印象で、homely rock 、あるいはsoft rockという呼び名が適しているのではないか、と考えたのだと思う。つまり、保守的な家庭の中でも「まあ、この程度なら」と許容されるロックというわけだ。
そんなのは「ロックじゃねえ」というわけで、ハードロックやヘビィメタルなどが生まれ、さらにパンクロックが生まれたのだろうが、それがロックの「進化」とは私には思えない、というのはどうでもいい話である。今ではロックそのものが消滅しかかっているのではないか。まあ、私はもともとロック嫌いの人間だから、どうでもいい。

で、homelyの話に戻ると、私の住んでいる家の庭に餌を貰いにくる猫群の中に、白いチビ猫がおり、下手クソに作った猫のぬいぐるみのようで可愛い。胴体も足も尻尾も寸詰まりで、顔もまあ、ブスの部類だろう。雌雄は不明である。しかし、その可愛い印象にはhomelyという言葉が似あう気がする、というわけだ。美猫コンテストにはまったく出せないが、可愛いわけである。もちろん、チビだから可愛いというのがその可愛さの大きな要素だろうが、それだけでもなさそうだ。
念のためにhomelyを、今、英和辞書で調べてみる。だいたい、こんな意味のようだ。
「1:飾り気のない、質素な、素朴な、家庭的な、2:平凡な、日常的な、 3:不器量な、顔のまずい」
ということで、ほぼ私の予測どおりであった。では、それがなぜ可愛さにつながるのかと言えば、やはり「親近感を抱かせる」や「同情や共感を抱かせる」からではないか。清少納言の「小さいものはみな可愛い」である。
ちなみに、私はアニメなどでも、美人キャラよりは「平凡顔」キャラに親近感を持つほうだ。嫌いなのはハンサム顔で冷酷なタイプの男である。もちろん、美人キャラでも性格が良ければ好きになるし、場合によっては美人で冷酷なキャラも嫌いではない。「未来少年コナン」のモンスリーのように、冷酷で有能な美人(悲しい過去がある)の敵キャラが、心を入れ替えて頼もしい味方になる、という展開などは最高である。

まあ、散歩の途中の浮遊思考は、そのほかに、「猫じゃらし(スズメノヒエクサ)」の美しさの考察など、いろいろあったが、長くなるのでこの辺にしておく。


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「希望こそが地獄である」

目覚めの直前の朦朧思考の中で考えたのが、「希望こそが地獄である」というテーゼ、あるいは「希望こそが地獄なのではないか」という疑問、問題だった。

パンドラの箱から無数の災厄が地上に飛び出した後、箱の底に残っていたのが希望なら、希望こそが最悪の災厄だということにならないか。本当の災厄を災厄に見せなくする欺瞞という災厄だ。

ここで希望と言っているのは、夢とか期待とか幻想と言ってもいい。それが、現実そのものから人の心を遊離させ、現実を見えなくさせる。そして、現実に満足させなくする。それこそがまさに、現実の「地獄化」なのではないだろうか。

若いころというのが、人の一生の中でもっとも不満と不幸の時期であるのは、まさに、現実人生から遊離した、「ここではないどこか」への期待や夢、希望のためではないだろうか。
なぜ、現実ではなく、夢や未来の計画に期待するのか。なぜ、目の前の草や花、樹々や雲や空を見ないで、頭の中の空想(夢、計画)だけを見るのか。(ここでは、脳内人生こそが真の人生である、という私のいつもの主張は置いておく。私のこの主張は「感受されたものこそが、人間の主観にとっての現実である」という思想なのだ。それと悪質幻想批判は矛盾しない。)

老年こそが人生で一番充実しているはずだという仮説を立てるなら、それは現実に夢を持たず、現実そのものに楽しみを見出すことができているからだろう。なぜなら、老年には未来など無きに等しいからだ。自分の周囲の現在の現実に満足できないなら、それこそまさに地獄だろう。

ひいては、宗教というのも、人間を現実から目を逸らさせ、ありもしない天国や「地獄の懲罰」という恐怖で満たす、最悪の幻想かもしれない。もちろん、その幻想こそが「希望」であるわけだが、希望とは、今の現実ではない、というのが私がここで言っていることだ。

ダンテの「地獄篇」の中では、地獄の門には「ここに入る者 一切の希望を捨てよ」と書いてあるらしいが、むしろ、希望や期待や幻想を捨て、今の今の現実を見て、そこに喜びと楽しみを感じることこそが「真の楽園」なのではないだろうか。

などと考えたのは昨夜、ネットテレビで「ドラゴン桜2」を見て、その中の高校生たちが東大合格のために「現実生活」「普通の高校生の日常生活」を捨てている様子に疑問を感じたからかもしれない。漫画「男子高校生の日常」などに描かれたような、馬鹿馬鹿しくも日常や現実を楽しんでいる「普通の高校生」とは違って、彼らは高校生活そのものを「将来のために」犠牲にしている。それであるいは劣等生がファンタジー的に東大に入るかもしれないが、彼らが、人生の「最良の時期」であるべき数年を「夢」や「希望」や「期待」のために犠牲にした、という事実が厳然としてあるわけだ。このドラマでは、受験勉強一色の毎日を欺瞞的に装飾して、その苦しさを「充実した生活」のように見せ、他の「普通の高校生」の生活を「無目的で虚しい」生活のように描いているが、現実には、受験一色の生活とは、刑務所の生活と変わらないだろう。まあ、東大を出ることで「支配階級」になり、その後の生活でその数年間の犠牲が報われるという「夢」が彼らを駆り立てるわけである。当然、「努力をしなかった愚民ども」は軽蔑と搾取の対象である。このドラマでは、その部分(現実)は巧妙に隠蔽されているが。



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天皇の「戦争責任」問題

歴史観、あるいは歴史哲学の話になるので、思想問題としてここで考察してみる。
「混沌堂主人」の次の発言だが、氏はこの思想を延々と書き続けている。
まあ、日本人が飢えて死滅するのは、当然の結末なのです。
天皇廃止OR天皇家根絶 という、日本人が「過去の受容」が無い限りに。
つまり、この思想が氏にとって最重要の思想だということだろう。で、その布教のためには、原爆地上起爆説とか、原爆特許は天皇が持っているとか、天皇は(イギリス軍の何かの階級に任ぜられているから)イギリスの手下であるとか、いろいろ書いている。すべて愚論だと思うが、一番の問題である、「天皇の存在は日本にとって最大の害悪である」という考えの是非を考察しよう。

第一にというか、根本問題として、日本人の「過去の受容」は必ず「天皇廃止or天皇家断絶」とならねばならないのか。まあ、氏がいつも言う、「日本人の無責任体質の根源は天皇という存在にある」という主張だが、その論拠は、太平洋戦争での天皇責任問題だろう。
氏は、「天皇は戦争の責任を取っていない」という説だが、これは氏の主観的判断だろう。私は、昭和天皇が在位のまま、「神格的天皇」から「人間天皇」となり、さらに日本国憲法下で「象徴天皇」となったことが、最良の「責任の取り方」だったと思う。それが、米国とGHQの「合理的判断」だったのであり、あの時点で「天皇廃絶」あるいは「天皇死刑」となっていたら、日本はとんでもない「アモラル(無道徳)社会」になっていただろうと私には思える。「天皇でさえ殺してよい、それなら、一般人の命など、虫けら同然であり、いくら殺してもいい」、という精神が日本人に芽生え、瀰漫した可能性が高いと私はと思う。(あるいは、すべてを他人のせいにする「他責思考」の瀰漫)
神道は滅び、仏教もまた戦争協力宗教であった以上、韓国のようにキリスト教でも輸入するか? 宗教や権威を背景にしない道徳が、天皇処刑で生まれた可能性より、私はとんでもない無道徳社会になった可能性が高いと思う。つまり、「人間天皇」になったとはいえ、天皇という「象徴」が憲法で保障されることで、日本人は国民的アイデンティティを保持できた、というのが私の考えであり、それは「人間はすべて平等だ」という欺瞞的思想には反するだろうが、天皇という存在の「不平等性」こそが、現実の現実性をすべての国民に示す暗黙の教訓になっていた、あるいはなっていると思う。

さらに、より重要なのは、ある意味では「天皇が許されたことで、日本人全体が許され、精神的負担を持たなくて済んだ」のだ。神格的天皇の象徴天皇化で、日本人の「禊が済んだ」とも言える。これが、当時の天皇と国民の「精神的一体化」から推測できることだ。(その極度な形である「天皇神格化」に私が反対であるのは言うまでもないだろう。天皇神格化が日本人神格化となり、とんでもない夜郎自大な悪質行動に結びつくからだ。これがアジア侵略での日本軍の行動に明白に表れている。つまり、ここでは、あくまで敗戦時の話をしているのである。)

あの戦争で家族や親しい人を失った人間は日本に無数にいる。だからこそ、私は「絶対的平和主義」者なのである。だが、それと天皇問題はまったく別のことだ。一国の支配者は、政治的に誤った判断をすることもある。では、その判断の誤りの責任は、どう取るか。戦争という重大事なら、「国民が彼を死刑にすることで責任を取らせる」か。これは、イタリアのムッソリーニに国民がやったことだ。で、ファシスト党員がすべて殺害されたとは私は聞いていない。つまり、大多数の「戦争責任者」は上手く逃げたわけである。どの国も同じことだ。そもそも、なぜ敗戦国の元首だけが戦争責任を問われるのか。勝てば官軍で、勝利国のすべての戦争犯罪は許されるのか。

天皇の戦争責任問題というのが、しばしば自分を戦勝国や被害者の立場に置いて、元首ひとりに責任を押し付ける論法のように私は思うのである。そもそも、その「被害者」たちは、戦争の時には自ら進んで戦争に協力し、あるいは戦争で金儲けをした一族だったりする。

あえて暴論を言えば、私は「あの戦争での敗戦は、日本国民にとって史上最大の幸運だった」と思っている。少なくとも、現代の日本人の生活の向上や精神的向上は、あの敗戦の結果なのである。ただし、その結果としての「日本の属国化」は、日本国民が大きな反対運動を起こすべきだが、それもまた別の話だ。私は、あの戦争で死んだ人々は気の毒だと思うが、戦後に生まれた世代は、戦後復興の恩恵をもの凄く受けており、それは元をたどれば「敗戦の結果」なのである。
なまじ勝っていたら、それこそ日本は既に滅亡していただろう。
となると、「敗戦責任とは何か」という話になるわけだ。

まあ、蛇足になるが、要するに、「戦争責任論」のほとんどは、実は「敗戦責任論」でしかなく、勝っていればすべて許されたという、馬鹿馬鹿しい議論だ、ということだ。しかも、私は「日本はあの戦争では敗戦して良かった」という思想なのだ。
もちろん、最初から戦争などしないのが一番である。その点では昭和天皇にも大きな「戦争責任」はある、と思ってはいるが、天皇に判断ミスをさせる無数の問題(アメリカによる戦争への誘導工作や日本軍部の愚かさ)があったことは、多くの話がある。
あなたが天皇だったら、あの時正しい判断ができたか? それを天皇に求めるのは、それこそ「天皇は神でなければならない」に等しい天皇神格化思想だろう。 で、世の「戦争責任論」が実は「敗戦責任論」という愚論であるのは上に長々と書いた通りである。




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食生活と癌

癌細胞は、ある年齢以上になると毎日のように発生して、大半は自然に消えるのであり、食生活とはほとんど無関係だと私は思っている。もちろん、ある種の癌は外的要因が発生原因にもなるだろうが、それも食生活はほとんど関係無いだろう。飲酒などは、脳溢血などの原因にはなるだろうが、癌とは無関係で、煙草になると、喫煙者は劇的に減少しているのに肺がん患者はさほど減らないようだ。

ついでに言えば、我々の体の一部は「生まれる前に死んでいる」(下の赤字参照)のである。中年や老年が今さら気にすることはない。長生きした老人の多くは「早く死にたい」と言うようだ。

まあ、酒も含めて、飲食は人生の喜びなのだから、過度に節制して人生を貧相にすることはない。

発生中の脳では、神経細胞のあいだに多くの接続がありうる。それにも関わらず、これらの接続のわずかしか出生まで残らない。脳の細胞の残りーーー半分くらいーーーは死ぬのである。(D・サダヴァ他著 「大学生物学の教科書」)

(以下引用)

似たような体験談が集まる

オホ・グロ @hogu6hogu6

分かる。わたしも煙草と酒せず生きてきて、特に煙草は副流煙を人一倍避けてたのにある日突然異形成って言われて「なんでわたしが!?」てなった。 x.com/dramerica88/st…


  2024-02-22 17:12:55
HiRo女漁師 @ykkr_iaho0923

身近な人で 私の空手の大師匠は、ずっと空手一筋で タバコはもちろん酒も飲まない。 家族にも喫煙者はいない、毎日農業で汗水垂らして働いて、食事も拘って、間食も盗らず、あとはずっと空手の稽古をしてた大師匠。 まさかの肺がんになったんですよ。 健康には人一倍気を使ってて、自信もあったんでしょう。 病名言われた時に戸惑ったみたいで、お医者さんに 「本当ですか!?嘘でしょう!?どうしてですか!」って言って動揺してたそうです。 そんな大師匠は闘病の末、先日亡くなられました。


  2024-02-22 21:48:52
ニャも無き者 @nyamonakimono14

うちの母親もいわゆる健康食、揚げ物や糖分控えて健康的な食生活を長年してたけど、大腸癌で最後何も食べれず辛い日々を過ごして亡くなったから、食生活で全ての病が予防できるわけではない… 今の食事も楽しもうと思った すごく辛そうだったから x.com/dramerica88/st…


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難関大学の解答欄の大きさの問題

見たいアニメがほとんど無い(「ダンジョン飯」とその他ふたつくらいしかない)ので、仕方なく実写ドラマを見ているが、「ドラゴン桜2」は面白い。今回など、まるで「女王の教室」のような政府(あるいは日本社会)批判があって、驚いた。東大など、この国を悪化させたエリートの巣窟ではないかwww しかし、確か原作漫画も東大卒の編集者がかなり原作脚本(あるいはプロット)に関与していたはずで、東大入試問題の特徴など、よくつかんでいる。
要するに「物事の本質」を把握する能力を見るというものだ。私は国語以外の問題は知らないが、国語の場合は「解答欄」があまりに小さいのがその特徴である。つまり、無駄なことはまったく書けないから、解答者がその問題の本質にいかに迫っているかが分かるわけだ。ただし、採点者自身が、「本質的模範回答」を作っているかどうかが問題で、赤本、黒本、青本など、出版社によって模範回答が違っていることも多いのが東大国語問題の特徴だとも言える。
そういう見方で言えば、最近のネットの、長いコメントに対する「3行で言え」という茶化しコメントなどは東大的だと言える。
まあ、テレビに出ている一部の言論人の、長くて何が言いたいのか分からないコメントには「3行で言え」が正しい反応だろう。意図的誤魔化しもあるし。
ちなみに、京大の国語は東大の正反対で、解答欄が異常に大きい。これは、その人間の思考や知識を多角的に見ようという、「親切な」問題作成姿勢だと思うが、採点者は大変だと思う。
ただし、ここに書いた入試問題の話は20年以上も前の話で、今でも東大や京大の問題がそういうものかどうかは分からない。細部では流行は追うが、本質は変わらないのが教育界だから、変わっていない気がするが。

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「男の怒り」はどこへ行った?

先ほど、散歩の間(「星のない暗い空」だった)中、下に引用したこの曲と歌詞の一部が脳内をずっと回っていたのだが、私は日活映画のファンでもなかったし、赤木圭一郎のファンでもなかったし、そもそもこの映画を見ていないし、歌詞もうろ覚えである。
だが、なぜか、この歌が頭の中から去らなかったのは、何か理由があるのだろう、と考えてみたが、結局は今の世の中のすべてに自分が怒っていて、その怒りが晴れることもまず無いだろう、と心の底で考えているからだろう。

それがひと時だけ晴れたのが、山上徹也の「怒りの一撃」だけだった。
しかし、その後も日本の状況はまったく変わらない。つまり、やはりあれは、安倍の「面従腹背」を疑ったCIA(DS)の「予防措置」であり、安倍切り捨てにすぎなかったのだろう。その証拠に山上徹也の処分がいまだに分からない。そもそも、あの時の現場状況から見て、彼が安倍死亡の「犯人」だったという証明は不可能だろう。
で、今の岸田が安倍以上にひどいという感想を持つ人も多いだろうが、安倍が三度目の登板をしたところで、それより良かったはずもない。つまり、日本が米国の実質的植民地である限り、状況は変わりようが無いのである。それを心底から理解させたのが岸田の「功績」かwww

そこで、「男の怒りをぶちまけろ」という言葉が私の頭の中から離れないという次第である。
今では、男は怒らないもの、となっている。腑抜け状態、去勢状態だ。
私は、昔の学生運動のころは、学生運動を馬鹿にしていた。しかし、彼らは、馬鹿だったが、真剣に怒っていた。だが、その怒りのポイントが「日本が米国の属国である」ということを、日本国民に、いや、米国民にも知らせる努力を怠っていたのではないか。で、結局は住民に迷惑をかけるだけのデモ行動や、仲間同士の殺し合いという内ゲバで、学生運動への同情も関心も消え去った。
まあ、要するに、「左翼」があまりにも馬鹿すぎたのだが、あの当時のマスコミはむしろ左翼びいきで、評論家の大半は左翼思想家だったのである。にもかかわらず、彼らはその状況をまったく活かすことができず、自ら滅んでいった。
その点にこそ、私の「怒り」のポイントがある。もちろん、「自民党をぶっ潰す」唯一の機会だった民主党政権の時、その政権(ただし、民主党内クーデター政権ではなく、鳩山小沢政権)を守らなかった国民に一番の責任がある。要するに、国民が政治的に無知で馬鹿だということだ。

(以下引用)


「男の怒りをぶちまけろ」

星のない暗い空
燃える悪の炎
こらえこらえて
胸にたぎる怒りを
冷たく月が笑った時に
命かけて男の
怒りをぶちまけろ 怒りをぶちまけろ



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