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「素晴らしい新世界」への道

「陛下、わたしがこの島をまかされるとすれば
「その国家では、万事この世の中とは逆にしたいと思います。
まず、取引はいっさい認めません。
官職は廃し、学問はひろめず、
裕福と貧乏の差をなくし、
したがって奉公というものもなくなるわけです。
契約、相続、境界、領地、田畑などなくし、
所有権をめぐる相続問題も起こらなくなります。
金属、穀物、酒、油などの使用を禁じ、
職業はなにもなくなります。
男はみんな遊んで暮らします。女もです。
ひたすら無心に、清純に生きるのです。
君主権もなくしますーーー
「暮らしに必要なものは、自然が産み出してくれます。
人間が汗水流して働くことはありません。
そうなれば、反乱も犯罪もなく、
剣、槍、短刀、銃砲などの武器も、無用の長物となります
大自然は、ひとりでに、ゆたかに限りなく五穀を実らせ、
幼子のように無心に遊ぶ人々を養ってくれるでしょう」

(シェークスピア「テンペスト」より。小田島雄志による小説化)

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「脳みそが無い」ことのメリットww

「何で女は(自分で選んでおきながら)DV男を非難するのか」という「はてな匿名ダイアリー」スレッドのコメントのひとつが面白い。なるほど、我が家の伝統病である脳卒中や脳梗塞は「脳があるから」起こるわけだ。誇りにしようwww ちなみに、欧州の中心的王室の遺伝病は血友病で、それが帝政ロシアにも伝わっている。いや、だから遺伝病は偉いと言うわけではないww

(以下引用)

narwhal あの連中は脳味噌ないよ。今頃気がついたの?/ただ脳味噌ないのは悪いことばかりでもなくて、あいつらは脳卒中や脳腫瘍や中枢神経変性疾患で命を落とすことはないだろうね。もともとないものは壊れようがないから。

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安物買いで得るものと失うもの

またしても「隠居爺の世迷言」からの転載だが、隠居爺氏の奥さんの発言が実に賢いので感心した。私もケチな性格なので、こうした「安物買いの銭失い」に類したことはよくやるが、安物を買うことで失うのは銭だけではなく、「満足感」つまりは、人生の貴重な時間でもある、ということだ。
ただ、私は安物好きでもあり、安くていい物を作っているメーカーは、社会貢献の高さから言って社会から褒賞を与えるべきだ、と思う。ただし、その判定を電通などがやったりするから、これは不可能で、せめて私は自分のブログで褒めようとは思っている。まあ、その種のものを買うこと自体が、そのメーカーへの褒賞である。ちなみに、昔、1万円近い外国ブランド物の靴を買ったら、履いたその日に匂いがしたので、怒りのあまりゴミ箱に叩きこんだこともある。
私が一番理不尽だと思うのが電話代で、私はLINEしかしないので通話料はゼロのはずだが、毎月5000円から8000円もの請求が来るのが理解できない。その料金の詳細が分からないのである。まあ、電子決済時代には、こうした「怪しい料金」が横行するのだろう。

(以下引用)赤字は夢人による強調。

 前回、米が5kgで150円の値上がりと書いたけれども、300円の間違いだった。コロナ前と比べると400円も上がっている。30%以上の値上がり。主食だからねえ。心細い限りだ。

 私の世代は子供の頃貧しくて、ご飯でお腹を一杯にしていた。副食は量が少くて味が濃く、ご飯を食べるためのブースターみたいなものだった。つまり、ご飯だけでは不味くて食べられないので、副食でごまかしながらご飯でお腹を一杯にするというのが食事だった。のりとか、塩辛とか、ふりかけとか、生卵に醤油とか、バターに醤油とか。肉や野菜などその他の副食も全般に味を濃くしてご飯が進むようにしてあった。

 だから、ご飯さえあれば生きていけるという頭がある。貧しくなれば副食をどんどん減らしていって、最悪塩をかけながらご飯を食べるということになっても、まあ生きていけるだろうとは思っている。

 その、ごはんの素である米がガッツリ値上がりするのは心細い。そこで今回は、いつもと違った少し安い米を買ってみた(安いのは新米ではないせいかな)。すると細君が珍しくも正論を吐いたのには驚いた。曰く「100円200円をケチって1か月まずい思いをして暮らすよりも、100円200円出して満足して1か月暮らした方がいいではないか」というのだ。

 確かにねえ。でも、癪に障ってね。値上がりしても何の抵抗もないまま高い金を出すって、気分がよろしくない。抗議したくなるよね。いつもよりちょっと安くてまずい米にしたのはそんな意味合いがある。まあ、無駄な抵抗なのだけれど。

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「隠居爺」氏の明治維新否定論への反論

「隠居爺の世迷言」(毎度言うが、この「よまいごと」という言葉の響きはいい。「迷子」を「まよいご」とは言わないで「まいご」と言うのと同じである。)記事の一部で、長文なので話の枕部分は省略した。
ただし、ここに引用したすべての意見に同意するわけではない。私は司馬遼太郎というのは日本には稀な論理的思考を持った人間で、明治維新肯定論も大東亜戦争否定論も両者の合理性の有無に根拠があると思う。隠居爺氏は「薩長政府」が嫌いなあまり、偏見もあるようだ。「薩長の芋侍」などという言い方にその感情的なところが出ている。
私は江戸時代は好きだが、江戸幕府(徳川家維持だけを目的とした政治体制)は大嫌いである。そして、鎖国政策は200年近く(余り?)の国家の安泰をもたらしたという点では評価し、そのために身分制度が固定され、下民が貧しい生活を送り、上級国民が堕落したという点で批判する。
私は日本人が馬鹿だとはまったく思わない。単に平和主義で争いごとが嫌いなだけだろう。つまり、「競争主義」というのは向いていないのである。明治時代の「身を立て名を上げ」も、他者を蹴落とすことではなく、同郷人全体を代表して、郷里を発展させたいという願いが強かったことは、明治時代を描いた文章を読めばよく分かる。(たとえば小川未明の「小さな針の音」など、明治から大正にかけての若者の「立身出世」の高邁な精神を描いている。)それを「通俗道徳」として否定するのは浅慮だろう。
「戦わない人間は負け犬である」という発想こそが西洋文化ではないか。日本人は「和をもって尊しとなす」のが本来なのである。

(以下引用)


 その司馬史観とはどのようなものだろうか。ウィキペディア(Wikipedia)には「その特徴としては日清・日露戦争期の日本を理想視し、(自身が参戦した)太平洋戦争期の日本を暗黒視する点である。人物においては、高評価が「庶民的合理主義」者の織田信長、西郷隆盛、坂本龍馬、大久保利通であり、低評価が徳川家康、山県有朋、伊藤博文、乃木希典、三島由紀夫である。」との記載がある。

 まあ、私の司馬史観に対する認識とそれほど違わない。司馬史観の出発点は大東亜戦争に対する疑問であるように思う。「実にくだらない戦争につきあわされた」という被害感が強かったようだ。というのも、日本軍の戦い方にあまりにも合理性がなかったからで、それで命を捨てろと言われたところでバカバカしいとしか感じなかったのだろうと思う。

 それは特攻隊のことを考えるだけでも、凝り固まっている人でなければ了解可能だ。特攻隊員一人ひとりはお国のためにと信じ込んで命を捨てたのだと思うから、大変に立派な精神を持っていた。問題は特攻をさせた上層部になる。

 特攻をさせることが少しでも戦況に影響するというのであれば意味があるが、特攻隊など戦争の勝ち負けには何の影響もなかった。要するに無駄死にをさせただけのことになる。むしろ、貴重なパイロットを次々に死なせてしまったことで日本の戦闘力を弱体化させた。あるいは戦後の復興の力を削いだ。日本人にはそんなことも理解できない人がかなりいる。

 実は私の父親が司馬遼太郎と年齢が近く、短期間だったが軍隊経験があったものだから、私は司馬遼太郎の気分がよく分かるような気がする。というのも、私の父親も、バカバカしいことをさせられたという思いが強かったからだ。

 毎日砂浜に穴を掘って、号令一下荷物を抱えて走り出し、その穴に飛び込む訓練をさせられたらしい。何のためかというと、上陸してきたアメリカ軍の戦車が穴の上を通った時に、穴の中から磁石付きの爆弾をくっつけるための訓練だったという。戦車は腹の部分の装甲が薄いのだそうだ。

 何という原始的というか、非効率的というか、これではまるで「アメリカ軍対未開の原住民」の戦いだ。大東亜戦争がいいとか悪いとか、アメリカを騙したとか騙されたとか、目的は何だったとかいろいろな言われ方をするけれども、誰にでも分かる圧倒的な日本の欠点は、末端の者に行わせるこのような一つ一つの具体的な戦闘というか、戦法というかの稚拙さ、愚かさであるように思う。これについて行けるのは本物の馬鹿だけだ。

 「一所懸命竹槍の訓練をしてB29を撃墜する」というのが最も極端な例になるけれども、本当に日本人というのは未開民族であると思う。その非常識さは想像を絶する。そして残念なことに現在でも、日本人は未開の原住民レベルを脱していないのであって、それは今回の新型コロナ騒動や対策、マスクやワクチンなどを見てもよく分かる。マスクをしながら食事を食えとか、ソーシャルディスタンスとか、パーティションとか、深夜は宴会をするなとか、感染防止効果のないワクチンを打てとか、本物の馬鹿しかついていけないような指示がいろいろ出された。大東亜戦争時とちっとも変わっていない。


 


 話がそれた。そんなわけで司馬史観の出発点は、大東亜戦争に兵隊として参加して、こんなバカバカしいことをさせられるのは御免被りたいという実感だったと想像がつく。そこで司馬遼太郎は考える。「日本は一体いつからこんな愚かな国になったのだろうか」と。

 その結果、「どうも、日露戦争までの日本はきちんとした国だったのではないか」というのが司馬史観になる。そこで、自分の書く歴史小説も日露戦争までを美化して創作し、世に出した。それは歴史的な事実を問うというよりも、「明治までの日本は賢かったのだから、それを見習い、大東亜戦争のような馬鹿みたいな戦争をするのはやめよう」という呼びかけだったように思う。

 私の極めて主観的な見方からとすると、実際には司馬遼太郎は明治の日本がそんなに素晴らしい国だったとは評価していなかったのではないかと思う。つまり、あえて嘘を書いて明治の日本は素晴らしかったことにしたのではないかと私は疑っている。

 そして、この作戦は大成功だった。なぜなら明治維新が素晴らしいものだったとするフィクションは、日本人にとって大変に受け入れやすいものだったからだ。というのも歴史的な距離感が適切だったのだと思う。司馬遼太郎にとって大東亜戦争当時の日本を褒めることは不可能だ。自分に嘘をつくことになるし、それが嘘だということを知っている人も大勢いる。

 また、江戸時代のことになると、距離が遠くなりすぎて他人事になってしまい、どのように書いたところで感動を呼んだり、教訓を得たりすることが難しくなってしまう。

 ところが、明治維新くらいの適度な過去であれば、日本人にはなじみがある。「ああ、そういう人がいたな」とイメージが湧く。その一方で、司馬遼太郎が何を書こうが、褒めるにしろけなすにしろ、自信を持ってそれを否定できる人もいないくらいの過去にはなる。だから、あることないこと書いて、大東亜戦争の対極、つまり日本の理想的なあるべき姿を示そうとしたのだと思う。

 そんな司馬遼太郎の嘘に物の見事に騙されたうちの一人が私になる。本来の日本人は大変に思慮深く、文化的でもあるのだけれど、大東亜戦争に限っては狂ってしまったという司馬史観を漠然と受け入れるようになっていた。

 そのまま死んでいければ何のことはない、平和な人生だったと思うけれども、この年齢になって突然新型コロナ騒動、ロシア・ウクライナ紛争の馬鹿騒ぎ。いやいや、驚いたのなんのって。今まで見たどんな映画よりも、今まで読んだどんな小説よりも、奇妙奇天烈なことが現実として目の前で展開された。

 何にそんなに驚いたかといえば、日本人の愚かさに対してだ。いまだに夢ではないかと思うくらいに。ごく普通の人だと思って接してきた人が、マスクを外さない、ワクチンを何回も打つ、どういうこと? 何も知らないくせに悪いのはロシアだと騒ぎ始める。どういうこと?

 政治家に至っては、総理大臣を筆頭にしてマスクをかけること、ワクチンを打つことを推奨する。どういうこと? 自国民を殺してどうしたいわけ? シャモジまで持ってウクライナに応援に出かける。どういうこと? 負けることがはっきりしている悪を支援して、日本国民の税金をばらまいて、どうしたいわけ?

 私も現在は大分理解が進んだせいか、人間というものは"お化け"を信じて行動するものであること、また、"お化け"を利用して人を操ろうとするものであることが分かってきたけれども、それにしても日本人たちよ、騙されすぎ、騙しすぎじゃありませんか?

 ウィキペディアによれば、司馬遼太郎は「庶民的合理主義」を好んだというけれども、最近の日本にそのようなものはかけらもない。一から十まで不合理で覆い尽くされている。なおかつ、そのことに疑問を持つ人はごくわずかだ。

 結局のところ、司馬史観は誤りであると私は考えるようになった。ここまで愚かな日本人というのは一朝一夕でできるものではない。つまり、100年や200年でできるものではない。大東亜戦争当時だけが狂っていたのではなく、400年も500年も前から日本人は遅れていたと思い始めた。

 そもそも、こんな東の最果ての島国に誰が好んで住もうと思うものか。移り住んできたのは犯罪者、奴隷、その他大陸では満足に生きていけない欠陥人間ばかりだったに違いない。そして、飛鳥、奈良の昔から中国の猿真似をすることで社会を維持してきた。

 唯一日本が輝いていたのは、戦国時代(1500年代)だったのではないだろうか。日本人が主体的に考え、主体的に行動して、日本を作ろうとした。そこにはリアリズムに基づいた合理性があった。今も残っている日本人の知恵というのは、その多くが戦国時代に作られたといってもいいように感じられる。戦国時代は、世界的に見たって日本は指折りの国だったはずだ。

 それをダメにしたのは、鎖国だったろうと私は考える。浅学非才の私が思うことだから当てにはならないが、日本をダメにしたのは鎖国以外に考えられない。鎖国によって日本の進歩は、日本人の思考は停止してしまった。とはいっても、鎖国をした(できた)のは、地政学的な条件が大きいのだろうから、ある意味日本の宿命だったのかもしれない。

 そして、明治維新のときにはすでに欧米列強に大きく水を開けられた状態であり、明治維新以後、日本は欧米の属国にされたまま現在に至る。単に軍事力で太刀打ちできなくなったばかりではなく、国民の精神発達も遠くに置かれたままの状態だった。大東亜戦争で欧米に牙を向けたものの、それは反抗期、あるいは中2病にかかったくらいの出来事であると考えた方がいい。

 しかし、時代は確実に動いている。日本の宗主国である欧米が衰退してきているのはもはや隠しようもない。新型コロナ騒動にしろ、ロシア・ウクライナ紛争にしろ、そのことの表れといってもいい出来事に見える。日本が欧米の属国をしていれば安泰という時代ではなくなったことを示している。

 アメリカの忠犬である岸田政権が国民の支持を全く得られないことも、時代の変化を表しているように私には感じられる。もはやアメリカには日本の面倒を見るだけの国力などなく、落ちぶれ、傾いた帝国と化している。アメリカを当てにできなくなった日本には、この先明治維新以上の混乱が待ち受けているのかもしれない。100年、200年、300年先を見据えながら舵取りをしていくことが必要な時代になってきている。

 「アメリカの属国ができないのであれば、中国の属国になればいいや」というのは、日本人の考えそうなことだと思うが、私としては世界情勢が大きく変わるのであれば、それを利用して自主独立を目指す国になってほしいと願う
(核兵器を持てという意味ではないので念のため)。しかし、今の日本人の民度の低さを見ている限り、1000年早いかもしれない。

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「成功率」とコスト

市民図書館から借りて来た本のなかで、あまり期待していない本だったので最後に残っていた川端裕人の「夏のロケット」を読みだすと、案外面白い。ただ、これはサントリーミステリー大賞の優秀賞作品らしいが、ミステリーではなく、一種の「冒険小説」だろう。ただし、ミステリーとは何か、冒険とは何かの定義が必要だ。まあ、科学を題材にしているが、SF小説ではないと思う。SFの本質は科学や文明論に基礎を置いた「センスオブワンダー」にあると思うからだ。この作品のような「科学(ロケット)への興味」そのものが日常である若者たち(これも、若者とはどういう年齢層かという定義が問題だが)の、非日常的冒険(犯罪との関わり)の話はSFではなく冒険物語だろう。犯罪が問題のひとつだという点で、「ミステリー大賞」候補になったのだろうが、犯罪は別にミステリーでも何でもない。ある種の人々の日常は犯罪と同居している。
で、この作品のどこが面白いかというと、ロケットについての「常識でない常識」が分かるからだ。つまり、専門家には常識だが、一般人にはまったく未知の知識だ。
そして、その中には、一般論化してみれば浮遊思考の「思索ネタ」になるようなものが幾つも出て来る。
その中のひとつを挙げておく。

「NASAの有人ロケットは、99.999%以上成功するように設計し、パーツを管理し、組み立てがなされているんだが、これを99%に下げただけでたとえば部品のコストは五分の一になってしまう。」

これは作中人物の発言で、この発言がNASAやロケット関係者の「常識」なのか、それともこの人物の思い込みか作者の創作かは分からないが、これが専門家の「常識」ならば面白い。言うまでもないが、これまでのNASAによる有人ロケット打ち上げの成功率は9割すら切るだろうからだ。
つまり、この「常識」は、NASAが米政府に予算を申告するための便宜としての作り話である可能性が高いということである。
我々一般人は「99%の成功率」と聞いただけで凄いと思うし、「99・999%」と聞いたら、それは100%と同じとしか思わない。
ここで、確率の数字を「丸めて」考えてみる。確率の有効数字に意味があるとするなら、「99.999%の成功率」は「99%の成功率」より(桁が3桁違うのだから)1000倍高いということになる。それなら、コストが5倍くらい高くなっても仕方がないだろう、という話になるわけだ。しかし、その成功率が実にいい加減なものであることは前述したとおりである。

まあ、そのほかに、冒険とは何か、という考察もしたが、それは別記するつもりだが、忘れるかもしれない。

なお、私は米国の月への有人飛行と月への上陸も嘘だと思っているが、ここでは論じない。いずれにしても、米国が宇宙飛行に興味を失っている理由は「人類を他の惑星に出して生還させるのは不可能だ」と米政府が判断したからだろう。

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まだコロナワクチンを推進する馬鹿たちの正体

「コロワくんサポーターズ」の連中の顔に、ある共通性があるように見える。薄っぺらい顔、ある意味無邪気な顔ということだ。新興宗教信者にも多そうな顔で、つまり「騙されやすい顔」でありながら、信じたことを頑固に信じ続ける顔でもある。要するに、真面目くんでもあり、学歴馬鹿の顔でもある。自分が信じる対象(学校で習ったこと)が、当人のアイデンティテイそのものだから、それを否定されると当人の存在意義が無くなる。彼らが戦闘的なのは、要するに自己防衛本能でしかない。社会の利益など口実でしかない。
新コロワクチンによって起こる帯状疱疹は免疫疾患であり、つまり免疫力低下だから、エイズと同じと言っていい。この「コロナワクチン推進グループ」はエイズ患者を増やす活動をしているわけだ。

(「大摩邇」から転載)

















新型コロナワクチンは、一利もないだけの危険である。著名人がその広告塔として大衆を誘導するべきではない
フォックス・ニュースの記者、メーガン・ケリーは、アメフトのスター、トラビス・ケルシーが「ミスター・ファイザー」と自称し、ファイザーワクチンの広告塔として機能して、そのリスクの高いワクチンの接種を推進し、若者を誘導していることに疑問を投げかけた。

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浅き夢みし酔ひもせず

眠りが浅く短いので、夜早く寝ると深夜に目が覚めるのが常である。そして、寝覚めの前には夢を見ることが多い。夢を見ているのか、朦朧状態であれこれ考えているだけかは分からない。
で、今日の夢は、自分が暴力団の結婚式に強制的に「来賓」(もちろん、ただの知人としてであり、「賓客(大事な客)」ではない。)として壇上で挨拶させられる(祝辞を述べさせられる)というもので、まるで三谷幸喜か筒井康隆が描きそうなシチュエーションである。なぜ一般人(大半は路上で拉致されてきたようだ。)にそんな演技をさせるのかというと、この結婚式は彼らの地元ではなく、観光地である当県で行われたからである。(「富豪刑事」に、それに似たシチュエーションがある。結婚式ではなく、暴力団の合併式だが。)誰も知人がいないから、挨拶(祝辞)の内容はいい加減でいい。参加者はすべて暴力団関係者で、酒と御馳走が目的であり、誰もロクに聞いていないからだ。しかし、中には、ちゃんと聞いていて、おかしなことを言ったらいじめてやろう、場合によっては半殺しにし、あるいは本当に殺してもいいと思っているサイコな奴もいるわけだ。(死体はコンクリート詰めにして海中に投棄すれば、まず永遠に出て来ない。ただの行方不明扱いである。警察が真面目に捜査するわけがない。)
私はそいつらとまったく面識がないし、新郎新婦の名前も聞いたこともない。聞かされても覚えていられる自信もない。「来賓」はすべて私と似たり寄ったりだろう。その中には、私が名前を知っている三流漫画家(ラーメン屋などに置いてある三流青年漫画雑誌に何か描いている中年か初老の男で、小太りで風采の上がらない、しかし善良そうな男だ。)などもいる。これは、暴力団の地元の人間で、実際に彼らとも少し面識があるので、連れてこられたらしい。
まあ、そういう夢で、私は実際にスピーチをし、しどろもどろだったが無事に終わったような、うっすらとした記憶がある。あるいは既にドジをして殺され、ここで記事を書いている私のほうが死んだ私の夢かもしれない。

なお、記事タイトルの「浅き夢見し」は、おそらく「浅き夢見じ」(否定文)が正しい読みだと思われる。昔の文章には濁点が無かったからだ。ここでは「浅い夢を見た」の意味で、「見し」とした。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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