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幻視者 宮沢賢治

余生があとどのくらいあるか分からないが、その残された時間をどう使うか、と考えたとき、詩や歌を読んで、それを解釈するという作業もなかなか面白いのではないかと思う。
詩(歌も含む)というのは論理を超越したところがあるから詩なのであって、そうでなければ、それは散文だ。
その非論理性、と言うより「超論理性」が苦手で、私は詩を読むことにはあまり積極的ではなかったのだが、人生が残り少ないとすれば、詩の研究というのも面白そうだ。
幸い、優れた詩人の作品はたくさんあるだろうし、詩人自身は亡くなっていても、その「詩人の魂」は今も生きて世界の隅々に残っている。
詩の超論理性というのは、おそらくほとんどの子供には理解不可能なもので、理解できても「何となく面白い」程度だろう。その程度でも何かが伝わればいいのである。だが、基本的には学校教育の国語で詩を扱うのは無理だろう。つまり、詩を理解するには、或る程度の知的成熟が必要だと思われるので、詩の鑑賞は老人の趣味としてこそふさわしい。まあ、文学全体が実はそうなのではないか。若いころに幾つか本を読んで、「これで文学は卒業」というのは間違いだろう。
などと書いたのは、眠れぬままに、たまたま宮沢賢治詩集を読んで、以前にはまったく理解できなかった詩句が、幾つか、「解釈」ができたような気がしたからだ。そして、それらの詩句を自分で解釈したら、詩全体も面白く思えたのである。
宮沢賢治という人は、現実世界と幻想世界を二重写しで眺めながら一生を終えた人間だったのではないか。彼の詩の難解さは、その「二重性」にあると思う。

たとえば、水槽の中で赤いボウフラが跳ね動く様を彼はダンサーにたとえる。いや、ダンサーとして見る。

あるいは、世界の悪や不条理や不可解さに悩む自分をひとりの、あるいは一匹の修羅と見る。

世界や現実を彼はこう見る。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてただ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるひは地史といふものも
それのいろいろな論料といっしょに  *「論料」は「データ」と振り仮名。
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじているにすぎません

宮沢賢治の目で世界を改めて眺めることができたら、それは別の人生を改めて生きる「リライフ」になるのではないか。宮沢賢治の詩を解釈する、あるいは咀嚼するというのは、そういうことだ。

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WHO元事務副局長の「新コロ詐欺・ワクチン詐欺への告発」

「阿修羅」から転載。
これまで何度も同じ趣旨の記事は載せてきたが、難しい医学用語あるいは科学用語は使わず、聞く人(あるいは書き起こしを読む人)が素人でも納得できる内容を話している。

(以下引用)

WHO元副事務局長 「コロナワクチンの承認と推進は、医学史上最大のスキャンダルだ」 (連新社) 
http://www.asyura2.com/21/iryo8/msg/403.html
投稿者 魑魅魍魎男 日時 2022 年 1 月 29 日 10:12:09: FpBksTgsjX9Gw 6bOWo@mx6bKSag
 

https://www.gettr.com/post/pqvp4eb942
(連新社) 動画 4分20秒
WHO元副事務局長がEUサミットで講演「コロナウイルス感染よりも、
コロナワクチン接種によって死亡した人の方が多い。
コロナワクチンの承認と推進は、医学史上最大のスキャンダルだ」
Posted on 4:13 AM Jan 27th, 2022


2022/1/18


長年に渡って 私はずっと
フランス 欧州 そして世界のワクチン専門家として知られてきた


今回のパンデミックにおける最大のスキャンダルは
我々がつられて このワクチンを信じ込まされたことだと考えている


はっきり言って これは全くワクチンではない


我々の入手した証拠を見れば分かるように
このワクチンは完全に無効で 感染を防げない


患者の重症化を避けられないし 
病床使用率の低減に一役も買っていない


ワクチン接種率の高い国では 感染がより深刻である


今 集中治療室に入っている人の90%が
二回もしくは三回のワクチンを接種した


このように このワクチンはウイルスの感染を全く防げていない
ワクチンではないと はっきり証明できた


そして 現在コロナウイルスは 
ほとんど死者を出さないことが分かっている


だから 我々は 馬鹿馬鹿しいワクチンの強制接種を
止めなければならない


私の手元にも 数字が水増しされた
多くの虚偽のデータが存在している


そして PCR検査も科学の許容範囲を超えている


ウイルス感染のデータも 死亡者数も 誇張されている


他の疾患で受診した患者の
スクリーニング検査の結果が陽性である場合
コロナウイルスによる死亡だと見なされてしまう
実際には他の原因で亡くなった


そして 私がワクチン専門家として驚愕しているのは
通常のワクチンなら どれもが十年の時間をかけて
承認にこぎつけることだ


また 妊婦の流産事例を目の当たりにした


ワクチンは通常 市販承認から
妊婦への使用が承認されるまでには通常10年かかる


わずか数ヶ月で 政府がワクチン接種にゴーサインを
出したことだ


政府の政策決定に対して科学的根拠が
全く欠けていることに 驚かされた。


今になって 政府が三回目のワクチン接種を求めている
まもなく四回目 五回目があるはずだ
しかし 一体 何回目までするのか


政府の決定を支える科学的データは 全く存在しない


私が大きなショックを受けたのは 欧州医薬品庁が
去年の夏に このワクチンの成分を把握していないと
認めたことだ


しかし 彼らはこのワクチンの使用許可を与えた


だから 私は正式に提案した


データベースの情報によると
ワクチン接種によって 欧州で36000人
アメリカで25000人の死者が出ている
数百名のスポーツ選手も含まれている


米国のより多くのデータによれば
ワクチン接種後のがん死亡者が増えているそうだ


最も良い実例としてワクチン接種を実施しなかった国々と
ワクチン接種を中止した国々では
パンデミックはとっくに収束した


もう一つの良い実例は インドである


最後に申し上げたいのは ワクチンの強制接種は
違法行為だということだ


既述のとおり このワクチンは 
今も条件付きの承認に過ぎない


つまり他に有効な治療方法が存在しない場合のみ
このワクチンが使用可能になるということだ


しかし 今 何百もの科学出発物によれば
例えば インドと他の国々のように
他の有効な治療方法が存在している


そして最も注意すべきことは
このワクチンがまだ三段階目の治験の最中に
あるということだ


ニュルンベルク綱領を含む国際条約では
人間に実験的薬剤を強制的に接種することは
決して許されていない


だから 実験的薬剤の強制接種に
支持票を投じた議員達は
刑事裁判と国際司法裁判に提訴されてもおかしくない


その罪状は 人命を危険にさらすというものだ


児童の件に言及したので ここで終わりにしたいと思う


多くの子供がワクチンによって死亡した
実際のところ ワクチンによる死者数は 
ウイルス感染による死者数よりも多い


今 ウイルス感染によって死亡する人はいないと言っても
過言ではない


私の身近で 17歳と20歳の女の子が二人共
ワクチン接種の8日後に亡くなった


私は 医者になって以来 
20歳で心筋梗塞で亡くなった患者は
かつて見たことがなかった


もう一人は肺塞栓症で亡くなった


ここで皆さんに このワクチンの接種を一時停止するよう
お願いしたい


これは 本物のワクチンではない
長年に渡る本格的な科学実験を経たものではないからだ


我々は 数年の間に明確な結果を得たら
再度 評価すべきだと考えている 


ありがとう


-------(字幕引用ここまで)-----------------------------------------------


WHO元副事務局長のクリスチャン・ペロン氏が1月12日にルクセンブルグ下院議会で
発言した内容です。


WHOの専門家がこういう発言をするのは、事態が極めて異常であり、深刻であるということです。



(元動画)


「Professor Christian Perronne evidence, Chamber of Deputies in Luxembourg」 (We Accuse 2022/1/25)
https://blog.weaccuse.org/professor-christian-perronne-evidence-chamber-of-deputies-in-luxembourg/  

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政府の「棄民政策(?)」への「世に倦む日々」氏の批判

「世に倦む日々」記事で、この筆者の考えに私は反対なのだが、とりあえず叩き台として(記事を叩くという意味ではないww)転載しておく。私は「世に倦む日々」氏の硬直的な思想傾向には批判的だが、その真面目さや熱心な研究心は尊敬している。
なお、政府自体が「棄民政策」をしたのではなく、「各自治体の判断に任せる」ということであり、これはワクチン接種の場合(「接種するかどうかは個人の判断に任せる」)と同じパターンである。新コロ問題に関しては強圧的に、全国一律の政府決定に従わせるべきだ、というのが「世に倦む日々」氏の考えなのだろう。それをやったイスラエルや欧米諸国の惨状を知っているのだろうか。

(以下引用)

今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景

今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_14444792.png今回の棄民政策はどういう経緯と背景で方針決定されたのだろう。以下はその政治的正体についての推察である。普通に考えて、岸田文雄のイメージはネオリベの範疇と属性から遠い。宏池会は新自由主義とは距離のある政策集団だ。総裁選総選挙の公約と政見を聞いた印象でも、安倍晋三や菅義偉のネオリベ一色の感染対策とは異なる方向性が期待された。12月から始めた無料のPCR検査センターの開設なども、微弱ながら脱ネオリベを標榜する岸田カラーの発現の一端だろうと好感して眺めていた。

その岸田政権の厚労省から、今回突然、PCR検査しません、自費で転売ヤーから抗原検査キット買って調べなさい、陽性が出たら自宅で健康観察しなさい、保健所は忙しいので面倒みません、という驚くべき対処方針が発表された。菅義偉以上にグロテスクな極超ネオリベの棄民政策の発動であり、冷酷な弱者切り捨ての処断である。正直、衝撃を覚えて狼狽する気分を否めない。本当に岸田文雄がこの政策を了承し裁可したのか。なぜ葛藤も躊躇もなくこのような暴挙の意思決定に出たのか。




今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_14445723.png厚労省が新方針を出してマスコミが報道した直後、26日、神奈川県の黒岩祐治が、医師の診断と確定検査を経ず、抗原検査キットで感染を自分で判断して療養する「自宅療養」の措置を始めると発表した。健康管理と食事調達は自己責任だと言い切り、パルスオキシメーターの貸与もせず、看護師らによる健康観察の電話も取りやめると堂々と宣言している。26日の神奈川県に続いて、27日には大阪府が、28日には千葉県が「みなし陽性」の制度導入を始める旨を会見で告知した。厚労省の新方針の具体化の流れ作業だ。

厚労省の24日の通達文書には、「自治体の判断で下記の(新方針の)対応を行うことが可能である」と書いてある。自治体にとっては少なからずショッキングな内容に違いないが、要するに、神奈川県や大阪府や千葉県とはネゴが終わっていて、根回し済みだという裏であり、これらの新自由主義府県をアーリーアダプターとして新方針が五月雨的に全国自治体で実施される進行が想定されている。つまり、この棄民政策が、ネオリベ知事とネオリベ厚労官僚の間で事前に水面下で連携され合意されている。知事会から異論が出ず、波風が立っていない。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15151239.png通常、こんな過激な棄民政策が厚労省から出れば、知事は「県民の命と健康に責任がとれない」と反発するものだ。検査キットと治療薬の配布供給ぐらいは国が保障しろ、と要求するものだ。一体、この政治の真相は何なのだろうか。私が推理する図式の中でおのずと視線が向かう人物は、コロナ対策担当相の山際大志郎である。この男が全体の根回しの中軸に位置するのではないか。検査キット不足の問題を共産党議員が予算委で質問した際も、この男が答弁に立っていた(首相や厚労相ではなく)。西村康稔の後釜でポストに就いた目立たない男。

小物で目立たないので注意してなかったが、実は毒々しく生臭いプロフィールを持っていて、いかにも今回の棄民政策の立役者に相応しい。まず何より、この男は甘利明の最側近である。そして、ひょっとしてと思って確認したら、やはり選挙区は神奈川18区(高津区と宮前区)
だった。天下のネオリベ伏魔殿。東の大阪府。その中堅幹部。神奈川ネオリベ一家の陣笠ということは、菅義偉の息もかかっている。甘利明の子分だから麻生派であり、甘利明と麻生太郎が内閣に押し込んでいる。甘利明と麻生太郎の手足であり、甘利明の名代として、麻生太郎が放った目付として、岸田文雄をチェックしリモコンする特殊任務の隠密閣僚なのだ。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15212482.pngそして、外せないのが策動に噛んだ分科会のネオリベ専門家である。それが誰なのか、恐縮ながらものぐさで調査と特定に至っていないが、マスコミ報道に匿名で発言して頻繁に登場する。この男が、岸田文雄が分科会を開かないとか、分科会の意見と立場を軽視しているとか批判と不満をタレ込んでいる。岸田官邸を揺さぶって牽制をかけ、感染症対策の主導権を握る立ち回りを演じている。安倍・菅時代の人事産物である分科会に冷淡な岸田文雄からヘゲモニーを奪うべく暗躍している。この分科会のネオリベ専門家と山際大志郎が密謀し、黒岩祐治などと謀計して、今回の棄民政策が立案され厚労省の施策となったのだろう。

感染症対策をめぐってのネオリベ陣営のカウンター攻勢である。当然、背後に安倍晋三の存在があり、安倍晋三と岸田文雄の静かな暗闘が影を落としている。ネオリベ勢力を側面支援し、マスコミに岸田文雄の悪口を言わせているのは安倍晋三だ。岸田文雄の高い支持率が気に入らず、感染症対策を公共主義寄りに転換しようとする動きが不快なのだ。12月からずっと5類に変えろと喚いてきたのも、維新・ネオリベ系と安倍晋三だった。オミクロン株の感染爆発の機会を捉え、いわばクーデター的な電撃作戦で、恐怖の棄民政策を一気に政府決定にしてしまった。安倍晋三と麻生太郎はほくそ笑んでいるだろう。菅義偉と橋下徹も。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15241744.png棄民政策を獰猛に推進するネオリベ族のコロナ対策の理想は、英国ジョンソン政権の規制撤廃であり、その発想の疫学的根拠は「集団免疫」論にある。社会成員の一定の割合が免疫を持つと、感染症に対する防疫は達成するという考え方だ。この考え方に従って、英国では2年前の当初、コロナに対してノーガード・フルオープンの姿勢で臨んで挫折し、スウェーデンでも同じモデルが採用されて失敗した。失敗して犠牲を出して懲りたにもかかわらず、同じ方式を試みて克服を果たそうとする。スイスでも同様の動きがあり、ワクチンさえ対策できていればコロナは解決できるという態度が見られる。ワクチン万能論の戦略も、やはり基礎にあるのは「集団免疫」の発想だろう。

そして、感染症に立ち向かう責任は個人にあり、社会全体を一律に制御して負担をかけるのはよくないという思想がある。ウィルスに対しては個人個人が自由に対処すればよく、能力と資産のある者は生き残り、それを欠く者は淘汰され、適者生存・優勝劣敗・弱肉強食の哲理と原則で世界は回るのだという価値観がある。今回、黒岩祐治は堂々と「自己責任」という言葉を発した。新自由主義のイデオロギーを正義であると衒いなく語り、この棄民政策を正当化して開き直った。感染症対策は理系の範疇で、基本的に自然科学の領域なのだけれど、やはりそこには抜き差しならぬ価値観の問題が存在する。リベラリズムかソシアリズムか、どちらが正しいのかという対立構図があり、どちらの理念を選ぶのかという社会科学の選択の問題がある。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15344328.png管見を言えば、この欧米仕様のレッセフェールの感染症対策の論理は、プロテスタンティズムの思想を源流としているように直観される。今、ハイエクとロールズの全盛の時代であり、リベラル・デモクラシーが絶対視されるご時世だから、感染症対策も自由主義・個人主義の原理が基本に据わるのだろう。もし英国が労働党政権であったなら、これほど極端なウィズコロナへのシフトはなく、アーダーン的な公共重視の規制策が模索されていたに違いない。とまれ、自由放任が彼らの信念ならそれでよい。が、日本がそれを信奉しそこに準拠する必要はない。日本は日本である。われわれ日本は、どういう価値観を選び、何を感染症対策の羅針盤に置くべきだろうか。私は、憲法25条の生存権の人権規定だろうと思う。迷いなくそう確信する。


第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


憲法の中で「公衆衛生」の語が登場するのはこの条文であり、政府に行政の責任と義務を課している。主権者である国民は、国から公衆衛生のサービスを受ける基本的権利を持っている。そして、第1項では「すべて国民は」と表記されていて、公衆衛生行政が差別なく平等に提供されることが明記されている。だから、この国の感染症対策において、カネとコネのある国民が検査と投薬と入院にありつけ、無い国民が「自宅療養」を要請されて医療から切断されること、その措置が政府方針として示達され自治体によって実行されること、それが正当化され当然視されてまかり通ることは許されないのだ。それは憲法違反なのだ。

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混沌堂主人の「天皇論」

「混沌堂主人雑記(旧題)」記事の一部で、その中の引用はウクライナ情勢関連で米国の政治を批判した「deeply japan」記事の一文である。
「尊皇主義者」である私(何度も言うが「象徴天皇」としての天皇を尊重する意味だ。明治から敗戦までの「国家君主としての天皇」の天皇制は長所も短所も大きかったと思う。)はもちろん、ここで書かれた意見に反対だが、まあ、意見を持つことは大事だし、議論も大事である。
そこで、混沌堂主人の「反天皇論」の根拠らしいものが書かれているこの文章を転載する所以である。過去の天皇制への批判としてならともかく、現在の「象徴天皇制」への反対の理由としては薄弱だと思うが、一応参考までに載せておく。
私自身の現在の「象徴天皇制」に関する意見は、何度も書いてきたので省略する。まあ、民主主義が「仮面民主主義」に過ぎないこの日本(西側諸国はすべてそうだろうが)で、日本という国から国家統合の象徴としての天皇を除去したら、どんなアノミー(価値観を喪失した混乱状態とでも言っておく。)社会になるか、予測できる気がする。ただ、現在の天皇(今上天皇)夫妻は、前天皇(現上皇)夫妻にくらべて、「象徴天皇はいかにあるべきか」の意識が未成熟である感じがあるが、前の天皇も年齢とともに人間的成熟をしていったと思うので、さほど心配はしていない。秋篠宮夫妻などは、その点で「皇室の人間はいかにあるべきか」の意識が低いように思える。それが眞子様騒動で露呈した感じだ。
まあ、江戸時代までの庶民にとって天皇や皇室はほとんど無縁の存在だったわけで、天皇という存在が本格的に「国家統合の象徴」になったのは明治維新以降だろう。そういう意味では、天皇という存在がいなくなっても大きな影響は無い、という考え方も可能だろうが、日本の文化の歴史の根本存在を自ら消し去ることは愚劣だと私は思っている。その点では、三島由紀夫ではないが、「文化防衛論」の根本である天皇という存在が消滅すれば、日本という国の歴史と伝統は消え、ただ金儲けと目先の快楽と利益しか頭に無い野卑な小国が生まれるだけだろう。つまり、日本維新の会から「大統領」が生まれ、竹中平蔵が財政実権を握ったような社会だ。


(以下引用)

>アメリカの敵はロシアじゃない。国内外で飼い続けてきた、ISみたいなメンタリティーの人々こそ敵。
そのISみたいなメンタリティーの人々ばかりなのが、天皇家とその信者。
そういう意味で、天皇は、アメリカの「民主主義」と「国家の存亡を損ねる」公敵になりつつある。
なんせ、天皇とその信者は、最初から「日本人を守る義務・責務」もなく、売国だけしかできないからね。
何故に「天皇に日本の統治の責務」が無いのか。
一つは「古代から天皇が政治・軍事で脆弱で、全国土を統一できなかった」のが大きい。
国土の統一ができたのは、太閤さん・家康だし。
その前の「日本の統治の理由」は神話と「圧倒的な文化力とそれにも由来する軍事力」で、なんにも「日本の庶民」には理由も恩恵はなかったし、日本の庶民を養う・食わせる活動も寡聞にして聞いたことが無い。
なんせ高野聖や念仏聖がおらんかったら、インフラも整備がまともにできなかった時代が長かったしな。
で、統治の理由は、さておいて「天皇って偉いから統治する」ってその「偉さ」が、神話だけでまったく理由がない。
それを明治になって「天皇が偉いから全国民を戦争に狩り出せる」て、では天皇は一体に国民に何をしてくれるの?ってが無い。
まさに「古代から延々と続くジャイアン集団」が天皇なのである。
そんなものが、「日本の元首・統治者・象徴」で、「そもそも、日本人を守ることなどしない」のだから、
当然に、明治以降は、天皇家とその軍隊やその財閥に日本人が殺され続けてきたわけだよね。
アメリカも「民主主義の敵」が、天皇。
韓国も「民族の仇」が、天皇
中国も「祖国の敵」が、天皇
日本人も、「父祖を裏切った売国奴で仇敵」が、天皇
なら天皇廃止か天皇家絶滅が、ベストチョイスってなるよね。

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新コロと戦争

「谷間の百合」さんの言葉だが、実に鋭いと思う。
私はウクライナ情勢と新コロ問題を結び付ける想像力が無かった。

もしコロナが本当に怖い伝染病ならそんなことを考える余裕はないはずです。

という指摘は実にもっともで、たとえば、第二次大戦中に強力な伝染病が流行っていたら、どの陣営も戦争どころではなかっただろう。軍隊というのは、感染症には極度に警戒するものだ。軍の中に感染症が大流行していたのでは軍事行動どころではないからだ。ところが、沖縄でのオミクロン流行は米軍基地から始まった。つまり、軍隊内部ではほとんどオミクロンを警戒していなかったわけだ。オミクロンが、いや、新コロ全体が「2類相当」の感染症ではない、ということが軍の上層部には明白に分かっていたからだろう。
米英の新コロ感染状況がマスコミで報道されるようなものだったなら、ロシアとの戦争どころではない、というのはまさにその通りである。ワクチンを接種していても感染する、とされているのだから、防御方法は無いのである。マスクをして手洗いをして「三密」を避けて戦争するのかwww
つまり、新コロはすべて狂言、詐欺だというのは各国の上層部には明白な事実として認識されているわけだ。
DSは「新コロ」と「戦争挑発」という二兎を追ったために、新コロ詐欺の正体がばれたようだ。


(以下引用)


ロシアを何とか戦争に引き込みたい米英ですが、もしコロナが本当に怖い伝染病ならそんなことを考える余裕はないはずです。
だから、ウクライナ一色になっているのは、コロナがなんでもない証拠であり、ワクチンの弊害に気付き出した人々の目を逸らす意図もあるのだと思います。
ワクチンの次に戦争や食料危機が予定されていたのだと思います。

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蒸気機関の復権はあるか

原発が一種の「蒸気機関」であることは知られているが、蒸気自動車や蒸気機関車の復興も、あるいはあるかもしれない、という妄想である。私は「パンク」という言葉の意味がよく分からないが、「スチームパンク」と呼ばれる「異世界未来社会」フィクションを想像するのは面白そうだ。下の記述に出て来る「外燃機関」というのは、実に上手く考えたシステムだなあ、と思う。

歴史上初めて時速200km/hを超えたのは蒸気自動車だった

という事実も、面白い。

(以下引用)


2009年8月26日にアメリカ合衆国エドワーズ空軍基地で239 km/hの蒸気自動車による速度記録を樹立した[13][14]

将来[編集]

オイルショックの時、外燃機関の特徴である燃料の選択肢が広いという特徴が着目され一部で開発が進められたが実用化には至らなかった。


また濃度差エンジン(発生した蒸気をリチウム塩に吸収させることにより潜熱を吐き出す作用を応用)の開発も一部で進められたが実験段階で終わった。


また、旧ソ連末期にも開発が進められたが実用化には至らなかった。しかし、20世紀初頭では蒸気自動車の性能が当時の内燃機関式自動車に遜色なかった(歴史上初めて時速200km/hを超えたのは蒸気自動車だった)。瞬間湯沸し式ボイラーによる起動時間の短縮、低速時のトルクが大きく変速機を要しない構造、大気汚染物質が少ない、静粛性に優れる、燃料の多様性等、技術革新によってそれらの長所を引き出すことができれば再び公道を走る日が来るかもしれない。

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日本人は「権威」も「権力」も嫌いな民族か

「in deep」記事の後半だが、非常に面白い統計が書かれている。
私自身は権力の可視的な獰猛な力も、権威の心理的拘束力も「はっきりと認識する必要がある」と考える者だし、権威と権力は社会秩序の維持にはある程度必要だ(私は「アナーキズム」はまったく認めないし、人類の文化の積み重ねとしての伝統を尊重すべきだという「保守主義者」である。)と考えているが、日本人の本来的性質として「権威も権力も大嫌い」というものがあるなら、それは非常に健全だと思う。つまり、それは権威や権力を「疑う」という健全さであり、その健全さを失った時に、日本は先の大戦時のような「全体主義国家」になったのである。その痛烈な不幸の経験から、日本人の権威・権力嫌いの意識は高まり、それがまた「共産主義」や「社会主義」への疑惑や感覚的反感にもつながっているのだろう。
だが、それと同時に日本人の国民性として「気概の無さ」というものもある。つまり、「長い物には巻かれろ」「泣く子と地頭には勝てぬ」という敗北主義だ。その敗北主義と、論理的批判能力の低さが安倍政権をあれほど長く続かせてしまったのである。また、ある権力や権威を否定することが、単に他の権威や権力への無反省な依拠によっている場合も多いだろう。
この問題はいずれ再考してみたい。
皮肉な言い方をすれば、日本人は「他人の権威・権力は大嫌い」だが、「自分が権威・権力を持つのは大好き」であるだけという可能性も高いだろうwww それが「なろう小説」の書き手があきれるほど多く、読者も多い理由なのではないか。「俺ツエー」とは、つまり、自分自身が権威・権力の持主になること以外の何物でもないのだから。

(以下引用)


ここから、ひとつの統計をご紹介します。


それを見るだけで、日本人は突出して他の国の人々とちがう部分を持つことが、ハッキリします。


実は、私は以前この統計を見て、とても感動しまして、「いつかご紹介したい」と思い続けていたのです。


しかし、それを単独でご紹介しても、この統計の意味がもつ「パワー」がわかりにくいなと思っていました。


今回のアメリカのブログ記事を見まして、


「ここだ」


と思った次第です。


何の統計かといいますと、「世界価値観調査」というものがありまして、これは Wikipedia の説明では以下のようなものです。

世界価値観調査 - Wikipedia

世界価値観調査(World Values Survey)は世界の異なる国の人々の社会文化的、道徳的、宗教的、政治的価値観を調査するため、社会科学者によって現在行われている国際プロジェクトである。


その 2010年版の調査項目の中に、


「権威や権力が今より尊重される将来が来ることを《良いこと》と考えますか?」


という質問項目があるのです。


つまり、現状の社会より、さらに「権威」と「権力」が増大する社会になってほしいかどうかという質問です。


これはですね、数字ではなく、ウェブサイトにありました「グラフ」で見ていただくのがいいかと思います。


日本があまりにも突出していることが「見える」ものです。


60カ国に対しておこなった大調査ですので、グラフがちょっと大きいですが、一番上を見ればいいだけですから。



社会実情データ図録


このダントツぶりは、すごいと思いませんか?


日本は、「権威や権力が今より尊重される将来が来ること」について、


・良いと思う人 → 4.7 %
・悪いと思う人 → 76.1 %


という、他のどんな国とも比較にならないほど、「権威と権力が嫌い」なのです。


2位は、「スウェーデンの憂鬱」について書きましたこちらの記事で取り上げさせていただきましたスウェーデンですが、それでも、


・良いと思う人 → 22.5 %
・悪いと思う人 → 50.2 %


と比較にならない差です。


その後に、台湾、韓国と続きますが、日本とはあまりにも数値がちがいます。


いくつかの国をピックアップしますと、以下のようになっています。


「権威や権力が今より尊重される将来が来ること」についての考えの比率


アメリカ
・良いと思う人 → 55.2 %
・悪いと思う人 → 7.1 %


ロシア
・良いと思う人 → 56.9 %
・悪いと思う人 → 3.5 %


ブラジル
・良いと思う人 → 76.4 %
・悪いと思う人 → 6.3 %


これらの数値を見た後、日本の数値を見ますと、改めて驚きます。


日本
・良いと思う人 → 4.7 %
・悪いと思う人 → 76.1 %


とにかく、地球の全人類の中で、日本人は異常なほど「権威が嫌い」なのです。


それが本当のところのようなのです。


しかし、それが本来なのに、現実の社会や生活がそうなっていない。


だから、精神もシステムも知性もおかしくなる。


昨日、テレビ朝日の報道で以下のようなものがありました。

「国や社会を変えられる」と思う若者は5人に1人

テレビ朝日 2019/12/03


「自分で国や社会を変えられる」と思う日本の若者は5人に1人しかおらず、国や社会に対する意識の低さが浮き彫りになりました。


日本財団が日本やアメリカ、イギリス、中国、韓国やインドなど9カ国の17歳から19歳、それぞれ1000人を対象にした調査によりますと、「自分で国や社会を変えられる」と考える日本の若者は18.3%で、残り8カ国で最も低い韓国の半数以下となっています。


また、「将来の夢を持っている」「国に解決したい社会課題がある」という質問への回答も他国と比べて30%近く低い数字でした。さらに、「自分の国の将来についてどう思うか」という質問に「良くなる」と答えた日本の若者は9.6%で、9カ国中最低となり、トップの中国の10分の1にとどまりました。


どうして、こういうことになったのかということもまた、先ほどの統計からわかるのです。


すなわち、


「本来の日本人の脂質」(脂質じゃねーだろ)


もとい、


「本来の日本人の歯質」(いい加減にしろ)


渋々ながら、きちんと書きますと(渋々かよ)、日本の若者たちが絶望しているのは、


「自分たちの中にある《本来の日本人の資質》と、実際の日本の社会のシステムの間に軋轢がありすぎる」


からです。


第二次大戦後に西洋人主導で進められた現在の日本社会のスタイルは、私たちに合っていない。


権威と権力が大っ嫌いな私たちには合っていない。


少なくとも、戦前は「権威と権力が大っ嫌い」という考え方に則って日本人が生きていたことは、渡辺京二さんの『逝きし世の面影』などにも数多く出てきます。


たとえば、19世紀には西洋では「権威の頂点」だった「宗教」というものに対しても、日本人は以下のようなものでした。

渡辺京二著『逝きし世の面影』より

1871年に来日したヒューブナーはこのように記した。「私はこの国(日本)の有力者たちに信仰を持っているかどうか幾度も尋ねてみた。するといつも判で押したように、彼らは笑いながら、そんなことは馬鹿らしいと答えるのだ」。


バードは1878(明治11)年の東北地方縦断の際、久保田(現秋田)の師範学校を見学したが、校長と教頭に対して生徒たちが宗教について教えられているかどうか尋ねると、二人は「あからさまな軽蔑を示して笑った」。


「われわれには宗教はありません。あなたがた教養のおありの方々は、宗教は偽りだとご存じのはずです」というのが教頭の答だった。


リンダウは、「宗教に関しては、日本人は私の出会った中で最も無関心な民族である」と言う。日本には数多くの寺社があるにもかかわらずそうなのである。


日本では僧侶は「いかなる尊敬も受けていない」。


仏教と神道の区別もはっきりしない。民衆は「宗派の区別なく、通りすがりに入った寺院のどこでも祈りを捧げる」。しかし彼らは信仰からそうするのではなく、神聖とされる場所への礼儀としてそうしているのである。


何に対しても、権威には、この態度だったと思います。


このことを含めて、日本の精神的価値観の崩壊の歴史について、以下の記事で取りあげたことがあります。


「日本人の精神的崩壊は6世紀に始まり今完成しつつある」 : 宗教的信念はうつ病からの保護効果を持つという医学的研究から思う現代日本に根付く「病の構図」



いずれにしても、先ほどの権威に関しての統計は、


「私たち日本人がいかに他の民族とちがうか」


ということを強く示していることはおわかりになると思います。


ちがいすぎるほどちがうのです。


大事なことは「どちらがすぐれている」とか「すぐれていない」とかの「比較の問題ではない」ということで、これが最も大事なことです。


なぜなら「比較」というのは「同じ概念同士の延長線上にあるもの」だからです。


そうではなく、ちがうのです。


キュウリとコペンハーゲンを比較することができないように、まったくの「異物」は比較できません。


前回の以下の記事で、過去のメルマガから抜粋しましたけれど、そこに書いていることとも同じことです。


本来の日本人はちがいすぎる。



逆にいえば、先ほどの権威に対しての調査の結果は、他の国の人々から見れば「異常」にうつっていると思います。


得体のしれない民族。


わけのわからない民族。


エイリアンのような民族。


サルを食べる民族(今は食べないって)。


そう思われることもまたいいと思うのです。


それが本来の日本人なのですから。

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