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エリート論と、「権威と権力」の問題の考察

思考は(主に論理的思考の場合だが)言葉で形成されるのが原則だから、問題が混迷化した時(しそうな場合)は言葉の定義に帰れ、というのが私の思考手法だ。
そこで、「徽宗皇帝のブログ」で予告した、エリートとは何か、「権威と権力」の違いは何か、という問題を考察するのにも、まずそこから出発するのが簡単でもあるし、間違いも少ないだろうということで、辞書を引いてみる。

エリートとは何か、ということに関して、中学生向けの英和辞書では

elite 《フランス語より》選ばれた(えり抜きの)人々、エリート、精鋭

と簡単に書かれている。まあ、この言葉がフランス語由来であることと、「エリート」という言葉がすでに日本語化していることが分かるが、説明が簡単すぎるのは中学生向け辞書の限界だろう。
そこで、少し詳しい「ザ・スーパー・アンカー」英和辞書で調べてみる。(どちらの辞書も、古書店で安いから買っただけだ。)すると、さすがに詳しくて、こう補注がある。

日本語の「エリート」よりもさらに精選された特権階級の意味が強く、しばしば軽蔑的な意味を持つ

まさに、我々下級国民が上級国民に持つ感情を明快に書いている。

そこで、今度は、「権威」と「権力」の相違を考えてみる。これは上記の「エリート」論と通底しているのである。ただし、ここでは辞書は引かないで、まず私の考えから書く。この両者(権威と権力)は明確に異なる、というのが私の基本的な思想的立場だ。
それを明らかにするために、具体例を考えてみよう。

大金持ち、政治家、天皇

の三者である。

あるいは、大金持ちと天皇の二者だけでもいい。

そうすると、この前者には権力はあるが権威はゼロであり、後者には権力はゼロだが権威はある、とたいていの人は思う、あるいは感じるのではないか。
もちろん、天皇嫌いの人には通用しない言い分だろうが、現代社会では天皇以外に「権威」的存在を私は今のところ想像できないのだから仕方がない。あるいは、少し前の医者や学者には権威があったかもしれないが、それも新コロ騒動で地に落ちたのではないか。ちなみに、政治家も医者や学者と同類だが、やや権力に近く権威には遠い印象だろう。(今の世ではほぼ権威ゼロと言うべきか)
で、天皇には権力はゼロだ、という私の発言に異論を持つ人もいるとは多いが、これは明確に日本国憲法で「天皇には政治権力は無い」と規定されているのである。政治的発言さえ封じられているに等しいのだから、あるいは一般国民以上に、(あるいは以下に)「政治権力」が無いとすら言える。

さて、では「権威とは何か」という問題だが、それは「威厳とは何か、それは何から生じるか」というのとほぼ等しい問題だろう。
その答えを先に言うなら、それは「人格や立場から生じる威圧感、その人への尊敬の念」で、「立場からも生じる以上、それは権力に等しいのではないか」という反論を招くとは思うが、その背後に「人格がある」というのが絶対的な条件なのである。
ただし、一般的には、その圧力(威圧感)は演技や見かけで産むこともできる(できた)し、歴史上の為政者たちは豪華な衣装や、群臣をひれ伏させることで、その権威を演出してきたのである。だが、見る目のある者は、そうした「演出による権威」を嘲笑してきたはずだ。
簡単な例で言えば、裁判官が被告より高い席に座ることも、権威の演出である。要するに「お前は下、私は上」という、立場(裁く立場、裁かれる立場)の簡単な視覚化だ。

話が長くなるので、この辺で終わりにするが、いずれまたこの問題を論じることになると思う。一番肝心の「権威の背後には人格的高みが必要」という問題は、宿題だ。
ダライ・ラマが、少年への無理やりキス事件でその権威を大きく下落させた事件を覚えている人も多いだろう。それだけでも、「権威には人格力が必須」というのが分かるのではないか。







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それだけで人生は生きるに値します。

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