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どういう人間が維新の会を支持するのか?

「反戦な家づくり」から一部転載。大阪維新の会に牛耳られた吹田市が今、どのようなことになっているかという記事である。まあ、維新の会だけでなく自民公明みんなの党など、すべて維新の会と同じ穴のムジナだが。
要するに、福祉関係予算はすべてばっさり切られて、貧困者の生活はいっそう貧困化したということである。今どき、新自由主義を支持する人間などそうはいないだろう、と思っていたら、超新自由主義の大阪維新の会を吹田市住民は第一党にしてしまったわけだが、その結果がこれである。
自分は貧乏人ではないからいいさ、と思っていたら大間違いで、いつ自分がそういう身に転落するか分かったものではない。それ以前に、弱者への同情という自然な感情を持たない人間が吹田市にはそんなに多いのだろうか。
まあ、この政治的実験が今後どうなっていくか、見ものである。


(以下引用)

そんな事情もあって、吹田市は維新の会の市議はいないにもかかわらず、自・公・み・など維新の会になびく勢力が過半数を占めている。

大阪市は、維新が第一党とは言え、他が対立しているから過半数にはならない。その意味では、吹田市は大阪市以上にこの男の支配下に置かれているのである。

それゆえに、9月には吹田版事業仕分けが行われ、モノの見事に福祉関係だけを切り捨てた。
見出しを見ると、高齢者、生活困窮者、保育園、小学校、幼稚園、安全対策、学校給食、介護、障害者、ゴミ回収。
福祉や子どもに関係しない分野は、市民会館くらいだ。

ちなみにゴミ回収というのは、地域の子ども会が古新聞などを回収したモノに少額の報奨金をだしているのをやめようと言うせこい話。
その割に、回収業者は随意契約だったり、しかも年に4億円も補助金出していたり、しかもしかもその都市クリエイトという会社は、藤木という自民党市議のスポンサーだったりする。

それ以外にも、無駄な箱物とか、事業見直しするものはいくらでもあるのに、よりによって福祉と子どもだけを狙い撃ちにして切り捨てにかかるところが、いかにもあのファシスト一派らしい。

そんなわけで、吹田の保育園も民営化が始まることが、ほぼ間違いないということになった。
今後7年間で5つの公立保育園を民営化するのだという。職員(保育士)も90人削減。

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左の奴隷に殴りかかる右の奴隷

「ブロゴス」から転載。長い記事の一部である。
小林よしのりにはあまり興味はないが、どちらかというと右翼系の思想の持ち主だと思っていたので、ネット右翼に対する下記記事のような発言は面白く思った。右翼もいろいろなのか、それとも保守と右翼は別と見るべきか。
自分が社会的に恵まれないことの怒りを、自分たちをそういうどん底に陥れた社会体制や富裕者にではなくその社会を改革しようという左翼に向ける、右翼の若者たちの逆立ちした思考はどうにもアホらしいものだが、まあ彼らには彼らの論理があるのだろう。
憲法が悪いから、日教組が悪いから、民主主義が悪いから、左翼が悪いからこの社会はどんどん悪化してきたのだ、とか。
そのうちに、自分たちの給料が悪いのは日教組や労働組合のせいだ、と言いだしかねない。
小林よしのりではないが、「なんかこう、もっと有効に怒ったほうがいいんじゃない?」という感じである。有効に、というのは、自分の本当の敵が誰なのか考えなさいよ、ということだ。

(以下引用)

なんかこう、もっと有効に怒ったほうがいいんじゃないかなっていう気がするね。

―有効に怒る、とい言いますと?

小林:そういうネトウヨ系のヤツは、強硬なことを言っときさえすれば保守なんだ、愛国者なんだ、と思ってるから、「原発推進だ!」とか簡単に言うけれども、だったらもう、お前たち経団連の思うままに操られるだけだよっていうことであって。左翼と一緒になって「原発反対!」って言ったほうが、世の中それこそすっかり変わるんじゃない?と思いますけどね。

しかも、君たち年収200万円以下の下層でしょ?っていう。それでいいわけ?と。自分が選んでるんだよそれをって。お前らもう30、40(代)になってるだろ、ほんとはよっていう。匿名でやってるけども若くはねんだぞっていう。結婚もできないっていうような身分に置かれてそれで満足してるわけ?って。全然何に対して怒ってるのか全くわからない。怒らなければいけないのは、違うところにあるんじゃないかっていう。自分の立場に対して満足してないって、そこをちゃんと怒れよって言いたくなるよね。

―メディア批判が不満のはけ口というか、すっきりするためだけになってしまっていると。

小林:長いこと君たちは階層の下におかれるんだよ、あんたたちどんどんオッサンになるよ、醜くなるよ、っていう話でね。デモなんかに出かけられないよ醜くって、ということになるよね。

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高齢社会の産業化

日本の進路について、これまで何度も考えてきたが、「高齢社会」の観点から考えたことはあまりなかった。「岸田コラム」というコラムを読んで、少し考えさせられたので、今日はこの観点から考えてみる。
ただし、きっかけとなった「岸田コラム」はコピー不許可なので、転載や紹介はできない。私は、自分の言葉をネット上に発表するのは、多くの人に読んでもらいたいためだろうと思うから、コピー禁止のものをネットに載せるということの意味がよく分からない。「きっこの日記」なども同様だ。コピーされ、転載されて多くの人に読まれるほうがネット言論としては望ましいのではないか。だが、人それぞれだから、それはどうでもいいだろう。私は、自分の考えなど、誰かの考えの焼き直しでしかないと自覚しているから、断片的発言にまで著作権を主張するのは愚劣だと思っているのだが。

さて、「岸田コラム」で私が面白く思ったのは、日本は社会全体の構造を高齢社会向きに作り替えるべきだ、という考えである。産業なども、高齢者向けの製品を、本腰入れて作る努力をするべきではないか。何しろ、あと数年も経てば、全人口の4分の1くらいが高齢者になるのに、今の工業製品も文化も、そういう老人市場をほとんど考えていない。というような主張である。
私もそれに賛成である。
今時の老人は、ロックを聞き、漫画を読み、アニメを見るのが普通かもしれないが、だからと言って、「若者向けに作れば、それで老人にも対応できる」とばかりは限らない。たとえば、電子機器なら、複雑な多機能電子機器よりも、シンプルで分かりやすい機器が老人には必要だ。もちろん、携帯などには老人向け商品もあるが、まだまだ老人向け商品は少ない。それに、社会システム全体は、言うまでもなく健康な生産年齢の人間を念頭に置いて作られている。老人など、町に出るな、と言わんばかりだから、老人は家に引きこもり、ボケていく。
私は「アンファニズム」というブログも持っていて、そのタイトルの意味は、「子供主義」というような造語である。つまり、我々は肉体年齢がどんなに老いても、頭の中身は子供の部分がある。むしろ、そういう子供の要素こそが物事への生き生きとした興味や想像力や創造力、ひいては生命力や精神の健康につながるのではないか、ということだ。
しかし、精神的には若々しくても、肉体的には老いることは避けられない。今の社会は、そういう「精神子供、肉体老人」という生き物に対応していないように思われる。
まあ、そういうボヤキを言うくらいなら、自分でそれをチャンスとして、商売でも考えるのがよい、と言われそうだが、残念ながら、私は商売事には頭が働かない人間のようなのである。そこで、誰かもっと頭のいい人間に、この高齢社会を明るくするような商売や社会システムを考えてもらいたい、と思う。

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工業中心の日本の終焉

「阿修羅」記事のコメント欄から転載。
日本の工業の空洞化は最終段階に来ている、というわけだが、役人や政治家はそれに対してまったく無関心なのではないか。彼らにとっては自分の生活さえ安泰であれば、国民生活がどん底に陥ろうが、平気なのだろう。
では、この工業の空洞化に、どのように対処するか。
私は、工業の空洞化には抵抗しても無駄だと思っている。すべて産業は人件費の高い先進国から人件費の安い後進国へ中心が移っていくものであり、「技術」や「知識」は、それこそ「マニュアル」として簡単に移転できるものである。IT社会となり、情報が世界を飛び交う現在では、物造りの「秘伝」など隠しようはない。資本さえあれば後進国でも物造りはできる。
では、工業の衰退した日本社会を今後どのように運営していくか。
それは、何度も言ってきたように第一次産業へのシフトと、「教育・看護・環境」がちゃんと利益産業になるような社会体制造りをすることによってである。その詳細については、私より頭のいい人々にまかせるが、この大筋は間違っていないことには自信がある。


(以下引用)


06. 2011年9月29日 23:01:00: Pj82T22SRI
2011年09月29日 10:32 am JST

空洞化は最終段階
投稿者 久保信博

タグ: 企業, 自動車, 通貨政策, 金融市場, 雇用, ドル, 円高, 海外投資, 輸出産業, 韓国

JAPAN-AUTOS/

「円高で空洞化がさらに加速する?いや、空洞化はもう最終段階を迎えたと思う」──久しぶりに会った旧知の自動車メーカー関係者は、ビールを飲みながらこう語った。

このメーカーは年内に主力車を全面改良する。企画が始まったのは2009年。国内では年間20万台弱のペースで生産する計画だったが、2年が経過した今、計画を大幅に変更した。国内での生産予定数を8割減らし、海外生産に切り替える。

当時対ドルで90円台後半だった円相場は、76円台と20円以上の円高に。新モデルは国内向けの販売がごくわずか。ほとんどを輸出に振り向けるため、採算が合わない。「日本で生産するのはやめたいという話も出た」と、同氏は語った。

とりわけ今は対韓国ウォンでの円高が韓国車との競争で不利に働き、日本から輸出していたのでは対抗するのが難しくなっているという。

電機業界で起きたのと同様、自動車業界でも韓国メーカーに人材が流出している。今や電子部品のかたまりと言われる自動車だが、基本は機械。サスペンションの微妙な調整やドアが閉まる音など、数値化できない熟練エンジニアの技によるところが大きく、日本からの人材獲得は韓国車の品質を向上させた。

「少し値段が高くても日本車が選ばれてきたが、差別化できなくなってきた」と、同氏は語る。そこに円高/ウォン安による韓国車の一段の価格優位性が追い打ちをかけているという。

1台当たり2万─3万点の部品で構成されている自動車の生産には、約79万人がかかわっている。原材料メーカーも含めれば、100万人以上に膨らむ。生産の海外移転は、当然ながら国内の雇用が減ることを意味する。

日本では産業構造の転換の必要性がずっと叫ばれてきた。しかし空洞化が「最終段階を迎えた」今も、製造業に取って代わる産業は育っていない。政府がピーアールに力を入れる観光は、豊富な観光資源を抱えるギリシャの状況を見る限り、柱の産業になれるかどうか疑問符がつく。

アニメや映画、音楽などソフト産業はどうか。「俺はミュージシャンで生きていく──そんな風に言う子供の姿と重なる」と話す同氏に、筆者も思わずうなずいた。

暗い話ばかりがさかなでは酒もまずく、2人とも2杯目を注文せずに店を出た。

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セロリの簡単料理

今日は料理の話である。野菜の好き嫌いと、その解消法の話だ。

私は嫌いな食べ物がまったく無いか、と言えば、それはある。というより私が食べる気になれないのは「昆虫」と「爬虫類」と「両生類」である。まあ、「漂流教室」みたいな状況になったら、昆虫でも爬虫類でも両生類でも食うかもしれないが、平和な世界でわざわざそんな「サバイバル食い物」を食う気にはなれない。というより、まず側に寄るのもいやだ。特に昆虫の幼虫など大嫌いで、オーストラリアのアボリジニーが芋虫を食うなどというのは、傍で見たくもない。またアラスカのエスキモーが、セイウチか何かを解体する時に、その皮膚の下の寄生虫が奥に逃げ込もうとするのを素早く捕えてぱっと口に放り込んで食べる、というのも気味が悪い。
こういうのは幸い、日本では普通の食べ物ではないから、料亭でセイウチの寄生虫の生き作りを出す、ということは無い。
もちろん、日本でも地方に行けば、「蜂の子」や「イナゴ」などを食うところはあるし、蛙を食うところもあるだろう。そんな野蛮な土地には旅行しないに限る。晩飯に蜂の幼虫やイナゴの佃煮など出されたら、私は卒倒する。まあ、おフランスのように上品ぶっていてもカタツムリを食う野蛮な土地もあるが。
しかし、野菜に限っては、どんな野菜でもそういう「気味悪さ」は無いのだが、嫌いな野菜のある人は非常に多い。これは概して、親の料理下手によるトラウマのためだ。最初に下手な料理をしたもので、子供はそれを野菜自体の不味さとして頭に刷り込んだのである。ゴーヤーなどはもちろん、「苦さ」という、子供の苦手とする味であるから、そのままでは子供が受け入れるわけはない。薄切りにして水でさらすなどして、少しでもその苦味を和らげる工夫が要る。そしてもちろん、卵や麩や三枚肉やポーク缶詰などと一緒にチャンプルーにすれば、子供はゴーヤー以外の物を中心に食べ、「うっかり」ゴーヤーを食べて、それが案外いけることに気づくのである。そうなれば、ゴーヤー好きになるまで時間はかからない。(ここまで私が「ゴーヤ」でなく、「ゴーヤー」と表記していたことからも分かる通り、私は沖縄の人間である。まあ、沖縄でも「ゴーヤ」と発音する人もいるが、それは「ゴーヤ・チャンプルー」などの場合で、単独では普通「ゴーヤー」と発音する。)

セロリが嫌いな子供を持つ人に、いい料理法を二つ教えよう。

1 セロリの葉を味噌汁の具にする。これは、お雑煮のミツバなどと同じくらいに少しでいい。一椀に3~4枚程度がベストか。あまり入れすぎると、子供をうんざりさせる。セロリの香りによって「洋風味噌汁」とも言うべき不思議な味わいになる。これで、子供のセロリへの抵抗感を減らすわけだ。
ついでだが、一般に女性の作る味噌汁は具が多すぎて、汁ではなくオカズになってしまう傾向があるので、注意したい。汁の中の具は全体の4分の1以下がいい。

2 セロリの茎を短冊に切って、(輪切りにしてはいけない。味が変わる。野菜の切り方は舌ざわりや噛み心地に関係し、味覚に大きな影響を与える。短冊の長さは5~6センチで、幅は適当、厚みは2~4ミリ程度。薄い方がいい)油で炒める。味付けは塩と化学調味料だけ。胡椒を加えてもいい。セロリ以外の野菜を加えないこと。肉なども不要。ただセロリだけを油でいためるのである。炒め方の程度は適当でいい。生でも食えるのだから、気にすることはない。まあ、少し黄ばむ程度がベストだろう。酒のツマミにもなる。油はバターでもサラダ油でもいい。ごま油などを試すのもいいだろう。
注意しておくが、「炒める」のであって、「蒸す」のではない。間違っても蓋などして蒸してはいけない。蒸気をどんどん発散させ、汁は出ないようにすること。

一般に、複数の野菜を同時に炒めると、味が濁って、それぞれの野菜の味わいがなくなるものである。料理下手な主婦が作る「野菜炒め」はたいてい子供が嫌うものだが、たいてい、その中には、人参だのブロッコリーだの、子供が嫌う野菜が紛れ込んでいるので、子供は野菜炒めを見ただけで食欲を無くすのである。しかも、味は幾つもの野菜の味が混じったわけのわからない味だから、不味いのだ。沖縄の「味クーター(ごちゃまぜの味)」がいいなど、味覚の鈍感な人間の言い草だ。
それに、「野菜炒め」と言いながら、フライパンに蓋をして「蒸す」馬鹿もいる。蒸したら汁気が野菜の外に出て、野菜自体の旨味は無くなるのである。そして、その汁は捨てられるだけなのだ。
セロリには、それ自体のおいしさがある。そのおいしさを引き出すには、塩だけの味付けが一番だ。だが、化学調味料を使えば、もっとおいしくなるのだから、遠慮せずに使って、子供にセロリのおいしさを教えればいい。化学調味料を使う時点で、私の言葉は聞くに値しないって? まあ、それで結構。化学調味料を使わないレストランがどれだけあるだろうか。化学調味料がいやなら、別のダシを使えばいいが、自然食品的なダシは料理との相性があって使うのが難しいのである。まあ、べつに塩だけを使ってもいいのだが。


(以下「ネットゲリラ」から引用)



1 ◆zzzbb2c.e6 (東京都) 2011/09/30(金) 20:28:00.76 ID:IaCa4p7v0
■セロリ、ゴーヤに続きトマトがランクイン
子どものころに苦手だった野菜で、今でも食べられないものはありますか?
はい……39.4%(343票)
いいえ……60.6%(528票)
なんと4割もの人が、今でも苦手とする野菜があるということです。子どものころ嫌いだった野菜の定番といえばニンジン、ピーマンなどが浮かびますが、大人になった今、はどうなのでしょうか。
Q.嫌いな野菜を教えてください(複数回答)
1位 セロリ  36.1%(124票)
2位 ゴーヤ  20.1%(69票)
3位 トマト  15.2%(52票)
4位 ピーマン 12.5%(43票)
5位 オクラ  10.5%(36票)
6位 ナス   9.0%(31票)
7位 ニンジン 6.1%(21票)
7位 キュウリ 6.1%(21票)
9位 ブロッコリー 5.5%(19票)
10位 ニラ   4.1%(14票)
その他   22.7%(78票)
1位、2位はセロリやゴーヤのように苦みのある野菜でした。3位のトマトは意外な気もしますが、言われてみると、「トマトが苦手で」という友人や同僚が周りにいます。
そのたの野菜としては、しいたけ(10票)、グリーンピース(6票)、カリフラワー(4票)、かぼちゃ(3票)が続き、パクチー、ホワイトアスパラガス、モロヘイヤなどがありました。

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人を愛するということ

「青葉台ブログ」から転載。
私ははっきり言って爺いである。その爺いがアニメを見るだけでも馬鹿にされそうだが、そのアニメのタイトルが「魔法少女まどか☆マギカ」となると、下記記事ではないが、「気が狂ったか」となるだろう。だが、この「まど☆マギ」は、10年に一度という傑作であるから、ぜひ多くの人に見てもらいたい。
内容については下記記事が簡潔に説明しているが、これは脚本・映像・キャラクター・音楽・演出の総合的なレベルの高さによる傑作なので、ストーリー要約だけでは、あまり内容は伝わらないと思う。しかも、第三話の途中までは、まったくの「お気楽魔法少女物」にしか見えないのだから、けっこう多くの人は第一話だけで投げ出す可能性もある。だが、第三話で「えっ?」となり、それから後は「ええっ?」「ええーっ!」となり、後は怒涛のラストまで引きずり込まれていくのである。その間、見る人の心には「これは傑作だ、傑作だ」という思いが絶えず渦巻いているはずだ。もしも、これに感動できない人がいたら、本当に可哀想なことだ。
私は作品をテーマで論じるのは嫌いだが、この作品を一言で言えば、「あなたはどこまで人を、そして人類全体を愛することができるか」という問いのように思える。家族への愛、友達への愛、あこがれの人への愛、そして、自分と同じ魂を持った過去の人々への愛。
愛する人のために自分の人生を捧げた、その愛がまったく報われなかった時、愛は憎しみに変わるかもしれない。それでも、あなたは相手のために自己犠牲ができるか。あるいは、転校生として不安に怯えていた自分に優しい声をかけてくれたという、それだけであなたはその相手に、自分の人生を賭けて後悔しないか。
愛は必ずしも打算と無縁ではないだろう。しかし、人生のある時期には、まったく打算の無い愛に生きることも可能であり、その時人は人間以上のものになるのである。


(以下引用)


「魔法少女まどか☆マギカ」が素晴らしすぎる。
テーマ:書評・映画・演劇・音楽など
私がこんなブログをアップしたら、この作品を知らない人からは、「魔法少女」というタイトルだけで、ついに気でも狂ったかと思われるだろうが、いや、「魔法少女まどか☆マギカ」を見たことがある人なら、うんうん、あなたもね、と共感してもらえると思う。

「魔法少女まどか☆マギカ」は今年前半に、深夜枠で放送されていたアニメで、DVDの1巻が発売されるやいなや、6000円ぐらい単価もするのに、5万枚以上も売れて、この手のアニメではギネスをつくった作品である。
http://www.madoka-magica.com/

この作品の魅力は語り尽くすのも難しくて、ゆえに、あちこちでネット上も考察がたっているし、新聞や雑誌でも評価がとりあげられてきた。

「子連れ狼」原作者の小池一夫氏が激賞し、
http://getnews.jp/archives/137487

またSPAでは、四人のオトナの評論家が大まじめに作品の魅力を語った。
http://www.zakzak.co.jp/zakspa/news/20110822/zsp1108221121004-n1.htm

なかなかこの魅力を文章で表現するのは難しいが、私の場合は、「意外性の連続」に虜になってしまった。まあ、みごとなまでに、裏切る展開が続き、そして最後には落ちつくべきエンディングにくるというスマートさもある。

まずタイトルからして裏切りである。
「魔法少女」とタイトルをつけて、少女漫画っぽく見せながら、ぜんぜんそんな雰囲気から変えていく。
マスコットっぽく登場したキュゥべぇ。そもそもキャラデザインが「萌え系」であること。
それらすべてが、どんどん裏切っていって、ジェットコースターに乗せられた気分になる。
最終回まで見終えて、「魔法少女まどか☆マギカ」って、これ主人公は、まどかなの?とそういう最後の裏切りも感じた。しかし、先入観を打ち砕く裏切りの連続が心地いいのである。

また音楽も映像も素晴らしい。魔女の世界に入るあたり、まるでディズニーランドのホーンテッドマンションに初めて入った時のようなワクワク感があった。

作品の世界観としては、芥川龍之介や、太宰治の作品を読んでいるような錯覚を感じたりもする。

最後に、私自身が一番響いた示唆は、最終回で時間遡行を繰り返すほむらが、まどかのことを「道しるべ」と呼んだことだ。

この作品のこれまた魅力なのだが、私たちもまた現実世界では、彼女たちのようなしがらみや悲しみ、迷いの中に生きている。

キュゥべぇのようなブラック企業の人事担当に騙されて、入った会社が、ひどいことばかりだが、「契約」のために逃げられないしがらみに苦しむこともある。

魔法少女たちのように、誰かのためにやったことを、恩をアダで返されて、また、理解されないことなんて毎日のことだ。

流されて、囚われて、逃げられなくなって、自分を見失い、どうすることもできない無力感の中で、私たちはどうやって生きていけばいいかと途方に暮れる。
そんな中で、「道しるべ」となるべきものの存在。

ほむらにとっては、まどかだった。

ぜひ、この作品はできるだけ多くの人に見てほしい。
そう思って、ブログ記事を書きました。

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なぜ彼らは「国連救援」を拒否するのか

「つれづればな」というブログから転載。外国在住の60代の女性のブログらしい。
ソマリアという国は、いわば「無政府国家」に等しいと私は思っているのだが、その惨状を見れば、日本のような腐敗国家でさえ天国に見える。やはり、国家には政府が必要であり、官僚も必要ではある。大事なのは、「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」というテーゼを我々が常に意識し、政府や国家システムを監視する方法を構築していくことだろう。
それにしても、ソマリアへの仕打ちを見れば、国連やユネスコの正体が欧米の利権擁護組織でしかないのは明らかだろう。世界中の善意の寄付は、こうしてソマリアを苦しめることに使われてきたのである。


(以下引用)


この三年で一滴の雨もふらない、そんなひどいことが日本人の思い浮かぼうか。



「ソマリア」「飢餓」で検索すればソマリアの惨状の写真がご覧いただける。やせ細って衰弱した子供の写真などは子を持つ身にしてみれば胸の潰れる思いがする。

ただ、アフリカの草原の民が飢えに苦しむ写真や映像は、とても悪い言い方をすれば「見慣れて」しまっている。視覚情報の氾濫がもたらす弊害とも考えることができるが、いま骨と皮だけになった子供たちの写真を見せられても多少こころが痛みこそすれ「アフリカだから仕方ない」、「何とかするのは国連の仕事」というせりふがすぐに我々の口をついて出る。

なにかがおかしくはないだろうか。

本稿はソマリア飢餓への寄付を募ることを目的としているわけではない。
援助を必要とする人々は日本のなかにも溢れており、善意の行動は各自の良心ある判断によってなされるべきである。
ただ、日本では知り得ないいくつかの事をぜひ書きとめておきたい。

西欧諸国からの救援物資が避難民に届かない―――その原因は欧米からテロ組織と指定されている「アル・シャバブ」の妨害によるものだという。
アル・シャバブはイスラム過激派組織の一つに数えられているが、アルカイダのようなアメリカ製のインチキ組織とは異なり、ソマリアというイスラム社会の内部から興ったものである。ではその敬虔なイスラム教徒のアル・シャハブがなぜ苦しむ同胞たちに差し伸べられた手を払いのけるような真似をするのか?

以前から、WFP(国連世界食糧計画)によってソマリア国民に対して食料の援助が行われていた。2006年、あろうことかWFPはソマリアの農民がその年の穀物を市場に出荷するのと時を同じくして一年分の穀類を援助し配布した。当然市場は凍りつき農民は大打撃を受けた。激しく抗議する農民に対しWFPはその非を認め、必要な調査を行い二度と同じ事態を招かぬことを約束した。だが2007年の出荷時、WFPは前の年と同様に一年分の穀類の分配を行った。ただ、エチオピアの軍隊を護衛に配備していたことが唯一の違いだった。

アル・シャバブはこの時点で彼らの活動拠点であるソマリア南部からWFPを追い出し一切の援助を拒否する方針を固めた。が、食糧難が深刻化した二年前からふたたび救援を受け入れるようにはなっていた。しかしその後、WFPから配布された食料から健康障害を引き起こす物質が検出されたという理由から、非イスラム国家および団体からの救援を強硬手段を用いて遮断するようになった。

近年世界を騒がせたソマリア海賊、その所以となった核廃棄物投棄事件を思い出していただきたい。
海賊の正体は窮地に立たされたソマリアの漁民であった。1991年、内戦によりソマリア政府が崩壊し国家としての機能しなくなった隙をねらい西欧アジア諸国の船がこぞって核廃棄物をソマリア海に投棄した。それだけではない。豊かな漁礁に目をつけた諸国は乱獲を重ね、禁漁の季節は無視され、魚介類は激減し、ソマリアは漁業という重要な収入源をも剥奪された。そして放射能による汚染は刻一刻と進み人々は被爆という悪夢に晒され今もそれは続いている。
国連は彼らを救済するどころか調査にもやって来ない。

不特定多数国家の船をソマリア海から駆逐する目的ではじまった自衛行動はその後海賊行為へと変容した。いったいどちらが海賊か考えてみて欲しい。皮肉なことに、この事態は西欧諸国の海軍に海賊を取り締まるという名目でアラビア海からソマリア海をうろつきまわる権限を与えてしまうことになる。ちなみにアル・シャバブは海賊行為はイスラム法に反する、海賊に組してはならない、と漁民たちに説いている。

国連をはじめユネスコなどの団体は飢餓写真を公表し飢餓救済キャンペーンを催してはパタリとやめてしまう。そしてそれを何年かごとに定期的に繰り返す。なぜか?自ら「飢え」を加速させ、自ら「救世主」を名乗り手を差し伸べる。その手をはたくイスラム教徒を「告発」し、西欧の理念をより崇高なものと世界に見せ付ける。
我々といえば、今にも折れそうな子供たちの脚を見てももはや驚かなくなっている。戦争映画の虐殺場面と同じ頻度でそれを見慣れて(見慣れさせられて)いるからだ。ソマリアが、あるいは他の国が飢えに苦しむ事実は理解できても心が動かない。

人を愚鈍にさせる術はよく研究されている。

弱者に対し悪事を働いた者たちはいずれ神に罰せれれよう。しかし、この悪事に「無知」という形で加担した我々は、果たして同じ罰をうけることになるのだろうか。

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