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沖縄はすでにオミクロンピークアウトか

文中の「発症間隔」は「発症期間」の間違いではないかと思う。「発症間隔」では、発症して治まって、また発症するということにならないか?
それはともかく、オミクロンの致死率がインフルエンザ以下というのは明らかになったようで、慶賀の至りである。オミクロン雑魚説派の勝利かwww 
致死率より死者数が問題だという考え(感染者が多ければ致死率は低くても死者数は多くなる、という考え)もあるが、死者数も日本ではさほどでもないだろう。そもそもウィルスはワクチンやマスクでは防げないことはほとんど明白であり、まあ、唾を飛ばして大声で喋るような人間に近づかなければいいだけだ。しかも喋るのが商売の政治家連中で発症した例は少ない。
通常の季節性インフルエンザより致死率の低いオミクロンを危険だ危険だと騒ぐのは、それで金儲けできる連中だけだろう。


(以下引用)


致死率はインフルエンザ以下 沖縄ピークアウトの要因は?


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植民地経営の危険性

別ブログに書いた文章だが、ここに書かれたことは、「第二次大戦後にアジア各国が植民地からの独立を果たしたこと」の重要な理由なのではないか。逆に言えば、宗主国が「植民地経営の危険性」をよく理解して、「傀儡政権による間接支配」に切り替えた理由だろう。

(以下自己引用)
「(英国人記者が見た)連合国戦勝史観の虚妄」という本は、日本の右翼的知識人の影響が強い印象だが、イギリス人が、日本の保守系言論人の言い分を「正当だ」と見たのには一定の根拠も当然あるだろう。
まあ、その主張の大筋は別として、その中に、(戦争開始直後は)イギリス軍は日本軍にまったく歯が立たなかった、と書いてあるのは事実だと言えるのではないか。そして、その理由を分析した人は見たことがないが、これは、「それが植民地での戦いだったからだ」と私は思う。
つまり、植民地に駐留できる軍隊の規模や兵士数や武器数には限界があるわけだ。しかも、イギリスは当時、アジア全体に広大な植民地を持っていた。で、植民地であるからには、その国の原住民はイギリスを嫌っていたわけである。ある意味、イギリスは「敵地で、少ない兵力で戦った」と言えるだろう。つまり、負けて当然であったわけである。賢明な指揮官(パーシヴァル将軍など)は、戦うこともなく降伏している。それを批判するのは、戦争で無駄に兵士を消耗することを平気でできる馬鹿と、兵力が無くても精神論で戦えると思うキチガイだけだろう。

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街灯の比喩

孔徳秋水氏のブログ記事の一節だが「街灯の比喩」が面白いので転載する。
もっとも、秋水氏自身も、街灯の下だけで探し物をしている時が多いように思えるww
株式投資とか新コロ問題とか。

(以下引用)「街頭」の誤字はそのままにしてある。


「見よう」としなければ、「見えてこない」ものはたくさんある。


 


 


しかし、彼らは「エビデンスがない」のひとことで、


 


自分の目の節穴ぶりと思考の貧弱を誤魔化すのである。


 


 


こういう態度は、欧米の、とくにキリスト教に多い。


 


初めから結論が、ご都合主義で決まっているのである。


 


 


小坂井敏晶氏が、例として「いつも上げる話」をここで引用しておこう。


 


【ある夜、散歩をしていて、街頭の下で探し物をする人に出会う話】


 


カギを落としたので家に入れずに困っている人がいた。


 


いっしょに探すが、みつからない。


 


「この近くで落としたのは確かなのですか?」と聞いてみる。


 


「カギを落としたのは他の場所なのですが、そこは暗くて何も見えません。


 


だから、街頭の近くの明るい場所で探しているのです」


 


 


小坂井氏は、軽く解説している。


 


「街灯の光」は「常識」の喩だ。


 


我々は探すべきところを探さずに馴れた思考枠に捉われている。


 


この明りの罠に気づき、思考回路の外に出よう。


 


 


さらには、論理自体の矛盾があるのに、


 


欧米キリスト教信者や経済学者は考えを改めない。


 


 


いやいや、日本人にも似たような連中は少なくない。


 


とくに、マスコミに登場する手合いは、疑ってかかるべきある。


 


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この世から風邪やインフルエンザを無くすのは不可能

「謎」でも何でもなく、「高齢者は風邪でもインフルエンザでも致命的になる可能性が高い」という当たり前の話なのだが、それを「オミクロン怖い」に結びつける愚が全国的に広がるのではないか。
年寄りは、自分で気をつければいいだけの話だ。で、風邪やインフルエンザにかかったら致命傷になりかねない、という意識を持つべきである。ついでに言えば、「転倒骨折」から寝たきりになる、というのもよくある話らしい。これらは「自己防衛」、あえて言えば、最近不評な言葉だが「自己責任」の問題であり、家族もそれ(老人の風邪や転倒事故)への注意をすべきだろう。

(夢人追記)「世に倦む日々」氏の「新コロはインフルエンザではない」論である。要は「新コロには治療薬が無い(従来のインフルエンザ治療薬が新コロには効かない)からインフルエンザではない」という主張のようだ。タミフルがインフルエンザに効くかどうかも疑問だし、はっきりと覚えていないが、危険な副作用のため使用禁止になったのではないか? 風邪薬は基本的に「対症療法」つまり、症状を抑えるものであって、風邪そのものを治すものではないだろう。まあ、葛根湯などの漢方薬のほうが「体温を上げることで免疫力を高める」という点で「風邪そのものを治す」効果がありそうだ。常に人々の周囲に存在する細菌やウィルス(これが本当に実在するかどうかを疑う意見もある)をすべて消滅させるのは不可能であり、本気でそれをやればそれこそ麹菌などまでも消滅させるだろう。もちろん、人間そのものが常在菌で守られている面もあるのである。

橋下徹や安倍晋三は、コロナはインフルエンザと同じだから感染法上の分類を5類にせよと喚いている。この主張が昨年からずっとマスコミで刷り込まれ、正論のような扱いで有力な政治論調になっている。NHKでもそのプロパガンダが歯止めなく拡散されている。誰も正面から批判しない。小池晃は、今年に入って報道1930のコロナ特集回に二度出演したが、5類に変えろというネオリベ政策に対して反駁と糾弾の論陣を張らず、1/31の放送ではむしろ納得して容認するような姿勢を見せていた。我慢できない。この主張には虚構と陥穽がある。われわれはトリックに騙されている。

インフルエンザには検査と診断があるではないか。タミフルがあり、ワクチン予防もあるではないか。騙されるな。インフルエンザはコロナと同じではないのである。発熱した、咳が出る、インフルエンザに罹ったかもしれないと思ったとき、人は健康保険証を持って内科医に受診に行く。そこで検査を受け、陽性なら治療薬を処方される。風邪なら抗生物質をもらって帰る。医療を受けられる。橋下徹や黒岩祐治のコロナ対策、それが現実に施策発動された今回の厚労省の通達はそうではない。医療の提供はしないから自己責任で治せと言っている。



(以下「阿修羅」より引用)

オミクロン株ピークアウトの沖縄で入院増加が続くナゾ…全国で深刻事態の可能性大(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/22/senkyo285/msg/409.html
投稿者 赤かぶ 日時 2022 年 2 月 04 日 22:50:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 




オミクロン株ピークアウトの沖縄で入院増加が続くナゾ…全国で深刻事態の可能性大
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/300911
2022/02/04 日刊ゲンダイ


沖縄県の感染者数の減少傾向は顕著だが…(玉城デニー沖縄県知事)/(C)日刊ゲンダイ

 3日の新型コロナの新規感染者数はとうとう10万人を超えた。ピークが見通せない中、いち早くオミクロン株が流行した沖縄は新規感染者数の減少傾向が顕著となる一方、入院患者と施設療養者はいまだ増え続けている。ピークアウトで安心はできない。全国でも同じことが起こる可能性が高い。

 ◇  ◇  ◇

 沖縄では昨年末、在沖米軍基地のクラスターから市中感染が拡大した。新規感染者数は元日の52人から7日には1400人を突破。その後、15日の1829人をピークに減少に転じ、3日は652人で10日連続、前週の同じ曜日を下回った。

 ところが、感染者数がピークアウトしても入院患者と施設療養者数は増加傾向が続いている。感染者数が過去最多だった15日の入院、施設療養者は688人だったが、3日は883人。3割近くも増えている。県に聞いた。

「沖縄では当初、入院リスクが低い若者の感染が中心でしたが、だんだん高齢者に広がっていきました。高齢者の場合、入院が必要なケースが少なくないため、入院患者が増えています」(感染症対策課)

 2日の厚労省専門家組織「アドバイザリーボード」でも、沖縄の高齢者の感染増に伴う入院患者の増加傾向が取り上げられた。脇田座長は「今後は他の地域でも同様の傾向が見られる可能性がある」と警告している。

若年層から高齢者に感染広がる


3日、国立国際医療研究センター病院にコロナ患者を搬送する医療関係者(C)共同通信社

 西武学園医学技術専門学校東京校校長の中原英臣氏(感染症学)が言う。

「オミクロン株は当初、若年層の感染が多かった。入院は少なく、重症、死亡例もまれでした。そのため、『軽症がほとんど』との楽観論が広がった面があります。ところが、ここへきて、若年層から高齢者に感染が広がり、全国的にも入院患者、重症者、死者が急増しています」

 3日発表された全国の重症者数は911人。900人を上回るのは4カ月ぶりだ。死者は90人確認され、第5波の最多(89人)を上回った。

 感染者数がピークアウトした沖縄はそのうち入院患者も減少に転じるとみられる。しかし、アドバイザリーボードは「全国的にピークがいつ来るかは見通せない」との分析結果を示している。全国の重症者と死者はしばらく、増え続ける可能性が高い。

 オミクロン株は「弱毒化」が指摘されているが、なぜ、重症者と死者がこんなに増えるのか。

「これまでの新型コロナと異なり、オミクロン株は肺炎の症状は少なく、弱毒化しているのは事実です。ただし、基礎疾患がある高齢者が感染すると危険です。感染した時は軽症でも、その後、持病が悪化し、重症化したり、死に至るケースが起きている。医療が逼迫し、適時・適切な治療が行き届かなければ、さらに深刻な事態も起こり得る。宿泊施設をもっと活用し、今からでも臨時医療施設を増設し、ピークアウト後の医療体制を整えるべきです」(中原英臣氏)

 沖縄の先取り事例を参考にピークアウト後に備える必要がある。
 


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馬鹿国民帝国日本は滅亡するか

「バカ国民帝国日本の滅亡」から一部転載。
まあ、孔徳秋水氏は時々鋭い発言をするのだが、「金融資本主義」の支持者なので、その発言の大部分はクズであるwww 眉に唾をつけて読むと、得るものもある。これは多くのブログがそうである。信頼できると思っていた書き手が、いつの間にか変節していた、ということは多い。とりあえず、記事と広告を併存させているブログのほとんどは、私はあまり信じない。もちろん、性格が偏屈なため、あるいは頭が悪いため、あるいは無知なために、正直に発言してはいても、その発言の中にあまり感心できないものが混ざることはよくあることで、私など、その代表だろうww 
白人の毛唐呼ばわりなど私はよくやるが、ポリコレ的には非難轟々だろう。私は江戸幕府や幕藩体制の批判者だが、「鎖国政策」は日本の平和と温和な国民性を守ったと思っている。江戸時代の人間は西洋人を毛唐と読んで警戒していたのである。その警戒は正しかった。見かけの問題だけでなく、異民族(異文化の人間)は精神性が異なるのだ。今の日本の大富豪(大企業所有者)の異常に利己的な精神性は、日本人の伝統的精神(倫理性を利益や富裕さより優先する)ではない。見かけは日本人でも、精神が違うわけだ。疑うなら、江戸末期や明治初期の日本人庶民の精神の素晴らしさに感嘆した訪日外国人たちの多くの手記を見ればいい。
下の記事に関しては、ほぼ同感である。毛唐の「精神的奴隷」となって貢物を続けた結果が、今の貧国日本である。その次は憲法改悪で自衛隊の国軍化と戦争参加だろう。まあ、そういう馬鹿国民帝国は滅亡しても仕方がないだろう。
要するに、今の日本人にもっとも欠けているのは「正しい批判精神」である。その「批判」が大マスコミ(表マスコミ・通称マスゴミ)や体制の犬(これは右だけでなく左側もそうである場合が多い)には「陰謀論」と呼ばれる。

(以下引用)


明治のころは留学しても批判的に学んで、ケトウの文化に染まることは少なかったが、


 


近頃は、猫も杓子も留学して、ケトウの文化を鵜呑みにして帰ってくる。


 


だから、大学教授や政治家の質が、とんでもなく落ちている。


 


 


優秀な人間は、そもそも日本に帰ってこない。


 


そんな帰ってきた落ちこぼれを拾っていれば、30年でも50年でも「失われる」だろう。


 


 


明治のころは帰国しても、西洋かぶれにならず、


 


この程度なら日本の方がもっとすばらしいと確信して、ポチにならない者が多かった。


 


 


いまや、みんなポチではないか。


 


 


もっといえば、アメリカだのフランスだののスパイではないか。


 


 


だから、伊藤元重あたりも読売で米英に都合のよいことをのたまうのだ。


 


「グリーンファイナンス」や「カーボンプライシス」が「市場メカニズムの活用」などと言っているが…


 


それは、単なる「アメとムチ」というやつであろう。


 


 


だいたい二酸化炭素が増えて人類が滅びるなんてことがあるだろうか?


 


原発が増えて人類が滅びるというほうが現実味があると思うのだが、


 


原発はクリーンエネルギーだというのだ。


 


 


こんなものの、どこが「科学」なのか?


 


 


しかも、個人の「脱炭素」行動を「見える化」するんだと環境省が言っている。


 


オイオイ、中国よりヤバイじゃないか、日本は!!


 


 


カネで個人を追跡し、


 


位置情報や病歴で個人を追跡し、


 


さらにCO2で個人を追跡するのだ。


 


もう、息をすることもできないよな!


 


 


そのうち、ボタン一つで個人をいつでもどこでも抹殺できるようになるだろう。


 


「死因」もいくらでも捏造できるからね~


 


 


コミュニズムの社会では、「自分のもの」がひとつもなくなる。


 


それは、「みんなのもの」であり、「国家のもの」なのである。


 


 


「格差が嫌だ」という人たちが落ちていく無間地獄は、もうすぐそこにまで迫ってきている。


 


 


話を戻すが…外国との付き合いもよしあしで、


 


外国かぶれが徒党を組んで権力を私物化するのが「世の常」なのである。


 


なかには、公然と国益より外国の利益を優先する工作員が権力中枢を跋扈するようになる。


 


 


だから、日本は時々「鎖国」をして、独自の文化を育ててきた。


 


遣唐使とかが中止されるのも、そういう事情が背後にあったのだ。


 


 


外国とつるむ奴が国を滅ぼすとは『韓非子』にも書いてある。


 


そう…


 


「国際化」は、やりすぎたのだ。


 


自分を見失うようでは、もはや「国際化」も有害でしかない。


 


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「ねじの回転」の「殺風景な解決篇」

別ブログに試しに書いてみたものだが、一応の「解決篇」にはなっているかと思うので、ここにも載せておく。本当は、「幽霊」の男女の死のいきさつとその隠蔽のほうがはるかに推理小説としては面白くなるはずだが、私は「人間ドラマ」を考えるのは苦手なので、やめておく。
まあ、とりあえず、「ねじの回転」は読み方次第で非常に面白い作品なので、お勧めしておく。

(以下自己引用)


ダグラスはそこで沈黙し、黙って赤い表紙のノートを閉じた。
「それで話は終わりかい?」
わたしは、たぶんそうだろうと思いながら聞いてみた。
「そうだ。彼女のノートはここで終わっている」
「では、その後、彼女がどうなったか、君は知らないんだな?」
ダグラスはまた黙り込んだが、やがて苦痛の色を顔に浮かべて言った。
「彼女は手紙一通で雇い主から解雇され、その屋敷を離れたらしい」
「マイルズの死についての責任は問われなかったのかい?」
「まあ、そうだ。死体には外傷は無かったから、心臓麻痺か何かだろうと診断されたという話だ」
「と言うと、君は彼女からその出来事について、いくらかは聞いていたのかい?」
「いや、それは彼女の死後に僕が少し調べたことだが、それ以上のことは知らない」
「まったく怖いお話ねえ。これまで聞いた怪談の中で一番怖かったわ」
その場にいたご婦人のひとりがいかにも怖がったような顔と声で言った。
「しかも、それが実話なんでしょう?」
もうひとりのご婦人が言った。
「まさか、幽霊が実在するはずはありませんわ」
もうひとりの、議論好きなところをこの集まりでしばしば見せていたご婦人が言った。
「だって、その『幽霊』を見たのは彼女ひとりなんでしょう?」
「だからこそ怖いんじゃない。自分にだけ幽霊が見えて、他の人には見えない。自分の言うことを誰にも信じてもらえない。こんな怖いことってある?」
「なるほど、それも一種の怪談ですな」
グリフィンが如才なく口を挟んだ。
「では、あなたは彼女が見た幽霊は何だったとお思いですか?」
私は議論好きなご婦人に言った。
「もちろん、彼女のヒステリーよ」
「要するに、彼女は幻覚を見たので、それは幽霊でも何でもなく、彼女の心が作り出したものだと?」
「決まってるわ。だって、そのノートに書いてあることは、すべて彼女の立場からしか書いていないじゃないですか。もしかしたら、彼女は自分が嘘をついているという意識も無しに、嘘を書いていたかもしれないでしょう。あら、ダグラスさん、御免なさい」
ダグラスは苦笑した。
「いや、かまいません。僕自身、そのノートを読んで、しばしばそうではないか、という疑問を持ちましたから。しかし、僕が会った彼女は誠実そのものの、嘘はつかない人でした」
「そこが問題なんだろうな。世の中には、自分が嘘をついているという意識も無しに嘘をついてしまうことはあるもんだ」
グリフィンが言った。
「まあ、今となってはすべては闇の中だ。僕は、このノートを読んだことを後悔している」
「君と彼女の美しい思い出を汚したと?」
私はダグラスの沈鬱な顔を気遣って言った。
「過去を掘り返すことは、美しい湖の底の泥をかき回すこともあるようだ」
ダグラスはそう言って、窓の外に目をやった。
ダグラスが(まだ60代だったが)重い病にかかって亡くなったのは、それからわずか一年後だった。


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幸せの後ろ姿

私は演歌が嫌いなのだが、大衆歌謡は好きで、なぜ演歌が嫌いかというと、その「酒臭さ」「夜の匂い」が嫌いなのだろう。大衆歌謡というのは基本的に明るいものだ。というのは私の主観的な思想で、もちろん暗い大衆歌謡もたくさんあるが、それらと「演歌」は別物の気がする。
まあ、フォークソングだろうがジャズだろうが、酒臭い唄、夜の匂いのする歌はあるので、「場末の酒場の匂い」が嫌いだ、と言い換えておこう。たとえば、夜の歌でも「スターダスト」などには酒の匂いも酒場の匂いもまったく無い。酒の歌でもオペラ「椿姫」の「乾杯の歌」などは好きなのだから、日本の演歌独特の湿った情感が嫌いなのかもしれない。あるいは「酒と薔薇の日々」などは、私のもっとも好きな歌のひとつだ。ここには日本の場末の酒場のトイレ臭さが無い。なお、シャンソンには、「アコーディオン弾き」のように場末の酒場の匂いを感じる歌も少しあるようだが、なぜか「トイレ臭さ」を感じないのは、演歌と異なる曲調のせいだろう。
と言うのは前置きで、私が書こうとしているのは、寝起きの時からなぜか頭の片隅にあった「ウナセラディ東京」という演歌のことである。まあ、演歌に分類できると思うが、それを酒場歌とするのは適切かどうか知らない。私のイメージでは、酒場の女の失恋を歌った歌なのである。なお、「ウナセラディ」がどういう意味なのか私は知らないし、調べる気もない。何かに「うなされている」のではなさそうだwww
で、本論だが、この中に「街はいつでも、後ろ姿の幸せばかり」という一節がある。最初に言えば、この「街」を「町」と書いてはいけないだろう。「町」では、その辺のおばさんが買い物籠を下げて歩いている風景を想像してしまう。この歌の曲調からして、これはそういう町ではなく、東京の、しかも繁華街だと推定するのが妥当だろう。
とすると、この歌の女主人公が見ている街は、六本木とか渋谷といった「夜の繁華街」ではないか、と推定するのが自然だと思える。まあ、格が下がるが、新宿や池袋でもいい。(私は昔のイメージで書いているが、現在でもさほど変わらないだろう。)
そういう「夜の繁華街」で彼女が見ているのは、「幸せそうなカップル」の姿である。それを彼女は自分を拒絶する「幸せ」の後ろ姿だと見るわけだ。
しかし、立ち止まって考えると、「不幸せな人間」が果たして繁華街に出るものだろうか。出れば、当然、孤独感や孤立感にさいなまれるだろう。まあ、歌の主人公の女性は、夜の勤めにでも出る途中で、そういう幸せそうなカップルを見るしかないのかもしれないが、基本的に「繁華街」というのは幸せな人々の街であり、つまり彼女の嘆きは自業自得だ、ということを私は言っているわけだ。
まあ、恋をしたら失恋も覚悟する必要がある。打算のつきあいだけでなく、恋ができるだけでも、人間が上等だ、と言えるかもしれない。もっとも、たいていの恋は自分自身が作り上げた幻想へのピグマリオン的な恋だ、と私自身は思っているのだが、盲目になることこそ恋の醍醐味だ、という考えも可能である。恋をまったく知らないのと失恋経験と、どちらがマシだろうか。
という、誰のためにもならないくだらない考察だが、些末事を考察するのは私の趣味であり、考えた以上は書くのが私の習慣である。


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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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