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「俯瞰中毒」……「俯瞰症」ではダメ?

トゥゲッターのタイトルで、「俯瞰中毒」という言葉と「ネット民の過半数が陥る」という言葉に興味を惹かれて読んでみたが、内容は単に「モテない男女がモテる男女への嫉妬から、『自分の方が内面的に優れているのに』と思うことの醜さ」を批判したもので、「ネット民の過半数が陥る」は誇大広告である。ただ、ネット民の多くが「俯瞰中毒」に陥ることは事実であるだろうし、私などもその代表だろう。何しろ、世界の政治家や資本家をすべて偉そうに批評し、学者も専門家も下種だ卑怯者だ、と批判しているのだから、お前は地球の王様か、と言われそうであるwww
しかし、日本人に批判精神と「事実を正しく捉える」能力が無いことが日本という国の劣化の最大の原因である以上、ネットという土俵があるのを利用して悪への批判をするのはむしろ日本人全体の(は大袈裟だが、批判能力がある人間としての)義務だろう。
こうした「俯瞰中毒」云々という批判はそれこそ社会からまともな批判を抑圧し、世の悪をのさばらせる、電通的な仕込みなのではないか。
批判とは、必然的に全体を俯瞰する作業を伴うもので、その俯瞰性を欠いた批判は「重箱の隅をほじくる」批判にしかならないだろう。(ちなみにウクライナ戦争についての今のマスコミ報道は、ロシア側の言い分を頭から完全に否定するか無視するという「俯瞰性ゼロ」の報道だのに、それに疑問を持たないとしたら、よほどのアホである。これは新コロ報道も同じ。)誰でも「自分が地球の支配者になったつもりで」世界の政治や社会を批判していいのである。その発言が愚劣なものであれば誰も耳を傾けないだけの話だ。
なお、「俯瞰症」云々というタイトルだが、私は女性の「不感症」がまるで病気扱いされているのも不思議である。まあ、病気の数を増やせば医者は儲かるだろうが。



(以下引用)タイトルのみ。記事筆者はかなり頭が良さそうではある。まあ、記事内容だけで言えば「マウンティング」という言葉に代えて「俯瞰中毒」という言葉を作っただけ、とも言える。つまり、外面的美点や長所を持たない無能な人間のマウンティングが「俯瞰中毒」だ、という論旨だ。

ネット民の過半数が陥る”俯瞰中毒”の症状とは?

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卯月八日は何の日か

今日は4月8日で、旧暦で言えば灌仏会、つまりお釈迦様の誕生日だ。
で、前にも書いたが、この日は与謝蕪村の洒落俳句の「卯月八日」である。

卯月八日 死んで生まるる子は仏

釈迦は苦行や思索の果てに悟りを開いて仏となったが、死んで生まれた子供は最初から「仏」である、というふざけた俳句だ。だが、これを洒落だともふざけた句だとも思っていない真面目な国学者がほとんどであるようだ。

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ドイツ議会「ワクチン義務化」を否決

さすがに、新コロワクチンのいかがわしさを「情報に疎い」政治家たちも分かってきたようだ。

(以下引用)

ドイツ議会、ワクチン義務化否決 ショルツ首相に痛手


配信

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時事通信


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近現代哲学は「何を問題としているのか」

近現代哲学は何を問題としているのか、と言えば、「人間の生の意味は何か」「人間は自由な存在でありうるか」という2点で、これはどちらもキリスト教への信頼・信仰の崩壊(それはニーチェの「神は死んだ」という言葉で端的に表されるだろう。)と共に出てきたものだろう。つまり、もともとキリスト教と無縁の日本の哲学者が西洋哲学を有難がることはまったく無いわけだ。
ということは、私が近現代哲学にまったく興味を持てなかったのは当然であり、今さら考察する意味もあまりなさそうだが、キリスト教と切り離して「人間の生の意味は何か」「人間は自由な存在か」という考察をすることには少しは意味があるかもしれない。
だが、これにしても「人間の生の意味など無い(生の意味は個々人が主観的に作るものだ)」というのが自然な考えで、これは西洋では実存主義に近いだろう。何を大袈裟に「実存主義」などと言うのか、という感じだ。創造主という仮定が先にあるから「人間の使命(生きる意味)は何か」などと事々しく考える(創造主に作られた以上は、何か使命があるはずだ、という思考になる)のであり、近代以前の日本人や東洋人はそんなことなどまったく考えなかったと思う。
「人間は自由な存在か」というのも、日本人は最初から社会の義理と人情の束縛の中で生きている自分を当然視していたのであり、最初からポスト構造主義であったわけである。やっと西洋が日本人の精神レベルに追いついたわけだwww ただ、日本人は哲学的理屈をこねる習慣が無かっただけである。
というわけで、近現代哲学の考察はやめることにする。なお、「現象学」にはまったく興味が無い。

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現代哲学の流れ

高橋医院という哲学好きらしいお医者さんのブログから転載。
現代哲学の興隆や潮流が分かりやすく説明されている。もちろん、超簡単な説明だから抜け落ちや誤解もあるだろうが、概観するにはちょうどいい。


(以下引用)


その前に 現代哲学の誕生に大きな影響を及ぼした
あの超有名な哲学者について言及します

<ニーチェ>

ニーチェは
多面的なところがある
仮面を好む哲学者と言われています


神は死んだ

今までの生き方に
妥当性がなくなった世界を生きていくために

自分自身で価値を作っていかなければならない

と主張しました

神は死んだ というニーチェの主張が示されたポスター


このニーチェの考え方は パースペクティブ論と呼ばれ

あらゆる認識はどこから見るかで変化するという
相対主義の最たるものと言えます

どれが正しいなんてことは基本的にはない
絶対的な正しさはなく 
全ての知識は相対的なものである


ニーチェは
ポストモダニズムの相対主義を準備したのです

二ーチェの肖像画



ニーチェはまた

道徳的事実なんてない

絶対に正しい道徳などはなく
解釈の仕方により 何が正しいかは変わってしまう

正しさを決定するのは 人それぞれの感情だが
好きか嫌いかに留まり
正しいか正しくないかを決定するには至らない

とも述べていて
これは 分析哲学の基本的な立場につながる考え方と言えます

このように
ニーチェは現代哲学に大きな影響を及ぼしました


<実存主義>

19世紀のデンマークの哲学者のキルケゴールが始め
20世紀になりドイツで議論され


キルケゴールの肖像画

大戦後に 
フランスでサルトルらが中心になり発展しました


@サルトル

実存が本質に先立つ

まず実存し そこからさまざまな本質を作り上げていく

自分の在り方は 
あらかじめ決まっているわけではなく

自分自身でそれぞれ作り上げていくものである
(人間以外のものは 全て本質が先立つ)

実存は個別的 本質は普遍的


サルトルの写真

そう訴えて
世界に大きなムーブメントを巻き起こしたサルトルは

途中から実存主義的マルクス主義になり
自分が行為することで社会を変えることを
大きな方向性 目標にしました

1960年代は まさに実存主義の時代でしたが
書き手はまだ小学生だったので 流行に乗り遅れました(笑)

でも1970年代になり
実存主義の流れをくむカミュの小説とかは
夢中で読んでいましたが

カミュの写真


1970年以降 実存主義は下火になり
現代哲学の流れは
構造主義 ポスト構造主義へと引き継がれていきます

ポストモダン の時代です

ポストモダンについて説明する図


<構造主義>

1960年代から1970年代にかけて
構造主義が大きなムーブメントになりました

構造主義は まさに相対主義的な考え方で
やがて言語学に基づいた理論展開に発展していきます


人の生き方は
社会の中ですでに決まっているのではないか?

というのが 構造主義が投げかけた問いです


自分は自由に行動しているつもりでも
社会的なもの 構造的な様々な要因により
行動がある程度決められているのではないか?

個人の自由というより
個人を成り立たせている様々な関係の枠組み 
構造の分析こそ重要である


という考え方です

社会とは
歴史的にずっと続いている変化のないもので
理論的に 数学的に取り扱うことができる
ひとつの大きな枠組みである

構造主義について説明する図



書き手は中学生の頃
こうした考え方に 妙に魅かれていました(笑)


@レヴィ・ストロース

構造主義の雄のレヴィ・ストロースは
フィールドワークで
未開民族の親族構造 社会構造の分析を行い


人間の自由は幻想で 社会構造の中で決められている
と述べました

個人的な自由 決断が先立つのではなく
社会や言葉が行動を決定する

レヴィ・ストロースの写真



とても魅力的でした(笑)

彼の思想は
ソシュールの言語学や 記号論につながっていきます


<ポスト構造主義>

やがて 構造主義に疑問を投げかける動きが出てきます

個人の自由を規定する構造が 変わることはないのか?
構造を変えるにはどうすればいいのか?

@ジャック・デリタ

ポスト構造主義の雄のデリタは
レヴィ・ストロースの分析を 
裏返しの西洋中心主義と批判しました


未開民族をリスペクトして 
非常に優れているかのように描くことが

実は西洋中心主義の裏返しに他ならない
というのです

個人というものも 
ひとつのものとしてあるだけでなく

その中にいろいろな要素があって 色々な組み合わせ方がある

構造主義的ではあるものの
組み合わせの違いによって 個人の在り方が変わる

というのです

デリタの写真


ちょっと 混沌としてきました(笑)

 

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「デカンショ」から実存哲学へ

「デカンショ」は「そうでがんしょ(そうでしょうね)」の意味だという説もあるが、旧制高校の「デカンショ節」の解釈としてはやはり「デカルト・カント・ショーペンハウアー」の頭を並べたものだ、という説のほうが合理的だろう。で、私は高校時代だったか浪人時代だったかにデカルトの「方法序説」とショーペンハウアーの「自殺について」「読書について」を読んで大きな感銘を受けたのが、その後の思想的ナビゲーターとなっている。で、カントについて先に考察したので、これで「デカンショ」は一応卒業したことにする。やっと旧制高校の劣等生レベルにはなったと自己評価しておく。
で、次にはやはり戦後日本の思潮界を席巻した「実存主義」の考察に行くのがベストだろうと思って、ウィキペディアで少し調べたのでその一部を転載する。
「実存」とは要するに「現実存在」であり、「概念(表象)」と対立するものだと把握していいのではないか。そして有名な「実存は本質に先立つ」とは簡単に言えば「現実存在はイデアより重視されるべきだ」という「非理想主義」「現実主義」だというのが私の解釈だ。つまり、それは現実の悪も醜さも、それなりの意味がある、という思想を含んでいるわけで、実存主義が文学と馴染みやすい所以である。しかし、それは実に醜いものを熟視するわけだから、気持ちのいい文学にはなりようがない。ロマン主義や理想主義の対極だろう。
だが、哲学としては一応その重要性を認めるべきではある(その後に重要な哲学の学派は出ていないはずである。つまり「最後の哲学」かもしれない。)だろうから、気が向けば考察する。

(以下引用)



ダーウィンの『種の起源』以降、ヨーロッパは古代以来の聖書的世界から輝かしい科学と進歩の時代へと向かった。しかし、国民国家という新しい世界体制は第一次世界大戦国家総力戦による大量破壊へ繋がり、19世紀以来続いた西欧の進歩主義への信仰は大きく揺らぐこととなった。とりわけ国土が直接、戦場となった独仏、わけても敗戦国としての重い負債を背負わされたドイツにとって、進歩主義への信頼の崩壊は強い衝撃を与えた。大陸ヨーロッパの知識人キリスト教の精神的伝統を進歩主義によって破棄した後の、進歩主義の無残な残骸を前に途方にくれることとなった。このようなドイツにおいてまず、一時代前の人物であるキルケゴールなどが注目を浴びるようになる。


「主体性が真理である」としてから与えられた可能性を実現することに生の意義を見出したキルケゴールの主体志向に加えて、さらに、第一次世界大戦において、そのような個人を置き去りにした近代思想の惨禍を目の当たりにして、個人を哲学的考察の対象にしようという機運が盛り上がり、神の死(「神は死んだ」)を宣言し、能動的なニヒリズム (運命愛) の思想を展開したニーチェを、神を否定する実存主義の系譜の先駆者としつつ、1930年代ドイツマルティン・ハイデッガーカール・ヤスパースらによって「実存」の導入が図られた。大事なことだが、ハイデッガーの意味づけの実存は、個人主体実存という本来性から離れて、「民族の」実存になっている。各個人が自由な実存のうちに民族の実存を求めているのであればよい。しかしここでは、民族の実存を希求して先導するハイデッガーが、先導される個人の私性を否認している。(Martin Heidegger, Logik als die Frage nach dem Wesen der Sprache, VittorioKlostermann, Frankfurt am Main, Gesamtausgabe Band 38. p163.) ここには真の実存はハイデガーにしかないのだが、こうした曲折を経て、実存の考え方は第二次世界大戦後、世界的に広がりをみせることになった。


第二次大戦後、フランスに輸入され、サルトルらによって広まった実存主義は、サルトルのアンガージュマン(他の実存と共に生きるための自己拘束)の思想に見られるようにマルクシストとしての社会参加色が強く、それに呼応しない者には説得力がなかったが、1960年代学生運動の思想的バックボーンとなった。サルトルの『実存主義とは何か』は実存主義のマニフェストであり入門書ともいわれ、1945年10月パリクラブ・マントナンで行われた講演が元になっており、多数の聴衆が押しかけたため、入りきれない人々が入口に座り込むほどで、翌日の新聞に大見出しで「文化的な事件」として伝えられ、時ならぬサルトルブームを巻き起こした。第二次世界大戦直後のヨーロッパでは、巨大な歴史の流れの中での人間存在の小ささが意識され、戦前までの近代思想や既存の価値観が崩壊し、人々の多くが心のよりどころを喪失しかかっていた。サルトルの思想は、実存に新たな光を当て当時の人々の根源的な不安を直視しそれに立ち向かい、自由に生きることの意味を追求し、人間の尊厳を取り戻す術として人々に受け入れられることになった[2]


この、支配制度に対する被支配的個人の重視は、サルトルの思想が1970年代に入ると、 構造主義などから批判を受け、低調になっていくものの、広く受け入れられている。他者を支配管理する実存はあり得ない。


また、同じく「私」に焦点を当てる芸術や文学心理療法との相性も良く、特にカール・ロジャーズらが始めた心理療法には「今、現にここに存在している私」を問題とする実存主義の強い影響が見られる。


実存主義を哲学のみならず、文学芸術などにも拡大解釈する場合(ボルノウなど) 、パスカルドストエフスキー等も実存主義者だと解される場合もある[3]


第一次世界大戦の敗者であるドイツや戦勝国であっても大きな痛手を受けたフランスなどとは異なり、勝利者である英米にとって、第一次世界大戦の惨事は進歩主義への信仰を決定的に揺るがすことはなかった。しかし、スペイン内戦に参加するなどヨーロッパの情勢に積極的に関与したアーネスト・ヘミングウェイを代表とする一群のアメリカ知識人もまた、自らを実存主義者と見なした。日本では当時、文学者として国際的な評価も受けていた芥川龍之介が第一次大戦後に「ぼんやりとした不安」という言葉を残して自殺している。





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政治家やメディアの飼い犬の大半より一般人の見識の方が上

「阿修羅」の或るスレッドのコメントの一部を転載。
日本人のメディアリテラシーはかなり向上しているようだ。
まあ、今でも「阿修羅」や「大摩邇」を陰謀論サイトとして毛嫌いしてまったく見ない人と言うか、ほとんど頭が化石化した人間もたくさんいるだろう。

(以下引用)



27. 2022年4月06日 20:31:39 : ZRfoQPRyKk dDBlbEt0Zi5tLzY=[1]  報告
ゼレンスキーの前任の大統領ポロチェンコの演説を見てごらんよ。

「東側のロシア語しか話せないウクライナ人は何もできない、働いていないのだから年金なんかもらう資格はない。西側のウクライナ人の子供は学校へ行って、被害側のロシア系のウクライナ人の子供はシェルターにでも入ってろ!地下にでも入ってろ!」って言ってるよ。
でも、「ロシア語しか話せない人を雇うな!はたらかせるな!」と言って働かせなかったくせに。


そんな人が大統領で子供の教育をしたのだから、どんな人間に成長したかわかりそうなものだ。そういう教育をされた人がネオナチとなって今ウクライナの軍人や警察や教育者や政治家になっているのだよ。


そんなポロチェンコに愛想をつかしたウクライナ人が、「ネオナチを一掃する」という公約を掲げたゼレンスキーに票を入れて、ゼレンスキーはポロシェンコを破って大統領選に勝利した。


ゼレンスキーは、初めは喜劇役者で人気が出てきて、そのころ映画に出演し、大統領の役がはまって人気がさらに出てきて、ちょうど大統領選に出たことで、ゼレンスキーの「ネオナチを一掃する」という公約に国民が沸いて、大統領にまでなってしまった。


しかしあまりにもネオナチが政治の世界にも財界にも軍人にも警察内部にもはびこっていて、ゼレンスキーは凶暴なネオナチに恐れをなしてネオナチ側に寝返った。


そういうウクライナの事情も知らずにただ「ウクライナに侵攻したロシアが悪い、プーチンが悪い」としか理解しない脳軟化症の日本の政治家や世界の人々に唖然とするばかりだよ。


そのゼレンスキーのできる芸当と言ったら、世界にラインでそっちこっちへ発信し「ロシアが悪い。プーチンが悪い。ロシアがウクライナ人を殺した」と嘘ばかりぺらぺらと言いふらすことくらい。


ロシアを悪者にするために自分たちがしたことを国民にしゃべられたら困るから皆殺したくせに。


ロシアはやはりちゃんとした大国だよ。
それに引き換えウクライナは、半分ネオナチが混じった、しかもポロシェンコのような大統領が子供や国民を教育した国だよ。


ヒトラーのナチスに感動し、当時8000人のウクライナ西部の人がナチ親衛隊に志願したそうだ。
更にアメリカがネオナチを教育してウクライナに送り込んだ、って噂も聞いた。


昔の日本の国民も子供たちもそういうプロパガンダに汚染された変な思想を持っていたよ。
お国の為に死ぬことは勇敢な日本男児だ、とか、鬼畜米英、とか、朝鮮人や中国人を蔑視する教育をされて、まぁ教育やマスコミのプロパガンダに国民はすぐ洗脳される。


そういう事でウクラ軍がウクライナ国民、特に東のロシア系国民を殺したのだと私は判断します。





28. 2022年4月06日 20:34:57 : ZRfoQPRyKk dDBlbEt0Zi5tLzY=[2]  報告
誤   被害側のロシア系のウクライナ人の子供はシェルターにでも入ってろ!地下にでも入ってろ!

正   東側のロシア系のウクライナ人の子供はシェルターにでも入ってろ!地下にでも入ってろ!


29. 2022年4月06日 20:40:08 : sObml2JNZY WWFSWUh2NlJsR28=[30]  報告
たしかに、初めからこんなに民間人を傷つけるのは許されないと言われた戦争はかつてなかったな。イラクやリビアの時なんか、フセインやガダフィをやっつけろと言うばかりで巻き添えになる民間人のことなんか心配する声は一言も聞いたことはなかったのに。もっと昔のことを言えば、昭和天皇が参りましたと降参するまでは広島や長崎の原爆や東京大空襲でどれだけ日本人が死のうと構わなかったということなんだろうな。所詮、アラブ人やアジア人の命なんてそんなものなのかと僻みたくもなる。

それはひとまず置くとしても、以前から民間人を殺したらとんでもないというような話が出てる中で、隠しもしないで撤退っておかしいだろう。


30. 2022年4月06日 20:40:48 : ZRfoQPRyKk dDBlbEt0Zi5tLzY=[3]  報告
さすが日本国民は大体真実を理解しているようだ。
それに引き換え政治家のあほな事。
もうスタンディングオ―ベーションした政治家全員辞めろ!あほめら!

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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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