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「死ぬこと」のマニュアル

   「死ぬこと」のマニュアル

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、「葉隠」の中でもっとも人口に膾炙した言葉だが、あまりに明瞭な言葉の多くがそうであるのと同様に、この言葉を深く考えた人間は多くないように見える。(かつての私自身がそうだったのだが。)たいていの人間がそうだと思うのだが、人間にとって、やはり自分の命が一番大事だろう。もちろん、自分の愛する者の命をそれより上位に置く場合も多い。しかし、自分の主君のため、今なら自分の属する会社や組織や上司や国のために自分の命を投げ出すなんてまっぴらだ、というのが現代の大方の人間の心理に決まっている。私も同じである。だから、「葉隠」のこの言葉は、時代のパラダイム(枠組み、限界)に縛られた発言であり、自分とは無縁な言葉としか考えていなかった。しかし、花田清輝という、三、四十年ほど前に有名だった知識人の書いたある随筆の中に「葉隠」からの引用があって、その言葉で「葉隠」に対する見かたが少し変わったので、それを書いてみる。
 我々は、江戸時代や戦国時代の武士は、死ぬことに対する抵抗感が、今の人間より少なかっただろうと想像しているが、実は「葉隠」が書かれた頃はすでに太平の時代であって、武士の間ですら軟弱な気風が広がっており、その風潮に業をにやした老人が若い武士たちへの戒めとして書いたのが、この「葉隠」であったのだ。そして、彼は武士道の本質を、「死ぬこと」だと規定したのである。さすがに、当時としてもこれは大胆な規定だっただろう。この事は、逆に当時の武士たちが、死ぬことをいかに嫌がっていたかを表している。だから、作者の山本常朝は、「武士道に関し、二つの判断の間で迷ったら、早く死ぬ方を選べば良い」という、実践的なマニュアルを示している。これも極端な意見だが、「武士道とは死ぬことである」という大前提から出てくる、合理的で有効な命題ではある。
 さて、私が花田清輝の随筆の中で興味を持って読んだのは、その「葉隠」からの引用で、おそらくこれも若い武士への忠告と思われる、「おろめけ、空言言え、ばくち打て」と、「一町のうちにて七度空事言うが男なり」という言葉である。
 「おろめけ」とは、私の持っている古語辞典には載っていないが、「拝む」を「をろがむ」と言うのと同様、「をめく」つまり、「喚く」の命令形だろう。「わめけ、嘘を言え、博打を打て」と言っているわけだ。
 これは非常に面白い言葉で、また、ここに「葉隠」の本質が現れているのではないかと思われる。
 私は、「葉隠」とは、「死ぬ」ための実践マニュアルだと考える。
 人を、いかにして死に向かわせるか、というのは、すべての君主にとっての難問である。主君の与える「御恩」に対して、死で報いるという理屈もその一つだろうし、「忠」という抽象観念を持ち出すのもその一つだろう。戦国時代なら、戦場での死を賭した働きによって、褒賞や身分の上昇が得られる、というのもその一つだ。しかし、平時において、主君のために命を投げ出させるのは、容易なことではない。そうした状況で人間は、自らの死を逃れるために幾つでも理屈を考え出すだろうからだ。中でも邪魔になるのが、世間的なモラルと「忠」の衝突である。だいたいにおいて主君は、自分のエゴイズムのために部下を利用するわけだから、そこには当然世間一般の義理や人情との衝突も生じることになる。そこで、主君の側の立場に立てば、「二つの判断の間で迷ったら、ためらうことなく死を選べ」という実践的マニュアルが有効になるのである。つまりは、思考停止、判断停止を指示しているのである。その前提に、主君の、あるいは主家のために、という言葉があるわけだ。これは、軍隊、あるいは戦場においては、上官の命令は絶対であり、個人的判断は排除されるというのに似ている。こうした思考停止状態、判断停止状態で、兵士たちがいかに非人間的行為を行なってきたかは、枚挙に暇が無いだろう。また、それは戦争の遂行のためには正当な行為であったとされるのである。武家社会では、平時に於いても、主家の名誉のために個人の「自発的な」死が必要な場合もあっただろう。そうした時に有効なのが、この山本常朝の勧めるような自動反応的行為である。現代でも、新興宗教の教祖の非道徳的な犯罪命令に、信者たちが易々と無批判に従った例もある。人間は、習慣と訓練で、容易にロボット化するものなのである。新聞紙上を賑わす大企業や公務員の犯罪の多くも、そうした習慣による道徳的不感症によるものだろう。
 「喚け、嘘を言え、博打を打て」というのは、いつでも必要な時に命を投げ出せる(要するに、主君の役に立つ)のは、そうした人間だということなのである。これは、ヤクザの鉄砲玉(使い捨ての殺し屋役)などを考えてみれば納得がいくだろう。単純で動物的な人間のほうが、鉄砲玉には使いやすいわけだ。別の言い方をすれば、それがいいと言うわけではないが、部下たるものは、物事を理屈で考えず、本能(ただし、この本能は、単に自動反応的行為の意味だが)で動け、ということ、使命のために自らを狂的な状態にせよ、ということだ。人間は、理性的に自らの死を迎えるのは難しい。しかし、狂的状態では、人は容易に自ら死ぬものだ。そして、そうした状態を正当化する価値観が、「男」ということなのである。
「一町のうちにて七度空事言うが男なり」というのも面白い言葉ではある。一町とはおよそ百メートルほどだが、百メートル歩く間に七度嘘を言うのが男だ、と断定しているのが面白い。なぜ、嘘を言うのか、というと、これは「葉隠」の全体から見ての推測だが、自らの男としての誇りを守るために、という事ではないだろうか。一つの嘘は他の嘘を要求するものだ。そこで、最初の嘘を維持するためには七度も嘘をつけ、ということである。なぜ、主君のために、あるいは、組織のためでもいいが、死ぬことができるか、というと、一つには、そこに自分の男らしさの証明がかかっているからである。あいつは卑怯だ、弱虫だ、男らしくない、と言われる屈辱よりは死を選ぶわけである。そして、その前段階として、嘘をつくことに代表されるように、世間のあらゆる道徳にこの特殊なモラルが優先することが宣言されているわけである。
ここでは、自らの男としての誇りは、何物よりも優先されねばならないことになっている。つまりは、マッチョズムの行き着くところは、自死にあり、ということで、「葉隠」をあれほど愛読した三島由紀夫があのような死を遂げたのは、当然の帰結だったのかもしれない。一見、合理主義者に見える彼の、政治的発言やパフォーマンスのほとんどが理解不能なのは、彼が政治に求めたのは、自らの死のための単なる舞台装置だったからではないだろうか。もちろん、そこには、戦争中に自らが安全な場所にいて死を免れたことへの自己嫌悪があったと思われるし、彼独自の夭折への愛着、老化への恐怖もあっただろうが、本質的には男らしさというものへの強迫観念が彼の自死の原因だったと思われる。
 しかし、こうした男らしさへのこだわりが、女性からみれば、何ともあわれでいじましく見えるものであることを大抵の男は知らない。ボディビルで筋肉を鍛え上げた男性を、男は感嘆の目で見るが、女性は、「気持ち悪~い!」としか思わないものなのだ。大人の男たちの戦争ごっこ、軍隊ごっこに対し、田辺聖子が言った感想は「泣かんと、よう遊んではるわ」だったと覚えているが、男というものの子供っぽさを、これほどはっきりと表した言葉は無い。男たちの、力への憧れが、いかに幼児的な心理であるかが良く分かる言葉ではないか。それにくらべて、身の周りの細々としたものを大事にし、生活そのものを美化しようとする女性的姿勢は、はるかに高級で、文化的で、大人の態度だと言えるだろう。男は、彼らだけで放っておくと、着替え一つせず、風呂にも入らず、仲間うちで喧嘩ばかりする子供に戻ってしまうものだから、女性が教育してやる必要がある。しかし、残念ながら、権力は、それを望む者の手に入るものだから、世の権力は男性の手に握られている。戦争と闘争を事とする男社会はまだまだ続くだろう。男らしさが、自らの力の証明や実行と不可分であるかぎり、世の中は殺伐としたものにならざるをえない。
 要するに、「男」という価値意識は、現代ではほとんど建設的な意味を持たない。まあ、男らしさというものに強きをくじき弱きを助けるという任侠や、騎士道的な精神があれば別だが、しかし最近の映画やテレビや漫画などに見る現代の男らしさというものは、むしろ力で他を支配し、そのためには手段を選ばないという、弱い者いじめを恥じない、野蛮で粗暴なものになっているようだから、そうした男らしさは傍迷惑以外の何物でもないと言えるだろう。もっとも、それに比例して、最近の若い女性も生活の美意識を失った下品な女性が増えているから、お互い様ではあるが。
 本題に戻ろう。「葉隠」の基盤となっている「男らしさ」に意味が無いとすれば、「葉隠」にも意味が無いかといえば、そうではない。むしろ、現代においてこそ「死ぬ」ためのマニュアルは必要なのである。我々の現代生活は、生活感が希薄であるにも関わらず、いざ死ぬ段になったら誰もが死を恐れる。黒澤明の「生きる」の主人公のように、自らの死を目の前に突きつけられて、初めて自分の生の空虚さが分かるのだが、人生の中味はめいめいの問題だからここでは論じない。しかし、誰にでも一様に来る死を、いかに迎えるかは、マニュアルがあっていいだろう。主君のために死ぬのは真っ平御免だが、どうしても死ぬことが避けられないなら、何とかうろたえずに死にたいではないか。
「葉隠」が教えたのは、男らしさでも何でもいいが、何かの価値を大前提とし、その価値意識の前では、いつでも自分を判断停止の状態に持っていくように自分を訓練しておけ、ということである。実際には、その対象が、時には神であったり、天皇であったり、自分の名誉であったりするわけだ。しかし、死を乗り越えるような、そうした「虚構の」(現実の存在でもいいが)価値は現代で可能だろうか。私は、自分の家族のためなら、もしかしたら自死を受け入れることも可能かな、という気もするが、それ以外では思いつかない。しかし、宗教を信じている人間が、比較的容易に死を受け入れるのは、こうした判断停止によるものだということは、あまりにも当たり前すぎて逆に気がつきにくい点ではないだろうか。要するに、そうした連中は(失礼ながら)生前から半分気が狂っているから、簡単に死を受け入れられるのだ。まあ、神や仏といった虚構を本気で信じ込むことにも、こうした大きなメリットはあるということだが。ついでに言えば、神や仏といった存在が厄介なのは、それが存在しないことの証明が不可能なことだから、私がこんなことを言ったところで宗教信者たちには痛くも痒くも無いはずである。さらについでに言っておくと、私は、気の狂った人間が「正常な」人間よりも劣った存在だと考えているわけではない。北杜夫がどこかで言っていたように、正常と異常の間に明確な区別はなく、我々は皆、多かれ少なかれ狂人なのである。ただ、社会にとって不都合な種類の狂人が隔離されたり治療されたりするだけのことで、それは、我々すべてが潜在的な犯罪者でありながら、ある種の基準を満たした人間(必ずしも、法を犯した人間とは限らない。権力にとって不都合な人間や、単なるスケープゴート的な冤罪の犠牲者もいる。)だけが犯罪者扱いされることと、何も変わりはない。
結論的に言えば、「葉隠」は、あくまで封建領主の統治のためのサポートテキスト以上のものではなく、いわば、会社が社員教育に使う非人間的な教育マニュアルでしかないが、その中心に「死」がある、という点でユニークなものである。そして、死そのものの考察の上で、もしかしたら、これまでの微温的で空疎なホスピスやターミナルケアについての言説には欠けていた「狂」や「ロボット化」という視点を与えてくれる、重要な参考書となるかもしれないのである。問題は、しかし、「愛と誠」(ふ、古い!)の名台詞ではないが、「**のためなら死ねる!」という存在を我々は探せるだろうか、ということである。

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今後のブログ方針など

ブログを再開した時に言ったように、この「酔生夢人のブログ」の内容は、今後は社会的なものよりは趣味的なものを主体にしようと思っている。もちろん、ブログに書くほどの内容など無い文章が多くなるとは思うが、まあ、他人の浮世離れした浮遊思考の話を読んで楽しめる人間がいれば幸いだ。
自分の文章だけではなく、時々は私が感服した他人の文章を掲載することもあるが、もちろん無断転載になる。それらの文章はもうだいぶ前のものなので、書いた本人も忘れ、そのまま消えていく可能性が高いので、世に埋もれないようにここで紹介しておこうというわけである。余計な御世話、と言われるかもしれないが、ネット上に上がった文章の中には、そのまま消えるには惜しいものも無数にあるのである。

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我々は犬である

「ちきゅう座」の孫埼亨ツィッターから引用。なかなか面白い話だが、たぶんこの侮辱的プレゼントがあったこと自体知らない人が多いだろうから、掲載する。まあ、日米関係の実情がいかなるものかについての象徴だ。
要するに我々日本国民は、宗主国様から、あまり大きい顔をするな、永遠に十字架を背負えと命令されたのである。

(以下引用)


5月1日
dogwood
野田首相;米国からみて野田首相訪米のハイライトは何でしょう。30日CSM「クリントン長官が桜の代わりにdogwood(山ぼうし類)3千本を日本に寄贈と発表したこと」。何故dogwoodかしら。dog=野田の発想か。それとも日本よ栄えることなかれという潜在意識かな。The mythical meaning of the dogwood flower is that the tree was chosen to provide wood for Jesus Christ’s crucifixion. the tree was unhappy about this cruel act it was forced to do, and thus Jesus after being nailed to it, told it this;”Because of your regret and pity for my suffering, never again shall the dogwood tree grow large enough to be used as a cross.」西欧では花のシンボルに敏感。当然調べているでしょう。そしてにやにやされている。
日米:米国がdogwood(山ぼうし類)3千本を昔の桜のお返しに日本に提供で「キリストが磔関連でこの木が大きくならないようにと述べた」という点についてメール「Dogwoodの意味は、キリスト教徒なら皆知っていることです」。つまり日本を馬鹿にした贈り物であることは教徒なら分かる。

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ブログ再開の挨拶

引っ越しのためにネット使用ができず、長い間ブログを中断していたが、やっとネットもつながったので、これからぼちぼちブログを書いていくことにする。しかし、これまでのように頻繁に投稿することは無いだろう。まあ、せいぜい週に一度か二度くらい、気の向いた時や、面白いテーマにぶつかったときくらいだ。
内容も、政治・社会的話題はあまり扱いたくない。
もっとのんびりした、風流な話題を扱いたいと思っている。
とりあえず、今日は再開のお知らせ、挨拶としておく。

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See You Again

「徽宗皇帝のブログ」にも書いたように、私はネットへの投稿をしばらくやめることにする。直接の理由は個人的事情による引越しのためだが、「ネットゲリラ」の閉鎖など、世間の情勢が怪しげになってきたのも理由の一つだ。まあ、「風声鶴唳」(「唳」の字は本当は「大」ではなく「犬」だが)かもしれないが、君子ではなくとも危うきには近寄らないにこしたことはないだろう。
では、みなさん、またそのうちお会いしましょう。
最後に、一言。3月20日頃に関東で異変があるかもしれないので、お気をつけて。



(以下「リチャード・コシミズ」ブログから転載。)


首都圏大地震煽り報道

ユダヤ人のご命令で記事を書く売国メディアが一斉に「首都圏地震がもうすぐやってきて大被害が出る」と合唱しだした。当然、ユダヤ電通の差し金であろうし、情報発信を担わされる官僚や専門家もグルである。

そんなに簡単に地震予知ができるなら、なぜ、311を全く予知できなかったのか?今まで予知できなかった地震が急に予知できるだけの技術革新でもあったのか?ふざけるな。

さて、金融ユダヤ人たちの目論見は?

1.海外投資家が地震被害を恐れて、対日投資をしなくなる。
2.海外の製造業が、日本からの部品調達が不安定になると見て第三国製に切り替える。
3.日本人の間に「地震恐怖症候群」を蔓延させ勤労意欲を低下させる。
4.首都圏の地価を押し下げて、金融ユダヤ人が底値で買い漁れる環境を作る。
5.日本企業の株価が下がり、金融ユダヤ人が買いやすくなる。
日本という国家の見掛け上の価値を押し下げるのが主たる目的か?(日米欧三極の同時不況化で第三次世界大戦への地ならし?日本だけ比較的健全では困る?)
6.日本企業が経済環境の悪さや地震の危険に嫌気が差して、工場を海外に移転してしまう。もしくは、企業自体を海外に移してしまう。

ということで、みなさんのご意見を。

●首都圏の地震3倍 東京湾北部 推定震度7、正式公表
産経新聞 3月8日(木)7時55分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120308-00000090-san-soci

東日本大震災で首都圏の地震活動が活発化し、地震の発生頻度は現在も大震災前の約3倍と高い状態になっていることが7日、文部科学省の特別プロジェクト研究で分かった。研究チームはマグニチュード(M)7級の首都直下地震が「いつ発生しても不思議ではない」と指摘。首都直下の一つである東京湾北部地震の揺れは、従来想定の震度6強を上回る震度7との推定を正式に公表した

南関東で起きたM3以上の地震の数を大震災の前後半年間で比較したところ、大震災後は約7倍に増加。徐々に減少しているが、「地震災害発生リスクは現在も高い」とした。

国の中央防災会議は首都直下地震の発生確率を30年以内に70%としている。研究チームは大震災で確率がどの程度上昇したかは示していない。

一方、平成19年度に開始した地殻構造調査で、南関東に沈み込むフィリピン海プレート(岩板)と陸のプレートの境界部が、東京湾北部付近で従来想定より約10キロ浅いことが判明。両プレート境界を震源域とする東京湾北部地震が起きた場合、地盤が軟弱な東京23区の湾岸部や多摩川河口付近で震度7を予想した。

これを受け中央防災会議は4月以降、新たなプレート構造モデルに基づき首都直下地震の被害想定の見直し作業を始める。現在の想定では東京湾北部地震の死者は約1万1千人、経済被害は約112兆円と試算している。

研究チームの平田直東大地震研究所教授は「首都圏では火災による大きな被害が予想され、木造住宅密集地域の一刻も早い解消が重要だ」と話した。
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最終更新:3月8日(木)7時55分

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陰謀論者の上から目線?

私はこれまでずっと小田島隆(訂正:小田嶋隆である。ダイナモとやらのタイトルの誤記をそのまま書いてしまった。)のファンだったのだが、下記記事にはがっかりした。まあ、表マスコミに属する人間は結局、同じ穴の狢でしかなかったということになるのだろうか。
確かに陰謀論(陰謀批判論)をする人間は「自分は洗脳から免れている。つまり俺は頭がいい」という意識を持っている所はあるだろう。だが、それはあらゆる発言・表現がそうなのであり、「自分は馬鹿です」とアピールするために表現する人間はいない。馬鹿げた発言や表現も、「私はこういうユーモアを解する能力がある頭のいい人間なのです」というアピールなのである。
こうした人類全体に共通する弱点(自己愛)を持ってきて批判されると、批判できない対象は無い。これも新たな「東大話法」のパターンになりうるものだ。つまり、「あなたが他人を批判するのは、あなたが自分を他人より上だと思っているからだ。その傲慢さが私は嫌いだ」と言えば、あらゆる批判が封殺されることになる。しかし、この言葉は実際には「俺はお前が気に食わん。俺の好悪はあらゆる論理に勝る」と言っているのと同義である。(この事例も「論点ずらし」の東大話法になるか?)橋下がよく使う「私を批判するなら対案を出せ」という論法も似たようなものだ。
私はもうこうしたディベート巧者の論法には飽き飽きしている。
枝野も前原も橋下も沢山だ。
その列の中に小田島隆(訂正:小田嶋隆)は加わるのだろうか?


(以下「阿修羅」より引用)*参考として記事へのコメントの数々も付加する。


メディア陰謀論を共有する人たち  小田島隆
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/745.html
投稿者 ダイナモ 日時 2012 年 3 月 09 日 23:01:57: mY9T/8MdR98ug


 今回は、震災後一年の感想を書くつもりだ。
 3月11日に最も近い掲載日を期するなら、タイミングは、次回の方が適切なはずだ。が、来週はどうせ日本中が震災回顧一色になる。であるならば、その前に言うべきことは言っておきたい。埋没したくないということもあるが、原稿の内容について、余計な詮索をされたくないからだ。

 ここで言う「余計な詮索」は、私の側の言い方からすれば「要らぬ心配」ということになる。つまり私は、自分がこれから書く原稿に対して返ってくるであろう反響について、あらかじめ神経質になっているのである。

 実に面倒くさい事態だ。説明しにくい状況でもある。が、このことは、今回の主題とも関連しているので、一応解説しておく。

 思うに、震災以来、わが国の言論状況は、目に見えて不寛容になってきている。私が、「余計な詮索」を恐れるのは、この「不寛容」な空気と無縁ではない。具体的に言うと、私の原稿の内容が、ほかの誰かがどこかで書くかもしれないテキストと重複していた場合に、即座に「パクリ」を指摘するみたいな空気が漂っているということだ。で、私は、そういうふうに言われるのが心外だから、その不愉快な指摘を回避するべく、ひとまわり早いタイミングで原稿を脱稿する決意を固めているわけだ。

 過剰反応かもしれない。
 でも、震災を機に、メディアの記事をチェックする人々の目が不必要に険しくなってきていることはたしかなのだ。

 ふつうに考えれば、たとえば震災について何人かの人間が思うところを書いた場合、内容に似たところがあるのは当然のことだ。なぜなら、マトモな人間の感覚や考えは、多くの部分で重複しているものだからだ。とすれば、誰かと似た原稿を書くことは、書き手にとって、恥じるべきことではない。

 なのに、どういうものなのか、震災以来、一部の読者は著しく不寛容になっている。で、書き手である私は、その不寛容さに反応して、いくぶん神経質になっていて、だから、こういうややこしい前置きを書いている次第なのだ。

 発端はメディア不信にある。

 震災直後に大量配信された情報は、たしかに混乱していた。かなりの部分で誤報や思い込みを含んでもいた。そうした状況からすれば、政府の発表や東電の会見に対して人々が不信の念を抱いたのは当然だし、その彼らの一部がついでに新聞やテレビの報道に対しても疑いの目を向けるようになったことは、むしろ健康な反応だったと言って良いことだ。

 でも、それはそれとして、現在、特にネット上でささやかれているメディア不信の言説に、私がうんざりしていることもまた事実なのである。

 マスメディア発の情報を鵜呑みにしないということころまでは良い。
 複数の情報源をクロスチェックする態度が一般化しつつあることも、基本的には歓迎すべき傾向なのだと思っている。

 でも、一部の人々は、疑うだけでは満足せず、一定の予断を持って情報を読み解きにかかる作業を習慣化している。と、この読み方は、「邪推」を生む。別の言葉で言えば、陰謀論だ。

 さよう。私は、震災以来、陰謀論が大きな力を持ち始めていることに懸念を持っている。

 陰謀論は、いつの時代にもある。
 私が学生だった当時も、それは、知的な人たちの心を捉えていた。ここで「知的」という言葉をあえて使ったのは、オリジナルの陰謀論を発明するためには、一定の教養が不可欠で、デキの良い陰謀論には、それなりに秀逸な観察が含まれているからだ。

 事実、昭和の時代の陰謀論は、もっぱら知的な人々の娯楽だった。
「キミたち、ニクソン・ショックは、穀物メジャーの陰謀ですよ」
「中東戦争の真の狙いは、中東の原油価格を上昇させることによってアメリカの国産原油を採掘可能な採算ベースに乗せることだったわけだよ」
「知ってるか? アポロの映像って、ハリウッドで撮ってるらしいぞ」
「ブッシュさんが宮中晩餐会でゲロ吐いたのって、あれ、わざとだよね」
「ゴルバチョフのおでこのアザはフリーメーソンへの忠誠の証ですよ」

 というこれらの立論は、その真偽はともかくとして、もっともらしいものから笑えるネタまで含めて、それなりの教養がないと楽しめないお話だった。特に、時事問題をベースにした陰謀説は、国際常識や、地政学や、一定の歴史教養がないと、意味を解することができない。だから、昭和のキャンパスにおいて、陰謀ネタをたくさん知っている人間は、こまっしゃくれた学生仲間の間ではなんとなく尊敬されてもいたものなのだ。ついでに申せば、陰謀論を好んだわれわれは、必ずしもそれらを本気にしていたわけではない。あくまでもハイブローなゲームとして楽しむことが、その種の議論を弄ぶ際の不文律で、本気になって悲憤慷慨するのは、野暮な態度と見なされていた。

 ところが、ネットという培地を得た21世紀の陰謀論は、秘密の社交的議論である立場を離れて、悪い意味で大衆化している。

 悪い意味というのは、ひとつには陰謀論を語るメンバーの知的水準が低下したということであり、もうひとつは、その陰謀論を本気にする人たちが大量発生しているということだ。要するに、陰謀論は、それを語るメンバーの拡散によって質的に低下し、低質化することによって大衆化し、大衆化することによって凶悪化したわけだ。

 陰謀論の真骨頂は、
「こういうふうに考えたら面白くないか?」
「こっちから見るとこんなふうに見えてあらまあびっくりだぞ」

 という、見立ての奇天烈さと、その奇橋な見立てを本当らしく見せる論理の鮮やかさにある。だとすれば、その場で笑って使い捨てにされるのが陰謀論の宿命でもあるし、潔さでもある。

 その意味からすると、本気にされることを期待している21世紀の陰謀論は、そもそも邪道なのだ。

 過ぎ去った時代を惜しむわけではないが、インターネットが登場する以前は、与太話にも固有の愛嬌があった。俗流心理学や、ニューエージ怪談や、UFO目撃譚や、ユダヤ陰謀論といった、まかり間違えば相当に有害な話でも、昭和の学生トークは、到達範囲が限られているという意味で安全かつ特権的で、それゆえ、どんなに不埒千万な内容であっても、行きずりの茶飲み話として楽しむことのできるものだった。デマも中傷も罵詈雑言も同様だ。ネットを得る以前、あらゆるジャンク情報は娯楽として消化可能な範囲にとどまっていたのである。

 だが、もはやそういう時代は終わった。
 インターネットという世界規模の増幅回路に回収された与太は、与太のままでは終わらない。ある場合には有害不滅なゴシップに成長するし、別の場合にはより深刻な情報犯罪を構成する。どっちにしても無事では済まない。個人名を特定できる中傷は、言った者と言われた者の双方を致命的に傷つける。悪意のない事実であっても、そこに立場を超えた言及が含まれていれば、発言者の社会的生命を奪いかねない。

 で、震災からこっち、ネット上では、マスメディアを敵視するタイプの陰謀論が猖獗(ろうぜき:ダイナモ注)を極めている次第だ。
「日本のマスメディア(←「マスゴミ」と呼ぶ連中もいる)はひとつに結託して情報を統制している」
「商業メディアは事実を隠蔽している」
「記者クラブメディアは取材チャンネルを独占し、権力と癒着している」
「東電の影響下にある放送局は原発に批判なジャーナリストを排除している」

 と、こういうお話を本気でコピペして歩く面々が大量発生しているのだ。匿名掲示板を根城に騒いでいるだけではない。ツイッター経由で、メルマガ経由で、彼らは、上記のような言説を繰り返し発信している。それも実名で、だ。

 どういう神経なのであろうか。
 無論、マスメディアの側に問題がないわけではない。
 商業メディアである以上、ある程度の商業的な腐敗は原理的に避けがたいはずだ。また、情報が権力を伴う以上、それを扱う者が癒着や利権の泥にまみれるケースは当然考えられる。

 が、弊害と本質は違う。
 欠点を持っているということと、本質的に邪悪だというのは話が別だ。
 交通事故を起こすクルマが一定数存在することが事実であるのだとしても、そのことは、すべてのドライバーが潜在的な殺意を抱いていることの証明にはならない。ふつうに考えれば誰にでもわかることだ。

 雪が降るのはスキー産業の陰謀のせいではない。
 が、陰謀論に固執する人たちは、あらゆる害悪について、「犯人」を探そうとする。

 彼らは、「そのことによって利益を得る誰かが背後で動いている」という形式でものを考えることを好む。しかも情報については、「メディアが報じた部分にではなく、報じなかった部分に、より重要な真実が含まれている」と信じこんでいる。
 ということは、彼らにとって、世界は見えているあり方とは反対の姿をしているわけだ。

 実に厄介な観察だ。
 理屈はどうにでもつけられる。
 風が吹けば桶屋が儲かる式の論理は、実用上の詭弁としてほぼ無敵だが、陰謀論は、この論理に、「犯人」を仮定することで、より強力な構造を獲得させる。

「考えてもみろよ。どうして春先のこの時期に風速20メートルなんていう風が必要なんだ?」
「暴風によって明らかな利益を得る人間の存在を考えないと説明がつかないだろ?」
「しかも、暴風が砂塵を伴うことを報じているメディアはひとつもない」
「彼らは、砂塵と失明の因果関係を意図的に隠蔽している。なぜなら彼らもまた暴風ムラの一員だからだ」
「暴風ムラの記者クラブメディアは、どうやら花粉の飛散というより軽微な被害を強調することで目くらましをしているんだね」
「というよりも花粉症という病気自体がひとつの陰謀である可能性を考慮すべきなんじゃないのか?」
「つまり首都東京の風上に当たる多摩の山林に大量の杉を植林した者がいるということになる」
「それが桶製造業者だとしたらどうする?」
「杉の桶だ!」
「つながった。すべてが符合した!」

 いや、笑いごとではない。この話(杉桶理論)などは、まだまだデキの良い方で、実際に世間に流れている陰謀論は、もっと粗雑で、より救いようがなく、どうにもならないほど悪質だ。なにしろわれわれは、「永田メール」(宛名部分を塗りつぶした電子メールプリントアウト《笑》)みたいなものを「証拠」に、国政調査権を要求した議員を選出した国民なのだから。

 今回の震災についても、実に多くの偽情報が飛び交っている。

 たとえば、福島第一原発の事故が深刻な事態を迎えている頃、ある週刊誌が、事故処理にあたる自衛隊員の前線基地となっていた「Jヴィレッジ」(福島県楢葉町にある「サッカーナショナルトレーニングセンター」の愛称)について、次のような記事を書いた。
 Jヴィレッジの経営者が部屋を汚されることを嫌って、命懸けで働く自衛隊員を通路で雑魚寝させていたというのだ。

 この記事は私もよく記憶している。とても腹が立ったからだ。
 が、この話には異論が出されている。
 週刊誌の記事が出てから約1カ月後、あるサッカー専門誌にJヴィレッジの現状を伝えるレポートが掲載されたのだ。

 読んでみると、Jヴィレッジが自衛隊を通路に雑魚寝させた件について、「どこを見てもそんな事実はない」と書いてある。

 なるほど。
 記事によれば、一部の自衛隊が床に寝ていた理由は、単にJヴィレッジの寝具が、震災翌日に避難してきた近隣の被災者に提供されていたからに過ぎない。つまり、二つの記事を見比べると、事実関係がまったく逆なのだ。

 どちらの記事が真実であるのかについては、私自身が現地を取材したわけではないので、ここで断定することは避ける。
 が、ともあれ、世間では、週刊誌の記事の方が圧倒的に受け入れられている。

 というよりも、サッカー専門誌の記事は、部数も部数だし読者層も読者層なので、一般の読者にはほとんどまったく知られてさえいない。

 だから、Jヴィレッジが自衛隊に対してひどい仕打ちをしたということを信じている人は、いまでもたくさんいるはずだ。私自身、偶然手にしたサッカー専門誌の中でこの記事を発見していなかったら、いまでもJヴィレッジを敵視していたかもしれない。

 週刊誌の記事は、とても断定的に、他罰的に、扇情的に書かれている。いま読むといかにも乱暴な書き方だと思う。
 が、こういう記事が喜ばれた時期がたしかにあったのだ。

 福島第一原発が水素爆発を起こしてからしばらくの間、東電の関係者はどんなにひどい中傷を受けても反論できない立場にあった。この状況はいまでもそんなに変わっていないかもしれない。で、私自身もそうだったが、その、春先の最も困難だった時期、人々は他罰的な情報に飛びつく心理状態にあった。だからこそ、こんなひどい記事が書かれていたのだ。

 東電関連については、ほかにもひどいデマが流れている。事故直後、現場を放り出して真っ先に逃亡した原発の職員が福島で酒を飲んでいたとかいった調子の感情を煽るデマが、その目で見てきたような目撃談として、確信的に配給されたのである。なんともなさけない話ではないか。

 震災以来、目的のためには、手段を選ばないタイプの論説が勢いを得ている。
 通常の意味で言う報道というよりは、プロパガンダに分類したくなるような記事だ。

 脱原発を志す人々や、逆に原発の再開に望みを託している人々が、それぞれの主張を補強するために、自分たちに有利な材料を集めにかかることは、ある程度仕方のない傾きであるのかもしれない。

 でも、おかげで、メディアにはバイアスのかかった記事が流れるようになっている。そして、そのバイアスが、メディアに対する不信感を生み、そのメディアに対する不信感が奇妙な陰謀論を成立させてしまっている。とても厄介な事態だ。

 陰謀論を語る人々は、選民意識を抱いている。この部分は、昭和の時代から変わっていない。彼らは、自分たちが一般人の知らない情報にアクセスしており、ふつうの人間がたどり着くことのできない洞察を抱いているという共犯意識のようなもので結びついている。

 結局のところ、
「マスコミが一般人を洗脳している」
 という主張は、
「オレ以外はみんなバカだ」
 と言っているのと同じことであり、その種の陰謀論を共有している人たちは、なによりも愚民思想によって連帯している仲間なのである。

 今週から来週にかけて、震災を主題とした回顧記事や総括報道が大量に出まわることになる。

 震災のような歴史的な出来事を一定のタイミングで振り返る作業は、それ自体、とても意義深いことだ。被害の記憶を風化させないためにも有効だし、なにより、通常のニュースとは別の、より巨視的な枠組みで事態を見直す意味で貴重な機会を提供してくれる。おそらく、録画に値する番組や、切り抜いて保管しておくべき優秀な記事がたくさん書かれるだろう。

 私自身は、それらの記事を、他罰的であるかどうかを基準に読み直してみようと思っている。

 春一番を桶屋の陰謀と決め付けて非難する記事よりは、風力発電の可能性を示唆する記事の方が私は好きだ。

 とってつけたような落ちだと思う人はそう思ってもかまわない。
 とってつけてでも建設的な結末を求めなければならない。われわれはそういうところに来ている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)


http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120301/229323/?top_rcmd
 

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コメント
01. ダイナモ 2012年3月09日 23:03:25 : mY9T/8MdR98ug : FGFmbvHw4I
小田島隆が「陰謀論者」を誹謗中傷するのも何もかも、全てはユダヤ・メーソン・イルミナティの仕業だ!!


02. 2012年3月10日 02:46:34 : 4QmVPxmFcc
「知ってるか? アポロの映像って、ハリウッドで撮ってるらしいぞ」
「ブッシュさんが宮中晩餐会でゲロ吐いたのって、あれ、わざとだよね」
「ゴルバチョフのおでこのアザはフリーメーソンへの忠誠の証ですよ」
これと

「日本のマスメディア(←「マスゴミ」と呼ぶ連中もいる)はひとつに結託して情報を統制している」
「商業メディアは事実を隠蔽している」
「記者クラブメディアは取材チャンネルを独占し、権力と癒着している」
「東電の影響下にある放送局は原発に批判なジャーナリストを排除している」

これらを一緒くたにしている時点で、論ずるに値しない

乞食犬といいガタ公といいダイナモといい
叩かれすぎて、より精神病んできたな


03. 2012年3月10日 03:05:24 : Mnxczxr6Dw
インサイダー取引に関与して記者連中がパクられたほどの
おカミも認めた正真正銘の「陰謀団体」日経新聞社の
クズサイトで雑文書き散らしてしのいでいるチンドン屋の分際で
なにをタワケたこと言ってんだ、こいつ?(笑)
こんな駄文なのに端金出して買ってくれてる肉茎珍聞社をさておいて、
こういうことをドヤ顔で書いてるんだから、小田島隆ってのは
恥を恥とも認知できないバカだってことだろ。(笑)


04. 2012年3月10日 07:55:30 : GgZbHGY9Wp
3/11の報道において、週刊誌の記事が支持されているとしたら、それは新聞、TVといった大メディアの報道が、政府や東京電力からの楽観的な情報を批判もなく垂れ流す役割を果たして、結果として、読者/視聴者の信頼を決定的に失ったからではないですか。
陰謀好き、選民意識とはまったく別の話ですよ。

そういう著者こそ、週刊誌の読者とかを意味なく見下して発言していている一方で、「他罰的」とか「愚民思想」とか上目線そのものの用語を弄していて、感じ悪いことこの上なし。しかも、文章やたら長くて、内容は他愛もない。

わたしが日経トレンドの編集だとしたら、連載打ち切りますね。



05. 2012年3月10日 09:24:29 : IYyRSPdFJA
典型的な東大話法だな。一種のパラノイアのようだ。

06. 2012年3月10日 11:00:45 : OTOSIyOeKE
小田嶋隆→
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%B6%8B%E9%9A%86
日経関係の新聞、書籍の売り上げが減ったら、困る方?


07. 2012年3月10日 16:24:00 : 3hrUNRSPz2
こんな文章で騙されるのはアホ。

08. 2012年3月10日 16:55:02 : FijhpXM9AU
小田島隆が「陰謀論者」を誹謗中傷するのも何もかも
やっぱり悪いのは憲法9条だろう。え


09. 2012年3月10日 16:58:11 : FijhpXM9AU
この小田島隆なるシトはこの程度の「陰謀論」でぎゃんぎゃん言ってるようじゃ、
古歩道氏のブログなんか読んだら、ひきつけをおこしてそのまま逝っちまうんじゃないだろか?

10. 無生物 2012年3月11日 03:35:06 : ce0Ar6eaeTZ7w : 8cmLjyQH4H
驚いた。脱原発の「おかげで、メディアにはバイアスのかかった記事が流れる」ようになり、「そのバイアスが、メディアに対する不信感を生み」「陰謀論を成立させてしまっている。」???
何でも脱原発のせいであると。原因と結果が逆立ちしている。
正しくは、多額の広告費によるメディア戦略で反原発の声を圧殺しながら原発が推進されてきたのであり、その中で現実の安全対策はなおざりにされ、無辜の民の頭上に放射能がぶちまけられた怒りが反原発のうねりになったのである。

原発事故に荷担した責任を一顧だにしない、マスコミ人の厚顔ぶりにはほとほとあきれる。

「風力発電」を持ち出すところがまた愚かしい。太陽光発電と並び出力が不安定で、最も筋の悪い自然エネルギーの1つだ。電力供給システムの負担となることから、電気料金値上げの口実にされるだけだし、原発から脱却できなくするために、こういうバカバカしい発電方法が持てはやされ、補助金がついているのだ。

とってつけてでも自然エネルギーを持ち出せば「建設的」と逃げる前に、言論人としての責任をよく考えてほしいと願うばかりである。


11. 2012年3月11日 08:33:12 : UeNk3l4ACw
まあ、陰謀論と聞いて真っ先に思い出すのがこれな訳だがね
クレイショー裁判
http://www.maedafamily.com/ansatu/showsaiban.htm

こういった勇気ある行いに対しても鼻で笑うような奴は、絶対に許さん


12. 2012年3月11日 08:36:33 : UeNk3l4ACw
これは小沢裁判に於いてもそうだし
東電、メディアなどに体を張って批判してくれている人たちへの冒涜以外の何物でもない

13. ダイナモ 2012年3月11日 15:07:08 : mY9T/8MdR98ug : FGFmbvHw4I
「 結局のところ、
「マスコミが一般人を洗脳している」
 という主張は、
「オレ以外はみんなバカだ」
 と言っているのと同じことであり、その種の陰謀論を共有している人たちは、なによりも愚民思想によって連帯している仲間なのである。」
このマスコミには週刊誌も含まれている。

陰謀論を共有している者たちがマスコミ以外でどこから情報を入手するのかというとインターネットである。それは誰が書いているのか判らない正体不明のブログの書き込みだったり、某国の統制下におかれているメディア記事だったりする。どういう訳か、そうした情報が真実を伝えている保証があるのかについては無頓着である。とにかく欧米「帝国主義支配の陰謀に抵抗」している側が流す情報は常に真実であり、欧米メディアが流す情報はウソばかりであると決めつける。

例え、1万人が虐殺されたとしても、それをひどいことだとは感じる感性が育っておらず、逆に虐殺者に肩入れするという「倒錯した思考」が陰謀論を共有している者たちの特徴である。陰謀論を共有する者たちは全体主義体制をもろ手を挙げて支持する。



14. 2012年3月11日 20:07:29 : 3YzC2nZTY6
>>13
クズめ
小沢の問題は司法ひいては国民の危機であるにもかかわらず
検察の応援団になっている「感性」の持ち主が言うことか

>例え、1万人が虐殺されたとしても、それをひどいことだとは感じる感性が育っておらず

当たり前だ、隣のおっさんが死んでも何も感じん

しかし、その一万人の前の千人、百人の段階で防げるだろうと言っている
中東で一部でも安定しているところあるのか
今、イラクやアフガンやリビアで人々が安心して暮らせているのか

死刑反対のデュカキスにブッシュ陣営が吹っかけた詭弁に等しい

アホウヨに担ぎ上げられ利用されているだけの光市母子殺害事件の本村や
拉致被害者には軽蔑しかない

被害者が敵を討ちたいと思うのは当然だ
圧制に苦しむ人々を助けたいと思うのも当然だ

ただ、この世の中、そんな単純なのかと言っている


15. 2012年3月12日 00:31:45 : jj5bZD7VhM
小田島隆ってギャグセン高いね。


16. 2012年3月12日 02:28:21 : rfpLVKB9B6
よう、阿修羅陰謀論者=ボケ老村民ども。
たとえどっかのクズにかもしれんが図星を突かれたんだろう、脊髄反射で激昂したり、「俺は上だよ」とせせら笑ってみたり、怒りの対象・藁人形をダイナモ氏にすり替えてみたり・・・ありがちな、ありがちな反応、滑稽だわ。

この投稿で興味深かったのは、糞陰謀論者は愚民思想の酔っぱらいだという指摘だ。なるほどな。阿修羅随一の論客にして糞陰謀論者のあっしら氏は、なんで妙なところで(笑)を入れるのかずーっと違和感を持ってきたが、その謎が確かに解けたわ。予想通りの「オレ様」感覚だったわけだ。

で、お前らボケ老陰謀論者もそうなんだろ?
オレ様こそは真実に到達した覚醒者であり、阿修羅村民以外はいまだ覚醒せざる愚民という感覚なんだろ?

管理人ももてあます某陰謀論ババアはダイナモ氏をイルミナティとかなんとかレッテル貼りをしていたが、おまえらボケ老軍団もババアと同じ体臭が、臭い臭いw

まー、互いに阿修羅陰謀論者という臭い体臭を嗅ぎ合い、ゴキブリ同士の仲間意識を深めつつ、喚いていろや。そのうち、くさやの干物のような仲間の臭いも、だんだん消えてゆくよ。だってそうだろ、お前ら団塊の世代を超える歳のボケ老同士じゃん。順々に、今日は一人、明日また一人と、汚いベッドに寝たきりになり、やがて身内に公然の秘密裏に、「秘かに祝福されつつ」、焼き場で灰になってゆくんだよ。そう先のことじゃないだろうが。

私もそんな阿修羅陰謀論村民を生暖かく見守っているよ。


17. 2012年3月12日 04:16:00 : Y4g8SHKutE
投稿者を含め陰謀の実在を否定する人が一人もいないのが笑える。
陰謀論者同士がたたきあってるものおもろい。
「誰か陰謀はないって言ってくれ」という心境なのだが。
大きめの陰謀は実在する。でいいんですかね?みなさん?

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頭が良くて性格が良いというのは……

「反戦な家づくり」から転載。
他人のブログ記事を引用する時に、その一部を省略するのは、失礼な行為ではあるが、話の焦点を明確にするためなので、許容してもらうしかない。
「反戦な家づくり」の明月氏ほど他人の痛みに対して敏感な人間は滅多にいないと思う(他には藤永茂博士くらいか)が、それは文章を読めば分かる。
文章ではいくらでも嘘がつけると思っている人も多いだろうが、そうでもないのである。枝野や橋下がいくら口達者でも、見る人が見ればそのインチキさが分かるのと同様に、文章でも書き手の本性が現れる(「顕れる」が適切か)ものだ。井口博士の皮肉とユーモア、山科恭介のダンディさ、東海アマの頑固さや偏屈さ(これはけっして悪いものではない)、飯山一郎の豪放磊落さなど、すべて文章に顕れている。
で、その明月氏は福島が今後核の墓場にされるであろうことを日本で一番早く見抜いた人物でもある。頭がいいのだ。
頭が良くて他人の痛みが分かるとなれば、これは辛い人生を送る可能性が高いのである。なぜなら、頭がいいから現実の不幸がありありと見え、さらに他人の不幸をすべて自分のものと感じてしまうからである。
この世では無神経で残忍な人間ほど成功しやすいというのが、世の真実である。橋下や枝野や菅や東電社長会長や経団連を見れば一目瞭然ではないか。
余談が長くなった。明月氏という「地の塩」のような存在が増えることが、これからの世界が幸福になるかどうかの鍵だろう。
本記事について触れる余裕がなくなったが、それは引用記事を読めば済むことである。


(以下引用)



細野環境相、中間貯蔵施設「理解得たい」
2012.3.10 日刊スポーツ

最大の被害地に、3カ所も核の墓場を作るのだそうだ。
そして、情けないことに、脱原発の勇士達までも、「仕方ない」と賛同している。

冗談ではない。原発を作ることはできても、世界の原発鬼が総力を結集しても核の墓場は作れなかった。フィンランドのオルキルオトのオンカロだけが例外だが、それもフィンランドの核廃棄物しか受け入れない。
世界の原発鬼の悲願は、何よりもかによりも、核の墓場の建設なのだ。

私は、地震とtunamiの日本沿岸に原発を並べたのは、最初から事故→核の墓場 を狙っていたと考えている

原発推進の正体は「日本列島を核の墓場にする計画」だったのではないか

もし、計画的ではなかったとしても、すくなくとも、あの水素爆発を見ながら 「これでやっと廃棄物を処理できる」と胸をなで下ろしていた人間が、多数いたことは間違いない。
そんな馬鹿な と思うあなたは、お人好しにもほどがある。

これから進んでいくことは、「福島切り捨て」だ。

核の墓場を作り、膨大な健康被害を無視し、形ばかりの除染でお茶を濁して、あとは福島を棄民する。
続々と出てくる白血病やガンや、その他の病気は「心配しすぎ」が原因だ、と山下俊一大先生に診断される。

2300万トンのうち わずか400万トンを敢えて全国にばらまく、一見無意味なガレキ問題。
これは、まさに福島切り捨ての布石である。

当然ながら、ほとんどの住民は拒否する。それは当然だ。
だが、拒否したことによって住民には、桁違いに高い放射線の中で暮らす福島の人々に対すする負い目を感じるという仕掛けが隠されている。負い目を感じる人々は、それを感じさせる原因にたいして目をそらすようになる。
また、脱原発の運動を、福島支援ではなく、目先のガレキに釘付けにするというスピンオフ効果がある。

しかし、いま、最優先は福島とその周辺の子どもたちだ。
震災前は、飲み食いもしてはいけない放射線管理区域ですら、滅多に見ることのない放射能の中に暮らす子ども。
良くないと分かっていても、暮らしていくためには、そこにいるしかない親。

そのすべては、世界の核の墓場を作るために、犠牲になっている。棄民にされているのだ。

このブログを見てくれている人は、ほとんどの人が原発反対であり、福島の犠牲者にシンパシーを感じていると思う。
だから、伏してお願いしたい。福島から目をそらさないでいただきたい。

ガレキも、自分たちの食べるものも重要な問題には違いない。
でも、敢えて言う

ガレキより避難。
トンデモ無い環境で暮らし、さらに核の墓場を押しつけられている福島から、目をそらさず、子どもたちの避難を進めることと、理不尽な核の墓場建設に反対していただきたい。

東電勝俣の家は大量の警察が守っている。
しかし、放射能にさらされ続けている子どもたちは、かろうじて親が守ろうと心を砕きながら、それでも暮らしていくために守りきれない辛い思いに直面している。
政府にも、自治体にも頼ることのできない子どもたちを、少しでも守れるとしたら、それは日本中の人々の心と行動しかない。

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