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イグノーベル賞はホント好きなイベントなんだけど、 スピーチが終わると、観客が一斉に紙飛行機を投げつけるのがお決まり。 で、この掃除をするのが、世界的物理学者・ロイ・グラウバー博士。 この掃除する博士は一度だけイグノーベル賞授賞式を欠席した。 理由がノーベル賞受賞式のため。
気の赴くままにつれづれと。
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産経新聞 3/21(火) 22:13配信
大阪市の学校法人「森友学園」の国有地取得問題を国会で追及する野党の姿勢などをめぐり、日本維新の会前代表で前大阪市長の橋下徹氏と新潟県の米山隆一知事が短文投稿サイトの「ツイッター」を通じ、14日から17日にかけてバトルを繰り広げ、注目を集めている。
橋下氏は、同学園の理事長退任を表明した籠池泰典氏との関係をめぐる稲田朋美防衛相の答弁に関し「事実確認もせずに国会で無関係と言い切った稲田さんは政治家としてアウト」と指摘。「(民進党代表の)蓮舫さんも二重国籍問題で全く同じことをやった。稲田さんが辞任なら蓮舫さんも辞任」と批判した。
この投稿に米山知事が反応。二重国籍問題と森友学園問題はそもそも別問題だとした上で「それを言うなら、まず『蓮舫さんの二重国籍をさんざん国会の場であげつらった維新の議員も、同じ論調で稲田さんを追及するんですよね?』と言うべき」と、自民党に協調的な立場をとる維新の姿勢に突っ込みを入れた。
これに対し橋下氏は「僕は蓮舫さんの二重国籍問題では辞任する必要はないと言っている。ちゃんと確認しろ」と怒り、「ほんとこんな頭の悪い知事を持って新潟は大丈夫か。こいつは原発バリバリ推進派。選挙前に転向」と、米山知事がかつて原発の再稼働に前向きだったことを指摘し、揶揄(やゆ)した。
米山知事は黙っていられるかとばかりに「民進党にああだこうだという前に、まずはお友だちの維新の皆さんの一貫性についてご助言されたらいかがですかと言っているんです」とさらに反論。一歩も引き下がろうとしない橋下氏は「僕が米山新潟県知事を口汚く罵(ののし)る理由は、彼は僕が公人のときにまあ酷(ひど)く罵ってきた。米山は僕を批判する過程で僕の現住所地をネットで公表した。最低な奴だ」と罵倒した。米山知事は「公開の登記情報を示す際に、当初住所をマスキングしなかったのは恐縮でしたが、直後にご指摘を受けてマスキングさせて頂いております」とかわした。
米山知事は平成25年の参院選に維新の会から出馬し、落選した経緯がある。(新潟支局 松崎翼)
「世に倦む日々」氏の名前が、新著の刊行で分かったが、田中宏何とかと言うらしい。写真だと宏の後の漢字が読みづらい。とりあえず、田中(世に倦む)氏、とでも呼ぶことにする。
田中(世に倦む)氏の常々の発言に関しては、私は6割賛成、4割疑問、という感じか。
氏の「我こそ真のインテリ・リベラル」という「文章の表情」にはいつもうんざりするが、書いている文章の論理性はいつも見事だと思う。ただ、その論理にたいてい納得しがたい気持ちが残るのは、「論理の出発点」が見えにくく、旧来の(すでに破綻している部分の多い)マルキシズム主体の左翼リベラリズムによりかかっているように思えるからだろう。そして、「左翼の軍師」を気取っている(と思われる)わりには、敵と味方の区別もつかず、味方に攻撃をしかけて(彼が攻撃する相手は、安倍陣営よりも、むしろ左翼アカデミズムや、暴力左翼であり、つまり左翼が左翼を攻撃しているのである。)「オウンゴール」を繰り返しているように見える。
私も左翼アカデミズムや暴力左翼行動隊は嫌いだが、しかし、こんな「知的内ゲバ」を繰り返して何になる、と思う。
現在の氏の敵は「脱構築」と「しばき隊」らしいが、こんなチンピラ連中を相手に戦うなんて、自分で情けなくならないのだろうか。強大な敵に単身で戦いを挑んでいる「野良ジャーナリスト」の菅野完氏も、かつてしばき隊に入っていたらしいが、田中氏が今、しばき隊を叩くことで、真の敵を利することにならないか。
いや、そもそも氏が左翼リベラル陣営の旗頭のひとりだと思うのは私の錯覚で、氏は右翼保守陣営の一員になっているのだろうか。下のツィートで、「資本主義の精神」を称賛し、「社会と国家のため」に働くことを讃えているのは、むしろ日本会議陣営の人間にこそふさわしい。
いつもいつも「脱構築」がどうのこうの、と言っている姿には、失礼ながら、「アカデミズムや知的ジャーナリズムの世界で正当に評価されるべきなのは俺なのに」、というジェラシーや功名心が燻っているように見える。もういい加減、くだらない「私的闘争」はやめたらどうか。戦うべき相手はほかにいるだろう。
(以下引用) 世に倦む日日 @yoniumuhibi
アニメに限った話ではない。ほとんどの芸術は、観る人読む人が「自分自身の想像力を足す」ことで成立するものだろう。どんな大傑作も、その作品を受容する資質や能力、特に想像力を持たない人間には無意味な存在となる。
知識と想像力は、もしかしたら背反関係にあるのかもしれない。
不思議なことに、ほとんど世界についての知識(これは、言葉の知識を含め、ほとんどの場合において、作品理解の基本的前提であるはずだ。)を持たない(タブラ・ラサ的存在である)子供でも、「これは優れた作品だ」と伝わることがある。
私は今でも、漱石の「吾輩は猫である」を完全には読み取れていない(和漢洋の知識が駆使されているだけでなく、使われている言葉自体が高級すぎるのである。)が、小学生のころに読んで、書かれた内容の1割くらいしか理解できなかったにもかかわらず、「面白い」と思ったものだ。(もちろん、成長した後、何回も読んでいる。)
私の、子供の頃の読書経験の様相としては、メルヴィルの「白鯨」も同じである。あの、一見無意味な博学的知識の羅列にすぎないような「鯨学」のところまで読んだのは、子供だからこそだろう。今なら、ほぼ確実に飛ばし読みをするはずだ。だが、そうした「情報読み取り」だけの読書は、真の読書とは別物だ。もちろん、最初に読んだ時には、書かれた内容は1割くらいしか理解できなかったが、それでもある種の面白さを感じていた。まあ、単に一種の「怪獣が出て来る冒険小説」として読んでいたのだがwww 今でもクィークエグやイシュマエルは私の精神世界の友人だ。現実の人間の名前は忘れるのに、書物世界の友人知人の名は覚えているwww
逆に、世界についての知識がほとんど無い子供だからこそ、そこに「自分自身の想像力を足して」作品を読む、あるいは視聴する、という「高度な鑑賞」を、自然にやっている、とも言えそうである。それは、作品と深い関係を結ぶ、ということだ。大人になると、精神自体が自動的に「合理的精神操作」を行い、「無駄の排除」をするため、芸術の深い鑑賞が困難になる。
(以下引用)
ゆうき まさみさんがリツイート
人間(ジョン・ハート氏)の体内にエイリアンの卵だか幼虫だかが入るのが、あの映画の一番薄気味悪いシーンだったが、これはエイリアンの体内に人間(乗客)が入るわけだwww
この電車が衝突事故を起こしたら、ぶつかった相手はエイリアンに襲われた気持ちだろう。
はぁとふる売国奴『うつヌケ』発売中さんがリツイート
イグノーベル賞はホント好きなイベントなんだけど、 スピーチが終わると、観客が一斉に紙飛行機を投げつけるのがお決まり。 で、この掃除をするのが、世界的物理学者・ロイ・グラウバー博士。 この掃除する博士は一度だけイグノーベル賞授賞式を欠席した。 理由がノーベル賞受賞式のため。
右足を骨折してから昨日でちょうど二年が経過した。完治までもう少し。数字にすると90%ぐらいといったところか。下りの階段も手すりなしで歩けるようになった。あとはもう少し筋力がつけばOK。とはいえ、靭帯やら軟骨やらが無いので全力疾走とかは、無理だろうな。
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