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大衆の「自由からの逃走」(「大審問官」について)

これも「混沌堂主人雑記(旧題)」で知った記事だが、素晴らしい記事である。私はこの「大審問官」の章は、読むたびに圧倒されて、分析や批評の対象にすることすら思いつきもしなかった。文芸評論家を自称する人の解説でも、この章をこれほど明確に整理したものは読んだことがない。筆者が恐ろしく頭のいい人なのだろう。そして、この章は「カソリック批判」でもある章だから、西洋ではこの部分に触れることがタブーであったとも思われる。

(以下引用)文中の「無心論」はもちろん「無神論」の誤記。「すべからく」の誤用はもはや言うのも無駄だろう。そういう瑕疵は問題外の素晴らしい記事だ。写真は省略するかもしれない。



【人類文学最高傑作の最重要章】「大審問官」の要点をまとめてみた【カラマーゾフの兄弟 解説】



小説

 

人類文学最高傑作と称される「カラマーゾフの兄弟」



重厚な内容で「人間」のあらゆる面が描かれる、まさに世界文学の傑作中の傑作です。


そんな「カラマーゾフの兄弟」の中でも、とりわけ重要でこの作品の根本を表していると言われるのが「大審問官」という章です。


作者ドストエフスキーの宗教観がまざまざと現れており、ここだけでも一つの小説にすることができるのではないかと思わされるような内容になっています。


しかしそれだけにこの章の内容は非常に難解で、何を意味しているのか読み取りにくいのも事実です。


そこで今回は、この「大審問官」の大まかな設定やあらすじを振り返った上で、その内容の要点を解説していきたいと思います。


それでは早速いきましょう!

「大審問官」の設定とあらすじ


時は16世紀のスペイン。


激しい異端審問が行われる中、人の姿をしたキリストがこの世に降り立つところからこの叙事詩は始まります。


「奇跡」を人々の前で披露するも、大審問官たち捕らわれて牢に入れられてしまうキリスト。


ちなみに大審問官とは、キリスト教における異端審問を担当し、異端と判断した者を次々に火炙りに送っていた役職です。


そして捕らえたキリストに対し、大審問官は自らのキリスト教観を披露する説教を繰り広げます。


この神であるキリストに対し、それに信奉するはずの大審問官が逆に説教を垂れるという大胆すぎる設定がこの叙事詩の見どころです。


キリスト教への絶望や怒りにも満ちた大審問官の長きにわたる話を聞いた後、キリストは大審問官にやさしく「接吻」をするという形でこの叙事詩は締めくくられます。


以下でその説教の中身について深ぼっていきましょう。

「大審問官」の要点を解説

「自由」とは

「大審問官」でメインで語られることになるのが、この「自由」についてです。


「自由」と聞くと、私たちは手放しで肯定しそうになってしまいますが、そこには大きな責任や苦悩が付き纏うということが語られます。


「自由」は高尚であれど、そもそも人間にとって重すぎるものなのではないか。
自分で全てを選択するということが必ずしも人々にとって最善とは限らない。
何事も自分で考え、決断をするという労力が生じてしまうからだ。


と大審問官は言っているのですね。


もともと人間はキリストの教えに応えられるほど、高尚な存在ではなく、むしろ弱く卑しいものであるとも語られます。


人から言われたことをやっているだけの方があれこれ考える必要がなくて、結果的に楽ということはありますよね。自由にはすべからく「不安」と「孤独」がつきものです。


自らに関する一切のことを自分で決定するという重荷に耐えられなかった人々たちは、その後自ら自由を教皇に差し出すようになり、その支配下に入ることで「自由」を獲得し、幸福を得た。


というのが大審問官の主張です。


ではなぜ人々はこのような一見自由を放棄するという不合理な選択をしたのかということについては、さらに詳細に語られます。

「自由」と「支配」

相反するこの二つが両立する論理を大審問官はこう述べます。


人々はただ無理解のまま自らの自由を教皇に差し出したというのではなく、本当の「自由」とは離れていくことを知った上でなおキリストのために教皇の支配下に入ることを決めたのだと。


自由が辛く厳しいものであることを人々は理解しているからこそ、罪に堪えながらもその自由を取りまとめてくれる教皇たちへの尊敬の念を禁じ得なくなる。


というのが大審問官の主張です。


ただここに教会側の中にはキリストへの「欺瞞」が残るとも言います。教会や教皇などの支配する側は真の意味でキリスト教の教えに準じていないということに心のどこかで気づいているということですね。


そしていずれ人々はキリストの掲げた崇高な理想よりも、目の前の食糧や生きていくための「安定」を優先してしまうようになります。


ここに関してはいつの時代も変えられないものを感じることができます。

「良心」について

大審問官は支配の中でも「良心の支配」が一番重要であると語ります。


人間は単に生きることを望むのではなく、何のために生きるかを重視する性質がある。


そのため自分の中での納得感を感じながら生きていきたいと考える。


そんな中で人々は教会に服従することこそ、キリストの教えに準じるものだと信じている。「善悪の判断」の一切を教会に任せることで楽に生きていくこともできる。


と大審問官は主張します。


だからこそ教会は人々のこうした思いに応える形で、彼らを支配する形で「自由」を与えることが可能になっていたというわけですね。

「統一性」について

人間の性質としてもう一つ挙げられるのが、人は「統一性」を求めているという点です。


「自分が信じているものの正当性を確かなものにしたい」という感情が人々の中には少なからず存在します。


「自分の信仰こそ絶対」


皆がこう考えて、それを他者にも強制しようとするからこそ、自分と違う宗教や宗派のものを攻撃したり、互いの正義のために争うことになります。


これは今でも自分たちが信じるもののために、戦争やテロ行為が行われている実情を見ても納得できることですよね。

人間はもともと「反逆者」

崇高な理想よりも、低俗でも全人類を魅了する食糧などを与えてやれば、争いがなくなると大審問官は主張します。


人間を愛しすぎ期待しすぎるがゆえに、人間に対して大きな要求をしすぎるキリストは理想主義なのではないかとキリストを批判します。


キリスト教が信者に求めるものは、当時の社会の実情から鑑みても、曖昧なものばかりであり、人々はかえって自由が苦しく感じられてしまっていました。


もともと弱くて、卑しい人間はそんな理想よりも目の前の「安定」に手を伸ばすのも当たり前であると主張されます。

三つの力

人々は信仰の対象に三つの力を求めると大審問官は言います。


それが「奇跡」「神秘」「権威」の三つです。


それらはかつてキリストが自らの行いや言葉で示したものでありました。


しかしキリストがいなくなってから1000年以上経ったこの世界において、人々はもうこれらに三つの力を求めることが困難になってしまいました。


でも人々は信じられるものが欲しい。そこで自ら「奇跡」を作り始めるようになった。


と大審問官は言います。


一見怪しげな呪術や魔女といったものが流行していた当時の背景には、人々のこうした背景があると考えたのでした。

無心論者イワンと信仰者アレクセイ

叙事詩「大審問官」をイワンが語り終えた後、最後はイワンとアレクセイの会話でこの章は締めくくられるのですが、ここも重要なシーンです。


無心論者であるイワンと神を心から信じるアレクセイが対照的に描かれます。


「大審問官」の話からも分かるように、何も信じられないイワンはどこか人生に絶望し、最後はカラマーゾフ的な堕落に落ちるしかないと考えます。


そんなイワンをアレクセイは救いたいと考えているのですが、主義主張の相違からこれといった解決策を提示することができません。


ただ怒りや苦悩に苛まれるイワンを「それでも受け入れて全てを許す」という姿勢を見せるに留まります。


アレクセイはこのことを叙事詩の中のキリストになぞらえて、自らもイワンに「接吻」することで伝えています。


イワンも自分に対して真摯なアレクセイを最後の拠り所としているようなところを感じさせながら、二人は別れるというシーンでこの章は締めくくられます。

まとめ


今回は「大審問官」の要点を解説させていただきました。


正直この章はめちゃくちゃ難解であり、僕自身理解しきれているかと言われるとあまり自信をもてません。


これについては一生をかけてでも考え続け、その時々で違った答えを見つけていくことが「大審問官」の味わい方であるとも思わされます。


これだけ「神と人間」について考えさせてくれる機会となる「カラマーゾフの兄弟」という作品の面白さ、奥深さを感じずにはいられませんよね。


それだけに何度も何度も読み直す価値があり、その都度より理解できるようにチャレンジしていきましょう。


この記事が、みなさんの「大審問官」の理解を少しでも助け、「カラマーゾフの兄弟」という作品をより一層楽しむきっかけとなれば幸いです。



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【人類文学最高傑作】「カラマーゾフの兄弟」の魅力と読み取れることを解説していく




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ワクチン被害をワクチンで治す? wwww

インチキニュース、マスコミによる情報操作の例としての転載である。
ネットで新コロ記事とワクチン記事を膨大に読んで、自分の頭で判断してきた人間なら、新コロ自体に帯状疱疹の症状などほとんど無く、ワクチン接種後の副反応症状としての帯状疱疹事例は呆れるほど膨大にあることは明々白々なのだが、こうしたマスコミ記事しか読まない人は騙されるわけである。

(以下引用)

“失明”や“顔面まひ”も! 「帯状疱疹」がコロナ禍で急増 “4万円ワクチン”なら90%予防可能


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目の近くの「帯状疱疹」では失明することも!


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ダルクとダークとメクラとチンバ

前回記事に書いた呉智英の本の中にあった話だが、彼が通った小学校の「今週の目標」みたいなものに「人のいやがることをしよう」というものがあったそうだ。それを見た瞬間に、私は「すごい標語だな。それこそ、いじめや悪質なイタズラが激増するのではないか」と思ったが、そういう意味ではないようだ。呉も、それ自体を問題にはしていないし、冗談のネタにもしていない。私は気が弱いので人の嫌がる仕事は進んで自分からやるが、人に対して、その人が嫌がる行為を仕掛けたことはない。まあ、ダブルミーニングである。
これも、同じ本の中に出てきたのだが、呉が土井たか子を「ジャンヌ・ダーク」にたとえていて、まあ、それはいいのだが、こういう表記だと「暗黒のジャンヌ」という感じでアニメの悪役みたいである。

冗談はさておき、同じ本の中に、木山捷平の詩が引用されていて、これがなかなか感動的なので引用する。


  メクラとチンバ


お咲はチンバだった。
チンバでも
尻をはしょって桑の葉を摘んだり
泥だらけになって田の草を取ったりした。

二十七の秋
ひょっくり嫁入先が見つかった。

お咲はチンバをひきひき
但馬から丹後へーー
岩屋峠を越えてお嫁に行った。

丹後の宮津では
メクラの男が待っていた。
男は三十八だった。

どちらも貧乏な生い立ちだった。
二人はかたく抱き合ってねた。


私は露骨なエロが大嫌いなのだが、この詩の最後の一行は素晴らしいエロチシズムだと思う。まさに、神々しさを感じるエロチシズムだ。人生の真の幸福が凝縮したような一行だ。
こういう詩を読むと、ポリコレとか差別語狩りのくだらなさが明瞭に分かる。「その言葉」でなければ表現できないものがあるのである。






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主権者とは何か

呉智英の「バカに唾をかけろ」という新書を読んでいたら、その中に
「主権者とは例外状況にかんして決定をくだす者をいう」
という、面白いというか、奇妙な定義が出てきた。ドイツの法学者カール・シュミットの言葉らしい。
で、私はこういう「小さな謎」が好きなので、なぜこの定義が成り立つのか考えてみた。もちろん、この言葉に続く部分はまだ読んでいない。
まあ、単純に考えて、「例外状況」ではない状況、つまり通常の状況では決定を下すのはその役にある人である。で、通常の状況では、どういう決定を下すかは法制と常識的判断で決まる。法で拘束されているのだから、主権云々は関係ない話になる。
しかし、法で決定できない状況、たとえば戦争を始めるという場合に決定権を持つ者は、当然主権者だということになる。前の戦争だと、帝国憲法によって主権者は天皇だから決定権は天皇にあったわけだ。国民は文句を言える立場ではない。君主制とは(それが立憲君主制でも)そういうものだ。その判断に関して君主を裁くのも、立憲主義に依る限り、法の不遡及原則によって不可能である。当時は合法であったのだから事後立法では裁けない。裁くなら「不法に裁く」しかない。
では、現在の憲法では主権者は誰か。日本が民主主義国家であるなら、主権は当然国民全体にある。ところが、その「決定」はいかにして確認できるのか。事実上不可能である。
つまり、日本(他国もそうだが)が主権在民の民主主義国家である限り戦争を起こすことは不可能なのである。戦争を決定した人間、たとえば大統領や総理大臣はその時点で主権簒奪者なのである。


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「田舎暮らしに必要なスキル」(東海アマ)

まあ、田舎暮らしと言っても、東海アマ氏のように山奥で一人暮らしをする人間は稀だろうが、単に寂れた田舎町に住む私にとっても頷くところの多い記事である。
やや長い記事なので、前説は無しで私が興味を持った部分や、同感、あるいは感心した部分は赤字にしておく。プロパンガスがカセットガスより高いのは、山奥だと配送料が高いのではないか。

(以下引用)






 「田舎暮らしに必要な能力」で検索すると、いろいろ出てくる。

 田舎暮らしのスキルとは?
  https://outdoor-oretachi.com/?p=10795

 田舎暮らしに必須!? 移住後に役立った4つのスキルと7つのモノ
 https://colocal.jp/topics/lifestyle/relocate/20200918_136525.html

 だから、田舎暮らしに必要なスキルって何やねん?
 https://coccoblog.org/must-skils/

 私が中津川市の過疎地に引っ越してから、ちょうど20年、私自身の経験を振り返ってまとめれば、上のリンクに述べられているものと同じようなものだが、思いついたことを挙げておこう。

 その前に、都会と田舎の違いについて理解したい。
 ① 都会では、電気、ガス、上下水道、ネットなど生活インフラが充実しているが、田舎では、ほとんどの場合、電気とネット回線は大丈夫だが、都市ガスがあることは少なく、ほぼLPG配送である。また我が家では水道はなく、井戸を利用している。

 水道も来ているが、権利を得るための分担金70万円を提示されたので、20万円ですんだ井戸で我慢することにした。下水道はないが、汲み取りではなく、自作浄化槽でEM処理し、全量を畑に流している。悪臭は皆無である。
 ガスもプロパンは高いので、ほぼカセットガスを使っている。電気とネットは都会と同じだ。

 ② 都会では、ほとんど徒歩圏内に食料店や飲食店があるが、我が家では、近いスーパーまで車で20分(10Km以上)かかる。飲食店もなく(喫茶店が数軒あるが)、コンビニも皆無、ついでだが信号も皆無だ。
 だから、自炊しなければ、たちまち飢えることになる。調理技術は田舎暮らしの核心である

 ③ 日用品を購入できる店は、ホームセンターまで、やはり車で20分、徒歩圏内に店らしい店はない。
 だから、ちょっとした修理や問題は、購入よりも創意工夫の方が大切で早い。
 私も、必要な品をネット通販で購入する方が圧倒的に多い。また自作も多いので、工具類が必要になる。

 ④ もちろん職場もないが、介護関連施設だけは、いつでも人手不足だ。この種の技能と精神性を持っている人は田舎暮らしが圧倒的に有利である。
 ほとんどの人が大都会にいる理由は、職場がたくさんあるということに尽きる。
 田舎暮らしでは、ちょっとした工芸品(お土産品)を作ったり、電気や配管のライセンスと技能を持って修理スキルを持っていることが、とても大切である。
**********************************************************************

 冒頭に紹介した三つのリンクの三番目に、以下のように挙げられている。
 【車の運転  草刈り  家事  DIY】

 我が地域では、昨年、唯一の公共交通であるバス路線が廃止された。それまで15分でバス停にゆけたものが、近い国道バス停(高山大橋)まで急坂ばかり2時間歩かねばならなくなった。
 したがって、過疎の田舎暮らしでは、車が必需品である。バイクもあるが、冬季は凍結するのでスタッドレスの四駆以外選択肢がない。

 私はアルト四駆を使っている。これは新車で90万円くらい。本当は軽トラにしたいが、燃費の問題でアルトFを選択した。リットル23Kmほど走ってくれる。
 それでも、ホムセンやスーパーの往復に20Kではきかないので、ガソリン代や車検代・保険代には困っている。
 私のような一人暮らしは田舎向きではない。数名以上でライフスタイルを共同化、効率化しなければ生き抜いてゆけない。

 しかし、車というものは問題が起きやすいもので、事故や故障があるので、ときには歩行しか残されていない場合も少なくない。
 【1】したがって私は、田舎暮らしのスキルとして第一に「最低10Km以上、歩ける能力」、すなわち「体力」を挙げておきたい。毎日歩いて、この力を維持しなければならない。畑をスコップで耕すことができる能力こそ、田舎暮らしにもっとも必要なものだ。
 【2】第二に、車を保有し、運転できる能力である
 【3】第三は、生活資金だが、私は低年金に頼っているので倹約能力が大切だ。
 【4】食料品店も飲食店もなければ、自身の自炊調理スキルに頼るしかない。
 【5】何かが壊れた場合、多くの場合、自力で修理する能力=DIYが必要になる。このため、一定数の工具を保有していなければならない。
 【6】男女を問わず、洗濯や干し物、草刈りのスキルが必要だ。
 【7】田舎暮らしの長所を生かすため、農作業のスキルが重要だ。畑を耕し、作物を収穫することが、食料などが断絶したときの希望をつないでくれる。だから馬鈴薯・甘藷栽培能力がとくに大切だ。
 これが田舎暮らしの最高の強みであることを知るべきだ。農地も非常に安く手に入る。耕作放棄地を借りることもできる。地元の農業委員会に相談すればいい。

 私個人は、若い頃からライセンスマニアで、大型二種や放射線関連、非破壊検査関連など20種近いライセンスを取得したが、残念ながら役に立っているのは、軽自動車の運転くらいだ
 自分の土地境界を調べるのに測量ライセンスが役立ったこともあるが、商売としては成立しなかった。

 そんなものよりも、美味しい馬鈴薯を大量に収穫できるスキルの方が、はるかに大切である。
 世間で重視されている学歴やプログラミング技術など、田舎暮らしには無用の長物である。私も若い頃には、BASICやCをある程度使えたが、田舎暮らしにはクソの役にも立っていない。
 学歴も同じというより逆効果だ。有名校を出て鼻を高くした優越感の人間性は、田舎暮らしでもっとも邪魔なものと心得るべし。誰からも尊敬されない。

 私は、田舎暮らしにあたって、どんな知識が役立ったかという視点でいえば、若い頃、立ちんぼのアルバイトで得た土木作業と建築作業の経験が、もっとも役立っている
 雑木林を伐採して、自分で家(キットハウス)を建て、畑を作るにあたって、若い頃の土木作業の経験と知識が、それを支えてくれた。
 スコップを使えなければ田舎暮らしは不可能であるとさえ思う。

 次に、自炊調理のスキルも、中華料理店でのアルバイトがもの凄く役立った。皿洗いにもスキルが必要なのだ。今でも中華鍋を自在に扱えることが自炊をどれほど支えていてくれることか。
 そして、学校教育のなかでは、小学校の家庭科や工作のカリキュラムが、どれほど生活を助けてくれたか特筆しておきたい。
 ボタンが取れたとか、服が破れたときは、針と糸を使って自分で修繕しなければならない。近くに店はないのだ。さまざまなものを自分で修理しなければならず、そのスキルは、高等教育よりも、むしろ初等教育の方が大切だと思う。

 逆に、高等教育で教えられた高度な知識は、ほとんど役に立っていない。私はある程度コンピュータプログラミングができるが、そんなものが役に立ったことはない。
 数学や国語は、ネット上の情報整理に多少役立っている程度だ。まあ、文章を書くとき、データ処理に多少は利用しているが、本当に必要だったとは思えない。
 歴史社会は得意分野だが、これも情報発信以外に役立っていないが、土地を掘っていて、大昔の遺構を発見して、それが何を意味しているのか理解することには役立った。

 放射線物理学や生物学は、若い頃から本気で勉強したが、原発放射能問題の解析に役立っているだけで、現実の田舎暮らしでは、せいぜい花崗岩質の核種の知識程度にしか役立っていない。普通の人より、多少、鉱物知識が詳しい程度だ。

 だから、今の教育システムが、どれほど無駄なものばかり教えているのか、私は田舎暮らしの視点から、深刻に考えている。
 相対論や量子論やプログラミングをやるなとは言わないが、それよりも小学校の家庭科や工作の方が、桁違いに現実生活に役立つことだけは書いておきたい。
 何より、「美味い飯」を作れる能力が一番大切であると力説しておく。

 「10K歩けて、数百坪の畑を耕作し、美味い飯を作れること、車を運転できること」
 これだけあれば、田舎暮らしのスキルを備えていると言っていいと思う。
 ただし、これから、エネルギー危機に見舞われるなら、立木の切り方、乾燥の仕方、薪割りは覚えておく必要がある。

 薪は、コナラなどの広葉樹をチェンソーで切りたおし、玉切りしてから屋根の下で2年間乾燥し、小割して薪ストーブに用いる。
 このスキルが、田舎暮らしを支えてくれる可能性が強くなっていると私は思う。
 第三次世界大戦が勃発するなら、田舎の人々の多くが、この業務を始めなければならなくなる。
 そして、馬鈴薯の生産だ。

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皇族アイドル

まあ、正月らしいネタである。
可愛いは正義、と言うより笑顔の力だろう。どれも表情がいい。

(以下引用)



けんけん @KeiichiYamamot

宮内庁のカメラマンが「佳子さまかわいい〜!」とはしゃぎすぎて80sグラビア風ショットに。 pic.twitter.com/7p1WpnRFKt


  2022-12-29 06:43:29
けんけん @KeiichiYamamot

「佳子さまを自由に可愛く撮れるのは年に一回、誕生日のこのシチュエーションしかないんだから!」というカメラマンの熱意と鼻息とエゴを感じる。


  2022-12-29 06:54:55
けんけん @KeiichiYamamot

調べてみたら毎年こんな感じなので、誕生日=撮影会になってるんだろうな(左から27歳、26歳、25歳)。年々エスカレートしてるので、来年はレフ版使いそう。 pic.twitter.com/jMSvz41Vv5


  2022-12-29 07:04:39

※参考リンク


リンク NHKニュース秋篠宮ご夫妻の次女 佳子さま 28歳の誕生日 | NHK【NHK】秋篠宮ご夫妻の次女の佳子さまは、29日、28歳の誕生日を迎えられました。127

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柏手(拍手)と合掌

前にも載せたかもしれない記事なので、最重要と思うポイントの部分だけ載せる。
「二礼二拍手一礼」というのは、実は玉串奉納の際の作法だったらしく、一般庶民のやるものではないようだ。しかも、この儀礼が国民に広まった結果、おそらく一人当たりの拝礼の時間がかなり長くなったはずである。膨大な参拝者がいる初詣で、全員が延々と待たされることになる。もちろん、「二礼二拍手一礼」だけで、「祈りをしない」なら、さほど時間はかからないだろうが、祈念をしないなら、何のための初詣になるのか。まあ、参加することに意義がある、というオリンピック精神なのかもしれないが、実際にはオリンピックでも参加するだけで満足という選手は一人もいないだろう。
ついでながら「柏手」と「拍手」が下の記事でも混在しているが、このふたつは完全に同じだろうか。同じならなぜ違う表記があるのか。で、「合掌」は世界的にある祈り・命乞い・感謝のポーズだが、あれがなぜ世界的なのか、人類学的研究ではどう言われているのだろうか。単に「手に武器を持っていません」「(合掌によって両手が自由に使えない状態なので)害意はありません」という命乞いの表明とは別の起源があると思う。命乞いは祈りと同類としても、感謝のポーズとしてなぜ合掌が適切なのだろうか。
なお、私は食事の前のマナーとしての合掌は、誰に対する感謝(多分命乞いではないだろうww)なのかが不明なので好きではない。「いただきます」という発声も嫌いである。集団で食べるなら誰かの「さあ、食べようか」でいいと思う。一人で飯を食う時に合掌して「いただきます」と言う馬鹿はいないだろう。まあ、誰かに招かれた食事なら、主催者に感謝しての「いただきます」はOKである。レストランなどで、自分でカネを出して「いただきます」と言うのは馬鹿としか思えない。その料理やサービスは「頂いた」のではなく「買った」のである。感謝したければ、食事の後で「とてもおいしかったよ」と言えばいい。

(以下引用)




「神社で柏手を打ってはいけない」納得の理由「二礼二拍手一礼」はウソだった

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昔は「合掌」して参拝していた

では、二礼二拍手一礼ではないとしたら、以前どのような参拝の作法が行われていたのだろうか。


基本的には、両掌を顔や胸の前で合わせて拝む「合掌」である。今でも、二礼二拍手一礼ではなく合掌して参拝するという人もいる。あるいは、二礼二拍手の後に、合掌する人たちもいる。二礼二拍手一礼だと、手順が定まっていて、それに従っていると、それだけで終わってしまう。神に祈るというとき、こころのなかで祈る間が、この作法には含まれていない。二礼二拍手一礼では物足らない。そうした感覚を抱く人は多いだろう。








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酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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