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自由論

私は前々から自由主義や、その極悪形態の新自由主義を批判してきたが、その根本にある自由という概念について考察してみる。

そもそも、自由とは「自らに由る」ということであり、(自分の言動の)すべての責任は自分にあるという、潔い思想ではないか、というのが私の疑問の出発点だが、もちろん、これは「翻訳語の問題で、もともとlibertyやiberalismの問題とは別である」可能性もある。もっと厄介なことに、freeやfreedomの概念にはまさに「新自由主義」的な「我欲の絶対的肯定」の匂いが満ちているのである。我欲の絶対的肯定とは「放埓、無軌道、利己主義」である。自分を絶対視し、他者を見下し蔑視する思想だ。
とすると、現在よく見られる「リベラリズム批判」は、批判の方向が間違っている可能性が高いのではないか、という懸念が生じる。それらが、日本語ですべて「自由主義」とされたり、自由の概念そのものが誤解されているのではないか。

まあ、自分でもゴチャゴチャした話をしている気がするので、出発点に戻ろう。

とりあえず、手元にある唯一の国語辞書である旺文社「標準国語辞典」で「自由」を引くと、「ほかからさまたげられないで、自分の思うままにできること」と書かれていて、まさしく世間一般の「悪しき『自由概念』」の根源が、このあたり(粗雑な、あるいは悪意ある編集意図の辞書群)にありそうだ。

そこで、私が愛用している三省堂の「新明解百科語(辞典)」を引くと、他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。自ら統御する自律性、内なる必然から決し行う自発性などがその内容で、これに関して当の個体の能力・権利・責任などが問題となると、見事に説明されている。

要するに、現代の新自由主義とか悪しきリベラリズムが、旺文社辞典の定義のような粗雑な「自由概念」に基づくものであることは明白だろう。ちなみに、「リベラル」や「リベラリズム」については、三省堂の辞典にも山川出版の「政治・経済用語集」にも出ていない。つまり、それだけ新出来の、怪しい概念だということだろう。
いや、新出来というのは言い過ぎで、もともとはイギリスの「自由党員」を「リベラル」と言ったらしい。しかも、学研の「スーパーアンカー英和辞典」では、リベラリズムをわざわざ「解説」して、「近代民主主義思想全体を貫く最も基本的な思想で、人間の自由と平等を目指すが、反動的保守派や社会主義者(特にマルクス主義者)からは軟弱で感傷的な思想と非難されることも多かった。(今でもこの語を軽蔑的に用いる人もいる)」と書いている。これは大学の教養課程の科目がliberal artsとされているために、その擁護者が書いたものだろう。そもそもリベラリズム批判者たちの批判の根拠が「(リベラリズムは)軟弱で感傷的な思想だから」、というのは本当か。それは「右からも左からも批判された」リベラル陣営の自己防御の言葉ではないか。「軟弱で感傷的」は、批判の論拠としてあまりに弱い。私など軟弱で感傷的な人間の最たる者だが、そう批判されてもまったく痛痒を感じない。タンスの端に足指をぶつけるほうがよほど痛いし、蚊に刺されるほうがよほど痒い。


話が長くなったので、ここまでにする。要するに、私の話のポイントは「自由主義は、自分の中に倫理性と自律性を持たないとキチガイ思想になる」ということ(あるいは、「自由は社会や他者に対する厳しい責任と自律を背後に持たねばならない」「無制限の自由は妄想である」「個人的な(一集団の)自由の拡大は必然的に他者(社会の他集団)の自由の抑圧になる」)だ。

そもそも、自由主義者の集団とは、昔の筒井康隆のジョークである「一匹狼の群れ」のようなものではないかwww


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人類究極の道徳

次の言葉は、私が思うには、地上の天国を作る唯一の決まり、道徳だが、誰が言った言葉か、少し想像してほしい。答えは、空白部の後に書く。




「人類の全道徳は、次の一語のうちに含まれております。すなわち、『みずから幸福たらんとせば、これを他にも施すべし』そして、他より害を受けたくなければ、けっして他にも害を及ぼすな、です。
これこそ神父さん、これこそ、われわれが従わねばならぬ唯一の原理です。この原理を受け容れ承諾するためには、別だん宗教も神も要りません。一個の善き心さえあれば足りるのです」


















答えは、マルキ・ド・サドである。そして私はこれをサドはまったく本心から書いたと思う。
出典は河出文庫「恋の罪」所載の「末期の対話」。訳は澁澤龍彦。












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「杖ブーム」?

いや、私も杖の愛用者だが、下の写真のようなものではなく、枯れ木の太目の枝を折って小枝を取り払った、「仙人型」の自家製杖である。
最初は、悪い膝の歩行補助のつもりだったが、夜間や早朝の散歩での暴漢や野犬相手の「武器」のつもりでもあり、また、肩や腕の運動の補助器具にも使っている。まあ、刃物所持だと警官に逮捕されるだろうが、杖なら見逃されるのではないか、という計算である。
しかし、それが「流行の先端」を行っていたとは知らなかったwww

(以下「大摩邇」から引用)

激増する杖ユーザー: これは「杖ブーム」と言えるか?

ザウルスの法則さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/c8441f87f7435f702806383fb3b250e0
<転載開始>

激増する杖ユーザー: これは「杖ブーム」と言えるか?


 


杖ユーザーが目につきだしたのは2022年からだ。当時、記事にもした。



どの町でも若者の「杖デビュー」? 気づかないボンクラもいる?

ザウルスのフィールドワーク:杖ユーザーの静かなる激増?


2年近く経った今、さらに激増している印象がある。以下は、昨日(2024/03/02)たまたま地元のスーパーで撮影したものである。


 



ここまではいずれも中高年の女性で、皆申し合わせたように花柄のアルミ製の杖を使っている。いちばん左の女性は30歳前後にしか見えない。このひとの杖すがたに衝撃を受け、杖ユーザーハンティングを開始した。


 


 



別方向に歩いている3人の杖ユーザーを同じ1つのフレームに収めたのは、これが初めてであるが、こんなことが可能になっている。


 


このあと、スーパーの外に出ても、杖ユーザーは次から次と現れる。



 


いちばん最初の、30歳くらいにしか見えない女性の画像のタイムスタンプは15:54で、これが杖ユーザー撮影の開始時間。最後の、路上の男性の画像のタイムスタンプは16:09である。つまり、わずか15分のあいだにこれだけの杖ユーザーを目撃したことになる。画像上では9人である。しかし、よく見ると、3人が一緒に写っている画像のいちばん奥の男性は、最下段の左の男性と同一人物であることがわかったので、実質8人ということになる。ということは、15分間に8人である。


 


さて、2022年11月に駅の改札とホームで撮影した動画では、「32分間に6人もの杖ユーザー!」 を収録していた。


動画: https://twitter.com/zaurus210/status/1597926479354302464


 


2022年は、約5分に1人である。


2024年は、約2分に1人である。


 


 



 


 


ちなみに、わが町には昨年末(2023年12月)に杖の専門店がオープンした。先見の明があると言うべきか?


 


 


 


 


 


 


 


わたしがこれほどまでに杖にこだわるのは、杖が 街中で歩行障害を示す重要な指標 であるからだ。他の身体的、知的、障害のほとんどは見た目ではわからないものが多い。しかし、杖は体の補助的付加物として60メートル先でも目に見える。この指標が街中で1~2年のあいだに激増しているということは、何か重大なことを意味しているのではないか?


 


そもそも、これは 「杖ブーム」 と言えるか?


ブーム とは、いっときの流行であり、ファッションであり、いずれ下火になって消えていく運命のものである。昨今激増中の杖ユーザーは、杖をおしゃれアイテムとして取り入れているのか?単なるおしゃれとしての趣味的な選択であれば、たしかに 「杖ブーム」 と言えるかもしれない。



例えば、帽子のようなファッションとかおしゃれアイテムならば、「ブーム」 と言えるだろう。しかし、「杖ブーム」で検索してもなぜかほとんどヒットしない。現実には、明らかに杖ユーザーは増えており、杖の市場は拡大している。杖専門のネットショップも増え、実店舗も増えているのだが、どうやら 「杖ブーム」 とうっかり喧伝できない深刻な事情があるようだ。


 


 


「杖デビュー」 の事情


ツイッター上で、杖を使い始めることを 「杖デビュー」 と言うひとが出て来たのは2年ほど前だった。「杖デビュー」 という、このやや自嘲的な言葉は決して 「ブームに乗る」 という意味合いで口にされるのではないようだ。「杖デビュー」 という言葉には、杖に頼らざるを得ない悲哀と諦念がこもっているように思える。杖生活に入るという選択には、流行やおしゃれとは別次元の、当人の人生にとって非常に深刻な事情と決断があるはずだ。それを 「杖ブームに乗って」 と言うことはできないだろう。


それでは、「ブーム」 ではないとしたら、この激増は何なのだ?


 


個々人の 「非常に深刻な事情」 については、以下の記事を参照して頂きたい。


どの町でも若者の「杖デビュー」? 気づかないボンクラもいる?


 


「非常に深刻な事情」、 「杖ユーザー激増」 の 根本原因 は、実はここ3年間、目の前にずっとぶら下がっているのだ。しかし、不思議なことに、気づかない人は永遠に気づかないようだ。どうやら、いつまでも気づかないようなひとが、杖をつく羽目になっているように思える。


そして、杖をついているひとはどうもマスクをしていることが多いようだ。これも単なる偶然ではないように思える。


 


 


 


昨年はツイッターでも何度も杖関連のツイートをしていた。


 



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 



 


 


 


どの町でも若者の「杖デビュー」? 気づかないボンクラもいる?

ザウルスのフィールドワーク:杖ユーザーの静かなる激増?


<転載終了> 

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人間不要化

まあ、笑い話ということで。
そもそも、客にレジ打ちの労働までさせるって何だよ。
企業の人件費削減ということは、社会全体の労賃低下になるのである。つまり、いっそうの日本貧困化である。

(以下引用)



コメント
1: 風吹けば名無し 24/03/01(金) 22:01:50 ID:xZrt
https://i.imgur.com/UMkd8V2.jpg

居なかったんでセルフレジ閉鎖しまーす(憤怒)

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「自由な魂」の孤独

私はテレビを見ないので、世間のゴールデンタイム、つまりテレビ視聴の一番多い7時から12時くらいの間は就眠時間だが、そうすると、真夜中に目覚めて、トイレに行った後、やることはベッドに戻って布団か毛布の中で本を読むことくらいだ。老眼だのに、寝転んでいると眼鏡がかけられないので、少し無理して読むような読書になる。少し読んで、目が疲れると、そこでだいたい読書は終わりだ。つまり、断片的読書である。
先ほどまで読んでいたのはトルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」で、村上春樹の訳だが、部分部分を拾い読みするだけで、まだ通して読んではいない。そういう読み方に向いた本だと思う。つまり、詩の本のようなものだ。
そうしていると、幾つも浮遊思考が浮かんでは消えていくので、そこが面白い。
先ほどまでの読書の間も幾つも想念が浮かんできたが、その一部を書く。

まず、一番最後に考えた、「ブラウンストーン」とは何か、という問題だ。これは、昔英語の原書の冒頭部分(そこだけしか読んでいない)を読んだ時にも疑問に思ったことだが、村上春樹はそれを訳さないまま「ブラウンストーン」と書いている。まあズルいといえばズルいやり方である。彼は、日本語に訳すと原意が見失われそうな場合や訳すのが困難な場合はカタカナ英語をそのまま使う性質というか、翻訳方針があるようだ。
たとえば、野崎孝の名訳がある「ライ麦畑で捕まえて」の題名を、英語原題「Catcher in the rye」をカタカナ書きしただけの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」としている。確かに、英語原題は日本語に訳すのが非常に難しい。野崎訳はある意味誤訳であるが、意図的な意訳で苦心の作だろう。実際、その題名だからこそ世間によく知られることになったと思う。村上訳は、訳してすらいない。逃げであると私は思うが、まあ、かえってそれで原作に興味を持って自分で調べる若者が出るかもしれない。
「ブラウンストーン」も同じであり、なぜ中学生でも「茶色の石」と訳せる(実はそうすると誤訳になる。「brown stone」ではなく「brownstone」と書かれているのである。)英語をカタカナ英語にしたのかといえば、これは「茶色の石」という漠然とした、広範囲な意味ではなく、「建築材料として特に多用されている褐色砂岩」であるからだ。しかし、こんな長々しい訳はできないし、「褐色砂岩」と書いても、そのニュアンスは伝わらないという判断だろう。

話が長くなったので、「ティファニーで朝食を」の中の詩的な部分(すべてがそうなのだが)をひとつ紹介して終わりにする。「ドク」は、テキサスかどこかのど田舎の浮浪児(泥棒常習犯らしい)だったホリーをその兄(映画では弟)と一緒に拾って、14歳の彼女を一時期妻(愛人)としていた人間で、家出した彼女に未練を持ち、彼女を探しにニューヨークまで出てきていた初老の田舎者(獣医師)である。ホリーとは再会した後、円満に別れたようだ。


ホリーはマティーニのグラスを上げた。「ドクにも幸運を祈りましょう」と彼女は言って、僕のグラスに彼女のグラスを合わせた。「幸運を祈るわ。そしてね、ドク、ひとこと言わせて。空を見上げている方が、空の上で暮らすよりはずっといいのよ。空なんてただからっぽで、だだっ広いだけ。そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消え失せていく場所なの」















まあ、常識だが、宝飾店のティファニー(正しくは「Tiffany’s」)で朝食を食うことはできない。そこで、映画の中では、ティファニーのショーウィンドウを見ながらヘップバーンがベーグルか何かを食っている。しかし、「ティファニーで朝食を(ティファニーでの朝食)」という作品タイトルも実に洒落ている。カポーティは若いころは天才だったと思う。詩想に溢れている。

ティファニーとは、貧乏人が憧れる夢の世界だが、そこは虚飾の王国でもあり、そこで朝食を食う(生きる)ことは、人間が空の上で暮らすようなものだろう。つまり、この題名は不可能性の象徴だ。もちろん、地上で生きることに嫌悪を感じる鳥のような魂もある。だが、その自由にも孤独という代償がある。



The movie "Breakfast at Tiffany's", directed by Blake Edwards and based on the novel by Truman Capote. Seen here, Audrey Hepburn as Holly Golightly...
















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資本主義社会の中で「食の安全性」は無視されていく

引用記事は、まあ、自分の体験談を含んだ、ある意味では貴重な記録(記事)だが、当然、筆者の思い込みでしかない可能性も高い。同じ経験でも、いくつもの解釈の可能性はあるだろう。
特に、ヴィーガンの勧めというのは、普通の人には危険性もあると私は思う。肉食動物がみな病気になるわけでもないwww
戦後に日本人の平均寿命が(戦前に比べて)どんどん伸びていったのは、食生活の欧米化によるタンパク質摂取量の飛躍的な向上のためだというのが、一般的な見方だろう。個人的体験による思い込みを、自分と異なる他人にまで押し付けるのは、有害ではないか。まあ、つまり、「話半分に」読めばいいわけだ。
これは、たとえば軽信軽薄の「神戸だいすき」女史の記事にも言える。言うまでもないが、有益性もあるから、どちらのブログも読むわけだ。両者とも、思い込みは激しいが、騙そうと思って書いている記事は無いだろう。

まあ、記事の信頼性はともかく、魚は放射能汚染水の放水で、肉は餌に入れたホルモン剤などのせいで、野菜は農薬と肥料(最近は種子が使用不能、つまり生物の不妊化の原因になる可能性のある遺伝子改変作物も市場に出ているはずだ)のせいで、安全性に疑問があるのは確かで、もはや、現代文明では安全な食物を探し、手に入れるのはほとんど不可能なのではないか。

(以下引用)



 私が痛風を膝に発症したのは、たぶん40歳前だったと思う。1990年前後のことだ。
 理由は、若い頃から苛酷な登山が趣味で、足や膝を痛めつけていたこと。おまけに、プリン体の多いもつ煮込みが大好物だったこと。独り身の寂しさから酒に溺れることが多かったことなどだ。

 それは、ある日突然、膝にやってきた。膝に激痛が走り、まるで歩けなくなってしまったのだ。無理して近所の整形外科を7軒も回ったが、どの病院でも原因を特定できなかった。
 それが痛風発作であることを指摘してくれたのは、山とアマ無線の仲間、石川医師だった。石川さんからアロプリノールをいただいて飲んだら、やっと発作から解放された。

 それから、私は腎障害を引き起こして顔色が黒ずみ、尿量が不安定になった。最大の原因は、おそらく仕事でアセトンやトルエンなど有機溶剤に触れていたからだと思う。有機溶剤は、腎臓細胞を直接破壊するのだ。
 私は痛風から、やがて「痛風腎・腎臓結石・尿路結石」にまで進んでいた。
 これが理由で、仕事ができなくなり、私は現在住んでいる中津川の田舎に引っ越すことにした。
 
  中津川に移住してからも、頻繁に尿路結石の激痛に苛まれることになった。当時の療法といえば、利尿作用の強いビールを大量に飲んで尿量で結石を洗い流すというものだったが、そのビールのプリン体が痛風の原因物質だったので、泥棒に強盗を摘発させるような不思議な治療だった。

 痛風腎の症状は、最初に腰痛が現れる。現在、腰痛に苦しんでいる日本人は3000万人といわれるが、実際には半分程度が腰痛持ちで、そのうち相当部分が痛風腎・尿路結石のような腎臓障害から来ているともいわれる。
https://www.oda-hinyoukika.com/back-pain/

 私が腰痛と腎臓障害に関係があることを思い知らされたのは、水産加工食品、とりわけ「練り物」=さつま揚げやちくわを食べた後に、ひどい腰痛が起きる法則を見いだしてからだ。
 もちろん、生の魚、とりわけ鰯・鯖・秋刀魚をたくさん食べても同じことになるし、肉を食べても同じなので、結局、動物性タンパク質の大量摂取が腎臓を腫れ上がらせ、腰痛を引き起こしていると確信するに至った。

 これらを食べると、尿量がひどく減ってしまう。しかし野菜米卵程度の食材に変えると、腰痛は治まり、尿量も元に戻るのだ。
 だが、練り物の場合は、特別に反応が早い。どうしてちくわやさつま揚げ、はんぺんが腎臓を痛めつけるのか、そのメカニズムが長い間分からなかったが、ある動画コンテンツを見て得心がいった。

  【なぜ報道しない!?】「政府が必死に隠し続ける...ひと口食べるだけでも腎臓が破壊される猛毒食品」を世界一わかりやすく要約してみた【本要約】
  https://www.youtube.com/watch?v=d8qRZJSpxCM&ab_channel=%E6%9C%AC%E8%A6%81%E7%B4%84%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%80%90%E6%AF%8E%E6%97%A512%E6%99%82%E6%9B%B4%E6%96%B0%E3%80%91

  このなかに、「腎臓を破壊する猛毒物質」として「リン」が挙げられている。水産加工物=練り物のなかには結着剤としてリンが大量に含まれているのだ。
 またハムやソーセージにもたくさん含まれているので、同じ結果をもたらすだろう。肉だって、「人造肉=端肉をまとめて大きくしたものにも含まれている。
 問題になるのは、添加物としての無機リンだともいわれる。
 https://www.food-joint.shop/column/20220425/

 腎機能が低下してくると、リンも問題だが、タンパク質そのものが腎臓細胞に有害といわれ、腎機能悪化を加速させる。
 だから、腎臓病になると、尿中に蛋白が増えて、タンパク質制限食を食べなければならなくなる。
 https://healthcareinfo.kissei.co.jp/ckd/remedy/protein/

 昔から「痛風」といえば「力士の風土病」といわれるほど、力士には痛風や痛風腎持ちが多く、痛風による多機能不全から平均寿命も短かった。
 理由は、激しい稽古で、全身に疲労物質が蓄積し、そこに尿酸が蓄積しやすいこと。食事が「ちゃんこ」という、プリン体を余さず効率的に吸収できる理想的な痛風鍋食であること。引退後も食生活を見直す力士が少ないことなどだ。

  力士には糖尿病や高尿酸血症(痛風)、高脂血症などが多く、引退後も食生活の嗜好を変えられないことで、動脈硬化をすすめて狭心症や心筋梗塞、脳卒中を引き起こして平均年齢よりも若死にする人が非常に多い。
http://www.kohashi-clinic.com/column/column2_04.html

痛風腎が原因で非業の死を遂げた有名力士としては、北の湖が挙げられる。
 理事長現職のときに「両側水腎症」で倒れ、その後直腸癌で死亡したのだが、結局、食生活と苛酷な稽古による全身痛風、尿酸症によって体調を悪化させた。

 ちゃんこは、水産加工物=練り物が主役で、食品添加物である無機リンの含有量が非常に多い。
リンは通常の食生活で不足することはなく、摂り過ぎだけが問題となる。不足すると骨密度が低下する一方で、過剰になっても副甲状腺機能の亢進により骨代謝が悪化し、骨密度が低下する。リンは有害物質なのだ。
 食品添加物としてのリン酸塩は、心臓や血管も悪化させる。腎機能の落ちている人は、練り物、ハム、ソーセージを原則避ける必要がある。

 腎臓機能が低下すると、余分なリンを尿中に排泄できなくなり、血液中にたまって「高リン血症」を引き起こすことがある。この状態が続くと、骨がもろくなったり、血管や腱などの骨ではないところでカルシウムと結合して石灰化を起こしたり、腎臓の働きがいっそう悪くなったりする。
 腎臓が悪化している人は、リン酸塩の多い練り物などは避けなければならない。
https://www.taisho-kenko.com/special/vitamin-mineral/phosphorus/#:~:text=%E4%B8%80%E6%96%B9%E3%80%81%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%92%E6%91%82%E3%82%8A%E9%81%8E%E3%81%8E%E3%82%8B,%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 

水産加工物=練り物主体の鍋物が、どれほど無機リン酸塩過剰であるか、加工食品を避けて生鮮食品を直接、食材にしなければならないかは、たくさんのサイトで警告されている。
  https://www.suntory-kenko.com/column2/article/8562/#:~:text=%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AF%E9%AA%A8%E3%82%84%E6%AD%AF,%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E9%87%8D%E8%A6%81%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

 それから、私のように腎臓が悪化してしまった人間が、透析を受けるまでの重症化を予防する方法について、私の実体験から触れる。
 20年ほど前まで、「腎臓病は安静にしていなければならない」という誤った考えが医学界の常識だった。

 だが、安静にする意味はない。これは間違いだった。そして、運動によって腎機能が改善すると実証する医師が登場してきた。メカニズムについては以下のリンクに紹介されている。
 https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_331.html

 https://gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/23/071400031/080100004/

「歩く」ことで、病気の9割は直せる。これは私の体験からも、はっきりと言えることだ。医師の指示に従って安静にして、いろいろな薬を投与されていた患者は、高額の治療費を医療産業に献上するだけで、結局透析に進み、寿命を極度に短くして亡くなっていった。
 医療に不信感を抱き、「歩く」こと=つまりホメオステーシスの向上に望みを託した人々は、例え腎臓を悪化させても、本来の寿命に近いまで生き延びることができた。

病気は医者にかかると悪くなる 2020年10月27日
 http://hirukawamura.livedoor.blog/article/493726798.html

  歩けば病気が治る、認知症も防げる 2022年09月16日
  http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5967498.html

これまで「安静が必要」と医師が指示することが常識だった、たくさんの病気についても、実は安静は逆効果で、手足を動かして無理のない(体液循環)運動をした方が桁違いに早く治癒できるという報告がたくさん出てきた。
 ちょっとした風邪や疲労も、安静よりも軽い運動の方が回復に効果があることが分かってきた。

 その代表例が、腎臓障害なのだ。歩くことで腎機能が回復することが、たくさん証明されるようになった。
 もしも腰痛が出たら、ヘルニアなどの機能障害を疑う前に、腎機能障害、とりわけ腎臓腫脹を疑い、腎臓が肥大して腰椎を圧迫していることが腰痛の原因であることを疑うべきなのだ。

 これまで医療界で、腎臓腫脹が腰痛を引き起こしている可能性について触れた人は少ない。医学常識では、骨や筋肉に問題があると考えられてきた。
 しかし、私は水産加工食品、練り物を食べることで腰痛が出ることに気づき、タンパク質を断って精進食に切り替え、おまけに、歩くことで腰痛を早く治せることに気づいた。
 私の直感では、現在の腰痛患者の半分くらいが、無機リン・過剰タンパク質障害を含む腎臓腫脹からくる腰痛ではないかと疑っている。ならば、精進食(ビーガン食)に切り替えることが治療の近道ということになる。

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ギャッツビーが「偉大な」理由

これも私の別ブログに書いたばかりの記事だが、ここにも載せておく。

(以下自己引用)
フィッツジェラルドの「The great Gatsby」の日本語訳題名が「華麗なるギャッツビー」というアホな訳がされているのはみなさんご承知だろうが、これはその当時映画題名に「華麗な(る)」という題名を付けるのが流行っていたため、映画がそういうアホな題名になり、その後では小説もそういう題名を踏襲しているだけなのを知っている人も少なくなったのではないか。当然、原題は「偉大なるギャッツビー」と訳すべきものである。
ところで、このアホな死に方をした、どうやらギャングの小ボス、あるいは成り上がりチンピラらしい男がなぜ「偉大な」とされているか、ということを問題視した人はあまりいない気がする。
というのも、フィッツジェラルドはアメリカ文壇では群小作家のひとりだとされているからではないか、と思われるし、それも当然ではないか、と私は思うが、別の面では大作家たちが足元にも及ばない重要性を持った作家だとも思っている。たとえば、私はほとんど読んだことがないが、スタインベックとかフォークナーなどは、長い作品を書いただけの、根気のある鈍才作家だと見ることも可能だろう。そこは趣味の問題だ。
では、なぜフィッツジェラルドが重要作家だと私が思うのか。それは、彼の詩人性と思想性にある。このふたつは一体である。つまり、彼は詩も哲学書も書かなかった詩人であり思想家なのである。そして、小説を書く才能(「物語」を作る才能)が無いのに小説家になった、「道を間違えた」作家だ、というのが私の考えだ。

「偉大なるギャッツビー」は、私が昔から気になっている作品なのだが、小説を読んだこともなく、映画もまともに見たことがない。映画は、レッドフォード版をテレビで見たと思うが、ほとんど覚えていない。ところが、小説を読まなくても、私はこの作品を日本で一番理解している人間、いや、それは言い過ぎだが、この作品の精神をかなり理解している人間のひとりだという気がする。それは、この作品の本質が、作品冒頭に書かれたエピグラフ(引用句)にあると思うからだ。極論すれば、この小説を読まなくても、小説の大筋を知っていて、このエピグラフに感動できるなら、それはこの作品を本質的に理解したということである、と私は思う。何しろ、フィッツジェラルドは「小説の下手な小説家」なのだから、真面目に作品を読むと、かえって混迷に陥るとすら私は思うのである。

そこで、ダイジェスト好きの私が、この作品を思い切ってダイジェストしてみるつもりだ。英語版を元にするつもりだが、私は英語は苦手なので、この作品の「本質」を示す部分だと私が思う部分だけを訳(意訳になるだろうが)してダイジェストにする。
まあ、冒涜的作業と思う人もいるだろうから、そういう人は、次回の「偉大なるギャッツビー」ダイジェストを読まなければいい。
念のために言うが、「物語」的部分はほとんど省略するので、ダイジェストではなく、作品の「エッセンス」と言うのが適切だと思う。つまり、一種の「作品評論」でもある。







 そして、彼女が望むなら金の帽子をかぶるがいい
 高く跳ね上がることができるなら、彼女のために跳ねるがいい
彼女が「金の帽子をかぶった恋人よ 高く跳ね上がる恋人よ
 私はあなたを愛します」と言うまで
                 (トーマス・パーク・ディンビリエ)


ーーーーーーーーー

ただギャッツビーだけが私の反発心から免れていた。ギャッツビーは、私が自然な軽蔑心を持つすべてを代表していたのだが。
仮に個性というものが、途切れることなく続けられた一連のジェスチャー(身振り:仮装や演技)であるなら、彼には何か豪華なものがあった。約束された人生への高められた敏感さのようなものが。
それは軟弱な感受性とは異なる、希望を求める度外れた才能、ロマンチックな心構えとでも言えそうなもので、私が他の誰にも見たことがなく、これからもおそらく見いだせないと思う。
ギャッツビーは、その正しさを最後に証明した。「希望」はギャッツビーを捉えたのである。
彼の夢からの目覚めに伴う汚いゴミの浮遊物は、悲哀の不毛さや人間の意気揚々たる絶頂期のはかなさへの私の目を時々閉ざさせるのである。

ーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーー

ギャッツビーは青い信号を、熱狂的な未来を信じた。その未来は我々には毎年のように後退していくのである。そして、我々の傍を巧みにすり抜けていく。だが、それは問題ではない。ーーー明日は我々はもっと速く走るだろう。両腕をより遠くに伸ばして。……そして、ある晴れた朝にーーー
だから我々は流れに逆らってボートを漕ぎ続ける。絶え間なく過去に押し戻されながら。














(夢人追記)

あまりにも露骨な説明なので、書かないほうがいいかもしれないが、要するにギャッツビーとは、存在しない「永遠の恋人」の幻のために、滑稽な金の帽子をかぶって高く跳ね上がって墜落して死んだすべてのアホな男の象徴である。そして彼らのその度を超した愚かさこそが「偉大」なのである。
今では、女性への崇敬(女性の神格化)というものは女性にとって唾棄すべき概念とフェミニストの女性たちから言われていると思うが、はたしてそれは男にとっても女にとっても幸福な在り方なのだろうか。
少なくともギャッツビーという存在には、ある種の永遠性、象徴性があるようだ。

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酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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