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自由論

私は前々から自由主義や、その極悪形態の新自由主義を批判してきたが、その根本にある自由という概念について考察してみる。

そもそも、自由とは「自らに由る」ということであり、(自分の言動の)すべての責任は自分にあるという、潔い思想ではないか、というのが私の疑問の出発点だが、もちろん、これは「翻訳語の問題で、もともとlibertyやiberalismの問題とは別である」可能性もある。もっと厄介なことに、freeやfreedomの概念にはまさに「新自由主義」的な「我欲の絶対的肯定」の匂いが満ちているのである。我欲の絶対的肯定とは「放埓、無軌道、利己主義」である。自分を絶対視し、他者を見下し蔑視する思想だ。
とすると、現在よく見られる「リベラリズム批判」は、批判の方向が間違っている可能性が高いのではないか、という懸念が生じる。それらが、日本語ですべて「自由主義」とされたり、自由の概念そのものが誤解されているのではないか。

まあ、自分でもゴチャゴチャした話をしている気がするので、出発点に戻ろう。

とりあえず、手元にある唯一の国語辞書である旺文社「標準国語辞典」で「自由」を引くと、「ほかからさまたげられないで、自分の思うままにできること」と書かれていて、まさしく世間一般の「悪しき『自由概念』」の根源が、このあたり(粗雑な、あるいは悪意ある編集意図の辞書群)にありそうだ。

そこで、私が愛用している三省堂の「新明解百科語(辞典)」を引くと、他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。自ら統御する自律性、内なる必然から決し行う自発性などがその内容で、これに関して当の個体の能力・権利・責任などが問題となると、見事に説明されている。

要するに、現代の新自由主義とか悪しきリベラリズムが、旺文社辞典の定義のような粗雑な「自由概念」に基づくものであることは明白だろう。ちなみに、「リベラル」や「リベラリズム」については、三省堂の辞典にも山川出版の「政治・経済用語集」にも出ていない。つまり、それだけ新出来の、怪しい概念だということだろう。
いや、新出来というのは言い過ぎで、もともとはイギリスの「自由党員」を「リベラル」と言ったらしい。しかも、学研の「スーパーアンカー英和辞典」では、リベラリズムをわざわざ「解説」して、「近代民主主義思想全体を貫く最も基本的な思想で、人間の自由と平等を目指すが、反動的保守派や社会主義者(特にマルクス主義者)からは軟弱で感傷的な思想と非難されることも多かった。(今でもこの語を軽蔑的に用いる人もいる)」と書いている。これは大学の教養課程の科目がliberal artsとされているために、その擁護者が書いたものだろう。そもそもリベラリズム批判者たちの批判の根拠が「(リベラリズムは)軟弱で感傷的な思想だから」、というのは本当か。それは「右からも左からも批判された」リベラル陣営の自己防御の言葉ではないか。「軟弱で感傷的」は、批判の論拠としてあまりに弱い。私など軟弱で感傷的な人間の最たる者だが、そう批判されてもまったく痛痒を感じない。タンスの端に足指をぶつけるほうがよほど痛いし、蚊に刺されるほうがよほど痒い。


話が長くなったので、ここまでにする。要するに、私の話のポイントは「自由主義は、自分の中に倫理性と自律性を持たないとキチガイ思想になる」ということ(あるいは、「自由は社会や他者に対する厳しい責任と自律を背後に持たねばならない」「無制限の自由は妄想である」「個人的な(一集団の)自由の拡大は必然的に他者(社会の他集団)の自由の抑圧になる」)だ。

そもそも、自由主義者の集団とは、昔の筒井康隆のジョークである「一匹狼の群れ」のようなものではないかwww


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