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価値観について

「般若心経」について書いた昨日の記事に関連して、昔書いた文章を掲載しておく。別ブログ(文書倉庫として使っている)にも載せているが、そちらは訪問者のほとんどいないブログなので、ここに載せたほうが誰かには読んでもらえるだろう。
なぜ前回の記事と関連するかというと、どちらも「心的態度」を扱っているからだ。



価値観について



第1節 社会的価値観と個人的価値観

 人間と動物の相違は、人間には価値の意識があることで、その価値の意識が人生を複雑にも面白くもする。ある意味では、人生の諸問題は価値の意識から来ると言える。

 何を価値があるとし、何を価値が無いとするかは、社会的な合意がある反面、個人的なものでもある。それが「価値観」だ。一般的には、価値観は個人的なものだと思われているようだが、実は

1 社会的に合意された価値観が、個人の価値観の大部分を占めている。

我々が文化生活を享受できるのも、この価値観の共有から来るのである。(ここで、事例を挙げるなら、たとえば、美人・美男子の基準は、時代と社会によってほぼ決定され、個人的な趣味はそれほど決定的な要素ではない、などがそれだ。あるいは、能力のある人間は価値があり、能力のない人間は無価値であるとされるのは、ほぼどの時代、どの社会でも変わらないだろう。そこで、たとえば、「弱さ」を価値あり、とする人間がいたとしても、それは個人的な偏向にしかすぎないとされるのである。)しかし、また、

2 価値観を共有することはこの社会の収奪システムの中に組み込まれることでもある。

我々は、「価値あるもの」を手に入れるために働き、稼いだ金を出してそれを購入する。社会の上位にいる人間は、下の人間のそうした馬車馬的労働の成果を吸い上げ、消費者からは金を巻き上げて、自らの快適な生活を維持していく。かつては王侯貴族が行い、現在では大資本家(及び、その協力者である政治家や官僚)が行っている、これが社会の収奪システムである。(社会の収奪システムは、先進国と後進国との間でも維持されている。後進国がいつまでも後進国であるのは、すべてがシステム化されているからである。)
その収奪システムから逃れる簡単な方法は、自分だけの価値観によって行動することである。つまり、社会が価値ありとするものに背を向けて生きることだが、しかし、完全にそれを行うと、社会の文化的産物をすべて拒否することになり、原始人の生活になる。
 この、「共通価値観」と「個人的価値観」との摺り合わせが、人生を生きていく上での最大のポイントになる。「共通価値観」の肥大した人間は周囲に流され、社会の収奪システムの奴隷となるし、「個人的価値観」が肥大しすぎた人間は、周囲から孤立し、変人扱いされることになる。

第2節 価値観と性格

 離婚の原因として、よく「性格の不一致」という言葉が出るが、性格とは、実は価値観の集合でもある。人生を生きていく上で、何を価値があるとするかという根本が違っていたら、共同生活が成り立つはずはない。一方は都会生活を好み、他方は自然の中の生活を好むとすれば、生活すべき場所すら異なることになる。どちらかに従えば、当然、もう一人は不満を抱えていくことになる。
 そして、「十人十色」とか、「蓼食う虫も好きずき」とか言うように、個人的価値観は多様なものである。たとえば、同じように漫画を好んでいても、その好む漫画の傾向が同じとは限らない。趣味については、片意地な偏食家が多いのである。自分の趣味を絶対的に肯定していない人間は、ほとんどいない。趣味については、誰もみな、自分を精神的貴族だとみなしているのである。

 我々の人生がどのように彩色されるかは、快不快の気持ちによるが、何を快とし、何を不快とするかは価値観に左右されていることが多い。簡単な例では、労働と遊びの相違である。我々は労働を不快な義務と思い、遊びを快楽だと思っている。だが、スポーツは、スポーツ選手にとっては労働であり、観客にとっては遊びだ。ゴルファーにとってゴルフは労働だが、プロ野球選手がシーズン・オフにゴルフをやれば、それは遊びである。このように、同じ行動が苦痛にも快楽にもなる例は多い。その原因は、物事をとらえる姿勢にある。それを価値観と言うのは不適切かもしれないが、ある価値観をもって接するから、あるものを価値があると思ったり、また無価値だと思ったりするのは事実だ。これを価値観と言わないで、「肯定的態度」と「否定的態度」と言ってもいい。
 
我々は通常、快不快を動かしがたい前提条件と考えがちだ。つまり、ある対象とそれへの快不快は密接に関連していると考えている。だが、そうだろうか。我々があるものを肯定したり、否定したりするのは、実はただの習慣にすぎないのではないだろうか。
 もちろん、物事に対する趣味は、我々の性格そのものと言ってもいいくらいに固定的であるのが常だが、しかし、趣味は変わりうるものでもある。つまり、短期間には動かしがたいが、時間をかければ変えうるものだ。趣味と同様に性格も変えられる。つまり、

3 我々が自分の性格としているのは、我々がそれを自ら選んできた結果だ。

「その性格」であるのが我々自身にとって心地よいから我々はその性格を続けているのである。(つまり、快感原則は人生の根本原則だが、何を快とし、何を不快とするかは変えうるのである。)これは外面的な性格演技だけの話ではない。ドストエフスキーの作中には、よく卑屈な小市民が出て、自らを卑下するが、その卑下する自分に、実はある心地よさを感じているのである。たとえ、自分の不甲斐なさのために娘を身売りさせ、自分が最低の父親である、と泣いていても、そのような自分の存在をどこかで肯定しているのである。これが、人間の自己愛である。我々が自分の性格にうんざりしながらも、けっしてそれを変えないのは、実はそれが自分にとって「居心地がいい」性格だからである。
 しかし、繰り返すが、性格は変えがたいものでありながらも、可変的なものでもある。たとえば、ここに内省的な人間がいたとしよう。彼を軍隊の中に放り込んで、一年間も鍛えれば、彼は立派なロボット的兵士になるだろう。それが戦場ならなおさらだ。なぜなら、決められた行動に即座に従わないかぎり、彼の生存は保証されない以上、彼には内省の余地は無いからである。少なくとも、彼は自分の内省癖を、それがゆるされる時間まで棚上げにする習慣を身につけるだろう。そして、やがてはその内省癖そのものがどうでも良いものになっていくはずである。我々の性格も趣味も習慣の問題にすぎない。兵士の中に哲学者がいないとは限らない。だが、勝れた兵士ではありえないだろう。兵士として生き延びるためには、我々は動物的な脊髄反射(通常は「命令~服従」の反射。戦場では「危機~戦闘行為」の反射)で生きるしかないのであり、自らの内面への深い思索などしていては生きてはいけないだろう。

第3節 物の価値

 第1節で「社会的価値観」について述べたが、実は、価値の相場は合理的に形成されるわけではない。
 誰でも、黄金は価値があると思っている。だが、その価値は主として「希少さ」によっているのである。誰かが言っているが、黄金より土が少なかったら、土のほうが価値が出るだろう。希少さとは無関係に、実際に土のほうが価値があるとも言える。なぜなら、黄金の上に作物はできないからだ。我々は土に価値があるなどとは思わない。それは周りに膨大にあるからだ。だが、飢饉が来れば、作物を生やしてくれる土地の価値が、はっきりとわかるはずである。そのとき、黄金が、いかに無価値かもわかるだろう。問題が少し違うが、インカ帝国にもしも黄金がなければ、スペイン人たちはインカ帝国を滅ぼさなかったかもしれない。インカ帝国にとっては、黄金は災いを招く存在であった。インカ人自身にとっても黄金が、価値がそれほどあったとは思われない。なぜなら、スペイン人に略奪されるまでは、彼らにとって黄金はありふれた存在だったからである。そのへんの石ころと同じ比率で黄金があれば、誰が黄金を崇めるだろうか。(このことを敷衍すれば、世界中の人間が美男・美女になった世界では、美男・美女の存在価値は無いことになる。)
 土と同様に、我々がその価値に気付かないものが、空気と水である。我々が生存できるのは、ひとえに空気と水と土のおかげであり、それ以外のものは生きる上では剰余にすぎない。もちろん、文化とはその剰余のことではあるのだが、少なくとも生存上の第一義的なものは、この三者なのである。
 さて、この人間社会では、黄金は価値があるとされている。そこで、黄金を独占した人々は、その相場を自分たちで決めることで、他人の上に立ち、優雅な生活を送ることができるわけである。つまり、社会の構成人員を「黄金は価値がある」と教育(洗脳)すれば、その後はほぼ永遠に富の独占ができるわけである。これが資本主義の起源である。
 いや、黄金はそれ自体価値がある、と異論を述べる人もいるだろう。何しろ、容易に加工できる「美しい」金属で、しかも時の浸食を受けない。だから黄金には絶対的な価値があるのだと。なるほど、それらの美点は確かにある。特に、貨幣を作る上で、黄金はいい原材料だろう。そうした価値を否定はしない。貨幣経済の上に成り立っているこの社会を維持する上で、黄金は重要な要素には違いない。しかし、黄金の持つ価値は、必要以上に吊り上げられているのではないだろうか。他の貴金属や宝石なども同じである。
 では、芸術品の価値はどうだろうか。ゴッホの絵とセザンヌの絵は、どちらがどれくらい上なのだろうか。我々素人からは、その価値の差はわからない。三つ以上の数の数えられない土人同様に、どちらも「たくさん、たくさん」という評価しかできないのである。しかし、現実には、ゴッホの「この絵」は幾ら、セザンヌの「この絵」は幾ら、と評価がちゃんとついている。では、その値段は誰がつけるのか。ここで登場するのが「専門家」である。彼らは専門家同士のギルドを作り、その内部でさまざまな物に値段をつけ、それを素人に売りつける。物の値段、物の価値はこのようにして決まっていくのである。生きている間は1,2枚しか売れなかったゴッホの絵も、誰かが提灯持ちをし、評価をつり上げていった結果、生きていた時のゴッホ自身では絶対に買えないような巨額の値段がついていったわけである。正直言って、私はたとえばセザンヌの絵に価値があるようには思えない。印象派以前の古典派の絵なら、その技術の巧拙だけでも、ある程度の価値判断はできる。だが、その相場として、果たして食事一回分の値段が適当か、それとも庶民の一生の稼ぎに相当する金額が妥当かはわからない。そして、専門家たちは、後者が妥当だと言うのである。
 なるほど、芸術作品に巨万の金を出す人間がいるのは確かだ。だが、それは、彼らにとっての金が、庶民にとっての水や土と同様の安価な物だというに過ぎない。自ら紙幣を印刷できる人間には、紙幣は紙切れと同様だろう。
 問題は、こうして値段がつけられると、その対象品は、それからは庶民の手には決して届かないものになることである。
 我々の住むこの社会では、こうした「価値のピラミッド」が作り上げられている。一着100円のシャツもあれば、一着数千万円の衣服もある。1000円の腕時計もあれば、数百万円の腕時計もある。しかも、後者の方が性能は悪かったりする。
 とすれば、社会的な価値というものは、その大半は幻想的なもの、あるいはもっと端的に言えば、詐術だと言ってもいいのではないだろうか。実は、これがこの文章を通して私が言おうとしていることなのである。
 つまり、社会的価値とは、個人的な主観から出発して、それが社会的な広がりを持つにつれて様々な詐術が加わり、やがて壮大な幻想のピラミッドになったものである。
 もちろん、個人の主観の段階でも、すでに幻想だ、と岸田秀的に言ってもいい。だが、ここで洒落たつもりの言い方をするなら、それ(「価値という幻想」)は「価値ある幻想」かもしれない。幻想には違いないが、幻想が無価値だとは言えない場合もある、ということである。

第4節 生きる価値

 つまり、価値は幻想かもしれないが、それによって我々は人生を生きる価値のあるものにしているのである。我々は自分を取り巻く様々な物に価値づけをすることで、自分の人生を価値あるもので満たすわけだ。たとえば、漫画の好きな人間は、それを価値ありとしている。スポーツ観戦の好きな者は、それを価値ありとしている。周囲に対してそうした価値を感じられなくなった状態が、ニヒリズムである。ニヒリズムとは、つまり価値の喪失なのである。「空なるかな、空なるかな、空の空なるかな、すべて空なり」というわけだ。そうなれば、人生そのものも無価値で、生きるに値しないということになる。
 ここで、最初に戻って、実は価値とは自分が決めるものだ、ということに思い至れば、この人生が価値がない、というのは、実は自分がそう決めたというだけのこととなる。そうしたニヒリズムには一種のロマンチックなイメージもあるから、それに陶酔するのはいいが、それを本気で信じるのは、自分で神様を作り出して、その神様を礼拝するようなものである。
 
 我々は、自分の人生やこの世界を価値ありとすることもできれば、無価値だとすることもできる。一つ一つの事柄に対する価値判断も同様だ。要するに、価値判断にはもともと何の根拠もいらないのである。問題は、そうして下された価値判断が社会的な広がりを持ってきた場合である。価値とは、原則として比較である。絶対評価ではなく、相対評価なのだ。その評価のピラミッドがこの世を一種の地獄にすることもある。つまり、価値の体系の下層に置かれた存在にとって、価値ほど呪わしいものはない、ということになる。
 価値が主観の範囲に納まっていれば、価値は人生の輝きを作る。だが、それが客観のふりを始めると、それは地獄となる。我々は他人の作った価値観の泥沼に足を取られて、やがては自分自身やその周辺の物事を無価値な存在とするようになるのである。だが、価値とは本来、主観から始まったものでしかない。「客観的価値」も誰かの主観が他人を巻き込んでいっただけなのだ。ならば、再び我々は、価値判断を自らの手に取り戻してもいいのではないだろうか。
 
 アメリカン・コミックのポパイの口癖は、「俺は俺さ」である。つまり、他人がどうであれ、俺は自分の考えで行動する、という宣言だ。そのような、自分自身が拠り所である強い自我を持った人間は、現代には少ない。リースマンの言う、「他人志向」型の人間がほとんどだ。いつも、他人がどう思うかを気にして、おどおどと振る舞うのである。
 自分が「価値有り」と思う事柄は、果たして本心からそう思っているのか。それとも他人の価値観に従っているのではないか。もしも、それが本当に自分の心からの考えなら、他人がどう言おうと、「俺は俺さ」と言えるはずだ。
 もちろん、社会の決めた価値観に従って生きるのは楽かもしれないし、安全かもしれない。しかし、人生をトータルして考えた場合、他人の価値観に従った生き方が満足を与えるかどうか、怪しいものである。まして、その「社会的価値観」が、一部の人間の利益のために作られ、維持されてきたものなら、それによって不利益を得ている人間が無数にいるはずである。要するに、社会の底辺にいる人間の不幸の土台には不公正な社会的価値観があるということだ。それは不幸な人々の物質的不利益の原因でもあり、精神的不利益の原因でもある。
 なぜ「足が長い人間はカッコいい」ということになっているのか。「足が短いほうがカッコいい」という考えがなぜ「正しくない」と言えるのか。それは、ただ長い間に形成された「社会的価値観」のためである。欧米人種的な体型や容貌は美しく、アフリカ人やアジア人は美しくないという価値観が、あらゆるメディアを通じて、我々の心に刷り込まれ、植え付けられてきたからである。ならば、我々「醜い人種」は、「足が短く、鼻が低く、平面的な顔のほうが美しい」という主張をしてもいいのである。
金で計る価値にしても同じことであり、我々が既成の価値体系にノーを言い、誰もが贅沢品に無意味な出費を渋るようになれば、企業は安くて良い品を作ることに努力するようになるだろう。
学生の場合なら、「成績」というただ一つの価値観で自分を測るかぎり、その底辺にいる人間は不幸になるしかない。運動能力や芸術の才能があればまだいいが、それも無い場合はどうするか。「そんなのはみんな他人が勝手に作った価値観だ。俺には俺だけの価値がある。他人がどう言おうが関係ない」と思えばいいのである。

4 「I am what I am.」(俺は俺さ。)

 この言葉には、地面にしっかりと足をつけて生きる人間の気迫がある。
 

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この諸法の空相は

私はただの「思いつき」を「思考素材」と堅苦しい言い方をするのだが、我々の思考は無意識の大海の中から浮かび上がる「断片的思考」が機縁となって、後はそれに引き続く連想によってまとまった思考ができてくるものである。で、一番大事なのはそのきっかけとなる思考だから、それをわざわざ「思考素材」と呼んで重視しているわけだ。もちろん、世間的な成功を収めるには、本当に一番大事なのは、思考の継続性と徹底性、正確さではあるのだが、べつに偉大な哲学者や宗教家になりたいのでなく、思考そのものを楽しむのなら、やはり面白い「思考素材」が浮かび上がってくることが一番だ。
そういう意味では私の好きな箴言的な言葉はほとんどが思考素材でもある。そしてそうした特有の好みの思考素材が混じってくることで、思考の方向が私好みの方向になっていくわけだ。だから私はいつも同じような事を言ったり書いたりすることになる。まあ、食べ物の好みと似たようなものである。進歩が無い、と言われればその通りだ。
さて、私の思考素材の一つに「般若心経」がある。「聖書」も好きだが、それは文学として好きなのである。世界の創造主としての神など、私にはお伽話としか思えない。ただし、「我々の内なる神」という考え方なら好きだ。で、私は宗教としての仏教の信者ではないが、哲学としての「般若心経」は非常に面白いと思っている。
少し前の「山科恭介のブログ」でその般若心経についての文章があり、それを面白く読んだのだが、その中で「『空』は『無』の上位概念である」と断定的に、何の説明も無しに書かれていたことが少し引っ掛かった。
そこで、それを思考素材として少し考えてみたい。

私としては、「色即是空、空即是色」に先立つ「是諸法空相……色即是空、空即是色」の「是諸法空相」を問題にすべきではないのか、と思うわけである。つまり、この世界の諸法則(世界の在り方)を「空」という相(フェイズ)に於いて観じる時に、「あらゆる存在は空と見なせ、また空はあらゆる存在でもある」というのが私の解釈だ。つまり、「空」とは「空という見方」である。それを私流にこじつければ、「自分が存在しない場合のこの世界」が「空」なのである。自分がいなければ自分にとっての世界は存在しない。したがって「色即是空」である。「色」とはあらゆる存在、と考えておけばいい。あるいはあらゆる現象、でもいい。そしてまた、常識的に考えても分かるように、私が存在しなくてもこの世界は客観的には存在し続ける。だから「空即是色」なのである。
実に簡単で合理的な解釈ではないだろうか?
そして、これが実はすべての娑婆苦から脱出する道でもある。つまり、この人生のさまざまな不幸に苦しんでいる人間は「自分が最初からこの世界に存在しなかった世界」を思考実験的に考えてみればいい。そして、その世界と、今、あなたが苦しんでいるこの現実世界と比べて、どちらを選ぶだろうか。おそらくほとんどの人は、あらゆる苦難にも関わらず、「自分がこの世に存在する世界」を選ぶだろう。まさしく「生ける犬は死せる獅子に勝る」(聖書)のである。そして、ひとたび生を選んだ以上は、不幸や苦難にめそめそせず、雄々しく人生に立ち向かう意志が生まれるのは当然のことだ。
もちろん、「死に勝る苦しみ」を今現に味わっている人間には、こんなのは寝言かもしれない。そういう人間が自殺を選んだとしても仕方のないことだ、とは思う。それに、私自身、「いざとなれば死ねばいいさ」と、生きることを軽視するかのようなことを少し前に言ってもいるのだが、それは生の軽視ではなく、生にあまりに執着したくない、ということだ。生への過度の執着が多くの人にとって、逆に精神的な不幸や不満の原因になってはいないだろうか。前回書いた、認知症になったら殺処分にする、というのは、私自身が自分自身への処置として強く求めていることなのである。
死は必ずいつかは来るものであるし、死んだ後にどんな世界があるのか(まあ、まったくの虚無である可能性が99%以上だろうが)誰にも分からないのだが、「曲がり角を曲がった先に素晴らしい風景が広がっている」(「赤毛のアン」より)というのは人生だけでなく、死についても成り立つ可能性もある。
要するに、いつでも死ねるということの安らかさ、という考え方もありだ、ということである。死はすべての義務や苦痛からの解放でもあるが、すべての快楽からのお別れでもある。どちらかと言えば生のほうがいいが、生がすべて苦痛のみになれば、あるいは生きていてもしょうがない、という状態になれば、死も一つの選択肢であっていい。
我々はこの世界の下宿人のようなものだが、この世界を自分のイメージを元にして飾り付けることは許されている。そして、すべては我々がいかに考えるかで決まるのである。そういう意味では本当の富とは精神的な富のみである、と或る英語リスニングCDの中で最近聞いたのだが、(まあ、聞き間違いかもしれないが、私が聞いたことが私にとっての現実だ)実際、あらゆる幸も不幸も、根本的には我々の精神的態度で決まるのである。

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変化を恐れ、自ら不幸を選択するという愚かしさ

「マドモワゼル愛」さんの今日の記事(今日の日記)が実にいい内容なので、紹介する。最初と最後だけは別の話題なのでカットしてある。
実は、私が今日の分に掲載しようと思って書いてあった文章があるのだが、その内容と非常に近いものがあるので、それも続けて掲載する。
愛さんのこの文章の中でも特に気に入ったのは


「将来、空気中から、また真空から、有り余る電気が得られたとした、石油のために戦争していた時代は、一体何だったのか、、、と思うようになるだろう。

顔がまずいとか、給料が安いとか、人に遅れをとるとか、、、そういうことで人生を不幸だと思っていたことが、なんと勘違いだったかと、わかるようなものではないか。

そんなところに人間や命の意味があるのではない、もっと大きな仕掛けの中に人は生きている。誰でも。」

という部分だ。
私は、この「フリーエネルギー(無料エネルギー)」は確実に実現する、いや、もしかしたら原理はすでに発見されているのではないかと思っている。映画「スライヴ(「繁栄」か?)」では、そうほのめかしてもいる。
大企業の利益を守るために大事な発見が隠されたり葬られたりしている例は多いはずだ。企業の邪魔になる研究が妨害されるというのはありふれたことで、これは井口博士の新しい記事の中で大学の先生自身が証言している。
ともあれ、フリーエネルギーが出現したら、もはや世界の在り方はまったく変わるはずだ。富の異常な偏在という悪も抑止されるだろう。そして富の偏在から生じる悪もまた消えていくことになり、いわば地上の天国に近づくのである。
そうなった時に、20世紀から21世紀前半の人間が富を争ってお互いに殺し合い、いじめあっていたことが不思議に思われるようになるはずだ。
これが私の言う「人類幼年期の終わり」である。




(以下引用) 


これから色々な変化が起きてくると思いますが、最初は混乱にみえて、実は新たな秩序がそこから生まれているという形になると思う。

とにかく変化を恐れないことです。変化していくものには命が必ず伴うので、本当は心配は不要。

けっきょく、今変化を恐れているのは、これまでの既得権益的なものにしがみつく人がメインであり、多くの人は一見変化を恐れるように見えて、さすがにここまでインチキ社会となれば、もう壊れてしまったほうがいいのでは、、、、と受け入れる気持ちも逆に育っている。

変化の中に身を置くと、そう決めるだけで人生は楽になっていきます。

人生のあらゆる秘密を知っている人がもしいたとすると、私たちが日ごろ抱く不安や恐れが、いかに取るに足らないものかと思うはず。

すべてはよくなるために変化していくのだから、いやなことでも起きてしまった現実は、良い方に向かうための生涯(夢人注:「障害」の誤記だろう)の除去だったり、消失だったりして、次の展開をもたらしてくれる貴重なわざわいであることになる。

これは事実で、不幸な出来事があったとしても、それは決して不幸ではない。不幸とは、しがみつき、変化を恐れることなのだ。

青年期によく読んでいた本に荘子があるが、その中に、ある朝、自分が鳥になっていたら、その時は思い切り鳴いてみよう、、、というような文章がある。

運命の変化を受け入れることを言いたいのだが、荘子のすごさは、ただ受け入れるのではなくて、それを面白がっているところにある。

鳥になるのなら、鳴いてやる、、、、なんでもござれ、なんでも、どんな変化でも、オーケー。どんな運命が自分に訪れようとも、それを見事、楽しんでやるぞ、、、の凄味である。

それによれば、あらゆる不幸が消失してしまう。あくまで不幸にしがみつくのは、心ない田舎者の一部のバカ連中だけになってしまう。本当は不幸などない、、、変化を楽しむことで、こちらにもわからない大きなものが進展いていく、、、、

とんでもなく面白い劇が、まるで神芝居(夢人注:「紙芝居」の誤記だろう)がどんどん進展していってしまう、、、、

一見現実離れしているように見えて、それは事実なのではないか。

将来、空気中から、また真空から、有り余る電気が得られたとした、石油のために戦争していた時代は、一体何だったのか、、、と思うようになるだろう。

顔がまずいとか、給料が安いとか、人に遅れをとるとか、、、そういうことで人生を不幸だと思っていたことが、なんと勘違いだったかと、わかるようなものではないか。

そんなところに人間や命の意味があるのではない、もっと大きな仕掛けの中に人は生きている。誰でも。

それでもなを、自分を不幸だと思いたい人はいると思うし、客観的に見て、確かに大変だ、、、という状況はあるだろう。しかし、変化が重要という大きな原理の前では、私たちが感じる不幸は、やはり趣味程度のものでしかなくなる。

自分を不幸と思う人は、本当は趣味でそう思っているといったら怒られるだろうが、私が青年期の悩みに悩んで、あまりにまじめに悩みすぎた結果、ある日、私は不幸に飽きてしまったことがある。

それはウソでない感覚だった。むしろ不幸がウソだと分かった瞬間、私はそれに飽きてしまったのだ。

本当はこの世に不幸などないのだ。不当なことや、おかしなことや、苦しいことははっきり言ってたくさんあるが、それは不幸とは違う。

不幸は運命ではなくて、選択なのだ。不幸を選択するのも趣味としてはいいが、本気で趣味にしたら、実態が乏しいので、すぐに飽きるはずである。

不幸に飽きない人がいたとしたら、それは不安から不幸にしがみついているのだ。不幸よりも不安の方が怖いからに違いない。


しかし、人生が不安であるわけがない。大きな仕組みがあるからだ。

また人生はそんなに複雑なものでもない。戦争も本当は複雑なものではなく、金儲けや権力維持のために起こる単純な動機を持っている。

ただ、それだとばれてしまので、どうすれば戦争がなくなるのか、、、というようなまことしやかなウソを振りまいて逃げているに過ぎない。

不幸も戦争も単純。それを選択する人がいるというだけの話しなのだ。

なので、あなたは何を今、明日、選択しますか、、、を常に尋ねられているのが人生。よい気持ちで、楽しい気持ちで、変化を受け入れていく。

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逆優先席という思想

「ヤフーニュース」から転載。元記事は「プレジデント」のようだが、なかなかいい記事である。
ここに書かれている事例は、両親の貯金が2000万円あったという恵まれた例だが、それでも、親の介護でほぼ破産状態である。もっと貧乏な家庭なら一家心中するしかないだろう。
で、この問題を解決するのは実は簡単な話で、認知症になった段階で、その対象者を「殺処分」すればいいのである。
「殺処分」が聞き苦しいなら「安楽死」でも「尊厳死」でもいいが、できれば60歳くらいを期に、全国民に対して意思確認をするのがいい。それは、自分が将来認知症になった場合、「殺処分」されることに同意するかしないかという意思確認だ。(いや、認知症でなくても、精神的肉体的障害などで生活の見込みが立たなくなった人間は国家が殺してやるという施設を作ればいいのである。だが、そこまでは難しいだろう。)
というのは、認知症になった人間にはもはや自殺すらできず、生きれば生きるほど周囲を不幸にするだけであるからだ。不幸でないのは、それで金儲けをする施設や機関だけだろう。そういう人間は国家の手で殺してやるのがお慈悲というものだ。これこそ究極の福祉国家だろう。
芥川龍之介の「河童」の社会では、生まれる前に胎児に対して(笑)生まれたいかどうかの意思確認をする。自分の両親からの遺伝や財産状況などから自分の将来像を予測して、暗い将来が予測されるなら、生まれる前に流産させてもらうわけだ。
そこまでの親切を国家に求めることは困難だし、さすがに胎児段階でそこまでの判断はできにくいだろうから、せめて60歳くらいで自分の将来の大事なポイントについての意思確認をさせるのがいいのではないか。
それが、冗談抜きに国民を介護地獄から救う道だろう。
念のために言っておくが、これは「役に立たない人間は殺せ」という思想ではない。60年も生きた人間は、そこまで生きていない人間にこの世界の座席を譲るべきだという「逆優先席」の思想である。
もちろん、経済的にこの社会が老人や病人に無制限に金を投入できるユートピアであれば、この問題そのものが存在しない。結局、老人というのは現在の経済社会では介護産業や医療産業のための資源でしかない、という話である。と言って、自力で自分の親を殺すと犯罪だし、このままだと介護問題は「出口無し」の地獄だ。
もちろん、自分たちがどんな経済的困難に陥っても、認知症の老親の介護をするのが誇りであり、生き甲斐である、という立派な人々には、まあ頑張ってください、と言うしかない。
ただ、そういう「立派な人々」を社会全体の標準や指標としてはいけない、ということだ。一部の人々の立派な生き方や立派な言動が逆に社会全体を誤らせることもある。こういうのもまた「合成の誤謬」と言えるだろう。


(以下引用)*後半省略。


入院2年、老親の2000万がなぜ底をついたか

プレジデント2012/8/13 08:00
西川修一=文 山口典利、松田健一=撮影

証拠調査士平塚俊樹メーカーのクレーム処理担当等を経て2004年より企業・弁護士等を対象に危機管理コンサルティング。著書に『Lawより証拠』ほか。

■母がタクシーで徘徊 一回で3万円超請求

 “その日”は必ず訪れる。しかし、親が元気なうちに介護のことを考えるのは億劫だ。考えたくないことは考えず、中途半端な情報でタカをくくってしまう。

 それだけに、いざその事態に陥ったときの動揺は大きい。

 「トラブルで食ってる僕ですら、ひどいものでした」――警察・医師・法曹界に幅広いネットワークを持ち、危機管理のコンサルティングを専門とする平塚俊樹・武蔵野学院大学客員教授(44歳)は、8年前、父親(当時73歳)が認知症となった当時をそう振り返る。今でこそ介護関係者の相談にも乗っている平塚氏だが、かつてわが身に起こった“親の介護”という突発時に、ベターな方策を選び続けるのは難しかった。

 父親が居宅の近所を徘徊するようになった頃、平塚氏夫婦は実家から車で30分程度の場所に自宅を購入していた。

 「当時はまだGPSを使った本人の位置確認ができなかった。言葉は話せても自宅に帰れなくなる、警察に保護され迎えに行く、という日々が続き、介護認定を周囲から勧められたんですが……」

 母親(当時67歳)がかたくなに嫌がった。父を自宅に閉じ込め、区役所の担当者が来たら「出ていけ」と邪魔をする。離れて暮らす実姉が母親の肩を持ったために家族ぐるみの大ゲンカ。そこで、母親が不在の間に、近所の人々や医師の協力を得て介護認定「3」を取得。デイケアと訪問介護を半々で続けた。

 そんなある日の夜中の3時頃、平塚氏の携帯電話に救急隊員から「今すぐ来てください」と連絡が入った。

 徘徊した父親が階段から落ちて、頸椎を骨折したのだ。そのまま労災病院の個室に運び込まれた。しかし、そこで「うちは介護病院じゃありませんから、看護師一人付きっきりにするのは保険適用外」と言われ、費用は実に月80万~90万円。しかも、「今の保険制度では、面倒を見られるのは3カ月だけ。次の病院を探してくれ」といわれた。

 ソーシャルワーカーとともに「まるで就活みたいに」あちこちの病院に電話をかけまくり、面接を繰り返した。ようやく見つけた介護専門の病院も、入居すれば月額30万~40万円。やはりリミット3カ月を言い渡された。

 困ったことに、父親は転倒時に通帳、財布、キャッシュカードを紛失していた。

 「銀行に行ったら、『本人じゃないから通帳の再発行はできない。本人を連れてきてください』。でも、父は病院から出られない。途方に暮れていたところで、両親と20年以上付き合いのあった銀行支店の融資係長が声をかけてくれた」

 幸い、その融資係長が気を利かせて代理人契約を結んでもらい、ようやく父親名義の預貯金を使えるようになった。

 このころから、母親の様子もおかしくなってきた。父親の面倒を見る平塚氏の携帯電話に、毎日150回以上電話をかけてくる。生肉を食べ、冷蔵庫の中をすべて腐らせた。タクシーで何度も徘徊し、請求額が毎回3万円超……平塚氏は、ついに当時の勤務先を辞めた。

 「介護休暇なんてなかった。母親を保護した警察から突然連絡があっても、有給休暇では対応できない。当然、営業成績は下がります。嫁は嫁で私が両親に時間の大半を取られているのが気に入らずケンカの毎日。もう辞めるしかないですよ。デイケアの方から『実の息子が面倒を見るのは珍しい』と言われました。サラリーマンだと、妻に丸投げする人がほとんどで、多くの夫婦が離婚に至るそうです」

その次に見つけた有料の住居型老人ホームも月50万円。ようやく事の重大さを悟った姉夫婦が奔走、月35万円の老人ホームを探し出した。

 「姉と連絡を取って、母親を『旅行だ』と騙して連れていきました」

 しかし、健康保険だけで2人で月5万円、住民税が3カ月に一度、約5万円も支払わねばならず、そこに医者の治療代や生活費も加わった。一児を持つ平塚氏の妻の病気入院も重なった。

 「僕が約300万円持ち出しました。いまだに借金が残ってます」

 その後、姉が苦労のすえ嫁ぎ先の地元の特別養護老人ホームでようやく空きを見つけた。が、「地元住民である」ことを示さなければ特養には入れない。そこで、姉が嫁ぎ先の実家にいったん父親を住まわせ、そこから特養に通わせる“儀式”を経てようやくそこに落ち着いた。

 「母についても同様の儀式をやってから、同じ特養に入れた。向こうの実家には本当に迷惑をかけました」

 約2年間の回り道。その間に、両親の預貯金2000万円を使い果たした。

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見るべきものは見つ

毎朝の習慣として「つむじ風」ブログを読んでいたら、そのコメントに私の名が出てきてびっくりした。いや、「谷間の百合」さんを介して、こんなところでつながりができるとは、嬉しい驚きだ。
「谷間の百合」さんの、以前の私へのコメントにもお礼を言おうと思っていたのだが、私は自分のブログのコメント欄への投稿の仕方も実はよく分かっていないのだ。仙人を通り越して原始人並みである。ここ、ブログ本文で今、お礼を言っておきます。「百合」さんのようなこうした優しいコメントは、実に書き手を勇気づけてくれる。
「谷間の百合」、いい名前だ。私はその名前が好きです、と「荒野の決闘」のワイアット・アープみたいな台詞でも言っておきましょう。バルザックの同題名の小説は中学生の頃読んだが、中学生には理解できない精神的不倫の話だった記憶がある。
今日は、中高生のためのクラシック音楽入門の話でも書こうと思っていたが、とりあえず、「谷間の百合」さんへの挨拶とします。
コメント内容について、少し補足。私も実際に死ぬ場面では泣きわめいて怖がるかもしれないが、60年も生きれば、もう十分に生きた、とも思っているわけです。「平家物語」の清盛の長男だか誰かの最期のセリフ、「見るべきものは見つ」という心境かな。まあ、正直言えば、もう少し、様々な芸術や文化を味わってから死にたいな、とは思います。後は、この日本が少しでも良くなったという状況を最後に見られれば満足なんですがね。


(以下「つむじ風」ブログより引用)



よく、あの国と戦争すれば、日本が強いとか言われるのですが
それは,兵器や兵員の比較だけで言われていることですね。
しかし、そんなことは大した問題ではないと思います。
気概をもって腹をくくれば、これほど強いものはありません。
そのことをベトナム戦争が教えてくれたと思っています。
ベトナム戦争のことはよく知りませんが、
とにかく、アメリカが逃げ出したことだけは知っています。

きょうの「酔生夢人」様が、まったく別のことですが
「いざとなれば死ねばいいさ」と書いておられたことに
わたしは、即反応して、「そういうことですね」と
コメントしたのですが、だからといって、けっして、何もしない、
何も想定しないということではありません。
だれよりも、そういうことは怠りません。
当たり前のことですが、最後は死ねばいいということです。

日本人は、きっと目覚めますよね。
アイツらの挑発にはゼッタイに乗らず、
腹を括って、淡々と待ち構えていればいいのです。
投稿 谷間の百合 | 2012-08-18 22:01

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目覚めよと呼ぶ声がする

「in deep」から転載。
実は、毎晩のようにほぼ同じ時刻に目が覚めるというのは、私もそうである。それはだいたい午前3時40分ころか午前2時40分ころだ。1時間のずれはあっても、40分ころというのは変わらない。で、一度目が覚めると、その後はほとんど眠れない、というのも下記記事と同じである。
眠りに入るのが特に難しいということは無い。それに、通常、夜の8時9時には眠くなるので、早寝することが多く、その分過度の睡眠不足にはなっていないが、日中でも急に睡魔に襲われて意識が途切れそうになるのは、やはり睡眠不足かもしれない。あるいはこれはただの老化現象か。
それより面白く思うのは、毎晩(毎朝か)同じような時刻に目が覚めるという点だ。この午前3時40分、あるいは午前2時40分というのは、私が生まれた時刻か、それとも死ぬ運命の時刻かもしれない。死ぬ時刻であれば、それは多分、床の中で死ぬということを示しているのだろうから、嬉しい話だ。
要するに、目覚めとはある意味では新しく生まれ変わることであり、我々が眠りの後で昨日と同じ意識や記憶を持った同一の自我として目覚められるのは、不思議と言えば不思議なのである。あまりに当たり前のようだから、誰も不思議がらないが、まあ「薔薇の木に薔薇の花咲く。何の不思議なけれども」(北原白秋)ということだ。
で、これが私だけのことならばわざわざ話題にすることでもないが、世界的現象だとなると、これにはもしかしたら重大な意味があるのかもしれない。すなわち、「全人類的覚醒の予兆」であったりして。
バッハに「目覚めよと呼ぶ声がする」という名曲があるが、我々は誰かから「目覚めよ」と呼ばれているのかもしれない。


(以下引用) *長いので、後半のニュース記事翻訳などを適宜省略。


2012年08月17日

睡眠障害が地球レベルで拡大していることがイングランドの大学の大規模な調査で判明



(訳者注) かつてウェブボットを読ませていただいていた時に、「世界的な睡眠障害が広がる」という内容の予測の記述がありました。
2009年の春頃のウェブボットです。

その記事に私は当時大変に興味を持ったのですが、その理由は、当時、私自身に深刻な睡眠障害が続いていたからでした。

今から3年以上前ですが、あれを睡眠障害と言っていいのかどうかわからないのですが、「何時に眠りについても、毎日同じ時間(深夜)に目覚めてしまう」ということになっていて、正直かなり疲れていました。

その頃書いていたブログ(クレアなひとときのこちらの記事など)にもちょっと書いたりしたこともあったのですが、今はもう忘れてしまいましたので、その記事(当時はコメント欄もありましたので、当時のコメントもそのままです)から、当時の私の様子を転載しますと、

(自分の睡眠の問題について)ここ数日の自分を観察していますと、漠然と「夜中に目が覚める」というより、1時55分に目が覚めて、そこでうまく再度眠れても、次は2時55分に目覚める、というように、目覚める時間がわりと決まっているようです。

2時55分の場合は少なくとも朝5時くらいまでは再び眠ることができません。周囲の他の睡眠障害の人たちもそのようですが、就寝の時間はあまり関係ありません。午後9時に寝ても夜1時に寝ても、大体同じ時間に目覚めます。


とありました。

この問題は、つまり、「場合によっては1日1時間くらいしか眠れない日が続いていた」ということになって、どのくらい続いたのか正確なところは覚えていませんが、数ヶ月とか半年とか、そういうレベルで続いていたように思います。うちの奥様などもやや心配げな感じでした。

まあ、私本人は疲れていることを除けば大した気にしてはいなかったのですけれど。

そこに、当時のウェブボットの「世界的な睡眠障害」についての予測記事があったので、とても興味を持ったということでした。

その部分を少し抜粋してみます。
2009年4月に配信されたものです。
ウェブボットは、書かれてある予測年代とか予測日時は気にしないで読むほうが良いです。
________________________________________


ウェブボット 非対称型原語傾向分析報告書 1309 パート5
2009年4月11日配信

・世界的な規模で睡眠障害が発生する。最初は個人的な問題として見過ごされるが、多くの人々が同時に同じ問題に苦しんでいることが次第に明らかとなる。これは2009年の夏の終わりから秋にかけて明らかとなる。 この現象はこれから3年間継続するが、問題が発見されるのは2009年である。

・この現象は宇宙関連のカテゴリーに出てくる宇宙からの未知のエネルギーと関連の深い現象である。この現象はすでに始まっているが、今の時点でそれを体験しているのはもっとも敏感で繊細な人々に限定されている。その後、次第により繊細ではない多くの人々が同じ症状を体験するようになる。

・集団的な睡眠障害の現象は2009年秋の「病気」のキーワードとの関連でも現れているが、これはいわゆる病気ではなく、その原因は太陽系にある。 睡眠障害に対する薬物療法はほとんど役に立たない。むしろ睡眠障害を悪化させてしまう。

________________________________________


というものでした。

まあ、これらは「予言・予測」ということで、オカルト的な意味合いが強いとはいえ、それを別にしても、この「睡眠障害」というのは、日本を含めてどこの国でも大きな問題ではあるはずです。

そんな中で、先日、イングランドにあるウォーリック大学で、いわゆる発展途上国といわれる国々での睡眠に関しての大規模な調査を、複数の研究機関と合同でおこないました。この調査はこれが初めてとなるものです。

その結果、発展途上国の睡眠障害の問題も、先進国とほぼ変わらないか、国によっては、さらにひどいことが判明したという報道です。かなりの大規模調査で、信頼度は高いものと思われます。


また、西側諸国ではすでに問題となっている睡眠障害による抑うつ(うつ状態のような気分)や、強い不安感、落ち込みといった問題の率も先進国と同じレベルだということが判明したというものです。

興味深かったのは、今回の調査は特に「地方に住む人々」を対象におこなわれたのですが、

・地方も都市部も睡眠障害の問題レベルは変わらない

ということがわかったりしています。

調査した国は8カ国の複数の地方で、国は、アフリカのガーナ、ケニヤ、タンザニア、南アフリカ、そして、アジアから、ベトナム、バングラデシュ、インドネシア、インドで、この中でケニヤだけは都市部の人を調査したようですが、他はすべて地方、つまり田舎です。

日本の田舎と違い、上の国々あたりの田舎となると、「本格的な田舎」のはずで、携帯もパソコンも、場合によっては、電話やテレビや街灯もないという場所も含まれるかもしれません。

つまり、人工的な光も騒音も、都市化によるストレスも、下手すると公害もあまりない。そんなところでも、「先進国と同じかそれ以上の率(ベトナムとバングラデシュは、特別に睡眠障害の率が高い)」で睡眠障害が存在しているという事実は大変に興味深かったです。


私たちが「なんとなく」不眠の原因と考えやすい都市部での生活というものは、実際には睡眠障害とはあまり関係がないのかもしれません。

考えられないほどの大自然の中で、東京等の都市部に住む人たちと同じような睡眠障害の発生率があり、それが引き起こす問題もほぼ同じだという現実。つまり、「地球の上ならどこでも同じ」という事実。上のウェブボットにある、「その原因は太陽系にある」というような感覚もあながち完全には否定できない面も感じないではないです。



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人生の中仕切りの弁

私の愛読するブログの一つに「がま仙人のブログ」というのがあって、その清貧の生活ぶりを私は尊敬しているのだが、収入がまったくゼロではいかに仙人であってもこの社会では生きてはいけないだろう。
それは私も同様だ。実は、私は今年会社を定年退職し、今は無職状態である。収入も今はゼロだから、金は出て行くばかりである。まあ、そのうちいい仕事に出会えるだろうと気楽に構えるようにしているが、やはり心の隅には常に近い将来への不安もあるわけだ。まあ、いざとなれば死ねばいいさ、という覚悟はあるけどね。
子供に関しては、私の持論として、義務教育までを終えれば親としての養育義務は果たしたと考えている。その後は、子供が自力で生きていけばいいのである。親などいないほうが子供は性格がしっかりし、立派に育つのではないか。親は早死にする方が子供のためかもしれない。
昔は40歳くらいで隠居して、後は遊んで暮らすというのがちょっとしたレベルの町人の暮らし方だったようだが、今では死ぬまで働くのが当たり前だという風潮である。40歳定年ならば、40歳で老齢年金を支給するのかと思えば大間違いで、年金支給年齢は逆にどんどん引き上げられて、大半の人間は年金を受け取る前にとっくに死んでいる、となりそうだ。
まあ、働くのがまったく嫌いというのでもないが、20歳から60歳まで40年間も働かされたのだから、定年退職を機に、しばらくは骨休めをさせてもらおう、というのが私の気持ちだが、他人が働いている時に、自分だけ働いていない、というのはやはり肩身が狭い気分だ。気が小さい、と言うべきか。
などとは言いながら、今の自由な状態を楽しんでいるのも確かである。とにかく、「予定が何一つ無い」というのが嬉しい。
自由な状態だと「勉強」も苦にならないから、今は高校生レベルのリライト版で「シャーロック・ホームズ」の英書などを読むのが娯楽の一つだ。多少意味不明の部分があっても、日本語で読むよりも面白い。日本語だと読むスピードが速すぎて、「筋を追うだけ」になるが、英書だと1行1行を味わいながら読める。
それに、今はユーチューブでいくらでも好きな音楽が聴けるから、読書と音楽を同時に楽しみ、それに昼ならコーヒー、夜なら安ワインを味わうという、実に安上がりの快楽である。
今日など、窓から気持ちのいい風が入るので、クーラーもつけずに一日中家の中にいたが、それで十分満足である。
田舎に帰ってきてから、兄弟たちに会った以外は、昔の知り合いにすら連絡もしていないのは少し気が咎めているのだが、それも実は「予定」を作るのがいやだから、という現代人にあるまじき我儘な理由からである。
まあ、自称「仙人」のすることだからと許してもらおう。

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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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