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現代倫理学(2)人間の倫理

現代倫理学(2)人間の倫理(善悪の定義と派生的考察1)


神の存在は不可知だから、我々に可能なのは「人間の倫理」を考察することである。それによってこの世界をより良いものに変えていけるなら、そういう考察は無意義ではないだろう。

さて、倫理の基本は「善とは何か、悪とは何か」である。古い言葉で言えば「勧善懲悪」が倫理の目的だが、問題は、その「善」と「悪」が明解な定義がされていないことだ。
この定義は単純なものである必要がある。それでないと社会全体の人間の指針とはなりえないからだ。つまり、「分からないままに従う」という、従来的な倫理(神の倫理はそれである。)ではなく、社会全体が納得して従う倫理を構築する必要があると私は思っている。そういう倫理が無いから、あらゆる宗教が破綻した後にこの無道徳な世界が生まれてきたのだろう。
たとえば、「嘘をついてはいけない」という倫理は、今では子供ですら信じていない。総理大臣を初めとして嘘が平気で罷り通る社会で、誰がそんな倫理を信じるものか。
また、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という、ある若者の質問に居合わせた大人たちが誰ひとり答えられなかった事件は記憶に新しい。それも、世界中で戦争やテロや大量殺人事件が頻発する世界では、誰も納得できる答えを持ち合わせていなかったからだろう。

私が提起する「善悪の定義」は、下のようなものだ。その定義から派生する考察課題とその答えなどを番号付けしていく。定義自体は非常に単純なものだ。

定義1:善とは生の肯定、そしてこの世界の肯定である。
定義2:悪とは生の否定、そしてこの世界の否定である。

「生の肯定」が「この世界の肯定」になるとは限らない、という意見も出るだろうが、私はこれはほぼ同義になると思っている。1-aがその説明である。
以下が、定義1から発生する考察である。

1-a:生の肯定とは、世界の肯定である。つまり、この世界を「生きるに値する世界」と観じることである。
1-b:自己の生を肯定し、尊重することは、他者の生をも肯定し、尊重する「義務」を伴うべきである。
1ーc:bにおける「義務」がすなわち「倫理」である。(反論者のためにbとcを分けておく。)
1ーd:倫理は社会的存在としての人間が社会を維持する土台である。
1-e:従って、「なぜ人を殺してはいけないか」に対する答えは、「殺人は社会全体の破壊、あるいは崩壊につながるから」である。(言うまでもないが、「人を殺してもいい」という社会は全員の殺し合いになり、崩壊する。)
1-f:「なぜ社会を破壊してはいけないのか」に対する答えは、「社会は人が生きる基盤であり、そう質問するあなた自身が生きる基盤だからだ」である。
1-g:上記e、fは、貧困と抑圧、社会への不満によって「自分が死んでもいい」という自暴自棄に陥った人間(いわゆる「無敵の人」)に対しての抑止力にはならない。よって、社会は「無敵の人」を生み出さない制度、すなわち福祉制度の充実が必要になる。
1-h:ではあるが、「世界を肯定する者」は、自分が死ぬからといって世界そのものを破壊はしない。それは、彼がこの世界を愛しているからだ。(ここに文化の意義がある。文化とは本来的には世界への愛を生み出すものなのである。世界への嫌悪や破壊を促す創作物は倫理的には批判されていい。もっとも、それへの罰則を導入すると、ファシズム的社会になるので注意が必要だ。法律と異なり、倫理は本来、罰は伴わないのである。)

定義1に対する考察は以上である。

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現代倫理学(1)神の倫理

別ブログに書いたものだが、こちらにもそのシリーズを載せておく。「神を前提としない倫理」の考察は、私自身の宿題のひとつなのである。

(以下自己引用)

現代倫理学(1)神の倫理


(1)神の倫理

或る随筆というか、イギリス文学評論集のような本で読んだのだが、イブリン・ウォーの「ブライズヘッドふたたび」の中で、登場人物の一人である女性がこういうことを言うらしい。

「私はこれからも悪いことをして神に許されながら生きていくのでしょう」

これは、倫理の根幹に深く関わる問題だと思うので、これを考察の出発点にしてみる。
まず、いくつかの命題や考察ポイントを立ててみる。

1:倫理には「神(創造神)を前提とする倫理」と「神を前提としない倫理」がある。
2:絶対的な強制力を持つ倫理は「神を前提とする倫理」である。
3:「仏」、あるいは「非創造神」を前提とする倫理は「来世」が必須条件である。
4:「神仏を前提としない倫理」の「強制力」は「法律」より弱い。
5:「法律」は「倫理」とは別の強制力があるが、その強制力の前提は「暴力」である。
6:「神仏」は、その存在証明が不可能であるために、「宗教」なのである。
7:存在が証明された神仏は、信仰の対象ではなく、ただの「暴力装置」である。
8:神仏以外でも反抗が絶対不可能な倫理もまた「暴力装置」であるかもしれない。

これ以外の考察ポイントは適宜追加することにして、最初の出発点に戻る。
この女性は「神を信じている」。にも関わらず、「悪いことをして生きている」。そして、それが「神に許される」と思っている。
では、
1:そのような神(悪を許す神、つまり悪を許容する神)とは何なのだろうか。
2:また、その「悪いこと」がなぜ「悪い」と判断する(できる)のだろうか。

この女性の宗教はカトリック(カソリック)であるらしい。その前提で上記2点を考察する。
カトリックの教義はローマ教会の教義であり、それは原始キリスト教、つまりキリスト本来の教えとは別だろう。新約聖書の中でキリストは「これこれの行為は罪である」という発言は特にしていないと私はかすかに記憶しているが、要は「父なる神を信じない」ことが罪なのであり、「父なる神の意思を曲解する宗教者は大きな罪を犯している」としているようだが、キリスト自身の「倫理概念」は旧約聖書の教え(ユダヤ教)に則っていると思われる。しかし、旧約聖書の十戒の厳密な適用には反対であったらしい。イエスの神(自分の父)は、愛と寛容の神だったと言っていいのではないか。そうなると、カソリックの教えでは何が罪とされているのか。おそらく、ユダヤ教(旧約聖書の十戒)が踏襲されていると思われる。
しかし、ユダヤ教の神、つまり十戒という倫理の根幹の存在は、非常に厳しい、恐ろしい神であり、その戒律に違反することは現実に死罪に相当することもある。たとえば、安息日に働いたということですら重罪なのである。これは「神の言葉をないがしろにした」からである。それが「神を前提とする倫理」としては普通なのであり、神自身が「自分の戒律の運用は適当でいいよ」とするはずはないのである。それでは戒律の意味など無くなるはずではないか。
とすれば、冒頭の女性の言葉は、「私は神の教えを裏切るが、神はそれを許すだろう」ということになる。これは、カソリック的には許容される思想なのだろうか。
ここで思い出すのは「第三の男」のハリー・ライムである。語り手(狂言回し)のホリーがハリー・ライムに「君は昔は神を信じていたはずだが」と言うと、この悪党は「今でも信じているよ」と言うのである。その宗教はカソリックである。
ここで注意したいのが、カソリックの「告解」である。
罪を犯しても、神父(教父?)の前で告解したら、その罪は許されるという、不思議な儀式である。これがカソリック教徒の社会的精神安定剤であるらしい。
つまり、一週間悪の限りを尽くしていても、日曜日に教会で告解をすれば、その犯した罪はすべて許されるということだ、と私は理解しているが、そのような都合のいい宗教があるというのが不思議そのものである。もちろん、神父(教父?)は聞いた内容については守秘義務がある。
まあ、私はカソリックに詳しくはないので、誤解もあるだろうが、「神の倫理」の抜け穴としてこういうものがあると理解しないと、冒頭の女性の言葉はまったく不可解なものになるだろう。

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爆弾回し

「逝きし世の面影」記事の一部である。
まあ、企業経営は博打にも似ていて、「勝ち逃げ」しないといつかは倒産するのが常である。
あるいは「ババ抜き」にも似ているか。利益を得た人間がどんどん抜けて、マイナスだけになった企業という爆弾(ババ)を最後に掴んだ者が負け。ところで、「ババ抜き」の「ババ」って何だ? 一部地方ではunkoのことのようだが、そんな汚い言葉がこの有名な遊びの名前として定着したのか?

(以下引用)

ファイザーCEO、保有株の60%売却。ワクチン報道の裏で(製薬会社の露骨なリスクヘッジ)

去年末にファイザー社CEOは「今が潮時だ」(うなぎ登りの株価が今後大幅に下がる)と予測したとすれば革命的な新製品、半年で開発した世界で初めてのmRNAワクチンは一か八かの大博打。間違いなく危ないのである。(★注、ファイザー社だけではなくモデルナCEOも売却している)
ファイザー社やモデルナのCEOは今後予想されるmRNAワクチンの副反応の訴訟リスク回避目的で保有株の60%売却を行たと思われるのですが、世界でも日本でも同じでメディアはこの製薬会社の露骨過ぎるリスクヘッジを触れたくない。ファイザー社など製薬会社のCEOはワクチン被害を予測しているのに、マスコミ有識者などは逆に胡散臭いし非科学的なワクチン救世主伝説だけを大宣伝しているのである。


しかし今までの「絆社会」の日本人なら今回有名芸能人の「ワクチン打たない」のように政府やマスコミ有識者に面と向かって逆らうなど考えられないことだった。それなら世の中の風向きが、明らかに今までとは違っているのである)

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スタヴローギン考

スタヴローギンとはどういう人間か、と考える際に一番の手がかりは、チホン僧正が彼を「土壌から引き離されておられる。(神を)信じておられない」と言っていることだろう。「土壌、あるいは大地から引き離された人間」というのはドストエフスキーの小説の中にしばしば出て来る言葉だが、それは何を意味するか。それは「世界から遊離した人間」ということだろう。
世界との関係が希薄な人間はたくさんいるし、思索に耽る人間ほどそうなりがちだ。そしてそういう人間は他者との関係も当然希薄なのであり、「自分(の心の中)しか見ていない」から、彼にとって他者は実は人形のようなものか道具のようなものになる。
倫理の基盤は、自分自身が世界とつながっていることだろう。他者(他の存在)を物としか見ていない人間には実は真のモラルは持てない。他者を尊重する気持ちなど無いからだ。
だが、モラルの話をする前に、「美」の話をしよう。
「悪霊」を読んでいて多くの人がたぶん見落とすのは、この作品には「自然の美」の描写がまったく無いことだ。そもそも西洋人は小説の中で自然の美を描くことはほとんど無いのだが、自然の美への感動は、日本人にとっては実は宗教と同じ働きを持っている、という奇抜な説を私はここで提出する。
スタヴローギンが神を信じなくても、彼が自然の美に感動できる人間だったら、あそこまで彼の精神は荒廃しなかっただろう、と私は見ている。と言うのは、自然の美への感動とは、「この世界への感動」であり、この世界の肯定だからである。それは、西洋人にとっても、「この世界を作った創造主への信仰」になるだろうが、創造神など仮定しなくても日本人は自然の美に感動し、それだけでこの世界とこの人生を肯定できるだろう。もちろん、自然に限らず、「自分以外の他の存在の肯定、共感、感謝、愛情」が倫理の土台にはあるわけだ。
ついでに「善」とは何か、「悪」とは何かについて単純な定義をしておく。
「善」とは「この世界を肯定し、愛し、守ること」であり、「悪」とは「この世界を否定し、嫌悪し、破壊すること」である。つまり、善とは生の顔であり、悪とは死の顔だ。ここでは善の仮面をかぶった悪や、一見悪に見える善のことは論じない。
まだ書くべきことはいろいろあるが、無理に文章を長くする必要もないから、この話はここでいったん打ち切っておく。

(夢人追記)だいぶ前に書いた「全能と無能」云々という記事の一部を自己引用しておく。

澁澤龍彦の或る評論というか、随筆のようなものを読んでいたら、

「化け物は全能なので、何かを望めば即座にそれが手に入る。したがって、『あきらめる』ということだけが不可能であり、そこが人間が化け物に優越しているところである」

という趣旨のことが書いてあり、興味深い逆説だな、と思ったが、まあ、単なる言葉遊びと思う人のほうが多いだろう。
これを「化け物」ではなく、「全能の神」に置き換えたら、人間という無能な存在は、その無能さゆえに神に勝っている、ということになる。まったく、全能の神であることほど退屈なものはないだろう。人間は無能だからこそ、何かを得るために努力をする。その過程でいろいろな喜びに遭遇するわけだ。とすれば、望めば即座にすべてが手に入る全能の神は退屈さのあまりニヒリズムに陥るのではないかwww 



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あなたの「悪霊」は何か

ここ数ヶ月は読書をする時間がほとんど取れなかったのだが、昨日は一日余暇ができて、読みかけの「悪霊」を完読した。まあ、高校時代の理解度を40%としたら、60%くらいは理解できたかな、という感じで、特に社会主義関係の部分や脇役の魅力の理解は深まったと思う。若いころは小説をエンタテイメントとしてしか読まなかったので、人物造形の魅力、特に脇役の描写など目が行かなかったのである。「主人公」的存在であるスタヴローギンの、「全能にして無能」という印象は、若いころに感じた印象と同じで、この作品のキモは理解していたようだ。
なぜ「全能」なのに「無能」なのかと言うと、「やればどうなるか分かり切っているからやる意味が無い」のである。つまり、神様と同じだ。ただし、その「全能」は実はかなり限定的で、彼は本質的に自分をコントロールできていない。自分の感情や意思をすべてコントロールできると過信しているが、その「プライド」、言い換えれば「自己愛」だけは制御できていないのである。つまり、ほとんどあらゆる人間が自己愛によって動いているのと、その点では変わらないわけで、そこがたとえばキリストなど、あるいはこの小説の脇役的な様々な人物より「実は卑小な人間」であるわけだ。シャートフやキリーロフや、あるいはビッコのキチガイ女などのほうが、彼よりはるかに高潔な人間なのである。
では、そうした高潔な人々がどうなるかというと、上記の3人とも殺されるか自殺するのである。そこがまさにリアルそのものである。そして、その3人を死に追いやった犯人のピョートルはどうなったかというと、無事に逃げ延びるのである。そこがまたリアルだ。このピョートルは、実に下種そのものの悪党なのだが、世間的活動能力という点から言えばスタヴローギンよりはるかに超人的で、この作品の「裏の主人公」であると言える。まあ、実社会で成功するのはこういうタイプだろう。
なお、「悪霊」とは社会主義思想のことだろう、と前に書いたが、それは少し訂正する。確かにこの作品の中で一部の人間を過激活動家にし、犯罪的行為に向かわせたのが社会主義思想(つまり、閉鎖的身分社会を破壊し、新しい世界を作る意思)ではあるが、スタヴローギンの心の中の悪霊はまったく別で、チホン僧正は彼に「あなたのすべての誇り、あなたの悪霊」と言っているのである。また、「罪を認めることを恥じなかったあなたが、なぜ悔恨を恥じられるのです?」「(悔恨を)恥じ、恐れておられる!」と言っている。まさに彼の「誇り」が彼の悪霊なのである。罪を認めることは彼の誇りを傷つけないが、悔恨は誇りを傷つけるのだ。強さに誇りを持つ人間にとって、罪は、力を発現した結果にすぎないが悔恨は弱さを認めることなのである。
そうした、「自分自身で制御できない自分の心や感情」が「悪霊」だと言っていいかと思う。


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企業CMによる反DSサイトへの妨害

「櫻井ジャーナル」を読んでいると「楽天ふるさと納税」のCMが記事本文を覆い隠すシステムになっている。櫻井氏はこのことに気づいているのだろうか。サイトを運営する都合上、企業CMを受け入れたのだろうが、自分のブログ記事がこういう形で妨害されていることに気づいていない可能性もある。DSの手口は陰湿である。そして、楽天という企業の正体も何となく推測できる。

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ティペラリー

「徽宗皇帝のブログ」に引用した「インドへの道」という言葉で、「ティペラリーへの道(遥かなティペラリー)」という歌を連想したので、ウィキペディアから転載しておく。「マンダレーへの道」という歌もあったはずで、「~への道」は軍歌(俗謡としての軍歌)には付き物の表現であるようだ。まあ、行軍は陸軍の兵士にとっては一番なじみ深い日常だろう。「歩いて歩いて歩いて」である。

日本語訳詞では「streets are paved with gold」が「大通りはとてもきらびやか」となっているが、これは文字通り「通りはみな黄金で舗装され」としたほうがいい。カネで浮かれた大都会ロンドンと素朴な農業国アイルランドの対比になる。





元歌詞[編集]

1912年版の楽譜に基づく[9]


1番
Up to mighty London
Came an Irishman one day.
As the streets are paved with gold
Sure, everyone was gay,
Singing songs of Piccadilly,
Strand and Leicester Square,
Till Paddy got excited,
Then he shouted to them there:
繰り返し部
It's a long way to Tipperary,
It's a long way to go.
It's a long way to Tipperary
To the sweetest girl I know!
Goodbye, Piccadilly,
Farewell, Leicester Square!
It's a long long way to Tipperary,
But my heart's right there.
2番
Paddy wrote a letter
To his Irish Molly-O
Saying, "Should you not receive it,
Write and let me know!"
"If I make mistakes in spelling,
Molly, dear," said he,
"Remember, it's the pen that's bad,
Don't lay the blame on me!
(繰り返し部)
3番
Molly wrote a neat reply
To Irish Paddy-O,
Saying Mike Maloney
Wants to marry me, and so
Leave the Strand and Piccadilly
Or you'll be to blame,
For love has fairly drove me silly:
Hoping you're the same!
(繰り返し部)

日本語訳[編集]

1番
ある日、大ロンドン
アイルランド人の若造がやってきた。
大通りはとてもきらびやか、
だから人々は誰もが陽気。
皆がピカデリーストランド
レスター広場を歌い上げるから
アイルランド野郎はいきり立って
連中に向かって大声で怒鳴り始めた。
繰り返し部
遥かなティペラリー、
遥か彼方よ。
遥かなティペラリー、
愛しのあの子の居るところ!
さよなら、ピカデリー、
さらば、レスター広場。
ティペラリーまでの道のりはひどく長い。
けれど心はいつもそこに。
2番
アイルランド野郎は手紙を書いた、
愛しのアイルランド娘モリーに宛てて。
「結婚してくれないというのなら、
手紙でそう書いてください!」
「ぼくが綴りを間違えているとしても、
ねえモリー」彼は続けて
「どうか覚えておいて、それはペンが悪いんだ。
ぼくのせいじゃないんだ!」
(繰り返し部)
3番
モリーはきちんと返事を書いた、
アイルランド野郎に宛てて。
「マイク・マロニーも
あたしと結婚したいって言ってるの。
だからストランドやピカデリーなんて放っておいて帰ってきて。
さもなくばあなたを恨むわよ。
あたしはあなたへの恋心ですっかり馬鹿になっているの。
あなたも同じ気持ちでありますように」
(繰り返し部)

映画などでの使用[編集]

1913年、イギリス国内のミュージックホールにてフローリー・フォードが初めて歌った。そして1951年のミュージカル映画『On Moonlight Bay』で使用された他、1960年代のミュージカル及び映画『素晴らしき戦争』と1970年のミュージカル映画『暁の出撃』ではジュリー・アンドリュースによって歌われた。ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』では捕虜が歌い、ヴォルフガング・ペーターゼンの映画『U・ボート』では潜水艦U-96英語版の乗員らが歌うほか、英国のラジオ放送として赤軍合唱団による戦後録音の音源も使われた。映画『アメリカ上陸作戦』でも背景音楽として使用された。アニメ『ピーナッツ』の一編『It's the Great Pumpkin, Charlie Brown』では、第一次世界大戦の撃墜王を演じるスヌーピーによって歌われた。


日本では1917年に浅草オペラ女軍出征』で使用されたことから、チッペラリーとして有名になった[10]宮沢賢治の童話『フランドン農学校の豚』でもこの曲の名前が出てくる[1][11]


その他、ドキュメンタリー番組などでも第一次世界大戦を象徴する曲としてしばしば引用される。





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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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