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亀井静香は元気一杯だ

「阿修羅」は、自分の意見を述べる掲示板と言うよりも、様々な政治経済情報を載せる「情報倉庫」化しているが、その中には時々珍しい情報もあるので、これはこれでいいのかもしれない。
昔の、個性的な面々が談論風発していた「阿修羅」も懐かしいのだが、あれが高級バーでの年寄りの政治談議だとすれば、今は大衆居酒屋での学生の情報交換と政治論争みたいなものだ。
で、そこに集まる情報の大半はクズ情報、とまでは言わなくても、陳腐な情報が多いのだが、中には今回載せる記事のように、私などが絶対に読まないタイプの雑誌に掲載されていた記事などもあるので、助かる。
人間はふつう、好悪の念で行動するから、どうしても情報を得る手段そのものが固定化し、視野が狭くなるのである。それを自ら自覚し、補正する必要がある。
さて、下記記事は、べつに新しい有益情報があるのではないが、亀井静香の現在の様子が分かる、というだけでも希少な情報ではある。
これを読む限りでは、亀井静香は元気なようだ。むしろ、政局の中心部から離れて、心の余裕もできたのではないか。私なんかだと、その居心地の良さに溺れて、すぐに隠居して園田の居に帰る、となりそうだが、彼はまだまだこの国を救う意欲に溢れているようで、それは日本という国にとって幸いである。
特に、石原慎太郎を見限ったらしいことには一安心した。
現実の渦中にいる人間にはかえって物事の本質が見えにくいもので、彼が石原を誤解、あるいは過大評価していたのも無理からぬところはある。

亀井静香の言う「統一戦線」は、小沢の「オリーブの木構想」と同じだろうが、さて、その「神輿」になるのは誰か。
私は、それが女性であるような気がする。少なくとも、女性が中心になって、日本の変革は起こると期待している。女性には、平和と安全と健康への本能的な希求があり、その本能性を象徴的な人物の下に集合的な力としてまとめることができれば、真の日本革命が起こるのではないだろうか。



(以下「阿修羅」より引用)



本澤二郎の「政治評論」“亀井静香が吠える”
http://www.asyura2.com/12/senkyo135/msg/539.html
投稿者 グッキー 日時 2012 年 9 月 09 日 21:32:59: Cbr3d6O9vj7Mc


本澤二郎の「政治評論」“亀井静香が吠える

<野田は狂っている!民主党は選挙前に過半数を割る、アメリカの召使はNO、ネット選挙で倒幕は成功する>

 久しぶり四谷3丁目の亀井静香事務所を訪ねた。10%消費税に突っ込む野田内閣を批判して、自ら立ち上げた国民新党さえも離脱、野党議員となった“政界再編男”の近況を聞くためだ。素浪人になった今を、本人も周辺も坂本竜馬にたとえている。石原新党工作に振り回された場面もあったが、いまや「石原は文士。狼少年」と突き放す余裕をみせる。今回のインタビューは、さしずめ「竜馬吠える」といったところか?


<先を見ない愚かな元部下たち>

 ご存知、亀井は10%NOを与党内で、連立を組む民主党と野田首相に激しく噛みついてきた。民意に反する大増税を、こともあろうに世界大不況下、しかも、大増税の前に為すべきことをしないで強行すれば、どうなるのか。警察官僚から自民党を歩いて新党を立ち上げた亀井でなくとも、その先が読める。10%引き上げても、深刻な年金福祉は変わらない。国民に新たな嘘をつく政治は許されるわけがない。
 連立解除を決断した。ところが、なんと後ろから仲間が鉄砲を打ってきた。これは彼の生涯の失敗だった。筆者が予想するに、こんな場合において血税である官房機密費が出動する。金だ。しかし、次の総選挙で100%落選する。筆者は「金に転ぶこともないだろう」と高をくくっていたのだが、実際は違った。
 政治家は金とポストで動く非理性的動物なのである。正義も正論も通用しない。今の代表・自見は元自民党中曽根派だ。沖縄の下地は、素性をみればどんな人物なのかわかりきっている。
 亀井は自ら立ち上げた国民新党を、自ら飛び出す形で決着を付けた。野田にしてやられたことになる。「仲間の教育が不十分だった。その責任を感じている。親子げんかは世間的にみっともいいものではない。まあ、(自見を)閣内に入れたりしたんだけどなあ」とやはり無念さは隠しきれない。利権で蠢く政治家を束ねる党首の座の厳しさを痛感したようだ。
 そもそも政治家の教育は不可能なのだ。政治家になる前に、とことん修業させるに尽きる。バッジを付けた後は無理なのだ。政治信条で行動する責任感のある政治家などいないのだから。
 要するに「与党にいることは居心地がいい。それだけだ」と吐き捨てる亀井である。改めて有権者は、愚か過ぎる人物が永田町を構成しているという現実を認識させられたのだ。

<アメリカの召使>

 「野田内閣はアメリカの召使」と決めつける亀井の指摘は正解である。召使にとって「アメリカ任せ」「居心地がいい」からだ。しかし、独立国の指導者が外国の召使では、国民はたまったものではない。売国奴政権はいらない。
 亀井に召使の意味を具体的に説明を求めた。
 「歴史をさかのぼる必要がある。日本はアメリカに占領されて66年、67年になる。それでいて日本は、未だに独立していない。独立のフリをしてきた。講和条約は形だけ。建て前に過ぎなかった」
 こうした正論を吐ける政治家が誕生したことを、筆者として、まずもって多くの国民と共に歓迎したい。政治記者時代に筆者は、福田赳夫側近NO1の田中龍夫から「日本は独立国ではない」と耳打ちされた時、その理由が理解できなかった。戦後教育の悪しき成果に呑み込まれていたからだ。しかし、岸内閣誕生の秘話や中曽根内閣、小泉内閣を子細に分析すると、そのことを実感として受け止めることが出来る。ロッキード事件はその悲劇の実例だろう。亀井にしても、ことによると小泉内閣のころからではないだろうか。

 田中角栄の娘婿から「首相になる時、秘密の引き継ぎ事項がある」と聞いた時、それが何なのか、すぐに理解できなかった。ほとんどの国民は「日本は独立国」と理解しているだろう。学校教育の成果だ。日本に留学した外国人も、である。隣国の外交政策の狂いも生まれて当然だろう。召使の外交と対応する隣国などは、ワシントンとの駆け引きに勝たねばならない。

<岸信介はアメリカから召使手当を>

 60年安保世代の日本人は、A級戦犯容疑者の岸信介を知っている。安倍晋三の祖父だ。余談だが、晋三の実父・晋太郎に毎日新聞社は6億円もの巨費を献金していたと言う。旧福田派ベテラン秘書の証言である。ひどい新聞社の存在に驚き、あきれるばかりだ。
 「アメリカは戦後、日本の政治経済のみならず、日本人の精神面まで握ってしまった。敗戦後の衝撃もあって、日本政府はワシントンに唯々諾々と従ってきた。岸信介などはアメリカから金をもらっていた。25人の日本の為政者が召使費用をもらっていた。そんな連中が保守本流などとほざいて、アメリカのいいなりになってきた」
 召使の手当がどれくらいか、日本国民が気になるところであろう。アメリカに雇われてきた日本の政治家・官僚の無様な正体を、しかし、現在においても国民も外国の日本研究者さえも正確にわかっていない。まともな日本研究のない隣国外交というのも、嘆かわしい限りだ。
 「今も具体的な問題が浮上すると、必ずアメリカの選択に左右される。従って、そんな場合は相当の覚悟が求められる。そのことを初めてやった総理が鳩山だ。それにしても民主党の連中はひどい。鳩山も米国との波風が立っても屈せず、普天間の県外国外を主張して引き下がるべきではなかった」

<ワシントンに屈した政経塾・自公・NHKなどマスコミ>

 ワシントンの側に着いたのが、松下政経塾の民主党だった。霞が関の官僚と自民・公明の野党も。そして何よりも、世論操作の最前線に立つNHKほかのマスコミだった。
 自立・独立しようとした鳩山内閣の足を、与野党・霞が関・マスコミが引きずり下ろしたのである。こんな無様というよりも、滑稽なことが許されていいのだろうか。
 彼ら屈米派は鳩山を退陣させる一方で、小沢を政界から追放しようとした。それにマスコミと検察を動員した。法と証拠に従うはずの正義の検察が、その原則を踏み外して、政敵潰しにまい進し、世の中を振り回してきたここ数年だった。
 正論が大好きな公明・共産までもが、このCIA工作の先陣を買って出ていたのだから、これはもうマンガの世界であろう。

<反原発官邸デモは、時代が動く前兆>

 亀井は官邸包囲の反原発デモに参加した。驚いたのは、警備を官邸から指示されていた警視庁の機動隊・警察官ではなかったろうか。自由な市民の平和デモに機動隊を投入した野田に対して、市民の怒りは増幅、反原発デモは全国へと波及している。
 7月29日、東京・日比谷公園に20万人(主催者発表)の反原発市民が集まった。すごい数である。東電と国会を包囲した。亀井はこれらを「これは時代が動く前兆だ」と予測する。その輪の中に自らを投じて、膚で感じたのであろう。
 子供連れの母親らは「野田を倒すまで続ける」と意気込む。こんなことが、これまでの日本に存在したであろうか。明白な政治目標を持った、無数の市民の反政府・不服従運動はむろん史上初めてのことだ。
 反原発・反10%消費税・反オスプレイ・反TPPは連動している。無数の市民が命と生活を守ろうとして決起したのである。時代の黎明を告げるものだ。筆者は「東京の春」と呼べる政治経済社会変革と受け止めている。
 新聞テレビに対する真っ向からの反逆なのだ。4か月前の当初から報道していた「日刊ゲンダイ」には敬意を表すべきだろう。ちなみに鳩山が官邸包囲デモに参加したことに亀井は「間違いだ」と叱った。与党議員は与党内・官邸内で行動を起こすのが筋だと。

<ネット選挙が左右・怯える民主党議員>

 毎週の官邸包囲デモと代々木公園と日比谷公園での大集会と巨大デモの渦が日本を変えようとしている。それが「次の選挙に現れる。今の政治を変えることになる」と胸を張る亀井だ。
 そういえば、前回会ったのは連立与党の時だった。必死で消費税反対を叫んでいた頃である。精神と肉体の疲労を感じたのだが、今回はやや余裕を見せている。
 市民の意識変革に自信をみなぎらせているのである。「インターネットで動く市民が選挙をリードする。全国の何万という投票所に行く有権者にネット情報が飛んでいく。誰が10%賛成したか、原発再稼働に賛成したか。オスプレイはどうだったか。みなそうした情報で投票する。もはやこれを規制できない。投票率は上がる」というのだ。ありえない予測ではない。事実上のネット選挙なのだ。
 「既に民主党議員は選挙に怯えている。今後もぼろぼろと抜け出してゆく。そのうちに50とか60議席に落ち込む。選挙後の民自公の連立などありえない」とも断言した。
 「いつも来る岡田(副総理)に言ってやった。選挙敗北後をどうするか考えておけ、とね」

<間もなく竜馬になる>

 問題は、選挙後の始末である。反原発・反大増税・反オスプレイ・反TPPで1本に束ねる作業が、さしずめ亀井の仕事になるだろう。その点を自らも指摘した。
 倒幕・維新の、時代ががった過去を紹介しながら「サムライが中心になって公武合体・薩摩と長州の手を握らせる。そうして倒幕の勢力を結集させる。その中には野田を絶賛している橋下はなれない。石原は逗子に引っ込んでいる。私の仕事は身軽な竜馬のような立場を果たす」と民自公を幕府になぞらえる。
 総選挙前の行動は、というと、統一戦線づくりだという。「今から手順を作っている」ともいうのだ。
 一時、石原新党に情熱をかけた亀井である。「評判が悪すぎる。今もやっているのか」と問い正してみた。「まあ、石原は狼少年になってしまった。そもそも文士、小説を書いても、消しゴムで消したりする。ただ、死ぬ気で世の中を変えたい、それに命をかける、というものだからそれにほだされて。つい、つい」といって言葉を濁した。

<小沢は筋通した>

 「鳩山は民主党内で、小沢は脱藩して1国1城の主になって、野田を揺さぶり続けている。なかなかの作戦だ。役割分担している。誰が考えた策略なのか。
 亀井は「小沢は筋を通した。鳩山は物笑いの種になっている。しかし、みな分かってやっていることだ。鳩山は離党のタイミングを狙っている」と解説した、統一戦線に問題なし、といわぬばかりだ。

<4人の反原発派はすごい力>

 亀井は最近、民主党を離党した3人の反原発派の主役が、側近の亀井参院議員であるという事実を明かしたうえで「4人の反原発グループは大きな役割を担うだろう」と予言した。
 反原発で決起した4人組は、官邸包囲デモの影響を受けての結成である。反原発無党派の結集を予想させる動きではある。
 「最後はみな一緒になる。鳩山も小沢も、さらに。バラバラでは倒幕はできない。結束すれば簡単に倒せる。必ず、そうしてみせる」

<狂った野田首相>

 今の野田内閣を亀井は「狂っている」といって一刀両断に切り捨てた。3・11の原発は今も収束などしていない。いい加減な原因究明でお茶を濁している。それでも再稼働に踏み切った。為すべきことをしないで、公約違反の10%消費大増税を強行している。
 危険な飛行物体であるオスプレイをワシントンに指令に屈して受け入れている野田である、どうしてなのか?国民の全てが疑問に思っている。
 吉田茂内閣はワシントンの再軍備をせよ、との厳命に「9条憲法に抵触する。第一、日本の経済復興が失敗する」といって反対を貫いた。野田は典型的なアメリカの召使になってしまった。
 そんな野田を「狂っている」と断じた。
 彼は尖閣問題に絡めて「自衛隊を出動させる」という趣旨の国会答弁を行った。これにも激しく噛みついた。「戦火を交えるなどという発言を首相は決して口にしてはならない。政治のイロハではないか。野田は完全にいかれている」
 いかれた首相を罷免する権利は主権者・国民にある。

2012年7月30日記(財界にっぽん2012年10月号掲載)  

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「死刑!」(あのポーズでね)でいいんじゃない?

舞台となった「名門私立中学校」は青山学院大付属中で、教唆犯の女子中生の母親の「女優」は黒木瞳らしい。
こういうのは「いじめ」ではなくれっきとした犯罪であり、それも重大犯罪だと思うのだが、この「女優」は毎年5000万円も学校に寄付している有力者なので、被害者の親は泣き寝入りをする方針のようだ。
校長は保護者説明会で「あなたたちだって子供の頃はスカートめくりくらいしたでしょう。その延長ですよ」みたいなことを言ったようだが、スカートめくりとレイプ(未遂か?)が同じレベルの話だとは驚いた。ならば、スカートめくりをした小学生のガキは、即、警察に逮捕、とならねばなるまい。それとも「死刑!」か。中学生ならなおさらだ。
もう一つ驚くのは、「喧嘩両成敗」で、「被害者」も停学になったというから、これからの世界では「被害者も罰する」というのが流行しそうである。まあ、加害者よりは被害者は弱いのが常だから、罰し易い方を罰する、というのは今の警察や検察のやっていることと同じではある。



(以下「ネットゲリラ」から引用)




【東京】女優の娘が男子に「あの子レイプして」依頼→皆の前で半裸にされ携帯で撮影→校長「知らん」

1 クロアシネコ(兵庫県) 2012/09/08(土) 20:29:27.04 ID:GMDU4+T70
・女性セブン8月23・30日号が報じた、名門私立中学校での「いじめ事件」だが、学校側は、いまなお沈黙を守ったままだ。そもそも、どんな事件だったのだろうか。その一部始終を詳らかにしよう。
 事件が起こったのは5月下旬のこと。女子3人、男子2人のいじめっ子グループが、同級生の女子生徒・ A子さんを追い回し、校内の女子トイレの個室に追い込んだ。
 「3人の女子生徒たちは直接、手を下さず、男子生徒2人にA子さんが逃げ込んだ個室の隣から壁を 乗り越えて侵入するように指示したそうです。男子生徒たちは命じられたとおり、A子さんが逃げこんだ個室に入り、服の上から胸を揉んだり、制服のスカートをめくり上げたり、さらにはブラウスまで剥ぎ取ったみたいです」(ある保護者)
 さらに、その様子を携帯電話のカメラで撮影するにまで及んだという。
 「カメラで撮影されていたのは動画で、A子さんは上半身裸で、胸は露わになっていたそうです。
 しかも、泣き叫ぶA子さんの声も入っていて、生々しい映像だったということです。しかも、その動画は、 クラスの半分くらいの生徒たちが目にしたみたいです。A子さんにとっては、あまりにもつらい出来事となってしまったでしょう...」(前出・保護者)
 結局、実行犯の男子生徒2人は退学、3人の女子生徒と被害者であるA子さんは3日間の停学となった。
 「学校側は、いじめを指示した女子生徒たちにも"自主退学"を勧めたそうです。しかし、彼女たちは"私たちは、A子さんと話をしようと思ってトイレに呼んで、待ち合わせしただけ"と主張したため、 学校側も証拠不十分ということで、停学にとどめたみたいですけど...」(前出・保護者)(>>2-10につづく)
2 クロアシネコ(兵庫県) 2012/09/08(土) 20:30:15.41 ID:GMDU4+T70 (>>1のつづき)
 事件からほどなくして、その生徒たちが所属する学年では保護者説明会が行われ、そこで校長からは信じられない説明があったという。
 「"加害者"と"被害者"という言葉は使わず、一括りにして、"関係者"と呼んでいました。しかも、停学の理由については"喧嘩両成敗"という説明でした。充分な説明もないまま、学校側からは"口外しないように"と箝口令が敷かれたんです」(前出・保護者)


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行政権と民主主義

國分功一郎という人のブログから転載。
私は概して、物事を根本から考えることが好きである。それが「常識を疑う」「権威を疑う」という私の根本姿勢にもつながっていると思う。
哲学者という人種が、その「物事を根本から考える」ことの専門家なのだろうが、私は「権威」を信じない人間なので、哲学者の著書や発言とは無縁である。むしろ、マドモワゼル愛さんや「In Deep」の岡さんなどのブログに哲学を感じる。あるいは、夏目漱石の「吾輩は猫である」などは、私から見れば「哲学小説」である。
というわけで、私は現代の専門哲学者という人種をほとんど信じていないし、尊敬もしていないのだが、下記記事の筆者の國分功一郎は哲学的姿勢で政治(現実問題)の根本を考える姿勢があり、注目している人物の一人だ。
下記記事は「民主主義の根本を考える」趣旨の一文の後半である。前半も面白いが、省略した。ここでは、

「民主主義というと我々は立法の部分だけを考えがちだが、なぜ行政の部分が民主的であるのかどうかを問題にしないのか」

という、言われればあっと思う発言がある。
要するに、日本も他の国も同じだろうが、民主主義国家とされている国がやがて官僚支配になっていくのは、「行政における民主主義的手続きの欠如」から来ているわけだ。まして日本のように行政府提出立法という不可思議なものが存在すれば、国会が行政府に乗っ取られるのは理の当然だ。行政府とは、すなわち高級官僚の王国であり、そこには国民の手は及ばない。
我々の問題は、実は国政選挙でどの党を選ぶかではない。行政官僚の一つ一つの行為をいかにして明るみに出し、コントロールできるようにするか、ということである。

*私は「内閣」という言葉よりは「行政府」という言葉が事実に即していると思う。「内閣」という言葉には「国会によって組織された行政機関」というイメージがあるが、実際はその逆で、「行政機関が国会を支配している」のは多くの人の知るところだ。つまり、「事務員が経営陣を陰で支配する会社」のようなものだ。


(以下引用)


「政治的決定の正統性」が問題にされるとき、実際に念頭に置かれているのは立法権のことである。特にルソーがその代表であろうが、近代の政治哲学は、神や君主によって基礎づけられて立法の根拠をどうやって民衆に見出すかに腐心してきた。とはいえ、多と一を結びつけるという政治の課題は全く変わっていないので、結局は「神」や「君主」が「民衆」に取って代わったに過ぎない。にもかかわらず、民衆は自分たちにこそ主権があると教えられているから、現実との矛盾に不満をもつ。この不満をどうにか解消しようと政治哲学等々が頑張る。今だと「熟議」なるものが注目されている。
 こうして議論が盛んになっている際に忘れられていることがある。それは我々にとってもっとも身近な権力、行政権のことである。具体的に考えてみて欲しい。道路を作る。保育園を作る。原発を作る。すべて行政が行うことである。行政は我々の生活に直結している。にもかかわらず、我々が「民主主義」と言う時に念頭に置くのはいつも議会のことなのだ。


 実は立法権の領域と行政権の領域を厳密に区別するのは難しい。行政は立法を超えて作用することがあり得る。行政の行いが憲法に違反しているのではないかとする訴訟があり得るのはそのためである。にもかかわらず、立法権の正統性ばかりに気を取られていた政治哲学は、行政をどう民主主義的に運営するかについてほとんど論じてきていない。民主主義と言う場合、議論されるのはいつも議会、立法権のことなのだ。


 立法権における民主主義の実現はあまりに難題である。確かに難題こそ考えるべきだが、難題に労力を割きすぎるとその脇にある問題に目がいかなくなる。実際、行政権の民主主義的運営という問題は置き去りにされてきた。ならば、難題への挑戦をすこし中断して、行政権に民衆が参加できる仕組みを考えたらどうだろうか?


 いまはそうした仕組みがなさ過ぎる。たとえば我々には役所の行いを公的に規制する権限が与えられていない。住民投票には法的拘束力はないし、パブリック・コメントは無意味。それこそ立候補して行政の長になるしかない。これのどこか「民主主義」であろうか?


 我々は立法権のことを考えすぎるあまり、行政権についての思考を置き去りにしてきた。ここに新しく民主主義を作り上げていくヒントがあると私は考えている。

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「老人国」の提案

今日のブログ内容は「徽宗皇帝のブログ」と同様、放射能汚染の話である。
政府の「放射能汚染隠蔽工作」によって日本全国に放射能汚染食品が出回っているのだが、中でも魚介類の汚染はもはや回復不可能なのではないか。
そこで、提案だが、昨日の村野瀬玲奈嬢の「日本A国」「日本B国」分割案とは違った観点から日本分割をするのはどうか。
それは、糸魚川分離帯だったかフォッサマグナだか忘れたが、そのあたりを目安に日本を東日本国と西日本国に分離してしまうという案だ。北海道と沖縄はさらに分離してもいい。
これは「道州制」ではない。東日本国を「老人専用国」にするのである。
放射能汚染された地域に老人を集め、そこに老人国を作るのはどうか、ということだ。どうせ老い先短い老人なのだから、放射能に汚染された食品は高級魚も乳製品も米も野菜も山菜もすべてここに集めて消費する。人口比で言えば老人人口は相当な比率だから、その消費量もなかなかのものになるだろう。若者はもはや食えなくなった汚染マグロの大トロも、高級マツタケなどのキノコ類(放射能を含みやすい)も食い放題だ。
この老人国の「入国資格」は50歳くらいからでいいだろう。50歳から60歳くらいの、ある程度は体力のある人間も必要だからだ。で、彼らがより上の年齢の老人を介護するのだが、そういう「介護者」が人口の2割程度、「被介護者」が残り8割程度が望ましいだろう。「介護者」の給与はもちろん税金から出るが、それは現在の老人介護施設に出ている補助金を充当すればいい。
そして、ここでは汚染食品は格安で食い放題とする。住居は、放棄された住居がこれから大量に出てくるから新しく建てる必要はない。何なら東京都庁に一人で住んでもいい。老人だから早寝早起きなので夜間のエネルギーはほぼ不要。いや、クーラーを全面禁止すればヒートアイランド現象が無くなり、自然の風だけで暑さはしのげるので昼間の電力も不要。テレビは禁止である。車も禁止。寒い時には厚着をすればそれでいい。
原則として過剰医療は行わず、重病の場合は安楽死させる(こればっかり……)ので、老人医療費は現在の10分の1から100分の1になる。死んだら葬式はせずに土葬か水葬にする。(火葬は石油の無駄使いである。いや、福島原発を火葬場として利用することもできるか)
これで官僚たちが頭を悩ませている「放射能汚染」問題も「高齢化社会」問題も一挙に解決である。
いや、半分は冗談だが、半分は本気なのである。
要するに、壁と屋根と窓のある住居があり、食料費がただであれば、あとはわずかな医療費以外には生きるのに必要なものなど他にはほとんどない、ということだ。税金や公共料金は、この場合、当然ゼロとする。
娯楽は? 古本屋で買った数冊の本があり、百円ショップで手に入る筆記用具が少しあれば、「考える」という最高の娯楽があるではないか。
運動がしたければ、農業をすればいい。電気が存在しなくなり、自然が回復した山野を散歩するのも、最高の娯楽だろう。(放射能入りの新鮮な空気もあるしね。)


(以下「東海アマ」ツィッターから転載。)


Clarksdale工藤‏@clarksdale_kudo
くら寿司「弊社の店舗で提供している寿司のネタから放射性物質が出たことは事実として受け止めるが、政府が定める暫定基準値(1kgあたり100Bq)を下回っているので、特に問題が無いと判断しています」←んなこと言ってるとそっぽ向かれるゾ。 http://www.greenpeace.org/japan/ja/news/press/2012412/pr20120907/ …
私のニセモノに注意さんがリツイート
2012年9月6日 - 23:52 • 詳細

10時間 つるさん‏@tsuruDeath
@clarksdale_kudo …くら寿司はメール会員に割引クーポン結構送ってるよね。…まぁ影響出てるってことでしょうね。寿司屋も終わる運命かな。
2012年9月7日 - 1:28 • 詳細

9時間 ユキ(国民の生活が第一)‏@yuki555038
@clarksdale_kudo 地元の「がってん寿司」は大丈夫かな!?(・_・;?
2012年9月7日 - 2:45 • 詳細


私のニセモノに注意‏@tokaiama
海水汚染の主役はストロンチウム90です。カルシウムと同じ性質のため海産物が好んで摂取、体内に蓄積、生物濃縮度は数百万倍、やがて太平洋の魚にストロンチウムが濃縮され食べた人に白血病、糖尿病、胆嚢ガン、骨腫瘍を引き起こす。食べれば生涯排出されないで被曝し続けるため、もっとも危険な核種

16時間 私のニセモノに注意‏@tokaiama
ストロンチウム90は、原子炉でほぼセシウムと同量あります。しかし気化点がCsの671度に比べて1381度と高いため多くはゾル状態で放出されカルシウムと同じ性質で水に溶けやすく地下水海水汚染の主役となる。内部被曝は排出されないまま累積、毒性はセシウムの300倍、糖尿病や白血病骨腫瘍

16時間 私のニセモノに注意‏@tokaiama
回転寿司の放射能 今のところセシウムは深刻でないが、生物濃縮が進むこと ストロンチウムが測定されないことが問題、やはり勧められない http://www.greenpeace.org/japan/Global/japan/pdf/fss7_1.pdf …

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いろはにほへと、散りぢりに

「村野瀬玲奈の秘書課広報室」から転載。
まあ、半分は冗談に近い提案だが、「瓢箪から駒」ということもある。
しかし、「日本A」と「日本B」という名称には異議がある。「A」と「B」には上下関係があるように聞こえる点だ。だから「B層」という表現があるのだ。まあ、新自由主義者たちの国を「日本B」にすればいいのだが、それも受け入れられないだろう。
ここは、生徒の作文を採点する時に上下の差別をしないために「雪・月・花」と付けたと言う誰かの(名前が出てこない。漱石門下の有名な随筆家で、黒澤の「まあだだよ」のモデルのあれだ。)故事に倣って「日本雪組」「日本月組」とするのはどうか。それじゃあ宝塚だって? まあ、いいじゃないか。風流な名前だし。
ついでに経団連や右翼の老人だけ集めて「日本紅葉組」とし、時々落ち葉焚きをするとかね。

*記事タイトルは久保田万太郎の俳句の一節。


(以下引用)


日本大改革のための、日本国「二分割」案 (世界愛人主義同盟公約 (11))
• ジャンル : 政治・経済
• スレッドテーマ : 税金
   

日本国民の多くは政治や政治家に不満を持っています。日本国民の政治への期待が裏切られ続けていること、いろいろな面で民意がなかなか政治に反映されないことについて日本国民は怒っています。

日本をどのように「改革」をすれば政治と社会と国民生活が良い方向に行くかという問題には安易な回答はありません。

たとえば、税制や社会保障制度や教育費に関する政策。国民の多くが反対する消費税値上げを、公約に背いて民主党は自民党・公明党と一緒になって強行しています。民自公は担税力の低い層への優先的な増税が日本のために必要だと説きますが、論理的に現実的に言っても、低所得者層への負担を増やす消費税値上げは、雇用の不安定化も加わって日本社会を不安定にし、崩壊させる要因としてはたらくことは確実です。

その他の政策についても同じようなことが言えます。

民意と政治の間のねじれが明らかです。

そこで、私が日本の政治リーダーだったら、こうしてみたいというアイデアを一つ提案します。

それは、日本を二分割して(仮称)「日本A」と(仮称)「日本B」に分けるのです。世界には人口規模が数千万クラスの「先進国」、「大国」はいくつもありますから、日本を二分割してそれぞれ数千万人規模の国としても国の規模自体は問題にはならないはずです。

そのうえで、「日本A]と「日本B」で、いわゆる議員選挙を減らして、それぞれに別々の政策を最初から実施させるのです。

たとえば、「日本A」は徹底した新自由主義政策の国として編成します。富裕層に所得税減税をし、法人税減税をし、消費税率を上げ、社会保障は削って自己責任とします。そのような方向性の政策を支持する人たちは意外に多いですから、「日本A」の運営に問題はないでしょう。

そして、たとえば、「日本B」は徹底した再分配機能の強化をした社会民主主義政策の国として編成します。富裕層や利益をあげている大企業に応分の税負担を求め、中間層や低所得層にも必要な負担を求める代わりに、社会保障を充実させ、医療や教育を無料とします。そのような方向性の政策を支持する人たちも意外に多いですから、「日本B」の運営にも問題はないでしょう。

つまり、日本に政府を「A」と「B」の二つつくるわけです。

では、この「日本A」と「日本B」の区切りはどうするかというと、納税者単位で選んでもらうのです。個人が「自分は日本Aに所属したい」、「自分は日本Bに所属したい」と申告し、法人(営利企業など)も「当社は日本Aに所属したい」、「当社は日本Bに所属したい」と申告して、それぞれの所属国に納税します。

すると、たとえば、「日本A」の人が医療を必要とするときは、「日本A」では医療保険は自己責任となっていますから、保険の負担は低いですが、万一病気になったら医療費は高額となります。「日本B」の人は医療保険や税金の負担は「日本A」よりは高いですが、万一病気になっても医療費はかかりません。

教育費、年金なども同様に、「日本A」と「日本B」で別々の運営をします。

ですから、同じ地域内で「日本A」の国民と法人、「日本B」の国民と法人が混在することになりますが、それぞれの自国政府とやりとりしますので、政府の運営にもそれぞれの国民生活にも問題はないはずです。

そのうえで、「日本A」と「日本B」の間の移動を個人にも法人にも自由にしてしまうのです。そうですね、たとえば、税年度が替わるタイミングで一年に一回、「日本A」と「日本B」の間を移動するかどうか個人にも法人にも選んでもらいます。そうすれば、個人も法人も自分が合理的なシステムだと感じる「国」に移って、その「国」を自分で支える意思が芽生えるでしょう。「両国間」の移動が自由ですから、何年もこの制度を続ければ、どちらの「国」の制度が合理的であるかもわかってくるはずです。

一国二政府にするための技術的な問題は多々あることは予見できます。だけど、それらは工夫次第で、すべてとは言いませんがある程度解決できると思います。解決できない問題は両国共通の政策をとりあえずは適用すればいいでしょう。

何より重要なのは、(たとえば)新自由主義者も社会民主主義者も、どちらにも一定の満足がもたらされる制度であるということです。そして、双方の方法を同時並行して検証し改善することができると期待されるということ、これは無視できないメリットではないでしょうか。

私は、こういうアイデアこそが日本の大改革だと思います。自民党の復古的改憲やら維新の会の維新八策なんて、失敗があらかじめ見えていますし、国民の中の不満は解消されません。選挙をしても、自分が投票したい候補はほとんどいない、というのが多くの人の感覚であるはずですから、政治と民意の間のねじれも解消されないはずです。それでは日本はいつまでたっても今のような混乱した政局が続くばかりで、国民に満足ももたらさないし、社会も経済も国民生活も不安定なままでしょう。

それを解決しようというのが、この「日本国二分割」のアイデアです。二分割ではなくて、もう少し政策の範囲を広げて三分割にしてもいいでしょう。

日本では、選挙で議員を選んでも政治が良くならないとしたら、国民が自分で所属したい国を選ぶというアイデアが、私の、いえ、私の所属する社員一人のサイバー政治団体(笑)「世界愛人主義同盟」の選挙公約です。ということで、この記事を「世界愛人主義同盟公約」の不定期連載シリーズの一つとしましょう。(これでこの不定期シリーズ11個目の記事です。)

説明が粗くて十分に具体的でないと感じる方もいると思いますが、趣旨はおわかりいただけたと思います。読者のみなさんのご意見やご提言がありましたら、お待ちしています。

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経営不振は経営者の責任でしょう?

「阿修羅」からの転載だが、元記事は「日経ビジネスオンライン」の河合薫という人の文章のようである。
私はしばしば「合成の誤謬」という言葉を使う。経済学の用語だが、私のお気に入りの「思考素」の一つである。要するに、「個々の事例においては正しくても、それらを総合した場合には誤りとなる」ような社会的行動のことだ。
多くの会社のトップをコストカッター型社長が占めるようになると、社会全体がデフレ化し、不況に陥る、というのがその典型的な例だ。コストカットによってその会社自体の収益は確かに(一時的には)改善される。しかし、その企業に勤める社員の給与水準は当然下がるのだから、それが社会全体に広がるととんでもないデフレ不況になるわけだ。
正社員から非正規社員へという雇用形態の変化も同じである。多くの会社がその手法で会社としてのコストカットをした結果、日本人全体の給与水準が低下し、内需は縮小してかえって多くの会社は売上を減らしていったわけだ。残ったものは富める1%対貧しい99%という格差社会である。今や、大学卒の5分の1は就職さえできない状況だ。就職できた中にも非正規雇用の割合は多いだろう。況や高卒に於いてをや、である。
真面目に勉強し、真面目に働けば安心して生きていける、というのはそんなに過大な望みなのだろうか? 我々が文句も言わずに税金や年金を支払ってきたのは、政府にそういうささやかな望みをかなえて欲しかったからではないか。
しかし、このジレンマから抜けだすのは難しい。会社経営者は利益を上げるのが至上目的だから、社員の給与を上げるのに二の足を踏むのは当然だ。社員の給料を上げた結果、他社との競争に敗れ、倒産したのでは話にならない。経営者視点で見れば、彼らにはコストカット以外の選択肢は無さそうに見える。しかし、本当はそうではない。会社自体が発展し、拡大すれば、社員に払う給与をはるかに上回る利益が上がるのである。
今の世の中には、そういう経営者が少なすぎる、ということだが、もちろん今の時代において会社が成長発展するようなアイデアを出すのが難しい、ということは確かだ。しかし、そういうアイデアが無い人間が会社を経営しよう、ということ自体が本当は間違いなのである。
私は、農業の屋内工場化と海水淡水化、太陽光(または太陽熱)発電によって第一次産業こそがこれからの成長産業になる、と思っているのだが、今の日本に欠けているもの、必要なもの、不満なものを洗い出していけば、やるべき事業のアイデアなど、いくらでも出てくるはずである。金のある連中にはアイデアが無く、アイデアのある人間には金が無い、ということだ。



(以下引用)

そもそも企業が正社員ではなく、非正規雇用を選択するのは、コスト削減が目的である。「非正規社員の賃金は正社員よりも低くて当たり前」などという“常識”が日本人の経営者に広がっているために、「経費削減のためには、正社員採用ではなく、賃金が安く、いつでも解雇しやすい非正規にしよう」と考える。
 だがこの、働く人たちが“人”であることを無視した考え方が、企業を潰すことになる。
 「企業経営で一番の問題であり、経営者が気をつけなくてはならないのは、経費削減が実際には錯覚でしかないことだ。この錯覚こそが企業の力を弱め、将来を台無しにする」
 こう説いたのは、米スタンフォード大学経営大学院教授で、組織行動学者のジェフリー・フェファーである。
 彼は、「人件費を削るなどの経費削減が長期的には企業の競争力を低下させ、経営者の決断の中でもっともまずいものの元凶であることは歴史を振り返ればわかる。経営者が新しいと思っている大抵の決断は、ちっとも新しいものではなく古いものである場合が多い。歴史の教訓を全く生かさないと、過ちが何度でも繰り返される」とし、経営学を労働史から分析した。
人件費を抑えるほど「費用対効果」は下がる
 例えば多くの企業がパートを雇い、その数をできる限り減らし、給与をできるだけ抑え、労働コストを切り詰めようとする。だが、歴史を振り返るとそのやり方が、いかに間違っているかが分かる。デパートチェーンのエンポリウム・キャンプウエル・カンパニーは、人件費削減を徹底した結果、倒産したと、フェファー教授は説明する。
 このデパートチェーンで売られている商品に問題はなかったが、安い給与で雇われる従業員は、知識や技術を習得しようとする意欲に乏しく、結果的に生産性は低下した。商品よりも質の低い従業員にお客も嫌気が差して離れていき、倒産に追い込まれたというのである。
 一方で、今や一流デパートとして名をはせているノードストロームは、業界平均よりも高い給与を払い、正社員雇用を徹底したことで、業績を伸ばした。
 低賃金で、不安定な雇用形態では、労働者のモチベーションが低下し、無責任で意識の低い行動に陥る。だが、高賃金で、安定した雇用形態では、労働者の責任感は高まり、自分の技術を磨くために勉強したり、自己投資をしたりするようになる。従業員1人当たりの人件費を抑えれば抑えるだけ、費用対効果は悪くなるとしたのである。
 そういえばフォードの創業者で同社を世界的な企業に育てたヘンリー・フォードは、「1日5ドル」という、当時としては破格の賃金を払ったとされているが、彼は取材を受けるたびに好んで、次のコメントを繰り返したという。
 「我々が考案した中で、最高の費用削減の手段の1つが、1日5ドルの賃金を決めたことだ」と。
 賃金抑制の経費削減が、錯覚であることを教えてくれる歴史は、日本にもある。ホンダの創業者である本田宗一郎氏が、「こんな冷えたまずい飯を食わせて、いい仕事ができるか」と従業員の働く環境におカネをかけることを厭わなかったのは有名な話だ。
 松下電器産業(現パナソニック)を創業した松下幸之助氏も「松下電器は人をつくるところでございます、あわせて商品もつくっており ます」と常々語り、「給与が適切であるか否かは、会社にも従業員にも、その安定と繁栄にかかわる重大な問題であり、同時に社会の繁栄の基礎ともなるものです。お互いに十分な配慮のもとに、絶えざる創意と工夫を加えて、その適正化をはかっていかなければならないと考えます」との言葉を残している。
やはりおカネは最も重要な報酬の1つ
 「ん? ってことは、結局はカネさえ出せばいいっていうのか?」
 そう苦言を呈する人もいるだろう。
 もちろん人間の行動は、おカネだけで変わるわけじゃない。
 実力を発揮できたり、能力を高めることができる機会や自分の仕事が正当に認められる機会、発言の機会があること、自分でコントロールできる裁量権や責任が与えられていることなどを通して、「報われている」という感覚を持てるかどうかに左右される。
 だが、おカネも大切な要素。おカネだけが報酬ではないからといって、企業の都合でいくらでも下げていいというわけじゃない。
 世の中には、「いやぁ、従業員に働きがいを聞いたら、お客さんに感謝されることがトップで、給料は3位だったので給料は下げます」などと、「おいおい、マジですか?」というようなことを平気でするトップもいる。
 しかし働く人にとって、おカネは欠かすことのできない大切な報酬の1つ。ましてや賃金以外の報酬が期待できない、非正規雇用では、なおさらである。
 とはいえ、矛盾するように思うかもしれないけれども、賃金を高くさえすれば従業員はいい働きをするというわけでもない。
 奇しくも松下幸之助氏は「適正な給与」という言葉を使っているが、もらっている所得が高額であればあるほど、“金のため”だけに働く人が増え、会社のためではなく、自分の利益のためだけに働く人が増えることもある。
 人間の自己利益を最大限守るという欲求と、慣れるという感覚が、会社の利益にはつながらない行動を生み出すのだ。
 そこで大切となるのが「賃金の絶対的レベル」ではなく、「賃金の公平感」だ。
 賃金公平感とは、「自分が要求できると考えている金額が支払われているかどうか」に相当する感覚のこと。この感覚は、職務内容や本人が負っている責任、自己意識、過去の賃金といったかなり主観的な考えに基づいていて、たいていの場合、世間の相場との比較で決まる。
 平たく言えば、「まあ、私の仕事ならだいたいこれくらいだろう」といった賃金に対する期待度だ。同時に、組織の場合では周りの社員との比較が強く影響を及ぼす。
 正社員と非正規社員、男性と女性、高卒と大卒、といった具合に、自分に近い“他人”との属性の違いで、賃金を比較し、そこに格差が存在すると「賃金公平感」がグッと低下し、「どうせ自分はこれだけしかもらえないんだから、適当にやっておけばいい」とか、「あいつは自分よりもたくさんもらっているんだから、アイツがやればいい」となるのである。
 この賃金公平感は、おカネ以上の感情をも左右する。非正規社員という雇用形態に潜む、「人をただのコストとしてしか扱わない不条理」を、非正規の立場に置かれた人は敏感に察知する。それは本人にとっては、ストレスの雨であるとともに、質の低い行動を引き起こす引き金でもある。
 人間というのは、相手との関係性の中で行動を決める厄介な動物だ。「自分を信頼してくれている」と感じる相手には信頼に値する行動を示そうとするし、「自分を大切にしてくれている」と感じる相手には精一杯の誠意を示そうとする。「自分は非正規だから、ただの調整弁だ」と感じる相手には、それなりの働き方しかしないのだ。
 また、世の中には、「新卒の質の低下が非正規という簡単に解雇できる仕組みを助長しているんじゃないか」という意見を述べる人もいる。言い換えれば、問題は雇用される側にあるという見方だ。全体的に新卒の質が低下しているからこそ、厳しい状況に置かれている企業が、「使ってみたけどダメだった」と判断できる雇用形態(=非正規雇用)を取っているのでないかというわけである。
 似たような指摘は、1990年以降、高卒の市場が急速に縮小していった時にもあった。高卒の求人倍率が1992年3月卒業予定者の3.08倍をピークに急激に低下し、2003年には0.50倍まで落ち込んだ。
 当時、求人倍率の低下を招いた原因に関する研究が、労働経済学や教育社会学の専門家が中心となって行われた。その結果、いくつかの原因が明らかになり、その中の1つに、「厳しい経済状況に加え、人的投資の対象として、高卒の若者の相対的な魅力が低下した」との結果が示されたのだ。
人材の側も「大切にしてくれる職場」を選別している
 ところがそれらの研究の対象が、高卒を採用しなくなった企業に限定されていたため、2000年代に入っても1990年代初頭と変わることなく高卒を採用し続ける企業も対象に加えた分析が行われた(出所:「新規高卒者の継続採用と人材育成方針」)。
 その結果、高卒採用を継続している企業には、人材を長期的な視点でとらえ、育成する方針を徹底しているという共通点があり、さらには高卒者の育成に積極的な企業ほど、新規高卒者の質が低下したと判断しても採用を減らすことなく持続させ、質の高い人材を採用できているという結果が認められたのである。
 つまり、質が悪いから雇用を減らすとか、質が低下しているから非正規にするとか。それは自分たちの保身のための、単なる責任転嫁でしかない。私自身、いろいろな企業を取材したり、講演会などでお邪魔した時に話を聞いたりする中で、「元気な会社は、社員におカネをかけている」と感じることが多い。
 新入社員からマネジャーに至るまで、社員教育を徹底していたり、非正規雇用を採用している場合でも、それは会社側の事情というよりも、結婚や出産などの理由で転勤のない働き方のためのものであり、福利厚生や年金については正社員と同様に扱うなどしているケースがほとんどだ。
 「非正規になって賃金は下がりました。でも、それは私の都合でそうしてもらっているので、会社には感謝しています」
 非正規雇用20年というパートの女性は、そう話してくれた。雇用形態の主役は、あくまでも従業員。企業ではない。
 「いやぁ、でも会社も大変なわけで……」。そうやって言い訳をしながら経費削減の錯覚にとらわれ続け、使い捨て社会を容認するトップたちが居座る会社に未来はあるのか?
 人は「自分を大切にしてくれている」と感じられたことのお返しとして質の高い行動を取るだけでなく、「あの会社は自分を大切にしてくれそうだ」と感じられる会社を常に探し、優秀な人材ほどそういう魅力的な職場に吸い寄せられるように集まってくる。企業が「質の高い人材」を求めているように、人も「質の高い会社」を探している。質の高い会社を選択するか、質の高いわずか1%を血眼になって探すか? どちらを選択するかは、トップ次第だ。


(引用2「笠木恵司のブログ」から)


ただ、日本では長期に渡る不況とデフレのおかげで、いつの間か業績不振=リストラクチャリング(構造改革)=早期希望退職勧奨、要するにクビ切りが常道のようになってきました。ボク自身は終身雇用より人材の流動化をもっと進めていくべきだと考えていますが、自分から退職するのと、クビになるのは天と地ほどの違いがあります。
 そして、退職勧奨を受ける一般社員に、業績悪化の責任がどれだけあるというのでしょうか。ある先輩から「会社員には義務と権限と責任がある」と言われたことがありますが、その三角形ならびに報酬は組織の上に行けば行くほど大きくなっていくのが普通です。つまり、会社が傾けば、その責任はまずトップマネジメントが負うべきものではありませんか。
 なのに、なぜ中高年の一般社員から早期希望退職勧奨となるのでしょうか。
 スイスの時計ブランドでは、業績不振が続くと、何よりも最初に社長が交替します。「資本と経営の分離」なんていう難しい経営用語を使わなくても、その理由は簡単に説明できます。時計師や技術者を解雇してしまえば、その後でいくらカネを持ってきたところで、時計を作れなくなるからです。そんなブランドを買収するような奇特な資本家がいるはずもありません。
 こう考えていくと、日本の会社は社員を経営資源と見做していないのかとなってしまいます。もしも仮にですけど、会社の上層部が生き残って、社員の多くが整理解雇されるというなら、何度も繰り返すようで恐縮ですけど、まさにタコが自分の足を食っているのと同じではありませんか。


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温かい言葉に支配された残酷な社会

私は、難病などのために自力で生きられなくなった人間には社会が自殺の便宜を図ってやるべきだという考えなのだが、「自殺幇助」は殺人との区別が困難なので(森鴎外の「高瀬舟」である)、医師に頼んでも毒薬は貰えないし、せめて苦痛を少なくしようと麻薬の処方を望んでも、それもなかなか難しいようだ。現代医学ならば、「副作用の無い麻薬」くらい開発してくれても良さそうなものだ。(「副作用の無い毒薬」が欲しい、というのは昔のボブ・ホープのコメディ映画の中のギャグだが)死ぬ時くらい、楽に死にたいではないか。
その気になれば自殺など簡単さ、と言うかもしれないが、それがそうでないから困るのである。時々見かける、インターネットで仲間を募って集団自殺をする、という奇妙な行動も、誰かと一緒なら、勢いで死ねるからである。
一人であっても、医師が毒薬を処方してくれれば、何となく「勇気を持って死ねる」ような気がするのだが、私はまだ自殺した経験は無いから、本当にそうかどうかは分からない。しかし、誰かが見守っていれば、落ち着いた気持ちで死ねそうな気がするのだ。ソクラテスなども、そんな気持ちではなかっただろうか。それに「死を従容として受け入れる俺ってカッケー」という気持ちもあっただろうから、それは是非誰かに見ていてほしいはずだ。
まあ、医者は患者を治すことで金を貰っているのであり、殺すことで金を貰うわけにはいかない、と堅いことを言う人もいるだろうが、なあに、患者の治療で恒常的に手に入る金の方が、毒薬一回だけの処方より儲けがある、という純粋に経済的な理由なのかもしれない。この世の問題の正体のほとんどは経済問題なのだから。
で、経済面から考えると、下記の記事は私の提唱する「自殺推進策」に次ぐ名案である。こちらは私のような素人ではなく、本物のお医者さんからの提案だが、私同様、世間の非難を受けそうな案である。
実際には、これは看護する側の手間と、看護される側の苦痛や不快感の両方を一気に片付ける人道的な解決案なのだが、外見的にそうは見えず、手術で肛門と膀胱を外部に作るというのが、「人間を人間扱いしていない」ように見えてしまう、という点で、おそらくもうアウトになってしまうと思う。世間、特に日本社会というものは、「うわべがきれいそうな言動」しか許容されないのである。
そして、現実に存在する非人道的な状況は、「うわべだけを飾るやり方」のために、根本的な解決が無く、不幸な人々の不幸は半永久的に続くのだ。
ところで、寝たままで排泄ができ、病人の体全体、あるいはその一部の洗浄ができるベッドなんて、簡単に作れると思うのだが、なぜ技術者たちは誰もそういうのを作らないのだろうか?


(以下「レジデント初期研修用資料」から引用)

介護と人工肛門

寝たきり老人が増えた。人生の最後の10年ぐらいをベッドの上で過ごす人は、半ば当たり前になってきた。
団塊世代の人達が、これから寝たきりになってくる。
介護の需要はいよいよ増えるはずだけれど、若い人は減ってしまうから、人手は間違いなく足りなくなる。 人手が足りない業界の給料は上がるはずなんだけれど、今はもうお金無いから、やっぱりたぶん、介護業界に投じられる予算は増えないのだと思う。
人間の「排泄」ラインは、あくまでも立って生活するのに特化していて、「寝たきり」の体位を想定していない。おむつを当てたところで、寝たままの排泄は苦痛だし、うまく出ないし、介護するほうは、だから1 日中、おむつ交換に忙殺される。
「人間らしい」介護が求められてるんだという。介護施設を外から観察する人達にとっての「人間らしさ」とは、食事の介助を付きっきりでやることだとか、日中は車いすで外を散歩することだとか、たとえ不隠のきつい人であっても、夜中も付き添って、縛ったりしないことだとか。
実際に療養病棟でやられていることは、「おむつ交換」と「体位交換」の繰り返し。 「人間らしい」お仕事は、もちろん介護を提供する側にとっても「人間らしい」お仕事だから、みんなそういうことしたいんだけれど、便汁と床ずれは待ってくれない。
見学に来る人は、食事の風景だとか、レクリエーションの時間なんかはチェックするけれど、スタッフが4 人がかりで便まみれのシーツ交換している風景だとか、茶色が染みた紙おむつの山を バケツに放り込んだ台車が廊下を何往復もしている風景だとか、あんまり見てくれない。
「おむつ」の問題が解決できれば、寝たままトイレに行ったり、排泄できたりするベッドが作れれば、 介護は画期的に楽になる。おむつ交換に回す人手が減らせれば、お互いもっと「人間らしい」ことができる。そこにはすごく大きな市場が在るはずだから、今はもちろん、世界中の寝具会社が開発に全力挙げてる はずなんだけれど、未だに何も出てこない。
寝たきりになった高齢者に「人工肛門」と「膀胱瘻」を作ってしまうと、問題は解決する。へその左右に、袋が一つずつつく形になる。
これをやると、肛門側からは何も出ないから、おむつ交換は理論上必要なくなる。 便とか尿が背中に漏れないから、シーツの交換頻度も減らせるし、お尻が便で汚染されないから、 床ずれも治りやすい。
介護の仕事は、食事の介助、体位交換、おむつ交換と便の始末がほとんど全てだから、 人工肛門を作った患者さんについては、食事の介助以外、ほとんど全ての作業が不要になる。 人的リソースが節約できるから、みんなが大好きな「人間らしい」仕事に、余力を割けるかもしれない。
これからは在宅介護が主流になるらしい。絶対無理だと思う。24時間、4時間おきに体位交換とおむつ交換とか、一人でそれをやり続けるのは無理だから。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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