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高雅な風景と俗な思索

昨日と今日の朝(未明)の散歩は、わりと暖かで風も無かったので、街路を通って海岸道路に出るコースを歩いたのだが、夜明けの海はやはりきれいである。この風景を見られない人が気の毒だ。
だが、街路を歩くコースだと、なぜか想念があまり高尚なというか、哲学的あるいは文学的なもののにならない。これは、周りの風景が家々だからかもしれない。今朝の散歩でも、BGMとしては頭の中で「椰子の実」の歌詞が延々と流れていたが、それ以上の発展性が無い。(なぜ「椰子の実」かというと、海岸に出ることが決まっていたからだろう。椰子の実は、遥かな南の島から長い旅を経て伊良子崎かどこかの海岸に流れ寄るのである。)

で、散歩の帰り道はこの海沿いの田舎町の街路や家々の間の畑や草っ原の傍を通るのだが、この町は空き地が多い。根が吝嗇な私は、そういう、「利用されていない」土地や居住放棄家屋を見ると、「勿体ないなあ」と思うのが常だ。まあ、金持ちだから平気で土地や家を放っているのだろうから、他人がどうこういう立場ではないが、私が資産家なら、この町のそういう土地をすべて買っておく。何しろ、最高の観光環境・居住環境にある土地なのだから、いずれ値上がりするのは確かだし、小金持ちなら自分自身の隠居地に最適だ。まあ、2000万円もあれば、土地と家を買って整備リフォームし、残りのカネで死ぬまで優雅に(ただし、贅沢なしだが)暮らせるのではないか。
その計算もしたのだが、私は土地の相場を知らないので、ここには書かない。ただ、最近は100万円で、十分に快適に暮らせるプレハブハウスがあるようだから、それを2軒買って、一軒は書斎兼応接間兼倉庫兼必要時の宿泊所、あるいは学生相手の安い貸間にするのもいいのではないか。

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子供の読書、大人の読書

私が市民図書館から借りて来る本の中には、子供のころ読んだ本も含まれたりする。つまり、子供の頭では理解できなかった部分が、大人(まあ、年寄りだが)の今なら理解できることもあるからだ。あるいは、子供のころには何とも思わなかった部分を面白く思うこともある。つまり、名作文学は、子供の本も含め、一生、何度も読み返す価値があるというわけだ。

興味の無い人には何とも思われないことを面白く感じることもある。たとえば、R・L・スチーブンソンの「宝島」の創作が、実は一枚の絵から始まったという話なども面白い。子供がよく冒険物語の地図を書いて遊ぶ、あれである。スチーブンソンの再婚した相手の連れ子と一緒に遊び半分で描いた、宝島の地図を見ているうちに、物語がどんどんできていったという。その地図で見ると、縦6マイル、横3マイルくらいの大きさの小島で、南の湾は「骸骨島」という島を囲んでいる。問題は、日本の子供には、このマイルという単位がイメージできないことだろう。
それよりも大きな発見が私にはあり、それは「タール」についての注釈である。こう書いてある。「タールは、石炭、木材などを乾留してつくる黒色の液体で、船の塗装に用いられる」
まあ、子供には語釈など読まない者が多いだろうし、これを読んでも何とも思わないだろう。しかし、あなた、大人のあなたは「乾留」とはどういうものか知っているか? 私は知っているような気もしたが、念のために調べた。すると、例の便利な「百科語辞典」には、「固体有機物を、空気を遮断して加熱し、分解する操作。石炭から石炭ガスやアンモニア、タール、コークスなどを得ること」と説明している。さらに「コークス」を調べると、「石炭を高温で乾留して揮発力を除いた灰黒色、多孔質の固体。発熱量が大きく燃料として重要」云々とある。これでかなり利口になった気がするというか、知識が増えた(石炭が揮発性があるとは初めて知った)のが嬉しいが、そこで気が付いたのが、「コールタール」とは、「コール」が石炭の意味の英語だから、「石炭由来のタール」ということだろう、ということだ。つまり、最初の「石炭、木材を乾留して」の説明にあるように、木材由来のタールもあるから、わざわざタールの種類を分けたのだろう。これで、「コールタール」という、頭の中に何十年も眠っていた、自分でも気づかない謎がひとつ解決されたわけである。


また、たとえば、私は「ラストモヒカン(モヒカン族の最後)」の小説をこの前、やはり児童図書のコーナーで見つけて借りて読んだのだが、その作者フェニモア・クーパーへの言及がスチーブンソンの「宝島」の序文の中にあり、英文学、特に児童文学におけるクーパーの存在感の大きさを再確認したのだが、そういうのも、「大人としての読書」のメリットだろう。英語圏外の子供では「クーパーって誰?」としかならないと思う。ちなみに、「ラストモヒカン」は、プーシキンの「大尉の娘」と似た雰囲気のある(状況が似ている)、面白い冒険小説である。ユーモア性やキャラの造形はプーシキンの方がかなり上だが。「大尉の娘」の雰囲気はジョン・フォードの「黄色いリボン」あたりに近いか。案外、ジョン・フォードは「大尉の娘」の西部劇への換骨奪胎をしたのかもしれない。

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エリート論と、「権威と権力」の問題の考察

思考は(主に論理的思考の場合だが)言葉で形成されるのが原則だから、問題が混迷化した時(しそうな場合)は言葉の定義に帰れ、というのが私の思考手法だ。
そこで、「徽宗皇帝のブログ」で予告した、エリートとは何か、「権威と権力」の違いは何か、という問題を考察するのにも、まずそこから出発するのが簡単でもあるし、間違いも少ないだろうということで、辞書を引いてみる。

エリートとは何か、ということに関して、中学生向けの英和辞書では

elite 《フランス語より》選ばれた(えり抜きの)人々、エリート、精鋭

と簡単に書かれている。まあ、この言葉がフランス語由来であることと、「エリート」という言葉がすでに日本語化していることが分かるが、説明が簡単すぎるのは中学生向け辞書の限界だろう。
そこで、少し詳しい「ザ・スーパー・アンカー」英和辞書で調べてみる。(どちらの辞書も、古書店で安いから買っただけだ。)すると、さすがに詳しくて、こう補注がある。

日本語の「エリート」よりもさらに精選された特権階級の意味が強く、しばしば軽蔑的な意味を持つ

まさに、我々下級国民が上級国民に持つ感情を明快に書いている。

そこで、今度は、「権威」と「権力」の相違を考えてみる。これは上記の「エリート」論と通底しているのである。ただし、ここでは辞書は引かないで、まず私の考えから書く。この両者(権威と権力)は明確に異なる、というのが私の基本的な思想的立場だ。
それを明らかにするために、具体例を考えてみよう。

大金持ち、政治家、天皇

の三者である。

あるいは、大金持ちと天皇の二者だけでもいい。

そうすると、この前者には権力はあるが権威はゼロであり、後者には権力はゼロだが権威はある、とたいていの人は思う、あるいは感じるのではないか。
もちろん、天皇嫌いの人には通用しない言い分だろうが、現代社会では天皇以外に「権威」的存在を私は今のところ想像できないのだから仕方がない。あるいは、少し前の医者や学者には権威があったかもしれないが、それも新コロ騒動で地に落ちたのではないか。ちなみに、政治家も医者や学者と同類だが、やや権力に近く権威には遠い印象だろう。(今の世ではほぼ権威ゼロと言うべきか)
で、天皇には権力はゼロだ、という私の発言に異論を持つ人もいるとは多いが、これは明確に日本国憲法で「天皇には政治権力は無い」と規定されているのである。政治的発言さえ封じられているに等しいのだから、あるいは一般国民以上に、(あるいは以下に)「政治権力」が無いとすら言える。

さて、では「権威とは何か」という問題だが、それは「威厳とは何か、それは何から生じるか」というのとほぼ等しい問題だろう。
その答えを先に言うなら、それは「人格や立場から生じる威圧感、その人への尊敬の念」で、「立場からも生じる以上、それは権力に等しいのではないか」という反論を招くとは思うが、その背後に「人格がある」というのが絶対的な条件なのである。
ただし、一般的には、その圧力(威圧感)は演技や見かけで産むこともできる(できた)し、歴史上の為政者たちは豪華な衣装や、群臣をひれ伏させることで、その権威を演出してきたのである。だが、見る目のある者は、そうした「演出による権威」を嘲笑してきたはずだ。
簡単な例で言えば、裁判官が被告より高い席に座ることも、権威の演出である。要するに「お前は下、私は上」という、立場(裁く立場、裁かれる立場)の簡単な視覚化だ。

話が長くなるので、この辺で終わりにするが、いずれまたこの問題を論じることになると思う。一番肝心の「権威の背後には人格的高みが必要」という問題は、宿題だ。
ダライ・ラマが、少年への無理やりキス事件でその権威を大きく下落させた事件を覚えている人も多いだろう。それだけでも、「権威には人格力が必須」というのが分かるのではないか。







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思いがけない「日常の謎」

北村薫と言えば「日常の謎」、まあ、そういう言い方をしているかどうかは知らないが、日常生活の中で遭遇した些細な謎を作品の中心にした推理小説の代表的作家だが、その北村薫の「中野のお父さん」という、わりと新しいシリーズらしき作品の一篇を読んでいたら、作者が謎にしたわけでもなさそうな部分で、奇妙な謎に出くわしてしまった。
作中の主人公である若い女性編集者(美希)とその同僚女性(ゆかり)の服装を描写した部分で、こう書かれている。

ゆかりは冷房対策のカーディガンを脱ぎ、いかにも編集者らしい大きなバッグにしまう。下はネイビーのワンピースだ。美希もジャケットを脱いで手に持った。こちらの下は黒のチュニック。








さて、どこが謎かと言うと、これは私が女性のファッションに無知なだけかとも思うのだが、「ネイビーのワンピース」というのが謎なのである。
私の世代だと、「ブルー、ネイビーブルー、私の彼は~♪」という歌を思い出すから、「ネイビーブルー」なら服に関係がありそうだと思うのだが、ここでは「ネイビー」と書かれている。それなら「海軍」にしかならないのではないか。まさか「海軍のワンピース」ではあるまい。今どき、海軍にも女性兵士がいるのかもしれないが、「ワンピース」は着ないだろう。すると、「ネイビーのワンピース」とは何だろうか。あるいは、「ネイビー」というブランドでもあるのか。
まあ、「チュニック」も分からない(古代ローマのチュニックしか想像できない)が、ジャケットの下に着ているのだから、「貫頭衣」の現代版みたいなもの、と想像すればすむ。しかし、「ネイビーのワンピース」は謎である。



一応、英和辞書を調べてみると、navyの3番目に 3=navy blueとあり、navyだけでもnavy blueを意味するようだ。しかし、現代の人間で、navy blueを知っている若者(特に女性)はあまりいないのではないか。ちなみに、navy blueは濃紺色で、イギリス海軍の制服の色と説明されている。




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「専門家」は、もはや詐欺師集団

「混沌堂主人雑記(旧題)」から転載。「蚊居肢」からの転載らしい。
たまたま、昨日だったか、なぜ「専門家」は「馬鹿」「卑怯者」なのか、ということを書いたので、その流れでここにも転載する。
まさに、菊池寛の言うとおりである。

「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」


言うまでもないが、こうした「騙す側」批判は、騙される側の責任を許容するものではない。
騙す側にも、自分が騙しているという自覚の無い者が大半なのである。
我々は、それを先の戦争で熟知したのではないか。つまり、大人の国民のほぼ全員が戦争被害者でもあり、戦争責任者でもあったのである。黙っている者もまた戦争責任者だったのだ。

(以下引用)


おなじく より
上記文抜粋
・・・・・・・・・
與那覇潤の「「専門家の時代」の終焉」
 
與那覇潤の「「専門家の時代」の終焉」はとってもいいんじゃないかね、何人かの「専門家」の実名を挙げての専門家批判でもあるが、いまはその箇所を割愛して後半部分から抜き出す。是非全文、さらにはいくつかのリンク先もじっくり眺めたほうがいいよ。
◼️「専門家の時代」の終焉 Yonaha Jun 2024年3月11日 

……真に反省すべきは、「専門家」の看板を掲げれば批判はおろか、一切の疑問さえも封殺でき、そうした厚遇を自明視して異論の持ち主(と本人が見なした相手)をいくらでも罵倒することが許される状況。そうした環境を作り出し、その下で収益や視聴率から「いいね」の数まで、おこぼれにあずかってきた人たちの全体であると思う。


13年前の3月11日以降、私たちは誰もが、立場や分野を問わず「専門家」を盲信することの危うさを見せつけられたはずだった。しかしその記憶はいつしか立ち消え、瞬間ごとの空気を読んで「専門家の私が言うから信じろ」と時の世論にお墨つきを与える、民意ロンダリングのようなビジネスが定着してしまった。


眼前の問題への発言権を独占する「専門家」という、正体不明の「言いたい放題パスポート」の発給を、私たちはもうやめる時が来ている。それがコロナで、ワクチンで、ウクライナで、パレスチナで、トランスジェンダーやフェミニズムで、多大な犠牲を払いながらこの社会が学んだ教訓であるべきだ。〔・・・〕


読者に乞いたい。「専門家」なる肩書を識者の免罪符に使うことを、もうやめてほしい。それはあなた自身の知性を損ねるだけでなく、当の専門家をも甘やかし、スポイルし、堕落させる。
彼や彼女が専門家か否かは、一切重要ではない。その人は時間が経ち情勢が変わった後でも、自身がかつてなした言動の責任を引き受ける人か。それとも単に「言い逃げ」して姿をくらます人か。それだけを見てほしい。
ホンモノを、応援してください。それができないなら、せめてニセモノの言論を拡散するのを、やめてください。そこにしか、私たちが嵌まり込んだ2020年代の迷路からの出口は、ないと思います。
與那覇潤は《13年前の3月11日以降、私たちは誰もが、立場や分野を問わず「専門家」を盲信することの危うさを見せつけられたはずだった。》と記しているが、このブログでもつい最近、「人類というものは、おしなべて「愚かなもの」である」にて、鈴木健の2011年3月16日のツイートを引用して、次のように記したがね。
……「専門家」の見解なら信頼の置けるものだといまだ思い込み勝ちのようだが、それが大間違いなのは2011年に学んだのではなかったか。


鈴木健@kensuzuki 
要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人~数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。(2011年3月16日)


この3年あまりのあいだにおいても医学者やら国際政治学者やらの言説から学んでいるのではなかったのか、連中が《菊池さんの言葉で言えば、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」》(小林秀雄「菊池寛」)であることを。
ま、専門家というプロフェッショナル集団を全面的に批判するつもりは毛頭ないが、括弧付きの「専門家の時代」の終焉の主張は是非とも受け入れるべきだろうね、とくにこの3年間の出来事を振り返りつつ、誰もがそう認知すべきだ。
蓮實)プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。〔・・・〕プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)
とりわけ大学の教員の無責任性、彼らの途轍もない幼児性があまりにも赤裸々になった3年だったね、

文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。〔・・・〕


彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。〔・・・〕彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 川田順造訳)

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急性硬膜下血腫への対策

まあ、緊急治療ができなかった場合は、回復可能性がほぼゼロなのではないか、と思われるような記事内容だと私には思えるし、予防もほぼ不可能に思えるのだが、私の勘違いかもしれない。
気にするだけムダな気がする。
外傷性が大半だと私は解釈したが、それなら、老人に多い転倒事故に細心の注意を払うのがベストの安全策だろう。
もっとも、そのまま死ぬほうが当人や家族の幸福という考え方もできる。


(以下「大摩邇」から引用)


突然発症する急性硬膜下血腫は、緊急性が非常に高いのが特徴です。そのため、発症後は早期の迅速な対応が重要です。「ある日、急に自分や家族が脳の病気で倒れたらどうしよう」「急性硬膜下血腫にはどのような検査や治療があるのだろう」など、不安や悩みを抱える方も多いのではないでしょうか。

この記事では、急性硬膜下血腫の症状や治療に関する様々な疑問に答えています。また記事後半では、急性硬膜下血腫の発症に伴う後遺症や予後についても触れています。詳しく知りたい方は、ぜひ参考にしてください。

※この記事はMedical DOCにて【「急性硬膜下血腫」を発症する原因・症状はご存知ですか?医師が監修!】と題して公開した記事を再編集して配信しており、内容はその取材時のものです。
[この記事は、Medical DOC医療アドバイザーにより医療情報の信憑性について確認後に公開しております]



急性硬膜下血腫の原因や症状
 


編集部:
急性硬膜下血腫とはどのような病気ですか?

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫とは、頭部外傷により脳を覆っている硬膜と脳の間に出血が起こり、血腫が生じることを指します。受傷直後から意識障害を伴うことも多いのが特徴です。血腫量が多く、脳への圧迫が強い場合には血腫除去術や開頭減圧術などの治療を行います。

編集部:
発症する原因を教えてください。

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の主な原因は、頭部外傷によるものです。例えば、交通事故や転倒した際の頭部に強い衝撃を与えるなどの頭部外傷が挙げられます。また、高齢者の場合は外傷だけでなく、血管壁が硬いことや高血圧も血管破裂の原因となります。

編集部:
どのような症状がありますか?

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の症状には以下の6つがあります。
・頭痛
・呼吸困難
・意識障害
・呼吸停止
・舌や手足の麻痺
・瞳孔散大
それぞれについて以下で詳しくみていきましょう。

1つ目の代表的な症状に頭痛が挙げられます。最も一般的な初期症状が急激な頭痛で、強い痛みや圧迫感を覚えたりします。

2つ目は呼吸困難です。血腫発生の影響により中枢神経系のバランスが崩れ、呼吸中枢に影響を与えます。その結果、呼吸困難を引き起こします。

3つ目は意識障害です。呼吸障害と同様に中枢神経のバランスが崩れることにより、意識障害が起きます。意識障害は急性硬膜下血腫の症状の中で最も深刻な症状です。

4つ目は呼吸停止です。重度の頭蓋内圧亢進により、最終的に呼吸が停止します。

5つ目は舌や手足の麻痺です。発生した血腫が脳神経や脊髄神経を圧迫し、障害を与えることで、舌や手足に麻痺を生じることがあります。

6つ目は瞳孔の散大です。症状のひとつとして、瞳孔の散大を生じることがあります。この場合、重度の脳圧の上昇を示しています。




急性硬膜下血腫の検査や治療
 


編集部:
急性硬膜下血腫が疑われるときに行われる検査は?

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫ではCT検査MRI検査が一般的に行われます。以下でそれぞれについて詳しく解説していきます。

1つ目のCT検査は、最も一般的な急性硬膜下血腫の診断方法であり、高精度で迅速な診断が可能です。CT検査は頭蓋骨内のX線像を数多く撮影し、パソコンで三次元的な画像を生成するもので、異常腫瘤と異常血管や血流量の増減を確認できます。

2つ目のMRI検査(磁気共鳴画像法)は、CT検査よりも高い解像度で、組織の柔らかい部分の検査に適しています。MRI検査は磁気を利用して、脳の内部構造の詳細な画像取得が可能です。硬膜下血腫の診断にも使用されていますが、CT検査に比べて撮影に時間がかかるため、緊急性のある診断にはあまり使用されません。また、脳血管撮影検査が行われる場合もあります。

脳血管撮影検査は、異常な血流量・血流速度・血管の形状を調べられ、硬膜下血腫の診断に役立ちます。血管造影剤を用い、X線装置で撮影された脳血管を詳細に調べられます。

編集部:
どのように診断されますか?

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫は、CT検査やMRI検査などの検査結果と症状を総合的に評価し、診断されます。急性硬膜下血腫の症状は、急性の頭痛・意識障害・嘔吐・片麻痺・瞳孔異常(散大・対光反応遅延)などです。これらの症状と、患者の過去の病歴や現在の症状、脳神経検査などを総合的に評価して診断がなされます。

編集部:
治療方法を教えてください。

甲斐沼先生:
治療方法には3つの方法があります。

1つ目は手術です。急性硬膜下血腫の初期段階で発見され、症状が進行していない場合には、緊急手術が行われます。手術は病変部を肉眼で確認しながら、血腫を切開して除去することが可能です。病状の回復のためにも、可能な限り早期の手術を行うことが重要です。

2つ目は穿頭(せんとう)です。血腫発生部の穿頭を行い、硬膜下洗浄を行います。血腫の広がりや大きさによっては開頭手術が必要となりますが、穿頭の場合は、大きく開頭する必要がないのがメリットです。

3つ目に硬膜下ドレナージが挙げられます。硬膜下ドレナージとは、硬膜下血腫腔にドレーンを挿入し、体外へ血液を導く方法です。この方法は治療時間が短く、入院期間を短縮するのがメリットです。また、硬膜下ドレナージは手術や穿頭と併用して行われることもあります。

編集部:
どのような方法で手術が行われますか?

甲斐沼先生:
手術は開頭血腫除去術と呼ばれる血腫を取り除く方法です。全身麻酔をかけた後、血腫の発生部の頭皮をメスで切開し、頭蓋骨を取り除きます。その部分から手術用顕微鏡を使用して血腫を除去します。一時的に取り外した頭蓋骨を戻し閉頭したら、手術が終了です。

急性硬膜下血腫の予後や後遺症
編集部:
急性硬膜下血腫の予後について教えてください。

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の予後は、以下の要素によって左右されます。

1つ目は症状の重篤度です。急性硬膜下血腫の症状は、場合によっては失神・意識障害・痙攣など重篤なものとなるため、症状の重篤度が高いほど予後は悪くなる傾向にあります。

2つ目は治療の素早さ・適切さです。急性硬膜下血腫の早期発見・適切な治療が行われた場合、予後は比較的良好となることが多いです。しかし、適切な治療が遅れた場合、脳に重大な障害が残る場合もあります。

3つ目は患者の年齢や基礎疾患です。高齢者や基礎疾患のある患者の場合、予後が良くない傾向にあります。

4つ目は病変の大きさ及び位置です。血腫の大きさや位置によって、脳への圧迫や損傷が生じ、予後に影響を与える場合があります。

編集部:
急性硬膜下血腫の余命について教えてください。

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の余命は、一般的に入院時の意識障害の程度によって異なります。なお、昏睡状態で重症度が高かった場合の死亡率は70%程度です。また、脳の損傷が強い傾向にあることから、受傷後半年~1年経過すると症状は固定し、それ以上の回復は見込めず後遺症となって残るケースが多いです。

編集部:
後遺症が残ることはありますか?

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の治療が適切に行われた場合、後遺症を残さずに完全な回復を期待できることが多いです。しかし治療が遅れた場合や、病変が大きかった場合は、後遺症が残る可能性もあります。

具体的な後遺症は、脳機能の障害・運動麻痺・感覚障害・認知症・言語障害などです。また病気や手術によるストレスや、入院生活の影響によって、睡眠障害・うつ病・不安障害などの精神的な後遺症が残る場合もあります。

編集部:
最後に、読者へのメッセージをお願いします。

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の予後は、症状の重篤度や治療の適切さなど、多くの要素によって影響を受けます。そのため早期の診断と治療が重要であり、患者自身も症状の早期発見・医療機関での適切な治療を受けることが大切です。

後遺症が残った場合でも、早期のリハビリテーションやストレスマネジメントなどで、後遺症を改善することが可能です。治療後も定期的な検査やフォローアップを受けることで、再発や後遺症の予防にもつながります。

編集部まとめ
一般的に頭部外傷によって発生する硬膜下血腫は、発症後の迅速な対応が重要となります。

急性硬膜下血腫は、患者の症状・病歴・病変の大きさ及び位置・年齢によって治療方法や後遺症の状態は異なりますが、いずれにせよ早期の診断や治療が最も大切です。

また発症後の再発や後遺症の予防にも、早期のリハビリテーションなど、早い段階での介入が重要となります。

【この記事の監修医師】
甲斐沼 孟 先生(上場企業産業医)

甲斐沼 孟 先生(上場企業産業医)
大阪市立大学(現・大阪公立大学)医学部医学科卒業。大阪急性期・総合医療センター外科後期臨床研修医、大阪労災病院心臓血管外科後期臨床研修医、国立病院機構大阪医療センター心臓血管外科医員、大阪大学医学部附属病院心臓血管外科非常勤医師、大手前病院救急科医長。上場企業産業医。日本外科学会専門医、日本病院総合診療医学会認定医など。著書は「都市部二次救急1病院における高齢者救急医療の現状と今後の展望」「高齢化社会における大阪市中心部の二次救急1病院での救急医療の現状」「播種性血管内凝固症候群を合併した急性壊死性胆嚢炎に対してrTM投与および腹腔鏡下胆嚢摘出術を施行し良好な経過を得た一例」など。




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異常な「生命維持医療」

「神戸だいすき」記事の一部だが、当女史の行動力は尊敬しても、世間の事象へのその判断や意見にはたいてい否定的な(というか、必ずどこかおかしい部分を感じる)私としては珍しく、ほぼ全面的に同意見。
よく、医療の小論文で「QOL(quality of life)」という言葉が出て来るが、下の記事に書かれたような終末期医療、意識不明の超高齢者の生命維持は、はたして当人のQOLと何か関係があるのだろうか。医療界の金儲け主義の一端だ、という神戸だいすき女史の断言は、正しいと思う。患者家族の患者への愛情や、患者の生命維持を絶った場合の世間をはばかる気持ちを人質にしていると思う。

(以下引用)

けど、20年ほど前、娘の友人が難病になり、よくなったり悪くなったりを繰り返し、少しずつ弱って行った・・・10年ほど、かかって、とうとう意識不明、昏睡状態になった時、三田の山奥にある病院にお見舞いに行きました。

彼女の病室のある病棟に行きつくまでに、いくつか病棟を通りました。
とても静かで、誰も行き来していなくて、窓から中の様子が見えるのですが、何人も何人も管につながれて、生きるしかばねと化した高齢者が、見えました。

昏睡状態・・・るいるいと。

管を外したら、すぐ、だめになる。

生かされていても、誰も、見舞いになんか来ない。

「間違っている!!」と、私は思いました。高度障害だから、健康保険のお金はどっさり、病院に落ちるのでしょう。
でも、無駄に生かされているとしか思えない人々を生かすために、若い労働者が、どれほど高額の健康保険料を納めなければならないか!!

管につないでも、限界はあるのだろうけど、そもそも管につながなければ命を保てない人を、あくまで生かすのは、間違っている。

けど、今もそうですよ。
だからと言って、家族の懇願で、管を外せば、医師は殺人罪に問われる。

家族は、医療費の負担で押しつぶされる。

それでも、一旦管につないでしまったら、もう、おしまい。

けど、日本人の心情としては、「管を外してください」とは、言えないだろう。きれいごとで済まそうとするだろう。

だけど、資金だけじゃない、労働力を考えても、もう、こんなことできなくなる。

管につないでまで生かしておいた方が、儲かる医療だったけど、それを保つ職員が確保できなくなる。やがて破綻する。

90歳を過ぎても、認知症でも、管理栄養士がついて、栄養を確保し、リハビリで鍛えれば、歩けるようにもなる。
何歳になっても、最近の医学は、人を生かせる。

でも、それが社会的に不可能になって行っている。

どこかで、誰かが、これをやめよう。無限に命があるのが正しいーという考え方をやめようと、言い出すしかない・・・

たとえば「尊厳死」、もう、助からないと決まったら、自分の意志で寿命を選択できるとか、もう、脳死になったら、管を抜いてよいという法律とか、そういう冷静な判断が必要になるだろう・・・と、私は思っていたんだけど、

そうはならずに、甘い言葉で騙して誘って、ワクチンを打ちまくるとが、どこまでも、汚い奴らだ。

ほんとうに、時々、私は、日本人のファジーが、つくづくいやになる。普段は、それが良いところだと思っているんだけど。

欲にころんだ汚い政治家の餌食になりやすい。

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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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