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天皇の沈黙

私は新聞テレビを見ないので私の誤解かもしれないが、ウクライナ戦争が始まってから天皇は一言も発言していないように思う。これは実に賢明なのではないか。ウクライナ戦争は他国の事であり、日本人がそれについてあれこれ言う資格など無い。いや、言ってもいいが、所詮は不確実な報道に基づいた無責任な発言以外になりようがない。とすれば、政治家や責任ある立場の人間はこの問題に関しては沈黙することが一番誠実な行為だ、となるだろう。

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「意志と表象としての世界」の考察(3)

·        21節 身体を介して知られている意志は、全自然の内奥の本質を認識する鍵である。意志は物自体であり、盲目的に作用するすべての自然力のうちに現象する。


·        22節 従来意志という概念は力という概念に包括されていたが、 われわれはこれを逆にして、自然の中のあらゆる力を意志と考える。


·        23節 意志は現象の形式から自由である。意志は動物の本能、植物の運動、無機的自然界のあらゆる力のうちに盲目的に活動している。意志の活動に動機や認識は必要ではない。


·        24節 どんなに究明しても自然の根源力は「隠れた特性」として残り、究明不可能である。しかしわれわれの哲学はこの根源力のうちに人間や動物の意志と同じものを類推する。スピノザ、アウグスティヌス、オイラーの自然観。


·        25節 意志はいかなる微小な個物の中にも分割されずに全体として存在している。小さな一個物の研究を通じ宇宙全体を知ることができる。意志の客観化の段階はプラトンのイデアにあたる。


·        26節 合法則的な無機的自然界から、法則を欠いた人間の個性に至るまで、意志の客観化には段階がある。自然の根源諸力が発動する仕方と条件は、自然法則のうちに言いつくされるが、根源諸力そのものは、原因と結果の鎖の外にある。マルブランシュの機会因説。


·        27節 元来意志は一つであるから、意志の現象と現象の間にも親和性や同族性が認められる。しかし意志は高い客観化を目指して努力するので、現象界はいたるところ意志が低位のイデアを征服し、物質を奪取しようとする闘争の場となる。有機体は半ばは死んでいるとするヤーコブ・ベーメの説。認識は動物において個体保存の道具として現われる。認識の出現とともに表象としての世界が現われ、本能の確実性は休止し、人間における理性の出現とともに、この確実性は完全に失われる。


·        28節 意志の現象は段階系列をなし、「自然の合意」によって 無意識のうちに相互に一致し合う合目的性をそなえている。叡智的性格と経験的性格からの類比。意志は時間の規定の外にあるから、時間的に早いイデアが後から出現する遅いイデアに自分を合わせるという自然の先慮さえ成り立つ。自然の合目的性を証明する昆虫や動物の本能の実例。


·        29節 意志はいかなる目標も限界もない。 意志は終わるところを知らぬ努力である。


·        世界は、主観によって制約された客観としてはわたしの表象である。しかしそればかりでなく、ショーペンハウアーは、世界はわたしの意志であるともいう。われわれ自身は、表象においては身体の動作として知られているが、そのものが自己意識においては生きんとする意志 (Wille zum Leben) として知られる。いわば身体は表象において表現されたところの意志である。ここで独我論を避けるには、自己から類推 (analogie) して、世界の他の本質も意志とみなすべきであるとして、「あらゆる表象、すなわちあらゆる客観は現象である。しかしひとり意志のみは物自体である」とショーペンハウアーは説く。


·        こうして把握された意志は盲目であって、最終の目標を有してはおらず、その努力には完成はないものとされる。そのような意志においては、障害を克服して得られた満足は一時的であって、しかも無為は退屈にすぎないのであり、あくまでも積極的なのは欠乏であるといわれる。


第三巻「表象としての世界の第二考察」[編集]


~根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトンのイデア、芸術の客観~


·        30節 意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。 個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、たえず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、いかなる変化も知らない。



(考察)

第21節 これは、次の22節での「意志の定義」によって自動的に成立する。「物自体」とは、(私はカントの定義を知らないので、言葉通りに解釈すれば)おそらく、人間による認識を経由しない、物そのもの、まさに「物自体」だろうと思われる。つまり、認識の誤謬を免れる代わり、人間には完全な認識は不可能であるわけだ。
第22節 これは定義なので自動的に成立。読者は筆者の定義が妥当か否かを後の論証で判断すればいい。つまり、論者自身はたとえば人間とは悪党だ、と定義しても、「恩知らずだ」と定義してもいい。
第23節 22節での定義により自動的に成立。
第24節 人間の「意志」と、筆者の言う「意志」を同一視できるかどうか疑問。しかし、意志が盲目である、としたら、人間の「自由意志」もまた盲目であり、信頼できないものとなる。実際、我々が「意志する」のは、それが自分で意志したのか、最初からそう意志するように仕組まれていたのか、我々自身には実は分からないのである。どこからその「意志」は生じたのか。その意志に我々は責任を持てるのか。我々に可能なのは目の前の「あれかこれか」に関して、その時の気分や感情で(あるいは自分では思考の結果と思う過程によって)決定するだけである。
第25節 前文「意志の分割や全体」については私には判断不能。その考察にどういう意義があるのかの判断も不能。中文、後文も判断不能。意志の客観化とプラトンのイデア論の関係は、私は無学なため判断不能。
第26節 この論は単純に、何かの存在そのものと、それの機能は別物だ、と解釈していいのではないか。人間は飯を食うが、飯を食うために生まれたわけではない、とか手は物をつかむのに便利だが、自殺にも使えるとかwww マルブランシェ云々については私は知らない。
第27節 「意志は高い客観化をめざして努力する」というのは人間の話だろう。プラトンの「イデアの階位」というのがそれに当たるかと思う。近代の社会学者か何かが「欲望の段階」を主張したのが、この「イデアの階位」の焼き直しかと思う。後半部分は岸田秀の「人間は本能の壊れた動物である」説を想起させる。
第28節 「意志が時間の規定の外にある」というのはかなり疑問だが、意志というのを集合的存在と見ているのだろうか? そして、その意志に「無意識に相互に一致し合う合目的性」がある、というのは動物集団や人間集団については同意。ただし、その一致が無意識的なのは動物で、意識的なのが人間だろう。それを「意志は高い客観化をめざして努力する」と言っているのだろうか?
第29節 意志を「盲目の意志」と定義した以上、ここは当然の論である。

(・)で書かれた補説は、特に問題となる部分は無さそうである。ただし、「世界はわたしの意志である」はもっと説明が必要だろう。これは、「身体は主観と客観が併存し、おそらく重なっている場である」とした場合、世界認識もまた自分の主観から免れることは無く、その結果「世界はわたしの意志である」となるということではないか。つまり、この世界は我々が幻想として作っている場なのである。これは小説家などには馴染みやすい思想だろう。

第30節 これはプラトンのイデア論を知らないとどうしようもないので、ウィキペディアから探して、それを考察の代わりにする。

(ウィキペディアの記述より短く分かりやすく書いてある文章を引用する。)


プラトン哲学の中心は「イデア論」であり、プラトンは生涯イデア論を発展させました。イデアとは、「かたち」「形相」ともいわれ、人が知覚する事象は単なる仮の姿であり、真実の世界は非物質のイデアの世界であるとしました。


つまり、人間が感覚で捉える世界は常に変化し続けるが、精神が捉える普遍的な世界は、変化しない永遠の真理であるということです。


そして、イデアの世界には序列があり、低次のものからより純粋な抽象的イデアへと上昇するといい、その頂点を「善のイデア」としました。そのことでプラトンは精神を理性的なものへ上昇させなければならないと啓蒙したのです。



(30節の考察の続き)
ここは、自分の「盲目の意志」論とプラトンの「イデア論」を結び付けたために、論理が破綻しているように見える。そもそも、人間の理性や悟性を「盲目の意志」とした時点でかなり足を踏み外していると思う。盲目の意志と倫理は関係ないのであって、そこに階位は無い、とするべきだったのではないか。
おそらく、プラトンの「洞窟の比喩」が、自分の「世界は表象である」という説と非常に近似しているので、それと無関係な「イデア段階説」までうっかり採用したのだろう。


『国家』の中に書かれる「洞窟の中の囚人たち」の比喩は、哲学史上もっとも有名な比喩とされています。プラトンは、学ぼうとしない人々を「洞窟の奥に繋がれて、影絵しか見ることができない囚人」とソクラテスに例えさせます。


囚人たちは、洞窟の後方の壁しか見ることができないように縛られています。囚人の背後には火が灯され、その後ろにある通路に彫像や人形が運ばれてゆきます。これらの物体の影は、囚人たちの見ている壁に投影され、囚人たちはその影を実在だと認識します。


縄を解かれた囚人は、振り向いて人形そのものや火を目にし、そのとき洞窟からの上昇が始まります。解放された囚人は、光の世界に連れ出され、見慣れない世界に圧倒されますが、徐々に太陽そのものを見分けることができるようになります。これが善のイデアそのものの知であるとするのです。


この比喩は「常識」からの転換を示し、また、真実を認識するには段階を追わなければならず、「現実の世界は影絵である」ということを理解するには長い訓練が必要であることを示しています。

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家族愛と隣人愛(承前)


(考察)引用文のフォーマットの中に書き込んでしまったようで、右側が隠れそうだが、直し方が分からないのでそのまま載せる。



(考察)

ここに書かれた「道徳」は、その根底に「天皇主義」とでも言うような要素があることを除外すれば、まさ
に「天皇の子孫も臣民(国民)もともに守り従うべきところであり、これを現在と過去を通して誤謬はなく、これを国の内外に適用しても間違いはない」と私は思うのだが、引用1のコメントの言うような「オレが白と言ったら、黒であっても白とおもえという、人間性と真逆のゴロツキの教条、経典」であるのだろうか。そして教育勅語の「家族主義、家族と伝統を大事にすること」(私は「教育勅語」に書かれた道徳は単に家族だけを大事にしたり伝統だけを強調するものではないと思うが)は「悪」なのだろうか。コメント筆者の言う「人間愛(隣人愛)」から「家族愛」は除外されるのだろうか。
実は、自分と無関係な他人を愛するより家族を愛するほうが難しいのである。その証拠が、あらゆる他者への危害の中で、暴力や暴行、傷害事件はまったくの他人にではなく、家族への危害が圧倒的なのである。それは、家族というのは四六時中顔を合わせていて、その欠点や醜さを熟知しているからである。そして常に自分の行動に制約を加えるウザい存在だ。自分と無関係な他人への愛というのは、それに比べたら、野良猫を見て可愛いと思うようなものだ。つまり、いつでも切って捨てられるものなのだ。家族が、自分の好きなアイドルの悪口を言ったり、自分の収集物を捨てたりしたら、下手をしたら刃傷沙汰である。つまり、家族への愛情や道徳はすべての他者への愛情と道徳の出発点であり、厳しく自戒しないといつでも崩壊しかねないものなのである。




























































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家族愛と隣人愛

西田昌司が改憲論議の場で言った言葉が「阿修羅」で問題視されていて、私は西田昌司も改憲論も大嫌いだが、「阿修羅」での批判は「教育勅語」そのものに対するものが多く、そのほとんどは教育勅語を読んだことも無さそうなので、少し考察してみる。
なお、結論を先に言えば、私は「教育勅語」は時代的制約、つまり明治政府による天皇神格化という基本方針に沿って作られたものだという時代的制約があり、現代の視点では容認しがたい部分もあるとは思うが、それが「国民の道徳性」にひとつの指針を与え、教化したという「時代的長所」をこそ評価すべきだと思っている。下のコメントは、「教育勅語」を読んでおらず、頭から否定する姿勢で書かれたものと私には感じられる。
ふたつの引用の後で考察する。

(引用1「阿修羅」より)


14. 人間になりたい[1672] kGyK1ILJgsiC6IK9gqI 2022年3月30日 00:45:33 : AwxU2zxs6c US8xQlRtRXZ5WjY=[344]  報告

>日本の文化で一番大事なのは教育勅語に書いてある家族主義、家族と伝統を大事にすることだ。

自民党や低脳ネトウヨには、こういうことを言うバカが多く散見される。
だが、なぜ大事なのかを説明する人を見たことも聞いたこともない。
丸川珠代は、夫婦別姓選択制は家族の絆、一体感を強めるので、
地方議会に不当な圧力を加えてまで賛同した。
しかし、家族の絆、一体感が強いこと自体が、人間社会において良いことなのではない。
愛知県の住民投票で不正を働いた、維新の候補者は、家族ぐるみで犯罪に加担した。
これほど家族の絆、一体感の強い家族はいない。
人間社会において、正邪、善悪、公序良俗の基準は人間性である。
「家族主義」「愛国心」「嘘」「命の選別」などは、そのこと自体に良し悪しはない。
その行為が、人間性に裏打ちされていることによって、善きものになるのだ。
人間性とは、隣人愛であり、隣人愛とは、他者をおもいやり、公共に配慮すること。
社会的行動規範として隣人愛を受け入れ、行動する人のことを人間という。


教育勅語は、オレが白と言ったら、黒のものでも白とおもえという、
人間性と真逆のゴロツキの教条、経典である。
「家族主義、家族と伝統を大事にすること」自体に良し悪しはないが、
教育勅語の「家族主義、家族と伝統を大事にすること」は悪なのである。

(引用2)

原文 (漢字は常用漢字にあらため、現代かな遣いによるルビと句読点を付している。)

ちんおもフニうにこう皇宗こうそうくにはじムルコトむること宏遠こうえんとくツルコトつること深厚しんこうナリなり臣民しんみん克クよくちゅうニ克クによくこうおくちょうこころいつニシテにして世世厥ノ美ヲ済セルハよよそのびをなせるは此レ我カこれわが国体こくたいせい華ニシテかにしてきょういく淵源亦実えんげんまたじつここそんなんじ臣民しんみん父母ニふぼにこう兄弟けいていゆう夫婦ふうふあい和シわし朋友ほうゆうあいしんきょう倹己けんおのレヲ持シれをじし博愛はくあいしゅうおよホシぼしがくおさぎょうならもっテ智てちのう啓発けいはつとっ器ヲきをじょうじゅすすん公益こうえきひろせい務ヲむをひらつね国憲こっけんおもん国法こくほうしたが一旦緩いったんかんきゅうアレハ義あればぎ勇公ゆうこうほうもってんじょうきゅう皇運こううんヲ扶をふよくスヘシすべしかくごとキハきはひとちん忠良ちゅうりょう臣民しんみんタルノミナラスたるのみならず又以またもっなんじせんノ遺のいふうけんしょうスルニ足ランするにたらん
斯ノこのみちじつニ我カにわがこう皇宗こうそうノ遺のいくんニシテにして孫臣民そんしんみんともじゅんしゅスヘキすべきところこれヲ古をここんつうシテじてあやまラスらずこれちゅうがいほどこシテしてもとラスらずちんなんじ臣民しんみんとも拳拳服膺けんけんふくようシテして咸其徳みなそのとくいつニセンコトヲにせんことを庶幾こいねが
明治二十三年十月三十日
御名御璽

現代語訳(高橋陽一)
 天皇である私が思うのは、私の祖先である神々や歴代天皇が、この国を始めたのは広く遠いことであり、道徳を樹立したのは深く厚いことである。我が臣民は、よく忠であり、よく孝であり、皆が心を一つにして、代々その美風をつくりあげてきたことは、これは我が国体の華々しいところであり、教育の根源もまた実にここにあるのだ。汝ら臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友人は互いに信じあい、恭しく己を保ち、博愛をみんなに施し、学問を修め実業を習い、そうして知能を発達させ道徳性を完成させ、更に進んでは公共の利益を広めて世の中の事業を興し、常に国の憲法を尊重して国の法律に従い、非常事態のときには大義に勇気をふるって国家につくし、そうして天と地とともに無限に続く皇室の運命を翼賛すべきである。こうしたことは、ただ天皇である私の忠実で順良な臣民であるだけではなく、またそうして汝らの祖先の遺した美風を顕彰することにもなるであろう。
 ここに示した道徳は、実に私の祖先である神々や歴代天皇の遺した教訓であり、天皇の子孫も臣民もともに守り従うべきところであり、これを現在と過去を通して誤謬はなく、これを国の内外に適用しても間違いはない。天皇である私は、汝ら臣民とともにしっかりと体得して、みんなでその道徳を一つにすることを期待するものである。



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いつか聴いた歌

私はハリー・ジェームズオーケストラとヘレン・フォレストの歌が至高だと思っているので、他のヴァージョンは聞くこともしていない。この歌の持つノスタルジーは私を自分が経験してすらいない時の彼方に連れていく。

I've Heard That Song Before (Remastered Version)

I've Heard That Song Before

Sung by Frank Sinatra in the movie "Youth on Parade"
Charted at # 1 for 13 weeks in 1943

It seems to me I've heard that song before
It's from an old familiar score
I know it well, that melody
It's funny how a theme recalls a favorite dream
A dream that brought you so close to me

I know each word because I've heard that song before
Forever more's a memory
Please have them play it again
And I'll remember just when
I heard that lovely song before



Credits
Writer(s): Jule Styne, Sammy Cahn

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Deep purple

ロック・グループの話ではなく、古いジャズソングである。
ニノ・テンポとエイプリル・スチーブンス兄妹のデユエットで歌われたヴァージョンが私は好きである。邦題では「夢のディープ・パープル」となっているようだが、これは「紫色の夢」と訳すべきだろう。原題はただ「Deep purple」である。
through the mist of a memory you wander back to me」のフレーズが一番好きだ。「mist of a memory」が特にいい。


When the deep purple falls over sleepy garden walls
And the stars begin to flicker in the sky
Through the mist of a memory you wander back to me
Breathing my name with a sigh
In the still of the night once again I hold you tight
Though you're gone, your love lives on when moonlight beams
And as long as my heart will beat, lover we'll always meet
Here in my deep purple dreams
Here in my deep purple dreams

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藤村操のこと

参考までに、藤村操についてのウィキペディア記事を載せておく。
明治という時代のひとつの時代精神の象徴でもあったと思う。つまり、真剣そのもの、ということだ。今のように物事を斜めに見る時代とは空気が違う。

余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う[29]

という漱石の言葉は正解だと思う。ただし、ここで言う「美」は「行動の美」「生き方の美」である。と同時に、漱石の「生は人生の第一義である」という言葉も正しい。我々は生きるために生まれてきたのである。死は生の目的ではなく、単なる終止である。

(以下引用)前半省略

藤村操

華厳滝の自殺[編集]

木に彫られた巌頭之感
最期の地(華厳滝
「藤村操君絶命辞」の碑。青山霊園

1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪[6]。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され[7]、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された[8]


厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった[9]


墓所は東京都港区青山霊園


藤村がミズナラの木に記した遺書は、まもなく警察により削り取られたという(後に木も伐採)。それを撮影した写真があり、現在でも[いつ?]華厳滝でお土産として販売されている。[要出典]

遺書「巌頭之感」[編集]

藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。

巌頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

ホレーショとはシェイクスピアハムレット』の登場人物を指すとみられる(後述)。


「終に死を決するに至る」の箇所を「終に死を決す」としている資料もみられるが、写真のとおり誤りである。

自殺の原因[編集]

自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった[10]。 自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるもの[11]とする説に大別される。 藤村の恋愛の相手として4人の女性の名が挙がった。菊池大麓の娘である松子とその姉の多美(民)、馬島あい子とその姉の千代であるが、死後80年以上経って、藤村が自殺の直前に手紙とともに渡した本という物的証拠が出てきたため、恋の相手は馬島千代ということで落着している[12]朝日新聞(1986年7月1日)[13]によれば、5月22日の自殺直前、藤村は突然、馬島家を訪ね、千代に手紙と高山樗牛の『滝口入道』を手渡した。手紙には「傍線を惹いた箇所をよく読んで下さい」と書いてあり、本には藤村の書き込みがあった。千代に縁談があったので、藤村が千代を訪ねたことは秘密とされた。手紙と本も焼却されたと考えられていたが、千代が1982年に97歳で亡くなった後、子息の崎川範行(東京工業大学名誉教授)が遺品の中から『滝口入道』と手紙を見つけ、日本近代文学館に寄贈することになった[14]。 なお、「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している[15]

ホレーショの哲学[編集]

遺書にある「ホレーショの哲学」のホレーショは、シェイクスピアハムレット』の登場人物であろう(藤村は『ハムレット』を原文で読んでいた)。同作中でホレーショが哲学を語るわけではないが、ホレーショにハムレットが次のように語るシーンがある(第1幕、第5場、166-167行):There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy[16].(坪内逍遙訳:「此天地の間にはな、所謂哲学の思も及ばぬ大事があるわい」[17]。)。遺書5行目の「不可解」に通じる不可知論的内容を含むセリフである。"your philosophy"の"your"を二人称と解釈し、「ホレーショの哲学」という一節になったのであろう。しかし、この"your"は、話し手本人も含まれる「一般人称」(general person)で、「世にいわゆる」の意味である[18](先に引用した逍遙訳もそのように訳している)。遺書のこの箇所を捉えて藤村による「誤訳」をあげつらう向きもある[19]が、これより以前に徳富蘆花[20]黒岩涙香[21]も同様(yourを二人称)に訳しているし、それらの訳を藤村が参照した可能性もある[22]。なお、西洋古典学者の逸身喜一郎は、「ホレーショ」はローマ詩人ホラティウス(英文表記:Horace)ではないかと指摘している[23]。当時のエリート青年たちに流行していた悲観主義的厭世観はショーペンハウアーを受容し、この遺書に漂う人生への懐疑と煩悶は、時代の雰囲気をありありと反映したものであった[24]

自殺の波紋[編集]

彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や学生たちに大きな影響を与えた[25]。在学中の岩波茂雄はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる[26]


当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記[27]や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった[28]

言及の例[編集]

打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。
  • 夏目漱石『草枕』より
余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う[29]
「趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎の、わが卑しき心根に比較して他を賤しむに至っては許しがたい」「ただその死を促すの動機に至っては解しがたい。去れども死その物の壮烈をだに体し得ざるものが、如何にして藤村子の所業を嗤い得べき。かれらは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、到底壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。」[30]

漱石はこれ以外にも『文学論』第2編3章や寺田寅彦あて書簡(1904年2月9日)に記した「水底の感」で藤村に言及している。


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