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直接民主主義の時代へ

間がずいぶん空いたので、普段はあまりここには書かない現在の政治関連の話題でも書こう。
竹原阿久根市長がリコールされ、市長解任となった。私は彼の独裁者的手法や、公務員・市議会議員を抵抗勢力とすることで自分の計画を実現する小泉的手法が嫌いなのだが、市役所の公務員や市議会議員が既得権益層であり、市民に害を与えていることも確かだろう。そして、それを変えるには、あるいは竹原(元)市長のような独裁的手法しか手段はなかったのかもしれない。
難しい問題である。
ここに解決案を書こう。それは、今回のリコールという手法である。つまり、議会という存在は、明らかに存在価値が無いから、無くすことにする。つまり、市長独裁を認めるのである。ただし、あらゆる政策について、住民の5%の同意があれば、リコール請求ができ、リコール投票を行うものとする。つまり、限りなく住民自治に近い市長独裁制である。
この考えはどうだろうか?

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語りえないものは語りえない

「人は語りえないものに対しては沈黙を守らねばならない」

小説の中で天才や超人を描く小説家が天才や超人でないことは確かである。ではなぜそれを描けるのか。それは、そこに描かれたものが天才や超人の内面や本質ではなく、その外貌にしかすぎないからである。たとえば困難な事件の答えを「神のごとき名探偵」が示してみせたとき、読者はその名探偵の天才性を信じる。だが、これはもちろん、それ自体がトリックなのであり、その探偵は他の登場人物たちとは異なり、作者が知っていること、すなわち事件の真相を彼だけが特権的に知っているにすぎないのである。そのような天才を描く作者もまた天才に見えるという付随効果もここにはある。推理作家というものは頭が良さそうに見えるのである。
さて、以上に書いたのは、「我々は自分が持たないものをも持っているかのように語ることができる」ということを言うためである。
冒頭のウィトゲンシュタインの言葉は「語りえないものを語る人々」への嫌悪の表明であり、自らへの戒めだったと思われる。すなわち、神について語る人々、たとえばニーチェなどがその対象として考えられるが、ポパーが言うように、「反証可能性」の無いものについての議論は科学の対象にはならない。つまり真面目な考察の対象にはなりえないのである。神についてのあらゆる言説は反証可能性を持たない。したがって、いくらでも好きなことが言えるのである。神を否定する議論もまた同様だ。
そういう思考者の節度を述べた言葉として、ウィトゲンシュタインのこの言葉は理解できるが、論理的に言うならば、実は人は語りえないものに対しては語りえないのであって、語りえないならば沈黙するしかないのである。つまり、この言葉は「ねばならない」という当為の形式で述べるのは間違っているということになる。我々はウィトゲンシュタインのあの天才的な風貌の写真に騙されて、これを深遠な言葉のように思うが、これは案外と気分的な言葉にしかすぎないのである。

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事実の言語化

自分が見たものや聞いたものを完全に記憶できたら、素晴らしいだろうな、とよく思うのだが、それ以前に、自分は物事をどれだけきちんと見たり聞いたりしているのかと考えると、非常にこころもとない。自分が物事をきちんと見ていないのは、たとえばスケッチなどをしてみようとすると、すぐに分かる。物事を正確に見るというのは、なかなか大変な作業なのだ。カメラでパチリと写すというような具合にはいかない。そして、見たものを映像のままで記憶に残すのと、言語化して残すのとでは、また違う作業になる。
小説家などは、映像の言語化の達人たちである。もちろん、自然音声の言語化の達人でもある。深沢七郎が、「自分は絵が描きたいのだが、その能力が無いので、文章で絵を描いているのだ」と言ったことがあるが、視覚や聴覚を言語化するのは、普通の人間ではなかなかできないことである。
聴覚の言語化の天才は宮沢賢治、味覚の言語化の天才は東海林さだお、視覚の言語化の達人は、いろいろいそうだが、これが最高だ、という人間は思いつかない。というのは、我々が文章を読む場合、それぞれの頭の中でそれぞれに違ったイメージを作りながら読んでいるので、甲の人間にとっての最高の作家が、乙の人間にとっての最高の作家だとは限らないからである。
19世紀の小説家は、情景描写に工夫を凝らしたものだが、現代の読者はそうした情景描写を読む手間さえも面倒臭がる。そういう時代的相違というものもある。すぐれた作家の情景描写の特徴は、読んでいる人間が分かったような気分になるところにある。実際、それがどんな情景かは、実はあいまいなことが多いのだが。

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昇る太陽 7

    七

 秀吉の凄みは、ここからの政治的手腕にある。あらゆる策謀によって自分を信長の後継者と周囲に認めさせ、それに従わぬ相手とは力で戦った。そして、彼は信長の事業を完成し、日本を統一した。彼は関白太政大臣となり、日本の支配者となった。
 乞食、浮浪者の身から日本の最高の地位に昇りつめた彼の一生は、人間の可能性というものについて、我々にある感慨と勇気を与える。もしも、人が望むなら、家柄や地位に最初から恵まれた人間でなくても、どこまでも昇っていけるのである。
 それは、長い歴史の中のある時期にのみ特有の現象だったかもしれない。しかし、秀吉は、ありとあらゆる社会の底辺にいる人間にとっての希望の象徴として輝き続けるだろう。
 天下人となってからの彼は、かつてのお市への恋慕の代償として、その娘のお茶々、後の淀君を側室に入れ、あらゆる漁色を尽くし、刀狩をして身分の固定化をはかり、意味不明の朝鮮出兵をするなど、後世から見れば批判の種となる様々な愚行をした。だが、人が権力を手に入れるのは、そういう好き勝手をする権利を手に入れるためだと考えるなら、そのような批判にはあまり意味はない。少なくとも、批判された当人は、ほんの僅かの痛痒も感じないだろう。
 とにかく、人は、本当に望むならどこまでも進めるものだということを示してみせただけでも、秀吉は讃えるべき存在だと言える。
 そして、彼があそこまで昇りつめたのは、実は、一つ一つの段階に於いて彼がいつも最善を尽くし、常に次の段階についての準備があったということを見落とすべきではない。
 秀吉が信長の草履取りをしていたということが事実かどうかはわからないが、その頃の彼が周囲の人間に次のような事を言っていたという伝説は、確かに彼の本質を示している。
「俺は、草履取りになるなら、日本一の草履取りになってみせる」

             「昇る太陽」完

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昇る太陽 6

    六

 秀吉が自分の運命を悟ったのは、同僚の明智光秀が本能寺に於いて謀反をし、主君の信長を討ったという知らせを、中国毛利攻めの陣内で受けた時だった。
 実は彼はこの事件を予知していた。はっきりとではないが、光秀が信長に叱責され、耐えるその眼の光の中に、いつかただならぬ事態が起こることを感じていたのである。
 そして、その日が来た時、どうするか。秀吉はずっとその事を考えていた。これは恐ろしい想像ではあるが、戦国の侍大将の一人として、天下を取ることを想像しない者は少ないだろう。彼は自ら信長を裏切る気はなかったから、その日は永遠に来ないかもしれない。だが、もしも仮に、そのような日が来たならば、自分はどうするか。勿論、その時こそ天下に名乗りを上げるのである。信長の家臣の中でも四番手五番手の秀吉が天下取りに参加するとは誰も思っていないだろうが、この頃、秀吉にはすでに、信長の家臣の中では自分が一番だという自負があった。度胸もあるし、頭も良いという自信が。他の連中は、柴田勝家のように度胸だけか、光秀のように頭だけ、という連中である。
 一人だけ、秀吉が恐れていたのは、信長の家臣ではないが、徳川家康だけであった。あの茫洋とした風貌の男は、得体の知れない深さを感じさせる。軍略の面でも統率力の面でも、勝れた武将だ。しかし、今は織田の天下であり、信長の跡を継ぐのは信長の家臣から出るのが当然と、誰でも思っている。
 だから、自分だ、と秀吉は考えた。
 中国の毛利攻めを中断して京都に取って返した秀吉が、山崎の戦いで光秀を破ったのは、知られた通りである。自ら天下を取る意思で謀反したというより、突発的、発作的に信長に謀反した光秀には、その後のプログラムはなかった。ふわふわと秀吉の軍に向かった光秀の軍勢を破ることは、どの武将にとってもたやすいことだっただろう。おそらく、光秀軍の兵士たちには、そもそもその戦いが何のためなのかの確信も無かったはずである。山崎の戦いで秀吉が勝ったのは当然すぎるほど当然の話であり、秀吉の偉さは、この戦いなどにではなく、一瞬のうちに天下取りの決意をして、毛利と偽りの和議をして誰よりも早く京都に向かったという「中国大返し」にあるのである。

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昇る太陽 5

   五

 信長と藤吉郎の有名な出会いは、後世の作者の創作だろう。信長は、直接彼と出会う前からこの末端にいる小役人の存在を知っていたに違いない。
 信長は有能な人間を好み、無能な人間を憎んだ。それは、自分よりも無能な弟を愛し、自分を嫌った母親への憎しみから生まれたものかもしれない。
 有能さとは、その立場立場においていかに力を発揮するかである。大言壮語する人間の自己宣伝を信長は少しも信じなかった。彼の見るところ、織田家の家臣のうち半分は、古い家柄によりかかっただけの無能な人間であった。
 織田家を相続して以来の、信長の日常の大半は、そうした家臣たちの力を量ることに向けられていたと言ってもよい。彼はとにかく無駄なものが嫌いだった。もちろん、その判断は彼の主観であり、自分の嫌いな物を無駄と思う面も多かったが。
 ともかく、信長は藤吉郎の取り計らいの才能を高く評価して台所奉行から足軽頭に取り立てた。彼の見るところ、物事の合理的判断ができるということは、単なる武勇以上に将として必要な能力であったからである。台所の差配ができるなら、戦の差配はできる。逆に、台所の差配もできない人間では戦の差配はできない、ということである。
 藤吉郎はやがて武将としても出世して名前も羽柴秀吉と変わるが、秀吉が武将として人以上に有能であったという証拠は無い。伝えられている墨俣の一夜城の話は武将としての功績としては小さい話だし、演習で長槍を使って勝った話にしても実戦とは関係がない。しかし、少なくとも戦における形勢判断は確かだっただろうし、戦後の論功行賞は的確に行い、部下に不満は持たせなかったに違いない。上に立つ人間のなすべきことはそれに尽きるのである。単に刀を持って戦うだけなら足軽の中にも剛勇の持ち主は何人もいる。しかし、彼らは部隊を率いることはできないのである。
 幸運にも恵まれ、幾つかの戦を無事に生き延びて、彼は順調に出世した。かつての乞食の境遇から見れば、夢のような暮らしである。しかし、彼は、自分にはまだまだ上がありそうだ、という気がしてならなかった。それが何かを考えると、恐ろしい気さえしたのだが。

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昇る太陽 4

    四

 あれは藤吉郎がまだ寺にいた頃の話であるから、今からもう十年以上も前の事になるが、寺の小僧仲間の一人に貴族の息子だとかいう男がいた。名前ももう忘れてしまったが、その男が何かの機会にしてくれた二つの話を藤吉郎は今でも覚えている。その話がどうしようもなく気に入ってしまったのである。
 二つとも史記の中の話で、一つは、項羽が若い頃、学問をしても剣を学んでも続かないことを人から説教されて、
「字は名前さえ書ければそれでいい。剣は一人を相手にするのみ。俺は万人を相手にする方法を学びたい」
と言ったという話。その「我は万人の敵を学ばん」という言葉の威勢の良さに、当時の日吉丸はすっかり参ったものである。
 もう一つは劉邦の話で、彼が部下の韓信に、自分はどれくらいの兵を率いる才能があるかと尋ね、
「陛下はせいぜい十万人程度です」と言われて憮然とし、「ではお前は」と聞くと、
「私は多ければ多いほどいい。(多々益々弁ず)」
との答えに、
「ではなぜお前はかつて私の虜となったのだ」
と聞くと、
「陛下は兵に将たる才能は無い。しかし、将に将たる才をお持ちだからである」
と答えたという話である。
「将に将たる器」、この言葉に日吉丸は陶酔した。それが具体的にどんな能力を指すものかはわからない。しかし、男として生まれた以上、目指してよいものがそこにはあるような気がしたのであった。
 今でも藤吉郎は何かにつけその二つの言葉を思い出す。「万人の敵」と「将に将たる器」。それを思うたびに、今の自分のままではいけないという気になる。だから、彼は人一倍働いた。他人が見ていない時でも、怠けたりすることはけっしてなかった。そしてその事が苦痛ではなかった。
 彼の背後には極貧の暗黒の日々があったからである。
 それを思えば、何でも耐えられない事はなかった。そして、彼の前には昇る朝日しかなかった。
「わしが生まれる時に、お袋様は朝日を呑み込む夢を見たんだそうじゃ」
 彼はよくねねにそんな事を言った。それは罪の無い嘘に決まっているが、彼は自分でも知らぬ間にその嘘によってある幻術を用いていたのである。
 すなわち、彼が何か思いがけない離れ業をした時に、その日輪の話が人々の頭に思い浮かぶという幻術である。
 ねねからその日輪の話を聞いていた者たちは、その話を一笑に付したものの、その事を忘れる事はなかった。それが後に藤吉郎の栄光に幻の輝きをも加えることになった。いや、その幻も藤吉郎の栄光作りに一役買っていたと言うべきだろう。
 相変わらず藤吉郎を毛嫌いする者は多かったが、彼は平気だった。自分を笑う者に対しては一緒になって笑い、自分を笑わぬ者には感謝して、常に真心を尽くした。自然と彼を好む者、彼に味方する者が増えていったのであった。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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