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軍神マルス第二部 39

第三十九章 噂

グリセリードの捕虜たちが、身代金の支払われた数名を除いてすべて処刑されるという事を聞いたマルスは、国王シャルルの元に出向いて、残る捕虜全員の命と引き換えに百万リム自分が出すから、捕虜たちを自分に渡してくれ、と言った。二度に渡る戦争の戦費の捻出に頭を悩ませていたシャルルは、渡りに船とばかりにこの提案に飛びついた。
マルスは五万人近い捕虜を率いて、新領地のゲイル郡に向かった。その護送には、オズモンドが隊長を務める親衛隊五百人が当たった。その旅にピエール、ヤクシー、マチルダ、ロレンゾ、アンドレも同行したが、トリスターナだけはマルスの屋敷の留守番に残った。
「お前たちは、これからゲイル郡で百姓をして貰う。グリセリードの方へは連絡しておくから心配するな。ゲイルの山野を開墾して、一人十反の畑を作った者は自由の身にしてやろう。これは、お前たちの国がアスカルファンに与えた被害の償いだ。そのままここに残りたい者には、自分の開墾した畑をそのまま与えよう」
 マルスは捕虜たちにそう告げた。自分たちが処刑されるのでも、一生奴隷にされるわけでもないと知った捕虜たちは歓喜の声を上げた。
ゲイルの領主の城に入ったマルスたちは、旧領主の召使たちと対面した。彼らは明らかに、上の者にはへつらいながら、地元の百姓を蔑視し、虐げるのを当然と考えるような者たちだった。
マルスは彼らに金をやって追放した上で、地元の百姓の娘や子供の中から城の召使や従僕を選んだ。
マルスはグリセリードの捕虜たちに、まず自分たちの住む家を作らせた。およそ十日で五万人の住む住居群が出来上がった。そこを拠点に、ゲイルの山野に向かって捕虜たちは開墾の仕事を始めた。暑さも次第に和らぎ、開墾の労働もそれほど苦痛を感じさせるものでもない。捕虜たちにとっては、自分の国で百姓をしているよりここの方が安楽だと思う者も多かった。
出来た畑には、出来次第に秋撒きの小麦や野菜を植えて行き、早いところは既に芽を出していた。
ヴァルミラの扱いにマルスは困りきっていた。自分を自由にしたら、必ずマルスを殺すと言う者を自由にする訳にもいかず、城の一室に閉じ込めてあるのだが、戸に鍵が掛かっていている以外は不自由がないようにしてあった。
マチルダやヤクシーが彼女の説得に努めたが、ヴァルミラは頑として心を変えなかった。
「マルスも大変な女を敵に回したもんだな」
ピエールは面白半分でその様子を眺めている。
「あんな美人でなけりゃあ、殺してしまえば一番簡単なんだがな」
アンドレが顔に似合わぬ残酷な事を言う。
「別に美人だから特別扱いしている訳ではないぞ」
マルスが弁解じみた事を言うのは、心に疚しいところがあるせいだろう。美人に弱い所が自分の欠点ではないか、とこの頃マルスは思うようになっていた。敵のヴァルミラに対してすら、何となく心が動くのである。
「賢者の書の解読はどんなだ?」
マルスは話題を変えた。
「八割方分かってきた。だが、完全に解読しないで呪文を使うのは危険だ。魔法のことはロレンゾに、パーリ語の発音はヤクシーに聞けばいいから、一人で解読するのに比べれば、ずっと楽な仕事だがな」
「しかし、ピラミッドから持ってきた宝も、捕虜の身代金と食費、衣服、薬代で半分以上使ってしまったぜ。そろそろもう一度取りに行ってこようかな」
ピエールは、無為な毎日に少々退屈しているようだ。
「賢者の書の解読が終わってからにしてくれ。それに、ピエールには捕虜の監督の仕事があるだろう」
アンドレが言うと、ピエールは肩をすくめてみせた。
「監督ったって、何もする事はありゃしねえよ。そりゃあ、中には不真面目な者もいるが、ほとんどの者は真面目に働いているし、逃亡する者なんていやしねえし」
「逃亡したって、野盗になるしか無いし、グリセリードに帰りたければ、さっさと畑を作った方が早道だしな。秋の終わりには開墾は全部終わるんじゃないか」
アンドレも言う。
 秋の収穫も始まっていた。いつものように収穫の半分を年貢として納める事を覚悟していた百姓たちは、年貢は収穫の四分の一でいいというお触れに狂喜した。
「一体、収穫の半分も納めさせて、前の領主はそれをどうしていたんだろうな。四分の一もあれば、城の人間だけでなく、捕虜たちの一年分の食料にも十分だというのに」
 アンドレが言う。四分の一という計算は、アンドレによるものである。
「領主という連中はそんなものさ。百姓を苦しめて喜んでいるだけだ。きっと、年貢のほとんどは城の倉庫で腐っていたんだろうよ」
ピエールが吐き捨てるように言う。ゲイル出のピエールは、前のゲイルの領主には恨みがあるのである。
 マルスは、人々の間の争い事の裁きで忙しい。だが、人の顔を見ればその善悪がすぐに分かるマルスの裁きが間違うことは少しも無かった。どのような悪巧みも、マルスの前では通用しない事を人々は知って、マルスは神に通じた者だという噂が立っていた。その評判や、年貢の低さを聞いて、他の郡から逃亡してきてゲイルに住み着く者が増え、ゲイルの人口は急速に増えていた。
「マルスは国王に対する反逆を企てている」
という噂がシャルル国王の宮廷に流れ出したのは、冬の初めの頃だった。宮廷のオズモンドはやっきになってその噂を否定したが、その噂を触れまわす者が何人かいた。

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軍神マルス第二部 38

第三十八章 謎の男

「この戦で死んだ数万人の怨霊が今、アスカルファンをさ迷っておる。魔物がそれらの怨霊の恨みを己の力として強大な力を得ているのじゃ。早く、この賢者の書を読み解かねばならんのだが」
ロレンゾは溜め息をついた。
「さっき、アンドレは一人でグリセリード語の本を読み解いたと言ったな? なら、こいつもアンドレに読んで貰えばいいじゃないか」
ピエールが言った。
「なるほど、わしはそのアンドレという男は知らんが、よほど頭のいい男のようじゃな」
宮廷の晩餐会から戻って、ロレンゾから話を聞いたアンドレは、書物の解読を快く引き受けた。こうした謎解きが大好きだったから、むしろ大喜びである。

その頃、他の捕虜とは別に独房に閉じ込められていたヴァルミラの元へ一人の男が現れていた。その男は、見張りの厳しいはずの牢獄に、誰に咎められることもなく入り、ヴァルミラの牢獄の前に立った。
「どうだ、ヴァルミラ、悔しいであろう。父デロスを失い、また愛するマルシアスを失った上、このような牢獄に入れられる屈辱を味わいながら、なぜお前は生きているのだ?」
 その男は、褐色の肌をした南部グリセリード人であったが、ヴァルミラの知らない男である。痩せて背が高く、長い漆黒の口髭が顎の下まで垂れ下がっている。その眼の光は鋭く、異様な深みがあった。まるで骸骨に褐色のなめし皮を着せたような男だ、とヴァルミラは思った。
「名将デロスの娘として敬われ、常に人を見下していたお前はどこへ行った。このような独房で、排便すらも下司の監視兵の卑しい好奇の目の前で行なう屈辱になぜ耐えている」
「言うな! それ以上言えばお前を殺す!」
ヴァルミラは顔を紅潮させて叫んだ。
「わしは、お前をここから出してやることも出来る。そうしてやろう。その前に、言ってみろ、お前はなぜ生きようとするのだ」
「復讐のためだ。父を殺したエスカミーリオ、マルシアスを殺したマルスを殺すまでは、私はどんな屈辱にも耐えて生きるつもりだ」
 ヴァルミラは吐き出すように言った。
「なら、なぜ国王シャルルの申し出を受けん。王の寵姫になれば、マルスを陥れることなど簡単だろう」
「私は、策謀など嫌いだ。ただこの手に刀がありさえすればよい。そうすれば、草の根を噛んでも地の果てまでエスカミーリオとマルスを追って討ち果たす」
「その前に、捕虜の死刑が行なわれたらどうする」
「怨霊となって取り殺してみせる」
「見上げた心だ。だが、わしの使い女となるほうが簡単だぞ。わしの言う事に、はい、と一言言うだけで、今すぐここから出してやろう」
ヴァルミラは迷った。この男が信用できない男である事は直感で分かる。だが、今ここから出なければ、このまま復讐を遂げずに終わるかもしれない。
 ヴァルミラは、男に、はいと言おうと決心した。だが、その瞬間、どこからともなくマルシアスの声が聞こえてきた。
(駄目だ、ヴァルミラ)
声はただそれだけだった。だが、それははっきりとマルシアスの声だった。
「いやだ。私の事は放っておけ。お前などの力は借りん」
ヴァルミラは男からそっぽを向いた。
「強情者め。わしの申し出を受けなかった事を、いずれ後悔するぞ」
男は叫んで、来た時と同様、音も無く立ち去った。
眠り込んでいた見張り番は、はっと目を覚まし、周りを見回して、異状が無い事に安心した。

アスカルファンから船に乗って、ボワロンを経由してグリセリードに戻ったエスカミーリオは、報告の中で、今回の敗戦についてすべての責任をデロスに押し付けていた。まさに、死人に口無しである。彼と一緒に戻った他の将校たちもエスカミーリオに同調し、自分たちは勇猛に戦った、すべての責任は総指揮官デロスの作戦のまずさにあった、と口を揃えて言った。
お前らだけが戻ったことで、お前らの卑怯卑劣さは歴然としとるよ、とロドリーゴは思ったが、役に立つ部下であるエスカミーリオを失いたくないために、その報告にうなずいた。もともと、目の上のたんこぶであるデロスを葬ることが、今回の戦いの目的の一つである。
さすがに、敗戦の責任をまったく取らせないわけにもいかないので、戻った将官たちはそれぞれ降格減俸されたが、それも大した物ではなかった。
やがてアスカルファンから、捕虜の釈放の条件に、身代金を払えという要求が届いたが、高官の子弟数人を除いて、後は勝手にそちらで処分してくれ、という返事が返された。ヴァルミラの名はその中には入っていなかった。

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軍神マルス第二部 37

第三十七章 戦いの終わり

 戦いは終わった。
 グリセリード軍は、総指揮者エスカミーリオ以下、将官数名が戦場から逃亡し、兵士たちだけでしばらく戦ったが、統率を失った軍隊はやがて、アスカルファン、レント両軍によって滅ぼされた。
 グリセリード軍の死者はおよそ五万人、負傷者と、降伏して捕らえられた兵士は三万五千人、残りは戦場から逃亡していった。
 捕虜の中にヴァルミラもいた。
 自分に斬りかかって来た相手が女である事に驚いたマルスは、相手を殺す気にはなれず、ただ相手の剣を避けるだけであった。そうしたマルスの姿を見たアスカルファン兵士の一人がヴァルミラに矢を射た。矢はヴァルミラの右腕に刺さり、剣を取り落とした所をマルスが生け捕りにしたのである。
「私を殺せ。そうせぬと、どこまでもお前を追って、殺してやる」
ヴァルミラはマルスに向かって叫んだが、マルスは自軍兵士に、この娘を手荒に扱うな、と指示した。
 戦勝の祝賀会の後、戦の功労者の褒賞があった。
 第一の殊勲者にはマルスの名が挙げられ、マルスは領主が不在になっていたゲイル郡を領地として与えられた。
「やれやれ、マルスも貴族になった御蔭で、まともに評価して貰えるようになったな」
ピエールがマルスに言った。久し振りに皆がオズモンドの家に集まって慰労会をしていたのである。
 その席上で、只一人、トリスターナだけが浮かない顔をしていた。
 マルスが戦場で倒したという栗色の髪の敵将が、マルスの父のジルベールではないかと思ったからである。もし、そうだとしたら、この事は自分だけの秘密として死ぬまで人には言わない事にしようとトリスターナは考えた。
「しかし、三万五千人の捕虜は一体どうなるんだい」
ジョーイが言った。
「普通なら、身代金を敵国に要求するが、相手がグリセリードだけに、下手にそんな要求をしたら、もう一度軍勢を寄越しかねないからな。なにせ、兵隊だけはいくらでもある国だからな」
オズモンドが答えた。
「捕虜の中には、とても美しい娘がいたそうね」
マチルダがマルスに聞いた。
「うん。鬼姫ヴァルミラと言って、グリセリードでは有名な女らしい」
マルスが答える。
「シャルル国王が、一目見て大層お気に入りで、自分の后の一人にならんか、と聞いたが、一言のもとに撥ねつけたそうだ」
オズモンドが宮廷ゴシップを教える。
「身代金の払えない兵士はどうなるのかしら」
ヤクシーが聞いた。
「普通は、殺されるな。アスカルファンには奴隷の習慣はないし」
オズモンドの答えに、女たちは眉をひそめた。
「全部、国に帰してあげればいいのに。好きで戦った人だけでもないでしょうに」
トリスターナの言葉に、一同うなずく。
「とりあえずは、この戦で死んだ兵士の死体の片付けや、壊れた家屋敷の修復に、捕虜たちが使われるだろうが、その後どうなるかは国王の気持ちひとつだな」
オズモンドが結論を述べた。
「しかし、戦後の処理も大変だな。また、税金が上がって、庶民の暮らしは大変だぞ」
ピエールが言うと、マルスもうなずいた。やはり、この中では庶民の暮らしを知っているのはこの二人である。ジョーイはまだ生活者としての実感はあまりない。
「おい、爺さん、さっきから何も言わないが、どうしたんだ。息はしているか?」
ピエールが、隅の方で瞑想に耽っているロレンゾに声を掛けた。
「うむ、さっきお前たちが言った事を考えていた。ほれ、ヤクシーが町で見かけた男じゃ」
「オマーの事?」
「そうじゃ。もしかしたら、そのオマーこそが悪魔の封印を解いた男かもしれん」
「まさか、そんな」
「オマーはイライジャの所にいたのなら、古代パーリ語の書物を読んでいたのかもしれん。頭のいい男なら、まったく未知の言葉を読み解けると聞いたことがある」
「それは本当だ。アンドレは全く独学で、グリセリード語の本を読み解いたことがあるそうだ」
マルスが言った。ロレンゾはうなずいて続ける。
「まして、古代パーリ語は大部分が象形文字じゃ。時間さえあれば、ある程度読めるようになるだろう。発音は今のパーリ語から類推できるだろうしな。で、かなり飛躍した想像じゃが、オマーがイライジャの元を出て、ザイードの専属の魔術師として仕えたとしたら、きっとこの賢者の書を見る機会があったじゃろう。その写しを取って、悪魔を呼び出したとすればどうじゃ?」
なるほど、と一同はうなずく。考えられない話ではない。
「でも、なんでそのオマーがアスカルファンにいるの?」
マチルダが聞いた。ロレンゾは答えた。
「マルスの指にあるダイモンの指輪が欲しいんじゃよ。それがあれば、悪魔の要求に従うことなく、悪魔を使うことが出来るからな」

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軍神マルス第二部 36

第三十六章 マルス対マルシアス

「お前も覚えているだろうが、うちにマーサという女中がいただろう。そして、その女中と私が恋仲になったことも。だが、父は二人の仲を許してくれなかった。私はマーサを町中のある家に住まわせて、そこに通っていた。マーサが子供を産んだ時に、私は自分が父から貰ったブルーダイヤのペンダントを、オルランド家の嫡男の印にマーサに与えた。ところが、父はマーサと私の仲がまだ続いている事を知って、マーサの住む家に行って、私と別れる事を迫ったのだ。別れなければ、私を廃嫡するとまで言ってな。その後、マーサは姿を消した。
 私はマーサの行方を探したが、どうしても見つからなかった。アスカルファン国内だけでなく、アルカードまで行ったが、そこでも探せなかった。アスカルファンに戻った私は、深夜、オルランド家に着き、父と対面した。マーサに対する父の仕打ちに怒った私は、父と口論になり、父を殴って、……殺してしまったのだ」
 ジルベールの告白に、トリスターナは驚きのあまり、声も出なかった。
「呆然としてそこに立っていた私は、部屋にアンリが入って来たことにもしばらくは気付かなかった。アンリは父と私の口論の様子を隣の部屋で聞いていたらしい。父の倒れた物音で部屋に入って来て、全てを了解したアンリは、私に逃亡を勧めた」
「私、お父様は卒中で急死なさったものだとばかり思ってました」
「アンリがそのように計らったのだ。最初私は、逃亡する事をためらったが、結局アンリの勧めに従う事にした。卑怯に思うかも知れないが、私はその時、この家もこの国も捨てて、まったく新しい人間として生きようと決心したのだ」
「それからグリセリードに行かれたのですか?」
「そうだ。グリセリードで私は自分の生きる道を見つけた。それは、ヴァンダロス王の下で武人として生きることだ。貴族の家の中で、眠ったような日々を送っていた私にとって、戦場の日々は刺激と興奮に溢れていた。きっと私の中には生まれつき血を好む性質があったのだろう。私は名前もマルシアスと変え、グリセリード軍で出世もした。
 グリセリードがアスカルファンを攻めると聞いた時にも、私は別にどうとも思わなかった。ただ、お前やアンリには済まない、と思ったが」
「お兄様は国を裏切るのですか?」
「私にとっては、今自分の居る所が自分の国だ。だが、お前だけは何とか助けてやりたい」
「助けて貰う必要はありません。この戦はアスカルファンが勝ちます」
「そうかも知れん。では、お前は一人で生きていけるのだな? ならば、これ以上は言うまい。達者で暮らせよ」
 ジルベールはすっかり成人した美しい妹を優しげに見つめ、うなずいて踵を返した。
「お兄様……」
ジルベールを見送るトリスターナの目には涙が溢れていた。幼い頃から、トリスターナは、優しく男らしいこの兄が好きだった。しかし、もはや兄と自分は、生きる世界が違うのである。

 馬を走らせて戦場に戻ったマルシアス、いや、ジルベールは戦場の情勢が一変している事に驚いた。
 何と、グリセリード軍は背後から来たレントの軍に攻め立てられ、前のアスカルファン軍と両方に挟まれて苦戦をしていたのである。
 この二万人のレント軍は、数日前にマルスからアンドレに送った急使によって、アンドレ自身が率いてアスカルファンの西に上陸し、駆けつけたものであった。
 グリセリード軍後方にいるヴァルミラが危ない、と思ったジルベールは、戦場中央を突破しようとした。だが、その時、一人の若武者が彼の前に立ちふさがった。
「敵に後ろを見せて逃げる気か!」
ジルベールは、その若者をどこかで見たような気がした。だが、相手は明らかにアスカルファン軍の兵士である。
「逃げはしない。私の相手がしたいのなら、してやろう。私の名はマルシアス。グリセリードでは少しは知られた男だ。私を討ち取ったら、お前には名誉になるだろう」
「そうか、私の名はマルス。いざ、勝負!」

…… ……

 マルスは足元に倒れた敵の騎士を見下ろした。相手はまだ息がある。
「見事な腕だ。お主はきっと偉大な武人になるだろう……」
 倒れた相手は、苦しげな息の下から、兜の面頬を上げて、笑って言った。そして呟いた。
「神よ、私の数々の罪をお許しください。マーサ、あの世で会おう……」
マルスは、ぎょっとして相手を見た。マーサだと?
しかし、栗色の髪の騎士は、微笑んだまま、すでに息絶えていた。
 きっと自分の聞き違いだろう。それに、マーサという名前がグリセリードにもあるのかも知れないし。
 マルスは、グレイに乗ろうとして、はっと飛び退った。
「マルシアスの仇、これを受けよ!」
 ヴァルミラであった。
 背後からレント軍に襲われて算を乱したグリセリード軍の中で、ヴァルミラは顔見知りの者に頼んで縛めを切って貰い、マルシアスを探して戦場を駆け回っていたのであった。
 ヴァルミラがマルシアスを見つけた時、マルシアスは敵の若武者と対峙していた。そして、ヴァルミラがそのそばに駆けつけようとした時、マルシアスの体が馬から落ちたのであった。ヴァルミラは悲鳴を上げ、剣を抜いてその若者の所へ突進した。

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軍神マルス第二部 35

第三十五章 ジルベール

「ついでに今すぐ私も斬ったらどうだ。味方の士気が高まるだろう」
ヴァルミラは嘲笑するように言った。
「分からぬ奴だ。あれを見ろ」
 エスカミーリオの指差す方には、敵兵を切りまくるマルシアスの姿があった。
「あのマルシアスは、もともとアスカルファンの男だ。それが、先王ヴァンダロス様に心酔し、グリセリードのためにあのように働いておるのだ。あれこそ武人というものだろう」
「マルシアスは、アルカードの者ではないのか?」
「アスカルファンの者だ。何か訳があって故国を追われてグリセリードに来たのだ」
「なら、故国に対する裏切り者ではないか」
「愛するに足る故国では無かったという事だ」
「ふふん、グリセリードだってそれほどの物か」
「どうとでも言え。国があっての国民だ。戦に勝ってこそ、望む物が手に入るのだ。負ければ全てを失う。今はとにかく、この戦に勝つことだけが大事なのだ」
二人は口論を止めて、前方の戦いの様子を眺めた。
 
 グリセリード軍の先頭に立って目立った働きをしているのは、アルカードから来たガイウスと、マルシアスの二人だった。この二人とも、もとはアスカルファンの生まれであるというのも、思えば皮肉である。
 アスカルファン軍の前面は、この二人によって切り崩されつつあった。
 マルスは、この二人を倒そうと心に決めた。このような白兵戦では、両軍の士気が大きく影響する。中心を失った敵はもろいものだ。
 マルスは愛用の弓を手にしてグレイを走らせ、ガイウスに近づいていった。
「ガイウス、俺が相手だ!」
マルスの前方の兵たちは、マルスのために道を開けた。
「マルスだ!」
「マルス様がガイウスに立ち向かうぞ!」
かつてアスカルファン全体に名を轟かせた勇将ガイウスとマルスの戦いに、両軍とも戦いの手を止めて、見入った。
「お前がマルスか! 見ればまだ若僧ではないか。殺すには惜しいが、勝負を受けよう」
ガイウスは馬をマルスに向けて走らせかかったが、マルスの弓が自分を狙っているのを見て、慌てて立ち止まった。
「待て! 騎士同士の勝負に弓を使うのは卑怯!」
マルスは一瞬ためらった。弓で相手を射殺すのは簡単だが、卑怯者の汚名を着ては、全軍の士気に関わる。
 マルスは、弓を収めて、ガーディアンを抜いた。
 ガイウスはにやりと笑って、馬の腹を蹴った。
 突進してくるガイウスに、マルスの方もグレイを走らせる。
 勝負は一瞬であった。
 大上段から振り下ろすガイウスの豪剣を、マルスは間一髪の差で避け、横殴りにガーディアンを払った。剣はガイウスの胴を鎧ごと切断し、ガイウスの上体は空に飛んで落下した。ガイウスの下半身だけを乗せて、ガイウスの馬はそのまま戦場を駈けて行く。
 この戦いを見ていた両軍の兵たちは、戦うのも忘れて呆然としていた。
「ガイウスは、このマルスが討ち取ったぞ! 残りは弱敵のみ、皆、奮戦せよ!」
マルスは大声に言った。
おおっ、とアスカルファン軍兵士の中から声が上がる。
 勢いを盛り返した兵たちを見て、マルスは戦いのもう一つの場に向かった。だが、自軍を散々に悩ませていた栗色の髪の将は、どこに行ったか、姿が見えない。
 その頃、マルシアスはバルミア市内に馬を乗り入れていた。
 現れた敵兵を見て、市民たちは逃げ惑う。
 マルシアスは、市民たちには目もくれず、ある方角に向かった。
やがてマルシアスが馬を止めたのは、マルスとトリスターナの屋敷、オルランド家であった。
「きゃあっ、敵兵よ!」
下働きの女たちは、マルシアスを見て逃げ惑う。
マルシアスはずかずかと屋敷の中に入っていった。
「そこに止まりなさい。この家で無礼をすると、承知しませんよ」
 二階の階段の上から震えながら声を掛けたのは、トリスターナである。
「やあ、トリスターナ。私だよ。ジルベールだ。忘れたか?」
「ジ、ジルベールですって? まさか!」
「元気そうだな。すっかり大人になったが、まだ昔の面影はある」
「本当にジルベールなの?」
「見てのとおりだ。アンリは?」
「アンリはいないわ。それより、ジルベール、どうしてグリセリード軍の格好をしているの?」
「話せば長い。それより、間もなくここはグリセリード軍が来る。お前も無事では済むまい。私と一緒に来なさい。グリセリード軍の役人に、保護してもらおう」
「いりません。それより、どうしてお兄さんがグリセリード軍にいるのか説明して」
 マルシアスは、少しためらったが、テーブルに腰を掛けて言った。
「仕方ない。簡単に説明しよう」
そして、次のような話をした。

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軍神マルス第二部 34

第三十四章 最後の戦い

 北の山脈を越えて、グリセリード軍がアルカードからアスカルファンに入ってきたという知らせがマルスたちの所に届いたのは、バルミアの戦いからおよそ半月後だった。前回と同様にポラーノ郡を北から侵略した約一万のグリセリード軍は、怒涛のような進撃で、あっという間にアスカルファン中部に進出し、先にバルミアを東西から囲んでいたグリセリード軍と共にバルミア包囲陣を作った。その数、およそ八万八千人、前回の戦闘の死者を上回る数が、すでに二十五隻の船で後方から補充されていた。
 自軍に倍する敵軍に囲まれ、アスカルファンは絶体絶命の窮地に追い込まれていた。
 マルスはアルプ軍を中心としたアスカルファン主力軍の弓兵隊隊長に任命されたが、マルスが最初にしたのは、前回のイルミナスの野の戦いと同様、バルミアの市民たちを徴用する事だった。その為に、国庫から日当を支出する事を、マルスはシャルル国王に要求し、認めさせていた。国王としても、国家の危急の際であり、金に糸目をつけている場合ではないと分かっており、その要求を受け入れたのである。
 市民たちは、男女を問わず石弓と矢の生産に加わり、グリセリードの北からの侵入の報を聞いて四日のうちに、バルミアには二十万本の矢が備蓄された。
 戦いは再びイルミナスの野になる可能性が高かった。バルミア周辺で、双方合わせて十三万人の軍勢が会戦できる場所はここだけだったからである。
 マルスはイルミナスの野の南に矢倉を築かせた。前に、バルミアの近くの崖からグリセリードの船に火矢を射た経験から、高い場所から矢を射る有利さを知っていたからである。三十の矢倉にはそれぞれ、石弓隊の中でも腕の立つ者二人ずつが、矢を篭める役の者四人と共に上る。弓兵隊の残りは、それぞれ十人ずつの小隊に分け、小隊長に率いさせて、イルミナスの野の小高い要所要所に矢防ぎを作ってそこに待機させてある。矢の届く距離に敵が入ったら、そこから矢を射るのである。
 マルス自身は、二十人の騎馬弓兵を引き連れて、戦場全体の要所に向かうことにした。各所にいる弓兵隊に敵の攻撃が向かったら、それを迎撃しようというのが狙いである。
 ジョーイは、同じく市民の男たちを動員して、小型の投石器を二百台作ってあった。船を攻撃するほどの大きさではなく、せいぜい二十キロくらいまでの石を飛ばすものだが、その飛距離は石弓に匹敵するものをジョーイは作り上げていた。その弾丸用に、ジョーイはバルミアの民家の屋根石や煉瓦、敷石などを大量に集めさせていた。
「金は払うぜ。古い家を新調するいい機会だとでも思ってくんな」
ジョーイの言葉に市民たちも快く家を壊す事を承知した。どうせ、戦に負ければ命の保証も無いのである。
 市民の中でも壮年の者たちは、槍部隊を編成して、こちらの陣営まで到達した敵兵を迎え撃つことにした。特に騎馬兵には、長槍は有効なはずである。そして、もとからの兵士たちは肉弾戦を引き受ける。これがマルスの戦いの構想だった。
 総大将ジルベルトは、マルスの献策をほとんど受け入れた。もともと自分の考えなど無い男だから、誰かが案を立ててくれればそれに越したことはないのである。案が上手くいけば自分の手柄になるし、失敗したら、案を立てたマルスの責任にすればよい。
 イルミナスの野に敵軍が姿を現したのは、夏至の日だった。
 太陽がかっと照り付ける正午に、戦闘開始を告げるラッパの音が鳴り響き、グリセリード軍の中からどっとときの声が上がった。
 八万八千の大軍勢を頼みにし、グリセリード軍は歩兵を先頭に駆け足に進む。敵が矢を射掛けても、それで殺される人数は高が知れている。八割九割は敵陣に到着できるだろう。そうなれば、勝利は目の前である。
 ジョーイの号令で、投石器がうなりを上げて石を放った。次々に発射される大石は、敵陣に落ち、その度に何人もの敵兵に大怪我を負わせている。
 矢倉の上からは、優秀な弓兵が、敵兵の密集したあたりに石弓を射る。その後ろでは、矢篭め係が、矢を装備した石弓を次々に手渡していく。
 戦闘開始後三十分で、投石器はおよそ五千個の石を投げ、矢倉の上の弓兵はおよそ八千本の矢を放った。そのうちおよそ三分の二が敵に当たり、重傷を負わせ、あるいは殺していたが、それでも敵のうち一万人程度を倒したに過ぎない。敵の先頭は、アスカルファン軍の先頭に達しようとしていた。
「くそっ。前のようにイルミナスの野の中央を泥沼にしてあれば……」
マルスは思ったが、今回は、前にこの野に水を引いた小川が涸れており、その策は使えなかったのである。
 野の両側に位置した弓兵たちは、横からグリセリード軍に矢を射掛けるが、それでも圧倒的な数のグリセリード軍兵士の数は少しも減ったようには見えない。
 とうとう両軍の先頭の軍勢同士がぶつかった。白兵戦の始まりである。

 敵陣に攻め込んだグリセリード軍を見ながら、エスカミーリオは、傍らに縛られたまま立たされているヴァルミラを振り返って言った。
「どうだ、ヴァルミラ、お前の父、デロスが誤りで、俺が正しかった事が分かっただろう。何も、戦を止めることは無かったんだ。まあ、お前の父を斬ったのは悪かったが、俺には、この戦を遂行する義務があったんだ。お前の恨みは分かるが、今は大事の前の小事、俺に協力してくれんか」
 ヴァルミラはエスカミーリオを睨みつけた。
「お前の首を貰う方が先だ。グリセリードがどうなろうが、私の知ったことか」
「お前の父デロスが、国王からどれほどの恩義を受けたか、分かっているのか。武人は国のために命を投げ出すものだ。戦場を前にして敵に後ろを見せる武人は武人ではない。それを斬ったのがなぜ悪い」
 エスカミーリオもかっとなって言い返した。

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軍神マルス第二部 33

第三十三章 オルランド家相続

 船の一室に閉じ込められたヴァルミラは、脱出の機会を窺っていた。もちろん、脱出して、父デロスの仇、エスカミーリオを殺すつもりである。
 部屋の戸の前に誰かが来た気配がした。ヴァルミラは、戸が開いたら、すぐに外に飛び出そうと身構えた。
「ヴァルミラ。私だ。マルシアスだ」
聞き慣れた声に、ヴァルミラは体の力を抜いた。
「いいか、ヴァルミラ、そのうち必ずここから助け出す。今は、無謀な事をせずに我慢するんだ」
言い終わると、マルシアスは部屋の前から遠ざかって行ったようである。
 ヴァルミラは溜め息をついて、部屋のベッドに身を横たえた。

 グリセリード軍の使者がアルカードに着いたのは、アスカルファン上陸から一週間後だった。その間、グリセリード軍はバルミアを東と西から挟む形でじっと待機していた。
「奴らはなぜ攻めてこないのだ」
アスカルファン軍総大将のジルベルト公爵は、いらいらと言った。
「この前バルミアを正面から攻めて全滅しているので、警戒しているのでしょう」
軍議の場に加わっているオズモンドが答える。
「あの、マルスとやらを警戒しているのか?」
「それが一番大きいでしょうな」
「重宝な男だ。是非、我がアルプ軍の弓兵に加えたいものだが、お主口利きしてくれぬか」
「弓兵ですって? 将軍の間違いでしょう」
「何を馬鹿な事を。たかが庶民の若僧ではないか」
「いや、失礼ながら、あなたより高い家柄です。オルランド家の嫡男です」
軍議の場にどよめきが走った。
「それはまことか、アンリ殿」
シャルル国王が、軍議の場に場違いそうに座っていたアンリに聞いた。
「い、いえ、何かそのような事を申し立てているそうですが、何の証拠も無いことで」
アンリは太った顔に脂汗を浮かべて言った。
「証拠は有るそうですよ。オルランド家に代代伝わるブルーダイヤモンドのペンダントをマルスは受け継いでいます。私もそれを見ています」
「そう言えば、そのダイヤの事は聞いた事がある。もしもそのペンダントが本物なら、オルランド家を継がせぬわけにはいかんだろうな」
シャルル国王の言葉に、アンリは真っ青になった。
 やがてマルスは国王から呼ばれてその前に証拠のペンダントを提出し、明らかにジルベールの息子であると認められた。マルスはアンリに、屋敷と領地以外の財産のすべてを譲り、自分はトリスターナと共にオルランドの屋敷に住むことだけしか求めなかった。これは、トリスターナのためであった。しかし、ジルベールの行方については相変わらず手掛かりは無かった。
「マルスさん、えらく出世したもんだねえ。ローラン家よりでかい家じゃないか」
マルスとトリスターナの新居に招待されたジョーイは、周りを物珍しげに見ながら言った。
「こんな大きな屋敷では、掃除するだけでも大変だ。僕にはケインの家の一部屋で十分だ」
マルスは溜め息をついて言った。ケインの店で弓矢作りの仕事をしていた女たちを家政婦として雇っているが、五人でもまだ足りないくらいなのである。
 マチルダは、マルスとトリスターナが同居している事に、少々心穏やかでなかった。ケインの家にいた時にもジーナという存在はあったが、身近にケインも、その妻のマリアもいたから監視の目はあった。しかし、この広大な屋敷で、しかも一家の主人であるマルスの行動を誰も制止はできないだろう。
 どんなに誠実な人間でも、男は男なんだから、魔が差すってこともあるわ、とマチルダは考えた。同じ屋根の下に、トリスターナのような美女がいて、むらむらと来ないほうがおかしいくらいよ。
「いい、マルス、もしもトリスターナさんとおかしな事になったら、私とはおしまいよ。よく覚えておいて」
「何を馬鹿な事を」
とマルスは答えたが、心の奥底には、マチルダの疑念を完全に否定できないものがあった。
それは、トリスターナと同じ屋根の下に住むということのわくわくする感じである。もちろん、マルスには、マチルダを裏切る気はまったく無い。しかし、心のときめきまでを抑えろというのは無理である。これも精神的な浮気という事にはなるのだろうが。
 オズモンドも、トリスターナが自分の家を出る事を残念がったが、こちらは、マルスの身の証が立った以上、トリスターナと共にオルランド家を引き継ぐのは当然だ、という考えだった。
 朝起きて、朝食の場にトリスターナがいる。それだけで、マルスは嬉しいものを感じるのである。これが一人きりの朝食なら、どんなに味気ない事だろう。
 下働きの女たちの間で、一体、マチルダとトリスターナ、どちらが最終的にマルスのお嫁さんになるのかという事が一大関心事になっている事をマルスとトリスターナの二人は知らない。
「そりゃあ、マチルダさんに決まってるさ。なにせ、れっきとした婚約者だもの。もう奥さん同然よ。この前の旅も一緒に行っているじゃない」
「甘いわね。男と女ってのは、なんだかんだ言っても、近くにいるかどうかよ。あんな美人が側にいて、手を出さなきゃあ、失礼だがマルス様は男じゃないね」
 台所の議論は、止まる所を知らなかった。

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酔生夢人
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職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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