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気の赴くままにつれづれと。
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飼い猫や犬は草を噛む。草には催吐作用(逆流や嘔吐を引き起こす)と瀉下作用(腸の奥に住む虫を駆除する)があるからだ。動物はさまざまな機能に対して、さまざまな種類の草を選ぶ。
草食動物であるゾウは多くのナトリウムを必要とするが、植物にはあまり含まれていない。ナトリウムがないと病気になる。そのため、ゾウはナトリウムを別の場所で確保する必要がある。ケニアには、エルゴン山と呼ばれる活火山の中腹に洞窟がいくつもある。これらの洞窟は、何世代にもわたってゾウが作り上げたものだ。この200万年間、ゾウは大量の岩を食べてきた。洞窟の中では、ゾウは膝をついて這い、ナトリウムを豊富に含む岩の塊を掘り出さなければならない。また、カルシウムやマグネシウムを含むミネラル豊富な水も飲んでいる。
ルワンダのゴリラは、乾季にヴィソーク山の斜面から掘り出した岩を食べる。ゴリラが掘り出して食べる岩には、鉄分、アルミニウム、粘土が多く含まれている。ゴリラはこの岩を薬として食べる。粘土には下痢を止める働きがあり(乾季のゴリラの食事は植物性であるため、下痢や危険な水分喪失を引き起こす)、アルミニウムには制酸作用がある。乾季になると、ゴリラは草木を見つけるために高い場所に行かなければならず、高山病を発症する可能性があるため、鉄分は有用である。
ここから、ジェフリー・A・タッカーさんの寄稿文です。最初、コロナワクチンの話がしばらく続くのですが、本題の部分から翻訳しています。
Why Are They Drugging the Students?
Jeffrey A. Tucker 2024/05/24
…この問題の根底にたどり着いたと思ったら、新たな情報が流れてくる。最近、私は、強制的な医療化に反対して子どもの権利を擁護する団体、エイブルチャイルドを設立したシーラ・マシューズ・ガロ氏の講演に参加する機会に恵まれた。
なぜこのようなことが必要だったのだろうか? 実は、今日の公立学校に通うほとんどの子どもが、毎日この脅威に直面しているからだ。
彼らの多くが ADHD、つまり注意欠陥・多動性障害であると特定される可能性がある。
結局、ADHD を構成する化学的に証明されたものは何もないことがわかっている。これは、チェックリストの質問票で特定された行動に基づいて適用される診断にすぎない。
チェックリストは、そわそわすること、物忘れ、退屈、課題を終わらせること、さまざまな形の行動、フラストレーションの表現などに関するものだ。
言い換えれば、ここにあるのは、特に男の子が何ヶ月も何年も机の前にじっと座り、権威ある人物から割り当てられた課題を完了するように言われたときに予想されるごく普通のすべての兆候が書かれてあるリストだといっていい。
この種の診断では、多くの子供たち、特に例外的な子供たちや、かつては「才能豊かで才能がある」と考えられていた子供たちを巻き込むことになっているだろう。
実は、今日では完全に正常な行動特性を病理化しようとする巨大な産業が存在する。これは特に男の子に非常に大きな打撃を与える。なぜなら、一般的に男の子は女の子よりもゆっくりと成長し、女の子に比べて環境適応に対する行動抵抗の傾向があるからだ。
この驚くべき現実について詳しくは、目を見張るような著作『 ADHD 詐欺:精神医学はいかにして正常な子供を「患者」にするのか』をお読みいただきたいと思う。
このような診断の目的は何なのだろうか? 皆さんもご想像のとおり、この想定される問題には薬がある。
薬の名前はさまざまだ。リタリン (メチルフェニデート)、アデロール (アンフェタミン)、デクスメチルフェニデート、リスデキサンフェタミン、クロニジン、アトモキセチンなどだ。
これらの薬のどれも、生物学的異常に対する化学的治療薬として証明されていない。これらはすべて行動調整薬、つまり向精神薬、つまり子供用の麻薬だ。
何百万人もの子供たちが、10代の 13%に及ぶほど、精神科の薬を服用している。大学生になると、その割合はさらに高くなる。成人の約 3人に 1人が精神科の薬を服用している。状況は悪化している。
そして、これらは「学校から」始まるのだ。
これらすべてを聞いて私は驚いた。しかし、ある意味では、これは私たちが知っている他のすべてのことと一致している。ここには、公立学校などの政府機関、規制当局、そして奇跡を約束して人々に薬を投与しながら、実際には人生を台無しにする医療当局と緊密な協力関係にある業界がある。
もしあなたが 7歳の頃から薬物中毒になり、向精神薬に頼って生活していたら、あなたの学生時代はどれほど違っていたか考えてみてほしい。
今日の何百万人もの子供たちは同じことに苦情を言えない。
これはまったく驚くべきことであり、大々的に暴露されるのを待っているスキャンダルだと私は思う。
ロバート・F・ケネディ・ジュニア氏が最近公の場で指摘しているように、関連する要因の中には、学校での銃乱射事件とこれらの薬物の広範な流通との奇妙な関係がある。(※ コメント / 銃乱射事件を起こした子供たちの多くが何らかの向精神薬を服用しているという調査があります。こちらの過去記事でもふれています)
多くの事件はすでに知られているが、本当の問題は銃ではなく薬物製品にあることを一般の人々がますます理解しつつあるにもかかわらず、その他の事件の医療記録は公表されていない。
しかし、活動家たちは、より深く(向精神薬と銃乱射の関係を)調べるよりも銃を取り上げることに完全に集中している。
私はアデロール中毒の若者たちと個人的に接したことがある。いろいろな意味で、大学生にとって、アデロールは奇跡の薬のようだ。
大学では、時間の使い方に関する規律は優先順位が低くなる。その代わりに、長いレポートを締め切りまでに提出すること、テストで書いた翌日には忘れてしまうような膨大な資料を暗記すること、そして、ときどき集中力を維持することが求められる。
多くの学生にとって、この薬はまさに医師が処方したものだ。集中力を高めて徹夜した後、1、2日ゾンビのような気分になるが、誰もそれに気づかない。
私は、身体的なものだけでなく心理的なものも含め、依存症に陥る人を何人も知っている。薬物のない生活は、それに比べれば退屈に思えるが、誰がそんなことを望むだろうか。
こうした学生は、これを職業生活に持ち込み、同じパターンを試みている。彼らは一日中働き、夜通し起きて、驚くべき成果を上げることができるが、それはあなたが求めていたものとは少し違う。
あなたが解決策を求めても、それは実現しない。実際、彼らは何日も連絡を取らず、仕事の記憶を失って再び現れる。このパターンが繰り返される。
本当の問題は薬物にあることが徐々にわかってきた。私は、少なくとも安定した労働パターンを持ち、時間をかけて構築できるスキルを多少は覚えている、そこそこの生産性のある従業員を雇うほうがよいと結論づけている。
問題は、誰かを雇うときに「どんな薬物を飲んでいますか」といった質問をするのはあまり適切ではないということだ。結局は推測することになり、時には間違った推測をすることになる。
長年の経験から、これらの薬物は職業生活にとって大惨事だということをお伝えしたい。誰も決して服用すべきではない。
いずれにせよ、これは私の熟慮した意見であり、私は大学生に頻繁にこれらの薬物を服用しないよう警告している。大学生に当てはまることは、高校生や小学生には何千倍にも当てはまる。これらの薬物がキャンディーのように学校の子供たちに配られるというのは、まったくのスキャンダル以外のなにものでもないのだ。
親にはこのことに抵抗する権利と義務がある。
最近知ったことだが、ADHD の診断には科学的な根拠がまったくなかったこと、(コロナの際の)社会的距離の背後に科学的な根拠がまったくなかったことを知ると、なおさら驚きだ。
すべては、さまざまな命令から利益を得ている国家とそれに隣接する民間セクターのプレーヤーに奉仕するためにでっち上げられたもので、どういうわけか、結局は国民に薬を投与することになる。このすべてに私は驚愕している。
もっと広い視野で考えてみよう。私たちは公立学校を創設し、子供たちに通学を強制し、報酬の得られる仕事から彼らを締め出し、男女を一緒にし、すべての生徒が同じペースで学ぶかのように画一的なカリキュラムを押し付け、教師から裁量を奪い、巨大な官僚機構を学校に押し付けた。
子供たちが環境にうまく適応できないと、私たちは彼らを精神病者と呼び、政府とつながりのある製薬会社が利益を得られるような方法で彼らに薬を与える。
このレベルの残酷さが、まさにシステムに組み込まれている。文明社会がこれを容認できるとは驚きだ。そして、起こっているスキャンダルの全容がわかれば、減量薬、他のワクチン、奇跡の治療法、そして対症療法の仕組みそのものについて、他の疑問を抱かざるを得なくなる。
この穴はとても深い。
それを食い止めるため、今後も「検体にはウイルスが少なすぎる」「ウイルスは生きた細胞内でしか増殖できない」などと言いわけをし、検体から直接ウイルスを発見するのではなくそれをの腎臓細胞に混ぜ、そこから「ウイルスを発見」し続けるのでしょう。
ウイルスの存在証明というと難しい話のような気がしますが、たったこれだけのことができないということです。
わかってみればこんなわかりやすい詐欺に何十年も騙されていたのです。
そのようなサンプルを純粋化しても言い訳は同じで、そこにはウイルスは見つからないらしい。 つまり「患者の身体は何兆ものウイルス粒子であふれかえっているはずなのに、その表面からも内部からも何も見つからない」ということなのだ。
昔のウイルス学者たちは、電子顕微鏡写真とより効率的な純粋化技術の出現により、病人の中からあらゆる種類のウイルスを見つけ出すことができると確信していた。
しかし20世紀の中頃になってもこの試みは実を結ばず、ウイルスは発見されなかったので、このプロセスは断念せざるを得なくなった。
純粋化されていない試料を撮った電子顕微鏡写真、そこからコンピューターで作成された仮説のゲノム、そのシミュレーションに合わせて作られたPCRテストなどは忘れること。これらのどの作業も実際のウイルスの存在がなくても可能だからだ。
[補足:電子顕微鏡の問題点]
対象物に対する電子線の放射は有機物を瞬時に炭素化、つまり燃焼して炭素に変えてしまいます。したがって当初、人に雷を落として写真を撮るようなものと揶揄されました。
(写真)国立感染症研究所で分離に成功した新型コロナウイルスだそうです 1/5⬇️
したがって、生きた細胞をそのまま電子顕微鏡で観察することは原理的に不可能です。
そこで、凍結固定や化学固定が発案されましたが結果に大差はありませんでした。
※細胞に二重膜があるように錯覚するのも化学固定の際に使用されるオスミウム酸染色によるアーチファクト(人工操作物)です。 3/5⬇️
東日本大震災という歴史的な惨事が起き、世界から日本の「絆」が賞賛されたことは記憶に新しい。しかし、「がんばろう」という大合唱とは裏腹に、私たちの社会はズタズタに分断されている。所得階層間、雇用形態間、性別間、政府間、地域間、世代間などの対立が激化し、私たちはバラバラな存在に追いやられている。日本社会は先進国と呼ぶのが痛々しいほどくたびれ、多くの日本人は、生きづらさ、閉塞感、未来を見通せない不安に怯えている。では、この社会を覆い尽くしている漠然とした重苦しさはどこから来るのか。私たちはこの「分断社会」を終わらせることができるのか。
新進気鋭の財政社会学者、慶応義塾大学経済学部の井手英策教授に聞いた。井手先生は近著『分断社会を終わらせる』(共著 筑摩選書)において、この命題に迫りその解決策を提唱している。
――今、先生の近著『分断社会を終わらせる』(共著 筑摩選書)や『分断社会・日本』(共編 岩波ブックレット)が巷で大変な話題になっています。まず、その執筆動機からお聞かせ頂けますか。
井手英策氏(以下、井手) 執筆動機は大きく分けて2つあります。1つ目の動機は「理不尽な社会を終わらせたい」と思ったからです。最近よく巷では、格差が大きくなったという声が聞かれ、新聞、雑誌などでもこの話題が取り上げられることが増えました。国民の多くが漠然と格差は広がったと感じています。しかし、現在の日本と高度経済成長時代の日本を比べれば、明らかに格差は小さくなっています。それでは、なぜ日本社会は先進国と呼ぶのが痛々しいほどくたびれ、多くの日本人は生きづらさ、閉塞感、未来を見通せない不安に怯えているのでしょうか。
慶応義塾大学経済学部 井手 英策 教授
第8回の「世界青年意識調査」(内閣府2009)によれば、他国と比べて日本の若年層(18歳~24歳)は社会で成功する要因として、「運やチャンス」をあげる人が多くなっています。
運やチャンスで人生が決まるということは、親の所得や環境によって自分の未来が決まるということです。
私は生まれた時に「運が悪かった」という理由だけで、その人の人生が決まる社会というのは、それは格差が大きいとか小さいとかの問題ではなく、とてもおかしいと思います。裕福な家に生まれる、貧しい家に生まれる、男性に生まれる、女性に生まれる、障害を持たずに生まれる、障害を持って生まれるなどはすべて運です。私は、運が悪かっただけで、その人の人生が決まってしまう社会を「理不尽な社会」と呼んでいます。現在の日本社会は、まさにそれにあたります。
運が悪かった人たちも、運が良かった人たちと一緒に生存競争の輪に加わり、その後の努力や頑張り次第で自分たちの生き方を決めていくことができる社会をつくる必要があります。運が悪かった人たちに感情的に「かわいそう」と手を差しのべるのは学者の仕事ではありません。私は財政社会学の立場から、このような理不尽な社会をなくす方策を研究、そして提言していきたいと考えています。
2つ目の動機は「子どもたちの未来に不安を感じた」からです。私には今3人の子ども(8歳、4歳、0歳)がいます。3人の子どもたちの生きていく世の中を考えたときに、言いようのない不安に襲われることがあります。それは、もし私が運悪く今日帰宅の途中で車に跳ねられ、死亡とか、障害を負うようになった場合、「妻や3人の子どもたちは安心してこの日本社会で生きていくことができるのだろうか」と考えるわけです。
今日、本の生活保障システムでは、義務教育や子どもの医療費を除き、現役世代にとってのサービスはゼロに等しい状態にあります。残された3人のどもたちが、塾はもちろん高等教育さえ受けられなくなる状況がパッと浮かびます。そのような社会を私たちは次世代の子どもたちに残してはいけない、何とかしなければいけないと考えています。
――そもそも、今回のテーマである「分断社会」は、どのように形成されてきたのですか。
井手 日本国憲法第27条に「勤労の権利と義務」というのがあります。勤労とは単に働くことではなく勤勉に(industrious)働くことを意味しています。おそらく「労働や就労が義務」の国はあったとしても「勤労が義務」である国は、先進国では日本と韓国だけだと思います。このことは、なぜ日本社会は引き裂かれ、分断されているかを考えるときにとても重要になってきます。
1.すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2.賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3.児童は、これを酷使してはならない。(日本国憲法第27条「勤労の権利と義務」)
この「勤労」という言葉は、戦時中の国家総動員体制のもと、定着した概念であるにもかかわらず、日本人の心性に訴えかける言葉として左派にも好んで用いられています。
1945年11月に出された日本社会党の綱領には、「わが党は勤労階層の結合体」であると最初に記され、翌月に出された日本共産党の運動綱領でも、勤労大衆、勤労者、勤労同胞など、勤労と言う言葉が8度も用いられています。
歴史を遡ると、江戸時代の後期の民衆の間に広く定着していた「通俗道徳」的倫理観に注目することができます。江戸時代後期の商品経済の急速な浸透によって、民衆は商品経済に巻き込まれ、「家」まるごと没落の危機に直面しました。そうした事態に直面した民衆は、勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範を内面化し、それに従うことで家没落の危機を回避しようとしたのです。こうした勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範が「通俗道徳」と言われるものです。
その後、この「通俗道徳」というイデオロギーが今日に至るまで、日本国民を縛り続けていくことになります。市場経済において、努力したにもかかわらず、失敗する人間は常に存在します。しかし、通俗道徳、すなわち「勤勉に働き、倹約に務め、努力するものは成功する」というイデオロギーを前提とすると、経済的な失敗者は、そのまま道徳的な敗北者になります。高度経済成長を牽引した、時の内閣総理大臣池田勇人は、「救済金を出して貧乏人を救うという考え方」を批判して、占領期の社会政策を「贅沢過ぎ」だと断罪しています。それは、経済的弱者を救うことは「濫救」「惰眠」を増加させるものだとみなされていたからです。
通俗道徳が支配する社会とは、「努力が必ず報われる」という建前のもとで、勝者と敗者が存在する社会です。しかし、個別の人生1つひとつを取りあげてみれば、そこには多くの偶然が介在しますので、実際には努力が必ず報われるという保証はありません。それにもかかわらず、人びとは、自らが通俗道徳を実践したことを証明し、社会的な承認を勝ち取るために経済的に成功しなければなりません。
その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。それが、極端な競争社会に全面化するのは、明治維新によって、江戸幕府が崩壊し、それまで人々の行動に枠をはめていた江戸時代の身分制的秩序が崩壊した後のことです。現在の「分断社会」の原型はこの明治時代に生まれています。そして、この状況を大本教の教祖である出口なおは「獣の世」(※)と呼んだのです。
通俗道徳的な規範に立脚した社会はアジア・太平洋戦争の敗戦で最大の危機を迎えます。
しかし、通俗道徳は、この危機の時代を「勤労」や「倹約の美徳」の思想となって生き延びることになります。日本政府は1つひとつの通俗道徳の実践という従来の価値観を「家の存続と個人の立身出世」を目的とするものから「国家」を目的とするものへと変換させました。それが「皇国勤労観」です。これは後に、労働への義務意識が染み込んだ日本の「勤労国家レジーム」の成立につながっていきます。
「勤労国家レジーム」のもとでは、勤労者への減税と勤労の機会を保障する公共投資を骨格とし、社会保障には多くの予算を組みませんでした。社会保障は就労ができない人向けの現金給付に集中し、サービスすなわち現物給付の占める割合は「限定」されることになりました。しかも、限られた資源を配ろうとすれば、低所得層や高齢者、地方部といった具合に、分配の対象を「選別」せざるを得なくなります。そして、この限定性、選別性の背景には「自分でできることは自分でしなさい」という「自己責任」の論理が徹底的に貫かれています。
このことは、現役世代にとって、生活の必要、すなわち、住宅、教育、老後の生活等に必要な費用を、自分たちで稼得しなければならないことを意味していたのです。
一時は奇跡的とも言うべき高度経済成長による所得増大によって、多くの人々は自らの責任で生活の安定を確保することができました。人々は、「勤労国家レジーム」に基づき、
「倹約の美徳」を称賛し、将来に備えるため「貯蓄」に励みました。勤労を前提として、社会保障を限定する自己責任型の福祉国家を維持することができたのです。ここでは出口なおの案じた「獣の世」は、限定的にしか現れてきませんでした。
しかし、バブルが崩壊後、状況は一変します。減税と公共事業に支えられた勤労国家の発動も虚しく、国際的な賃金下落圧力が景気回復を妨げ、巨額の政府債務が積み上がりました。また、少子高齢化が進み、専業主婦世帯と共働き世帯の地位も逆転、近代家族モデルは完全に破綻しました。さらにバブル崩壊に追い打ちをかけるように、市場原理や競争原理、自己責任論が持ち込まれました。
今、日本社会は通俗道徳の実践にエネルギーを費やした多くの敗者で溢れています。働くことは苦痛でしかなく、勤労の先に待ち構えるのは貧困のリスクなのです。まさに「獣の世」の再来と言えます。
(つづく)
【金木 亮憲】
(※)明治日本は一般的には、政治指導者から1人ひとりの国民までが一致団結して「近代化」を追い求めた、つまり「価値観が共有された時代」と言われる。しかし、その一方で、この明治日本を「獣の世」と喝破した人物がいる。大本教の教祖である出口なおである。
『外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ目が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ・・・』(出口なお 1837‐1918)
「獣の世」(「分断社会」はその顕在化の1つ)は明治日本から始まり、一時高度経済成長の陰に隠れて見えなくなっていた。しかしバブルが崩壊、そして今、近代そして資本主義の終焉が近づくにつれて、「新自由主義」などと姿を変えて再びその牙を剥き始めている。
温かみのある、情熱や思いやりに満ちた社会、他者への配慮にあふれ、仲間のために行動することをよしとする誇りある社会、そんな日本社会はもはや昔話になった。そして、今や「貧困」や「格差」という言葉が日本社会を語る日常的なキーワードになりつつある。
<プロフィール>
井手 英策氏(いで・えいさく)
慶應義塾大学経済学部教授。専門は財政社会学。1972年 福岡県久留米市生まれ。東京大学大学院経済研究科博士課程単位取得退学。博士(経済学)。著書に『経済の時代の終焉』(岩波書店、大佛次郎論壇賞受賞)、共著に『分断社会を終わらせる』(筑摩選書)、共編に『分断社会・日本』(岩波ブックレット)、『Deficits and Debt in Industrialized Democracies』(Routledge)など多数。
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