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「希望こそが地獄である」

目覚めの直前の朦朧思考の中で考えたのが、「希望こそが地獄である」というテーゼ、あるいは「希望こそが地獄なのではないか」という疑問、問題だった。

パンドラの箱から無数の災厄が地上に飛び出した後、箱の底に残っていたのが希望なら、希望こそが最悪の災厄だということにならないか。本当の災厄を災厄に見せなくする欺瞞という災厄だ。

ここで希望と言っているのは、夢とか期待とか幻想と言ってもいい。それが、現実そのものから人の心を遊離させ、現実を見えなくさせる。そして、現実に満足させなくする。それこそがまさに、現実の「地獄化」なのではないだろうか。

若いころというのが、人の一生の中でもっとも不満と不幸の時期であるのは、まさに、現実人生から遊離した、「ここではないどこか」への期待や夢、希望のためではないだろうか。
なぜ、現実ではなく、夢や未来の計画に期待するのか。なぜ、目の前の草や花、樹々や雲や空を見ないで、頭の中の空想(夢、計画)だけを見るのか。(ここでは、脳内人生こそが真の人生である、という私のいつもの主張は置いておく。私のこの主張は「感受されたものこそが、人間の主観にとっての現実である」という思想なのだ。それと悪質幻想批判は矛盾しない。)

老年こそが人生で一番充実しているはずだという仮説を立てるなら、それは現実に夢を持たず、現実そのものに楽しみを見出すことができているからだろう。なぜなら、老年には未来など無きに等しいからだ。自分の周囲の現在の現実に満足できないなら、それこそまさに地獄だろう。

ひいては、宗教というのも、人間を現実から目を逸らさせ、ありもしない天国や「地獄の懲罰」という恐怖で満たす、最悪の幻想かもしれない。もちろん、その幻想こそが「希望」であるわけだが、希望とは、今の現実ではない、というのが私がここで言っていることだ。

ダンテの「地獄篇」の中では、地獄の門には「ここに入る者 一切の希望を捨てよ」と書いてあるらしいが、むしろ、希望や期待や幻想を捨て、今の今の現実を見て、そこに喜びと楽しみを感じることこそが「真の楽園」なのではないだろうか。

などと考えたのは昨夜、ネットテレビで「ドラゴン桜2」を見て、その中の高校生たちが東大合格のために「現実生活」「普通の高校生の日常生活」を捨てている様子に疑問を感じたからかもしれない。漫画「男子高校生の日常」などに描かれたような、馬鹿馬鹿しくも日常や現実を楽しんでいる「普通の高校生」とは違って、彼らは高校生活そのものを「将来のために」犠牲にしている。それであるいは劣等生がファンタジー的に東大に入るかもしれないが、彼らが、人生の「最良の時期」であるべき数年を「夢」や「希望」や「期待」のために犠牲にした、という事実が厳然としてあるわけだ。このドラマでは、受験勉強一色の毎日を欺瞞的に装飾して、その苦しさを「充実した生活」のように見せ、他の「普通の高校生」の生活を「無目的で虚しい」生活のように描いているが、現実には、受験一色の生活とは、刑務所の生活と変わらないだろう。まあ、東大を出ることで「支配階級」になり、その後の生活でその数年間の犠牲が報われるという「夢」が彼らを駆り立てるわけである。当然、「努力をしなかった愚民ども」は軽蔑と搾取の対象である。このドラマでは、その部分(現実)は巧妙に隠蔽されているが。



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