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人から学ぶということ

「日本の独立を目指して」というブログから転載。
私はマスコミによる未来予測はまず信じないが、素人や市井の人の言葉には耳を傾けることが多い。聖書でも、「預言」は神から「普通の人」に「預けられる」のである。だから「預言」と言うのだ。預けられる方は、それで迫害を受けたりするから、ヨナのように迷惑がることも多い。
今はネット上で、匿名で書けるから、多くの未来予測の言葉が多い。それらが「預言」か、ただの妄想的「予言」かは、読む側で判断すればいい。つまり、読む側のレベルによって、それらの未来予測は役に立つこともある、ということである。専門家の言葉しか聞かないという人は、自分の判断力を最初から捨てているわけだ。

学ぶということについて、少し述べてみる。
私は中学校に入った最初の頃、数学で理解できないところがあったが、クラスでは劣等生の部類とされていた同級生から説明されて理解でき、その後はまずまず上位の成績を取るようになった。
自分の分からないことを少しでも知っている人間なら、その事に関しては誰でも自分の師になりうる、ということである。
たいていの人間は、自分より普段の成績評価の低い人間から学ぶということは最初から考えないようである。つまり、劣等生、優等生という考えに凝り固まっていることが多い。これは愚かしい習慣である。
優等生・劣等生と大雑把に分けることはだいたい有害なものだ。優等生当人にとっても、自惚れから性格を悪くしがちである。もっとも、学校という場所は生徒に優劣をつけるのが仕事みたいなところがあるが。
ついでに言うと、「劣等生」の方が、相手が「何がどう分からないのか」が分かっているだけに、自分が理解したことについては分かりやすく教えることができるので、良い教師(教え手)になるものだ。だから、教師による一斉授業よりも、同レベルの生徒同士で教え合う方が、生徒の能力は向上するはずである。
教えるとなると、丸暗記の知識だけでは相手を納得させられないから、教える側も「正解の根拠」を考える必要が出てきて、知識や理解はいっそう深くなるのである。教わる方も、教師に聞くより聞きやすいし、同級生とも親密になれる。
「ゆとり教育」を見直すとか言って、学習時間だけを長くするよりも、教育方法のこうした盲点、つまりあまり意識されていない部分をもっと考え直す方がいいだろう。

さて、例によって引用記事とは無関係な前説になったが、下記記事の未来予測は、だいたい納得できるものに思える。ならば、この予測を自分自身の今後の活動の参考にすればいいわけで、ネット周遊にはこうしたメリットもある、ということである。


(以下引用) *誤字や誤記らしきものの一部を失礼ながら注釈訂正してある。誤字誤記指摘が細かいのが厭味かもしれないが、書いている内容には大賛成だし、示唆されるところも多いのである。だからこそ引用もしたわけだ。そもそもネット上の文章の国語的正確さなど、ほとんどの人は気にもしないのだから、下記ブログ筆者も鷹揚に構えていいのである。私が誤字や誤記が気になるのは、過去の仕事からの職業病みたいなものだ。また、一部に余計な「突っ込み」を入れているのも、悪意からではない(単なる面白がり)であるのだが、悪意と思われる可能性もあるので、先に謝っておく。




2013/1/14
「大愚の当たらない大予想」  

実物経済に戻る

これを芸術にもどすとどうなるか

工芸の隆盛である

抽象絵画。ポロックやラウシェンバーグなどのインチキ連中はちょうど金融工学のインチキと似ている

抽象化してこれがいいと強弁すれば価値が生まれる、という構造である。金融工学がマスコミででたらめを垂れ流す経済学評論家とペアになっているのと同じで

これらの現代芸術なるものは芸術評論家の口から出まかせ理論とセットになっている。

音楽ではどうか。

ジョンケージのどのなんかわからない音楽とこれまと評論家とセットになっている。

このようなインチキ抽象概念は2008年に死滅した

抽象化が人間に耐えられないものであることがわかったのだ

料理もそうだ。マクドナルドに代表される栄養成分主義は死滅した。食った人間が病気になったのである。大量生産農作物はこれから死滅する

医療もそうだ、生存率主義はちょうど利益率主義にあたるが、これも死滅する

幸福度で表現しなくてはならぬ。QOLが医療の結果として重視されるようになった

正気が戻ってきた

また都市に緑と虫と鳥を戻そうとしている

文明とは、虫のいない生活のことであった。カに刺されるのが嫌でインカは山へ逃れた。ローマは風呂と水道の求心力だ。(夢人注:?)アメリカは電気洗濯機と冷暖房だ

でもアレルギーが増えてきた。非特異抗原刺激の上で病原体を抑え込んでいたものが、非特異抗原暴露(夢人注:「曝露」か?)がなくなったので、過剰自己免疫が起こるようになった

過剰清潔のたまもの(夢人注:「たまもの」は有益なものを含意するので、皮肉の意図でなければ「結果」くらいがいい。)である。

いまや発酵食品のおお流行りだ。たとえば黒酢。あれは亀(夢人注:「甕」か)に原料を入れてほおっておくと巣(夢人注:「酢」か)になる。つまり大気中のカビである(夢人注:「亀に原料を入れてほおっておくと巣になる」というのは、何かシュールでグロテスクなイメージがあって面白い。)

ワインはどうか。地方に自生するカビと、ブドウをふんづける足のカビの混合物だ。だから名産のワインは土のにおいがする。安物のステンレスボトルで発酵させたものにはそれがない

さけはどうか?酒は造り手と天候次第である。ロット差が大きいが(夢人注:?)それでもそれを楽しむ。人の苦労をしのんで飲む

コメも同じだ、野菜も同じ。人の苦労が価値の中心に入ってきた。

そう、等価交換(夢人注:なぜ「等価交換」? 「実物経済とは等価交換が原則だ」ということだろうか。)と制作者(夢人注:「製作者」がいいが、「製造者」の方がもっといい。)への感謝がキーである

料理も産物も工芸品も食べ物もなにもかも感謝する相手を探しているのである。奪う奴やだますやつや抜け駆けする奴にはもう飽き飽きしているのだ

つまり西欧の500年の機能主義パラメータ主義に飽き飽きしているのだ。





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嫌な現実に目を閉じさえすれば生きるのは容易、か?

私の母が何かの機会に言った言葉で、今でも覚えているのが二つある。
それは「見ぬもの清し」と「我がサミ(かさぶた)や、かぎ(美しい)サミ」という言葉で、後者は沖縄か宮古島のことわざかと思う。どちらも実に皮肉な言葉で、ラ・ロシュフコーばりの冷徹・冷厳な人間観が底にある。
前者は「喉元過ぎれば熱さ忘れる」に少し似ているが、それよりも、「心ここに在らざれば、見れども見ず、聞けども聞かず」(一般には「見れども見えず、聞けども聞こえず」として知られている。)の方に近いか。しかし、それよりも短くて、鋭い箴言である。この言葉は二つの解釈ができる。一つは、我々は自分の目の前のものに何の根拠もなく信頼を置くが、それが信頼に値するとは限らない、ということ。もう一つは、我々は自分が見たくないものは存在しないものとして自分自身を騙しながら生きることが多い、ということだ。
後者(「我がサミや……」)は、言うまでもなく、人間の自己愛をからかった言葉である。「我がものと思えば軽し 笠の雪」という俗な俳句にどこか似ている。自分に関するものは何でもよく見え、他人のものには嫉妬し、見下したがる、というのが通常の人間性である。
こういう言葉を言う私の母親であるから、リアリストではあったのだが、弱者への同情心は非常に強かった。私の反権威主義や、常に自分を弱い者、劣った者の側に置いて考える性向は、あるいは母親からの遺伝かもしれない。父親の方はというと、西郷隆盛の大ファンで、「敬天愛人」の額を家の鴨居に懸けるような夢想的博愛主義者であった。
子供の頃は、そういう両親の良さを知らなかったし、どちらもとっくに死んでいるのだが、まあ自分の中にその両親の血が流れていることは、嬉しいことである。

さて、何だか個人的回想になってしまったが、これは下記記事の前置きなのである。
要するに、最初に書いた「見ぬもの清し」が、下記記事の除染活動を一言で言ったものだ。
つまり、除染など最初から不可能だし、除染した土を捨てる場所もあるはずがない。
であるから、とにかく「やったふり」をしていればいい、というのが政府の福島原発放射能汚染対策であったというのが事実なのである。
良く使われる比喩で言えば、「敵から隠れたつもりで頭を砂の中に突っ込んでいる駝鳥」というのが現在の日本政府と日本国民の姿であるわけだ。
で、ほとんどの日本国民は「放射能汚染など存在しない」、というふりをして、見たくないものから目をそむけつつ、個人の日常という砂の中に頭を突っ込んで生きている、というわけである。





Living is easy with eyes close……(ビートルズ「ストロベリーフィールズ・フォーエバー」)







(以下「阿修羅」から引用)



除染で汚染物不法投棄 ゼネコンの底知れぬ悪意と腐敗 (とある原発の溶融貫通(メルトスルー)) 
http://www.asyura2.com/12/genpatu29/msg/656.html
投稿者 赤かぶ 日時 2013 年 1 月 10 日 14:54:00: igsppGRN/E9PQ

http://blog.livedoor.jp/home_make-toaru/archives/6856502.html
2013年01月10日09:59 とある原発の溶融貫通(メルトスルー)

■捨て場所がないので川に
福島県内などで行われている除染作業で、汚染された土や枝葉、水などを日常的に、川などに不法投棄していた。除染作業を受注した元請けのゼネコンは「指示はしていない」と否定するが、現場作業員からは「不法投棄は日常的」とする声も聞こえる。

■汚染土、汚染水、枝葉も
福島第一原発事故により飛び散った放射性物質を除去するいわゆる「除染」は、大手ゼネコンが受注。その後、2次、3次の下請けに回す形で作業が行われている。
作業については、環境省が細かいガイドラインを定めている。建物を洗浄する際には、下にブルーシートを敷いて水を受け、たまった水はポンプでくみ取り、浄化装置で処理する。
枝葉はフレキシブルコンテナバッグと呼ばれる専門の袋に入れ、仮置き場で管理する。
はぎとった汚染土壌は、やはりバッグに入れて、市町村などの提供する仮置き場に置くことになっている。
ただ、現場ではこういったガイドラインは全く守られていない。毎日新聞の取材によると、そもそも仮置き場が不足しているため、日常茶飯事になっているという。
■大手ゼネコンは指示を否定
今回、汚染土壌を不法投棄したとされるのは、田村市、楢葉町、飯舘村で行われた除染作業。担当するのはそれぞれ、田村市が鹿島JV、楢葉町が前田建設工業、飯舘村は大日本土木。
それぞれの大手ゼネコンは、「不法投棄するよう指示していない」と回答しているが、常識的に考えれば、仮置き場が足りないことは知っていたはずだ。
どう対処するのか、指示、監督する責任を負うべきであり、下請けのせいにして逃げるのであれば、国と現場の間に入って「ピンハネ」している企業として、最低限の仕事すらする気はない、ということになる。
■除染はゼネコンのため
そもそも除染活動は意味がない。除染しても、時間経過とともに線量が戻ることは、各地で報告されている。セシウムなどの放射性物質は、風や雨にのり、常に移動しているためだ。
昨年10月、みんなの党の柿沢議員がウクライナを視察した際、当時の非常事態省副大臣、ボリス・プリステル氏が、チェルノブイリ事故の影響を説明。
同国では、事故直後から4年間にわたり、巨額の費用と軍隊を投入して、除染活動を行ったが、全く効果はみられなかった、と語り、日本は同じ間違いを犯すべきではない、とアドバイスしている。
除染はもっぱら、ゼネコンに血税を吸い上げられるだけで、何の効果も生まないことは明らかだ。さらに除染モデル事業を実質的に仕切ったのは、今回も問題となっている鹿島JVの他、大林組、大成建設の3社だ。
3社は原発建設受注でも、トップ3を占める。国内57基の原子炉建屋の受注実績は、鹿島24基、大林組11基、大成建設10基となる。
原発を作り、事故が起きれば、無意味な除染を受注。さらに手抜きまで行って利益を増大させる。原発ムラに連なるこういった企業にいかに対応するか、安倍新政権の手腕に注目したい。









(1月17日追記)「晴耕雨読」に同じ話題についての記事が出ていたので転載しておく。私も相田みつをは嫌いなのだが、その理由は、「何でも肯定的に見ることは、現状への批判心を眠らせ、世の悪を温存する結果になる」からである。「悪があったっていいさ。人間だもの」というわけである。これが世の権力者や支配層にとってどんなに都合のよい大衆心理であるか、気づかない人が(相田みつをファンはもちろんだが)案外多いのである。ついでに言えば、相田みつをのあの「下手ウマ字体」も「狙って作った素朴さ」という厭味と臭みがあって私は嫌いである。



(以下引用)


2013/1/16


「室井佑月氏 「手抜き除染」問題は「にんげんだもの」に似ている〈週刊朝日〉」  世界経済のゆくえ

室井佑月氏 「手抜き除染」問題は「にんげんだもの」に似ている〈週刊朝日〉 投稿者 赤かぶ 日時 2013 年 1 月 15 日 から転載します。

週刊朝日 2013年1月25日号

 作家の室井佑月氏は新年から「手抜き除染」の記事を読んで、「なぜか『相田みつを』さんの『にんげんだもの』という言葉を思い出している」という。

*  *  *

 1月4日、朝日新聞朝刊のトップ記事は、「東京電力福島第一原発周辺の除染作業で、取り除いた土や枝葉、洗浄に使った水の一部を現場周辺の川などに捨てる『手抜き除染』が横行していることが、朝日新聞の取材でわかった」というものだった。

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 作業員いわく、「計測地点周辺だけきれいにすればいいと指示された」だって。

 ってことは、汚染物質のたかが移動に、この国は6500億円もの金をつぎ込むのね。だったら、その金を地元の人々に直接渡したほうが良いんではないかとあたしは思う。

 どうせ国は国民に本当のことを教えてくれないし、どうせ国民の一人一人の命や健康なんてつまんないことだと考えているんだろうし(今回、計測地点だけきれいにしろって指示されていたってことからしてもわかるじゃん)、だったらできる限りの金を渡してくれて「自分で考えろ」っていってくれたほうが親切というものだ。

 相田みつをさんの「にんげんだもの」。どういう内容の詩だったか気になって、きちんと調べてみた。

――つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの くるしいことだってあるさ 人間だもの まようときだってあるさ 凡夫だもの あやまちだってあるよ おれだもの――

 なんかやっぱり、あたしはこのニュースにピッタリの詩だと思う。絶対に安全だっていってた原発で事故が起こった、にんげんだもの。事故の収束上手くいかない、人間だもの。放射能の被害が出たらどうしよう、凡夫だもの(超人じゃないって意味)。

 ただ、相田さんは、そんな弱くておろかな人間だけど、反省して前を向いて行こうと、詩の中で訴えかけている。この国の一部の指導者の心根とは、真逆。

「あやまちだってあるよ おれだもの」の次は「まあ、いいか。被害を受けるのおれじゃないもの。おれだけ良ければそれでいっか」。そんなもんなんだろ?


コメント


01. 2013年1月15日 19:09:40 : GCziX3ujBY
にんげんだものというより、無責任・いいかげん・どうでもいいが団子になった結果でしょ。

02. 2013年1月15日 19:15:53 : 90iotVfajo
効果のない”除染”なるものに使う金はこの日本にふんだんにあるということだ。

しかし生活者に回る金はないらしい。


03. 2013年1月15日 19:26:11 : Pj82T22SRI

>汚染物質のたかが移動に、この国は6500億円もの金をつぎ込む

除染とは、そもそも、「汚染物質のたかが移動」

どうせ時間が経てば自然放射線以下になるような無意味なことに人やモノを回すのは止め

必要不可欠なインフラ整備や、それに関連した失業訓練などを最優先に行う方が、余計なインフレも抑えられるので遥かによい


04. 2013年1月15日 19:26:22 : 0obSollhXY
いや。おれは最近、歳のせいで目がわるいものだから、「にんげんだもの」を「けだものだもの」と読み違えた。われながらはっとして、よくみると「にんげんだもの」だった。ほっとした。

――つまづいたっていいじゃないか けだものだもの くるしいことだってあるさ けだものだもの まようときだってあるさ けだものだもの あやまちだってあるよ おれはけだものだもの――

相田みつおって三流のパスカルみたいな短文を書くひとだけど、あれだね、銀行の支店長室なんかに飾ってるのをよくみるね。
けだものだもの。か。(ぷっ)



05. 2013年1月15日 19:40:25 : GCziX3ujBY
>>04

相田みつおを感性が好きな人と嫌いな人がいる。
私は嫌いで、皮膚の表面がムズムズする。気色が悪い。
支店長室とか、零細・中小企業の社長室とかによく飾ってありそうな相田みつを。
高速道路の土産物屋とか、道の駅で色紙を売ってそうな相田みつを。

この感性に感動しちゃう人って、俗っぽいのが好きな人だと思うよね。
昔、「一杯のかけそば」に感動して国会で紹介しちゃった議員がいたが
(たしか公明党のガハガハ・ゲハゲハしたオヤジ議員)、
そういう単純な粗い感性。


06. 2013年1月15日 19:41:31 : GCziX3ujBY
>>05 訂正

× 相田みつおを感性が好きな人と嫌いな人がいる。

○ 相田みつおの感性が好きな人と嫌いな人がいる。


07. 2013年1月15日 19:43:02 : w18f1GkoJs
「自己中」だものって言った方がいいかも。「俺は俺のために偉くなったのであって、国民なんか、ホントはどうでもいいんだよ」っていうような奴が多いようだ。

08. 2013年1月15日 20:57:06 : I0wUTwXRRk
問題は原発の安全性を力説する者が結局作業は下請け任せで直接作業には関わってないという事だ。
つまり彼らの安全性は天気予報レベルであるという事だ。
こんな体制で原発再稼動、無論原発増設などもっての他だ。
政府と東電は未だに原発の安全性に責任を取ってない!下請けに聞いてくれ状態なんだ。
事故が起きても隠蔽しかしないのにどう安全だと信じれるのか?ふざけないでくれ。
東電社長の、あの謝罪は何だったんだ?政府は事故後に一体何のどんな対応をした?
結局、何にもやってないじゃないか!経産省も東電も少しは真面目にやってくれよ!
被災地の農家を、作業員を、何だと思ってるんだ!これじゃ中国、北朝鮮云々を言えないだろ?同レベルですやん。

09. 2013年1月15日 21:53:45 : 0obSollhXY
高校の体罰問題もそうだ。
ハシシタあたりが体罰禁止なんていってるが、今回の高校生の自殺は体罰が問題なんじゃない。
体罰から逃れるにも逃れようが無いという日本の閉塞した社会のあり方が問題なのに、なぜかそれを問題にせず、体罰自体が原因のようにマスゴミがはやしたてる。
そうじゃないのだ。
体罰はたしかに悪いが、それよりも体罰をさけるような方向に進むにも世間の狭さゆえにどこにも逃げ場がなかったことが問題なのだ。
その意味では両親も、仲間も体罰以上の「悪」なんだ。
クラブ活動をやめる事ができないような空気。学校に訴えることもできないような空気。どこにもだれにも相談できない空気。このような現代日本の閉塞した空気が問題であるのにだれもそれに言及しないで、
むしろそれを隠蔽するために教師にすべての責任をおいかぶせる。
体罰なんかむかしからいくらでもあった。
自殺するまでに至るには体罰以上にそこから逃れることのできない世間全般のがんじがらめの空気にこそ問題があるのだ。

10. 2013年1月15日 22:02:55 : FMdMRKf5Fw
09〉さんに賛同します。
体罰・自殺問題に、まともな論評を初めて接しました。

11. 2013年1月15日 23:08:31 : RxJtylE7p6
10さん同様、09さんの意見に賛同。

12. 2013年1月15日 23:24:49 : RxJtylE7p6
それで、100万年殺人廃物の製造湯沸かし器ってのは、設計者の段階では、トラブルにはこうしてああしてと、その人の中では出来るだけ手を打った設計をする(した)つもりで出すんだそうだが、結局現場の作業には、あろうことか職人が入れずに、素人に近い現場作業員が、複雑怪奇な図面に対応できずに、とんでもない低レベルで作業するんだって、現場監督の方が経験談を語ってた。
移染作業でも、指示者と作業員が乖離してるし、そもそも建設の現場からしてそうだってんだから、あの殺人機械ってのはとことん性質の悪い厄介もんだ。

一つの暴力の権現にたいな存在だから、暴力団体よろしく巨額を動かしやがりますから、どうしても麻薬同様の中毒者が出現しちまう。いわゆる既得権益、利権って麻薬だ。移染にしても、原発ってやつにしても、その中毒症状から、この国の人間は解脱できない、したくないってんなら、残念ながら滅びが待つだけだ、我々は。

自分だけは得したい、他人を押しのけても、というのが大陸型の強欲だが、この国は、自分だけは損したくない、という強欲の国民性だ。だから、みな一斉に止める以外には世の中が変わりようがない。ほんの一部の人間は、自分が持っているものを失っても、子孫のため、他者のためならいいと考えるが、またそんな人々をあざ笑うから始末が悪い。せめて干渉しないでおればいいが、どっか己の内面で後ろめたいのは自覚があるせいだろう、揶揄し、罵詈雑言を浴びせずには落ち着いていられない(というのが工作員の適正というか、性分ということか)。

これだけゆがんだ国民が多数となれば、全ての人間は自滅以外の方向性しか持てない、これは真に悲劇だ。


13. 2013年1月15日 23:28:52 : MpRTrXYSR2
蕎麦屋のトイレではじめて相田みつおの色紙を見たとき、
「づ」にゴミがついていて「が」に見えた。

「つまがいたっていいじゃないか にんげんだもの…」
なかなか粋なことをいう人だなと思ったが、
その後、本物を知って気持悪くなった。

この蕎麦屋の主人はみつおのファンらしく、店内所狭しと彼の言葉が並んでいて、蕎麦を食いながら説教されている気分になるので、この店に行くのをやめた。
蕎麦は旨かったのに残念だ…。

相田みつおと金子みすずは反吐が出る。


14. 2013年1月16日 00:23:37 : 90iotVfajo
人間がけだものより倫理的に優れているということはない。

人間は人間同士殺しあう。それも組織的に大量に。ほかにそんなにばかなことをする種はない。

ナニに関しても普通の動物は普通発情期以外は発情しない。生殖に適した時だけ発情する。人間は男も女も年がら年中発情している。(これには人間の生長期間がやたらと長いということに適応したもの)

まるでけだもののようにという表現は大笑いである。


15. 2013年1月16日 05:06:06 : KZWsL1KpwQ
『流石は<平成の和泉式部・室井佑月様>、事態の本質をやんわりシャープに提示していますねぇ。』

<相田みつを氏>の色紙の言の端を比喩として持ち出すなんざぁ、お見事!としか言いようがない。
そもそも<相田みつを氏>は詩人でも書道家でも思想家でも無い、単なる<レタリング作家=書道の丸文字作家>でしかない…と私は思っている。
<相田みつを氏>の言の端は、言ってみれば、大昔の<武者小路実篤氏>の「仲良きことは美しき哉」「君は君 我は我なり されど仲良き」なーんて、訳のわかんない、体制温存・予定調和・ガス抜き文言と似たようなモノに過ぎないのである。

とは言え、<相田みつを氏>自身がそうした政治的な意図をもって活動していたかって問われれば、そうではないでしょう?と言わざるを得ない。
恐らく、<相田氏>は元来が‘僧侶=仏教家’であると思われるから、その道に沿って行動・表現したのであろう。が、それが<自己保身・既得権益族=広告媒体>の餌食になってしまったってことさ。

だから、<13~MpRTrXYSR2 様>が『相田みつをと金子みすずは反吐が出る。』と仰る根源は、芸術的創作者が“権力構造&広告媒体”に“身を売る”ことに対する「嫌悪感」にあるって私は思う。
創作者ご本人も版権継承者も、銭金の問題はさて置いて、よーく熟慮した方が今後の御身のためでっせ?


16. 2013年1月16日 07:26:35 : EYHTwT0u8w
私は震災直後の怒涛のような『ぽぽぽぽーん』もキライです。
でもうちの両親はほとんど民放を見ないので、震災後しばらくはずっとテレビをつけていたらしいのに『ぽぽぽぽーん』を知らないらしい。

事件後の周辺取材で犯人について、道で会ったら必ず挨拶してくれるいい人なのに、みたいな。
暴力教師は学校内外で挨拶しないのかな?殴られてもいいんだな?って許可とってる。ぽぽぽぽーん

一生かけたって使い切れないほど蓄財してもいいじゃないか、にんげんだもの。
そのためにどんな手使ってもいいじゃないか、にんげんだもの?












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2月15日午前10時には空を見上げよう

「in deep」から転載。
数日前の記事だが、2月15日まであとちょうどひと月なので、掲載するのにいいタイミングかもしれない。もてない青少年の中には、どうせなら2月14日が地球最後の日であればいいのに、と思っている奴もいるかもしれないが、そうはうまくいかない。人生最後の屈辱を味わった翌日に、人生最後の日が来るかもしれないわけだ。
まあ、地球にはぶつからないだろうと予測されているのだが、なにせ月よりも地球に近いところを通過するのである。そう計算どおりに行くかどうか。少なくとも静止衛星にぶつかり、その破片と共に地上落下、そしてその衛星破片や石片のどれかが、あなたの家にちょうど落っこちてきて、あなたにとってのこの世の終わりになるという、「ド※ー・ダー※」みたいな展開もありうるわけだ。
元記事には画像や図表も掲載されているので、興味のある方は元記事へどうぞ。

グリニッジ時で19時25分が最接近なら、日本時間なら9時間前の10時25分が、あなたの人生最後の時かもしれない。もちろん、静止衛星とはその前にぶつかるかもしれないから、その数時間前からカウントダウンしつつ空を見上げているのもいいだろう。晴れてさえいれば午前10時ごろの冬空は美しいはずだ。




(以下引用)


しかし、今回は別のニュースをご紹介します。

まだ少し先ですが、2月15日に地球から非常に近い場所を通過していく小さな小惑星のことを書きます。


なぜかというと、この小惑星のコースが「当初想定されていた距離よりどんどんと近くを通過する軌道となってきている」からです。







近年では最も地球の軌道圏内の近い場所を通過していく小惑星「2012 DA14」


2月15日に地球をかすめる小惑星は「2012 DA14」と名付けられたもので、地球に近い場所を通過することはもともとわかっていたものですが、問題は「そのコースが想定とズレてきている」ということのようです。

下の表は スペースウェザー のページ下段に日々更新されている「地球の近辺を通過する小惑星」の表です。NASA が軌道を把握しているものに関しては、すべて載せられます。




上で赤く囲んだ「2012 DA14」というのが今回書いている小惑星で、大きさは「約 58メートル」と、小惑星としてはかなり小さなものです。通過する距離は、上の表で「 0.09 LD 」と書かれてあるのが距離なんですが、この「 LD 」という単位は、月と地球との距離を「1」としたもので、月と地球の距離は約 38万 4000キロメートルですので、目安として、

1LD = 38万キロメートル

ということでよろしいかと思います。

なので、2月15日の「小惑星 2012 DA14」が通過していく距離はまあ、大体地球から3万キロメートルくらいのところを通過していくということになっていたのですが(これはこれで地球の地殻を通過する小惑星としては非常に近いです)、今朝の「ロシアの声」のニュースで下のようなものがあったのです。





40m級の小惑星DA14、2月15日に地球に接近
VOR 2012.01.12




2月15日に地球に接近する40m級の小惑星2012 DA14の軌道が以前考えられていたよりも遥かに地球に近いことが分かった。最新の研究結果によれば、当初予測より 800kmも地球に近い。

天文学者らによれば、この小惑星の軌道は地球の軌道と交差する。

この小惑星の直径はおよそ45m、重量はおよそ13万トン。万一この規模の天体が地球に落下した場合に発生するエネルギーはTNT火薬2.4メガトンに相当する。しかし現在のところ、計算によれば、地球への衝突の可能性はない。

小惑星2012DA14はグリニッチ時で2月15日19時25分、地球に最接近する。




ということで、刻々と軌道を変化させてきている 2014DA14 ですが、地球に直接影響のあるコースをとる可能性はないでしょうが、ただ、今の予想されるコースの時点で、すでに地球から打ち上げられている「静止衛星などの衛星」に影響を与える可能性が出てきているとはいえるようです。

ちなみに、そのあたりの宇宙空間には私などが想像していた以上に「地球から打ち上げられた物体」が多く、Wikipedia の地球周回軌道によりますと、下のようになっているようです。




地球周回軌道

地球周回軌道とは、月や人工衛星のように地球の周囲を周回する軌道である。

現在、約2,465個の人工衛星が地球の周囲を回っており、6,216個のスペースデブリがゴダード宇宙飛行センターによって監視されている。

またこれまで16,291個を越える物体が地球から打ち上げられ、地球の大気圏内で燃え尽きた。




そのことと、あとは2月15日の当日の予想軌道を示した図を載せた記事がガーディアン・エクスプレスというメディアにありましたので、ご紹介しておきます。

記事にある NASA の説明によると、これほど予測からのコースを変えてきているのは、「重力による軌道のパターンの変化」とのこと。なので、重力の影響次第では、さらにコースを変える可能性も排除できないと述べています。

ここからです。


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Asteroid 2012 DA14 will Flyby Us In Medium Earth Orbit: NASA
The Guardian Express 2013.01.07


NASA によると、小惑星「 2012 DA14」は、地球の軌道内を通過する


地球の近辺を通過する軌道を持つ小惑星 2012 AD14 は、2013年2月15日に地球に最も接近するが、 NASA の「地球近傍天体プログラム ( NEO ) 」によると、その小惑星の軌道から計算すると、地球の静止衛星などに影響を与える可能性があるという。

NASA は「この小惑星が地球に衝突するというような直接的な影響についての可能性はない」ことを明言したが、ただ、 重力による小惑星のコースのパターンのさらなる変化についての可能性は、排除できないという。

NASA によると、2月15日にはこの小惑星は地球から 約 33,000キロメートルの地点を通過するとしているが、地球から約 42,000キロメートルの上空には、地球の軌道を周回している静止衛星があり、赤道上空の約 35,000キロメートルにも静止衛星がある。

下図は NASA のジェット推進研究所のシミュレーションの当日の通過コースの予測。





地球上空 2,000キロメートルまでの低軌道(LEO) から、高度が22,236キロメートル以上の高軌道(HEO) の間には、数多くの地球から打ち上げられた物体がある。それらに影響がないとは言えない場所を小惑星は通過する。


この小惑星 2012 DA14 の直径はおよそ 45メートル、重量はおよそ 13万トン。万一この規模の天体が地球に落下した場合に発生するエネルギーは TNT 火薬 で2.4メガトンに相当する。

NASA によると、現在の計算では最大地球に近づいた場合で、地球の赤道上空の約 27,000キロメートルの位置まで接近する。


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(訳者注) 最初のほうに「ひとつひとつの記事を短めに」って書いておきながら、あまり短くはなってないですね。

どうも効率的に記事をまとめられないです。




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「カラマーゾフの兄弟」第一回はどうだったか

「ドラマ@見取り8段実0段」というブログから転載。
うまい批評である。文章に芸がある。
私の就寝時刻はだいたい夜の6時から7時ごろ、つまりほとんど日没と同時に寝るので、「深夜」11時台のこのドラマは視聴不可能だし、テレビに録画機能も無いのだが、こうしたブログを読むことで大体の内容を知ることができるから、実に結構な時代になったものである。実は「純と愛」の進展も、こうしたネット記事で知ることが多い。それで、何回か見落としても、ドラマの進行についていくことができるわけである。
下記記事で読むかぎり、これは成功したドラマになりそうな予感がする。
第一回の段階ではグルーシェンカもスメルジャコフも出てきていないようだが、どういう俳優がどういう演技をするか楽しみだ。そして、一番の不安材料であった父親(フョードルと言ったか?)役の吉田鋼太郎はなかなか素晴らしい演技であったようで、安心した。彼の演技(殺されても仕方のない奴を演じられるかどうか)如何によって、このドラマを見る側の生理的好悪の念が左右されるという重大な役であったので、まずは一安心である。
しかし、自分で見てもいないドラマについてこんなに熱心に書く自分も何だかなあ、と思わないでもない。(笑)



*もしかして長男の同棲相手の遠藤加奈子とやらがグルーシェンカ役か? 同棲ねえ。それだと、父親との関係はどうなるのだろうか。原作では、先に父親の愛人であったというのがおおっぴらに知られているからこそ、その女に目くら滅法に惚れこむ長男の狂気的情熱や父親への殺意が際立つのだが、はたしてこのドラマはどうなのか。同棲相手とは別に、「グルーシェンカ」がこれから登場するのだろうか。





(以下引用)



【カラマーゾフの兄弟】 第1話 初回感想 【 ドラマ@見取り八段・実0段 】この記事に含まれるタグ :
カラマーゾフの兄弟 市原隼人 斎藤工 林遣都 高梨臨 松下洸平 渡辺憲吉 安藤サクラ 吉田鋼太郎 芳賀優里亜

【カラマーゾフの兄弟】 第1話 初回感想
↑ 2013/01/13 (日) カテゴリー: 2013年「カラマーゾフの兄弟」
そのとき、お父さんへの殺意が芽生えたのではないんですか?


殺意?
んなもん、もっと前からだよ。

…でも殺しませんよ。
   だって親ですから。


カラマーゾフの兄弟 第1話

   
 
原作はドストエフスキーの長い長い長い小説である。
学生時代に読んだ記憶はあるけれども、内容はそれほどくっきり覚えてはいない。

しかし、キャストを見た時点で犯人が誰だかは解っちゃっているので、
ネタバレしないレビューを心掛けたいと思います。(原作通りなら…ね)

そう、原作通りなら…キャスティングの妙を感じる…。
え、理由は言えないけど。


原作は、もっともっと宗教臭い話だった気がする…。

何せ、原作の三男は修道僧だ。
それをドラマでは精神科の医学生にするのね、そうなのね。
宗教世界を取っ払って精神世界に話を持っていくのは、日本の現代のドラマとして
上手い改変の仕方だと思う。

しかし、父上のご遺体は思いっきりキリストだった。


ストーリーは、事件後の取調室から始まり、事件前へと遡る。

長男・満の借金申し出…いや、遺産の生前贈与申し出を機に父親から「家族会議」
として招集された3人の兄弟。

長男・満は、放蕩息子で定職に就かず遊び歩いているダメンズ。斎藤工さんの定番とも言える。
原作でも兄はこんな感じのしょーもないダメンズなので、ほぼ合ってる。

次男・勲は、堅物の弁護士。イッチーには珍しい堅い職業かな…。
しかし、スーツ姿は決まっていた。落ち着いた喋りもハマってる。
原作では、もう少し厭味ったらしい感じ。

三男・涼は、医学生で精神科医を目指している。
繊細で優しく清々しく…のイメージが林遣都くんにピッタリ。
先ほども書いたけれども、原作では修道僧である。

刑事は3兄弟の誰かが犯人だと決めて尋問していく。
冒頭では3人がそれぞれスパゲティ・カレー・オムライス…と、お子様っぽいメニューを
食べている。しかも、警察で。


それにしてもよく食べられますよね。お父さんが殺されたというのに。

腹減ってんだからしょうがねえだろ。

何があったって人間、食べないと生きていけませんから。

黒澤文蔵さんは息子からさえ愛されなかったということですか。
烏目町の有力者でありながら周囲の誰からも死ねばいいと恨まれていた。

…そのお父さんを殺したのは、あなたですか?


その「愛されるはずもない」ような人格の父親を演じている吉田鋼太郎が、とにかく凄いわ。

黒澤の酒好き、金好き、女好き。

と、作中でも言われていたけれども、最低オヤジである。

二言目には「俺の金」「俺の金で教育を受けさせてやった」「俺の金は渡さん」。

子どもの頃の回想シーンではDV親父だし、子どもにも妻にも愛情の欠片もないらしい。

その結果、満の母は男と駆け落ちし、勲と涼の母は自殺した。

この慈悲深く優しい母を安藤サクラが演じている。これは新境地では~。

なのに、父の言う事が酷いんだよねーー。


あのな、お前たちにもこの際はっきり言っとくぞ。
俺の遺産をもらえると思ったら大間違いだよ!

俺はな、お前たちに1円たりとも残すつもりはない。
あのバカ女どもの血を引いたお前たちに俺の金をやると思うとむしずが走るよ。

特にあのくそ女!詩織だよ。

俺の家を血で汚しやがって!

手首を切って死んだ母親の部屋は血まみれだった。
それを悲しむどころか家を汚したと言い切るクソ親父…。

殺されて当然!
みたいなこの役を、本当に憎々しく演じている吉田鋼太郎さん。凄い。


そのとき、お父さんへの殺意が芽生えたのではないんですか?
と、刑事は聞く。

殺意?
んなもん、もっと前からだよ。

目が座っている満。


そして、

…でも殺しませんよ。
だって親ですから。


と、静かに言い放つ勲。

微笑みをたたえたような目で。
でも、決して笑ってもいないし、怒ってもいない。

それが不気味。


ここからEDに入っていくのが、何かカッコ良かった。

演出、上手いなぁ…そして、みなさんの演技も素晴らしい。


今時「カラマーゾフの兄弟」やるって、「Wの悲劇」みたいになるんじゃね…。
と、不安に感じていたんだけど、重々しい映像と演出で安っぽくないドラマに仕上がった。

BGMの選曲も面白い。


もう、とにかくドロドロと真っ黒な内容でカラスもバサバサ飛んでたりしますが、
「カラマーゾフ」が「真っ黒」のような意味なので、黒くて当然なのです。
「Paint It, Black」だよね。


なかなか面白かったです。
今期もこの枠は期待できそう。


原作:「青空文庫」にもありますよん。もちろん無料→「青空文庫/カラマゾフの兄弟」

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黒澤家当主・黒澤文蔵(吉田鋼太郎)は、海沿いの町・烏目町一帯に多くの土地を持ち
“クロサワ"という会社名で不動産業と建設業を営んでいた。
町の経済は“クロサワ"中心に回っており、町内で文蔵に盾突く者はほとんどいなかったが、
文蔵のビジネスは利益最優先の自己中心的な取引ばかりで恨みを買うことも多く、文蔵は
“クロサワの酒好き、金好き、女好き…"と町中で揶揄されていた。

その文蔵には3人の息子がいた。
前妻・梓との間に生まれた長男・満(斎藤工)と、梓が文蔵に愛想を尽かして出ていった後に
結婚した詩織(安藤サクラ)との間に生まれた次男・勲(市原隼人)と三男・涼(林遣都)。
長男・満は失業中の身で借金も抱えていたが、遠藤加奈子(高梨臨)と同棲しながらヒモのような
生活をしていた。
次男・勲は東京の一流大学法学部、法科大学院を卒業後、司法試験にも一発で合格して東京の
法律事務所で働いていた。
三男・涼は医大生で、寮で暮らしながら精神科医の道を目指していた。

そんなある日、文蔵が自宅の寝室で殺されているのが発見される。
死体はなぜか奇妙な形をしていた…。
間もなくして3兄弟は“文蔵殺し"の容疑者として連行され、刑事(滝藤賢一)から取り調べを
受けることになる。
刑事は、3兄弟それぞれに父・文蔵を殺す動機があることをつかんでいた。

それは文蔵が殺される2週間ほど前、黒澤家で開催された家族会議が発端だった…。

(あらすじは「Yahoo!TV」より引用)


よろしければ→【2013年1月期・冬クールドラマ何見ます?】ラインナップ一覧とキャスト表と展望






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「体罰」問題の基礎考察 (1月16日追記)

私の一生の思想的課題は、「この世から悪を無くすことはできないか」という質問に答を出すことだが、おそらく世間の99.999……%の人は、それは不可能だ、と最初から決め込んでいると思う。だが、私はへそ曲がりだから、全世界の人がこの問題を考えていけば、いつかこの世から悪を消せ、「地上の天国」が実現する可能性はある、と能天気に考えている。(私の少年小説『天国の鍵』はそれを扱ったものなので、お暇ならどうぞ。)
もちろん、これは悪の定義をどうするか、どの程度までの悪なら認容するかという「放射能基準値」みたいな部分があり、福島原発以後は「放射能基準値」を引き上げれば放射能被害は「無い」ことになる、というずるい手もあるのだが、まあごく常識的な範囲で「悪は、理想的な法と理想的な行政と理想的な社会道徳によってこの世から消せる」という解答を何とかして出したいと思っているわけだ。

さて、「体罰」は「悪」だろうか。
もちろん悪だ、と言う人が多いとは思うが、「体罰は必要だ」という意見の持ち主もたくさんいる。いわば「必要悪」という考えだろうか。それとも、積極的に「体罰によって根性が鍛えられ、選手としてのその後の成功にも結びつくのだから、完全に善だ」という考えだろうか。案外、スポーツ関係者には後者の考えの人が多いような気がする。だからこそ、スポーツの世界は「体罰社会」のモデルみたいになっているわけだ。
まだ私自身、体罰の是非についての最終結論は出していないが、その考察のための材料として、二つほど引用をしておく。

桜宮高校の「体罰自殺事件」について、

「引用1」は「ライブドアニュース」の自由人という人の記事の一節。どちらかというと「体罰容認派」のようだが、今回の桜宮高校の場合は、体罰ではなく「いびり」だ、という意見である。こういうように分析的な意見には私などすぐに、なるほど、と感心する傾向があるのだが、「ちょっと待てよ」と考えてみると、体罰といびりは、現象は同じであり、この論法で体罰を容認したら、いびりをする側が「これはいびりではなく体罰だった」と主張したら、すべて無罪になるのではないか。(1月16日の追記参照。予感が当たったようだ。)
むしろこのような「言葉の付け替え」で悪を容認する手法こそが悪を存続させる一因ではないかと思うので、その点だけ留保すれば、言っている意見自体には私はほぼ賛成である。つまり、「物理的な力の行使」によってしか制御できない悪が社会には溢れている、ということだ。だからこそ警察という「暴力装置」が社会には必要なのだが、暴力とは制御されない力のことだから、「暴力装置」は言いすぎか。問題は、この「装置」が実際には使う側の恣意によって悪の擁護機関にもなっているという現実である。もともと警察や軍隊自体が「体罰社会」の縮図のような部分もあるし。
なお、この自由人氏の文章の中で「しごき」は事例が不適切である。「しごき」は運動能力向上の目的で度外れた訓練を課すことだから、「試合に遅刻した」ことを理由とするなら、それは「しごき」ではなく「体罰」だろう。しかし、「体罰」と「しごき」と「いびり」という区分けを提唱したのは、今後の議論に非常に有益である。
「引用2」は「BLOGOS」の猪野亨という人の記事の一節。体罰否定論者のようで、記事全体はよくある意見なので省略するが、最後のこの部分は「体罰」そのものよりも「体罰社会」が問題だ、という、問題の根本を見据えた意見なので転載した。





(引用1)

毎度思うことながら、現在の報道を観ていると、なにやら「体罰」という言葉だけが独り歩きしているように感じられる。今回の事件の場合、「体罰という言葉を使用するのはおかしい」という比較的冷静な意見も聞かれるものの、では何がおかしいのかということになると、「暴力だ」「虐待だ」と言う意見が多いようだ。
しかし、肉体への体罰を「暴力」だとし、それが生徒を自殺に追い込んだ原因であるから体罰を禁止しなければならないと言うのであれば、少しお門が違っている。
暴力には、暴力を伴わない「言葉の暴力」というものがある。もし、今回の事件が物理的な暴力を伴わずに「言葉の暴力」のみで自殺問題に発展していた場合は何と言うのだろうか?
この質問に対して「体罰だ」と言う人はおそらく誰もいないだろう。つまり、今回の問題は「体罰」ではなかったということになる。
では何と言うべきなのか?答えは「いびり」である。
既に多くの人が述べていることだが、そもそも論として、「体罰」というものは、何か悪いことをした生徒に対して罰を与える行為を意味するので、単に試合に負けたとか、能力が足りないといった理由で生徒に暴力を振るうことは「体罰」では有り得ない。なぜなら、生徒を殴ったり蹴ったりしても、その生徒の能力が向上するわけではないからだ。こういう因果関係を無視した暴力行為は特訓的な意味合いの「しごき」にも該当しない。
いじめを行ったという理由で、
「顔面を平手打ち(ビンタ)」・・・・体罰
試合に遅刻したという理由で、
「校庭を100周走らせる」・・・・しごき
能力が足りないという理由で、
「生徒を殴る・蹴る」・・・・肉体的いびり
「生徒を罵倒する」・・・・・精神的いびり
簡単にまとめると以上のようになると思うが、教師が生徒に対して、その行為を行うことによって、事態の改善に繋がることであれば、体罰やしごきを特に問題視する必要もない。鼻血が出るとか骨折するような体罰や、健康を害するとか死の危険が伴うようなしごきは問題だが、通常の体罰であれば、有っても構わない…と言うよりも、全く体罰が無い学校の方が危険だと言える。
例えば、生徒によるいじめ事件があれば、教師がいじめを行った生徒を平手打ち(ビンタ)することは仕方がない。それは必要悪というものである。
まずは言葉で注意すべきであることは言うまでもないが、言葉で言っても解らない人間には、暴力をもって教えるしかない。他人の痛みが解らない人間には、自らも痛みをもって解らせるしか方法がない。
正気を失った犯罪者を警官が暴力行為によって諌めるのと同様、他人を傷付けても心が痛まない異常者には正義の鉄槌が時には必要だ。学校には子供を叱るべき親がいないのだから、親に代わって教師が体罰を与える行為は事情によっては認めるべきだ。
まともな体罰までも禁止にすれば、元々、事勿れ主義で無法化している学校が更なる無法地帯と化し、野獣の如く野放し状態となったいじめっこは、ますます手が付けられなくなってしまい、いじめによる自殺問題は更にエスカレートすることになるはずだ。そんな地獄のような学校なら、存在自体が悪であり、もう必要無いということになってしまう。「体罰は絶対悪」と言っているような人は、学校の更なる地獄化を望んでいるとしか思えない。
家庭内でキッチリと子供の教育ができない不出来な親が「教師が生徒を殴ってはいけない」などと言う資格は無いし、教師がそんなクレーマーのような親の存在を許しておく必要もない。教師も生徒も言いたいことをハッキリと言える学校にすることこそが、今回のような問題を防ぐには最も重要なことである。
今回、自殺した生徒も、おそらくは多くのいじめ自殺者と同様、「逃げ場が無い」と思ったのだろうと思う。単に暴力が嫌だったのではなく、クラブのキャプテンという責任ある立場(または将来ある地位)にいながら、期待通りにいかない状況に不安を感じ、そこに教師からの体罰という名のいびりが重なり、自殺に追い込まれたのだろうと推察する。
実際はもっと複雑が事情が絡んでいるのかもしれないが、結局のところ、いじめ自殺問題同様、閉鎖された教育空間が齎した悲劇であることには違いはないだろう。


(引用2)


未だに根性論が蔓延っているスポーツ界。
学校現場で体罰禁止が一般的になる中で、まるで別世界です。
しかも、スポーツ界とは無縁の管理職や教員までもが黙って見ているだけという、いかにも日本的な風潮。
このような場合に、声を上げると必ず異端視されてしまうのですから、ただただ何事も起こらないように、あるいは問題が表面化しなよう、時だけが過ぎ去っていって欲しいと願う浅はかさ。
これは、もちろん体罰以外の組織内の違法行為についても言えることです。

今回の事件は体罰が問題なのはもちろんのこと、体罰という違法行為が蔓延していたのは何故か、体罰を擁護するような声が恥ずかしげもなく表明できるのは、どういうことなのかなど、検討すべきことは多々あります。

①体罰に限らず違法行為が蔓延し、しかも、それを指摘する声を、ことさら敵視し、かえってその声を押し潰そうとする社会のあり方そのものが問われているのではないか。

②体罰であろうと違法行為であろうと結果ばかりが求められはしていないか。そして、その結果さえ出せば、それに至った経緯などは不問に付されてしまってはいないか。

③そのような体罰という違法行為を擁護する声が大きくなりがちなのは、やはりその声にも同様に恫喝的な傾向があるのではないか。あるいは学校に限らず、職場、家庭などで暴力を容認する人たちが少なくないのではないか。








(1月16日追記) 「小田嶋隆ツィッター」から転載。私はもともとこの「ヤンキー先生」という奴は大嫌いだったんだが、その本性がここからも見えるようだ。だいたいが、この義家(元ヤンキーの元教師、現代議士)のように、自分の過去の悪事を「反省」してみせることで社会的に上昇できるという手段が社会的に許容されていることがおかしい。それなら、悪事は「したもの勝ち」ではないか。むしろ、過去の悪事が売名に利用されている。まあ、どの程度の「ヤンキー」だったかは知らないが。
バルザックの作品中の哲学的悪党ヴォートランの名言を借りれば、「美徳というものは切り売りできないんだぜ」、つまり、道徳的な意味では、一度なされた悪は取り返しはつかない、ということだ。法的な処罰とは別の話である。最初からそのつもりで生き、悪を遠ざけるのが世間一般のまともな人間というものだ。元ヤンキーであるだけで、すでに人間として終わっている、と見るのが当たり前の感覚だろう。
まあ、本人の人間としてのレベルの話はともかく、「体罰」と「暴力」を区別してみせることで結果的に体罰が温存されるという、この誤魔化しはよくよく注意する必要がある。
これもある種の「東大話法」「官僚話法」つまり、「詐欺的話法」として国民の間に周知徹底させることが必要だろう。




小田嶋 隆‏@tako_ashi

「体罰とは生徒へ懲戒として行われるものだが、今回は継続的に行われた暴力という認識を持つべきだ。物事を矮小(わいしょう)化して考えるべきではない」と言う義家文科政務官は、生徒を自殺に追いやった体罰を「体罰とは別の個人的な暴力」と定義することで、問題を矮小化している。




18時間小田嶋 隆‏@tako_ashi

文科省の政務官は「体罰は暴力」と言うべき立場であるはず。だが彼は「体罰と暴力の線引きをすべき」と言っている。つまり両者は別のものだと。なんだこいつ。→『義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示』』 http://bit.ly/104083n




18時間小田嶋 隆‏@tako_ashi

この人が強調しているのは「体罰≠暴力」ということ。体罰と暴力を切り分けることで体罰を擁護しています。→『義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示』 http://bit.ly/104083n







(1月17日追記) 「2ちゃんねる」から拾った記事だが、義家とは要するにこういう人物であるわけだ。
権力亡者のクズ人間だから、その自分の権力が無視されるとファビョる(発狂する、ヒステリーになる:もう死語か?)わけである。



(以下引用)


神奈川16区選出の自民党衆院議員で、
文部科学政務官の義家弘介氏が地元の神奈川県厚木市の成人式に出席した際、
比例復活した民主党議員より後に紹介されたため、
「民意を否定する話ではないか」などと同市に抗議していたことが16日、分かった。


義家氏の事務所によると、成人式は14日に開かれ、
国会議員は義家氏と民主党の後藤祐一氏の2人が出席。
司会者が後藤氏から紹介した。


義家氏の抗議を受け、厚木市は「担当課長が会場の司会者に指示を出さなかった。
二度とミスがないようにする」と回答したという。


選挙区内の伊勢原市などほかの自治体の成人式では義家氏が先に紹介されたという。
義家氏が成人式後に自身のフェイスブックで明らかにした。


義家氏の事務所は「与党議員で政務官に就いていることを重視してほしかった。
申し訳ないとの返事があったので、この問題は終わっている」と話した。


[2013年1月16日22時42分]
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20130116-1072880.html









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「カラマーゾフの兄弟」テレビドラマ化

おおっ、こいつは凄いぞ、と思ったが、夜の11時台では私は起きていられる時間帯じゃない。たぶん、見られないな。しかし、青少年の皆さんにはぜひ見てほしいし、原作もぜひ読んでほしい。あれほどの長編を読む「読書体力」は、年を取ると無くなるから、読むのは若いうちです。私は高校の図書館の本で、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」とトルストイの「戦争と平和」などは読んだが、あの読書の時間こそが人生最高の至福の時間であった。それにくらべると、現実の自分の人生なんて、何の輝きもない。それは当然の話でもあるのだ。現実人生には、何のドラマも無くて当然だし、その方がある意味では幸せでもある。ドラマらしいドラマとは、心を揺さぶる事件、つまり基本的には人間の不幸を前提としているのだから。ロミオとジュリエットも最初から周囲に理解されて結婚しました、ではドラマになるはずはない。
読書とは、現実人生よりも高次元の人生を我々の頭の中で体験させてくれるものである。
世界最高の作家の提供してくれる「驚異的な人生体験」が味わえるのに、それを知らないままで終わる人生なんて、私にとっては最悪の人生なのであり、ドストエフスキーとトルストイを読めるだけで、我々の平凡な人生は生きるに値する。
まあ、しかし、原作小説を読んで、読者各自が頭の中に創り出す世界とは違い、テレビドラマや映画は生身の俳優が演じるというだけで、もはやかなりな価値低下が起こるのは避けがたい。特に、日本を舞台にし、話も現代の話にアレンジするようだから、ほとんど「カラマーゾフの兄弟」の原案による二次創作ということになるし、二次創作がオリジナルのレベルに達することは、まず滅多に無い。オリジナルがハイレベルであればあるほど、二次創作は残念なレベルになるのは仕方のないことだ。
せめて、脚本や監督が才能のある人間であればいいな、と願うしかない。
虚淵玄あたりであれば、原作をうまくアレンジして別の傑作を作れるかもしれないが、脚本は誰が担当するのだろうか。
写真で見る限り、長男のミーチャ(ドミートリー)役らしい斉藤工は、なかなか下品さや情熱、野蛮な活力のありそうな感じの顔で、悪くはなさそうだ。次男のイヴァン役の市原隼人は、この顔でどの程度の哲学的知性と虚無性を演じられるか、不明。若い頃の仲代達矢なら文句なしだったのだが。三男アリョーシャ役の林遣人は天使的風貌かどうかは別として、まずまず端正な顔だちだから、これも悪くはなさそうだ。父親役にはもっと下品かつひねくれた風貌の役者が望ましいのだが、成否は吉田鋼太郎という役者の演技力如何だろう。昔なら、小沢栄太郎とか金子信男とか、こうした役柄にふさわしいバイプレーヤーがたくさんいたのだが、今の日本テレビ映画界の役者には不案内なので、誰がいいかは分からない。政界ならば、小悪党風貌の政治家は無数にいるのだが。(笑)
私が演技者なら、一番演じてみたいのは私生児スメルジャコフの役だが、卑屈さと高慢さ、鋭い知性と道徳的退廃を併せ持つ複雑な演技ができるのは、まあ松山ケンイチあたりだろうか。悪魔的雰囲気を持つ俳優はけっこういそうな気がするのだが。案外、お笑い界の人間は性格が悪そうだから、この役にぴったりなタレントも探せるかもしれない。
しかし、この作品のドラマの隠れたエンジンは父親と長男の二人に惚れられて、殺人事件のきっかけになるグルーシェンカという女性なのだが、妖婦性と純心さの二面性を表現できるレベルの女優は誰がいるのだろうか。記事では、グルーシェンカ役が不明であるし、スメルジャコフ役も不明である。
まあ、関西での放送があるかどうかも分からないのだが、ドストエフスキーファンとしては、詳細や先行きが知りたい話題である。


(以下引用)



注目ドラマ紹介:「カラマーゾフの兄弟」 ドストエフスキーの名作を市原隼人主演で映像化
2013年01月12日

連続ドラマ「カラマーゾフの兄弟」の会見に出席した(左から)斎藤工さん、市原隼人さん、林遣都さん、吉田鋼太郎さん
写真特集へ
 俳優の市原隼人さんが主演を務めるフジテレビ系連続ドラマ「カラマーゾフの兄弟10+件」が12日、スタートする。19世紀のロシア文学を代表する作家、フョードル・ドストエフスキーの最高傑作といわれる同名長編小説を、舞台を日本に置き換え映像化した作品で、同局のドラマ10+件枠「土ドラ」の第4弾となる。市原さんが同局の連ドラで主演するのは、04年の「WATER BOYS(ウォーターボーイズ)2」以来約9年ぶり。
 ドラマ10+件は、父殺しの容疑をかけられた3人の異母兄弟を中心に、不況、政治混迷、格差社会、教育問題、就職難、先の見えない若者たちといった現代が抱える影を描く。第1部では、事件の日に至るまでの兄弟一人一人の足跡をたどり、父への殺意の芽生えを幼少にまでさかのぼり浮かび上がらせる。第2部では事件当日を描き、第3部では取り調べから判決までの真相解明を描いていく3部構成の心理ミステリーとなっている。
 市原さんは、3兄弟の次男で、ストレートで司法試験に合格し、東京都内の法律事務所で働く若手弁護士の黒澤勲(くろさわ・いさお)を演じる。勲は理知的で理詰め、感傷を嫌うクールなニヒリスト。絶対的な支配力を持っている父に激しい嫌悪を抱いているという役どころ。また、失業中でヒモのような生活をしているいいかげんで夢見がちな性格の長男・満を斎藤工さん、医大4年生の三男・涼を林遣都さん、父親の黒澤文蔵を吉田鋼太郎さんが演じる。
 第1話は、ある海沿いの町で不動産業と建設業を営む黒澤家当主、黒澤文蔵がある日、自宅の寝室で奇妙な置き方をされて殺されているのが発見された。警察はそれぞれに殺す動機がある文蔵の息子たち、満、勲、涼の3兄弟に容疑者として任意同行を求め、取り調べる。警察がつかんだその動機とは、文蔵が殺される2週間ほど前に開催された黒澤家の家族会議が発端だった……というストーリー。
 ドラマ10+件は12日から毎週土曜午後11時10分放送。(毎日新聞デジタル)







(追記)


「カラマーゾフの兄弟」を読んでみたいが、その長大さに恐れをなしている人は、「徽宗皇帝のブログ」の「小説翻案」というカテゴリーに「カラマーゾフの兄弟」をわずか10ページ程度に圧縮した「業(カルマ)家の兄弟」というのがあります。もちろん、無茶な試みだが、そのエッセンスは味わえるかと思うので、お暇ならどうぞ。
(「酔生夢人=徽宗皇帝」より)







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体罰を容認する日本社会の狂気

「ライブドアニュース」に転載された秋原葉月の「BLOGOS」所載記事の一部である。特に注意したいのは、スポーツ部員や、そのOBによる体罰教師擁護や体罰容認論がなぜ存在するのか、という分析であり、これが自分のアイデンティティを守るための精神メカニズムから来ているという指摘は実に鋭いと思う。自らの過去を否定することは自分の存在価値を否定されることであり、それが耐え難いために、自らの過去の一部を形成していた体罰的指導までも容認するようになるわけだ。
そして、その体罰社会の根底にあるのが「絶対的上下関係」である。特に、スポーツ特待生などは、指導教師への反抗はほとんど自己の全存在を失う結果になるために、反抗は不可能である。指導教師への反抗によってチームから落伍した場合の家族からの非難、周囲の軽蔑を考えれば、精神的に不安定な年齢の青少年が自殺を選択することも当然ありうる。
当人が自殺を選んだことについて、「精神が弱すぎる」という批評をするのは、おそらく体罰容認派や体罰教師擁護派の人間だろう。また、「子供を支えてやれなかった家族に問題がある」という批評も同様の責任転嫁作戦である。こうした一見もっともらしい議論は、世間のB層にはなかなか有効なので、それが結果的にはこの体罰社会を延々と存続させているのである。
後で、元ジャイアンツの桑田による体罰全否定論を追加掲載する予定である。

もっとも、まだ「人間」になっていない幼児が危険な行為をした時に、お尻を叩いて教えるという程度の「体罰」は、これは絶対に必要であり、周囲に危害を与える青少年の不良行為には体罰どころか刑事罰が相当である。教師は、そうした不良行為が教室内で行われた場合には「体罰」よりも「教室からの退去」を命じるべきであり、それは即座にその生徒の親にも通告すべきである。そして、そうした行為が続くようなら退学にするのが当然であり、これによって「教室崩壊」は防止できる。それを社会的合意にすればいいのである。なお、「教室退去」については小田嶋隆の考えを参考にした。




(以下引用)






この事件に関するいくつかの報道を、末尾の[続きを読む]の中に記録しておきますので、よろしければ目をとおしてくださいませ。
顧問の教師は「気合を入れるため」に殴り、ほかの部員にも「発憤させるため」殴ったそうです。
悪いことしてないのに殴られるのが続いたら、心に傷を負って人格歪むのが普通です。
人倫に反する悪行をしたわけでもないのに、些細なことですぐに平手打ちが飛んでくるのが常態になってるって、ホントに70年前の日本軍を想起させます。
こんなのは断じて教育ではありません。「調教」といったほうがいいかも。

しかし、父兄や卒業生の中にも「厳しい指導で手が出るのは当たり前」と、軍隊式のしごき、根性主義を良いことだと肯定する風潮があるのですね。ある意味とても日本的だと思います。


高2自殺 厳しい意見の一方、擁護する声も
日本テレビ系(NNN) 1月10日(木)19時27分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20130110-00000049-nnn-soci

 先月、大阪市立桜宮高校バスケットボール部のキャプテンだった2年の男子生徒(17)が、顧問の男性教諭に体罰を受けた翌日に自殺した問題で、9日夜、保護者説明会が行われた。部活動での指導について、保護者から、疑問や要望など厳しい意見が次々と上がるなど、学校側の対応に不満の声が多くを占める中、擁護する声もあった。

 保護者「僕も卒業生。正直、僕らの頃はもっと厳しかった。先生だけの責任じゃなくて、親の責任だと思う。友達を作ることも大事ですし、そういう友達がいたら、手を差し伸べるように言ってやるのも親の役目。先生はこれからも大変だと思いますけど、頑張ってください。僕は応援します」

 学校側「謝罪するしかありません。今度こそしっかりとやっていきたいと思います」
「自分は理不尽な仕打ちに耐えた、もうこんな仕打ちはなくそう」ではなく「自分は理不尽な仕打ちに耐えた、だからおまえも耐えろ」というのは、日本の社会のありとあらゆる場面で見られる負の思考回路ですね。
それにしても、子どもを自死で失ったのに「親の責任」という言葉を出すのはちょっと酷くないでしょうか。
軍隊的しごき、暴力を肯定する人が被害者である遺族の親御さんを傷つけるような発言をするのは、軍事優先思考な人が沖縄で米兵に女性が暴行されても被害者の女性の方を責める傾向にあるのと共通しているな、と感じます。


「先生は間違っていない」“熱血”指導で全国大会常連校にした顧問 桜宮高2自殺http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130108-00000578-san-soci

桜宮高校の男子バスケットボール部顧問は、高校バスケ部の指導者として全国的に知られる存在で、16歳以下の男子日本代表チームのアシスタントコーチも務めていた。以前から体罰も含めた“熱血”指導で知られ、同部を全国大会の「常連校」に育てたという。
(略)
 顧問は平成6年4月から保健体育科教諭として勤務。学校での評判について、顧問を知る卒業生からは「先生がやってきたことは間違っていない」などと擁護する声も聞かれた。

 ある関係者は、顧問の指導方法について「いいチームをつくることで評価されているが、古いタイプ」と指摘。中高の運動部では「叱られ役」を意図的につくる場合があり、主将がその役になるケースが多いという。「強く叱ったとしてもフォローは絶対に必要。コーチもいたはずで主将がそこまで思い詰めていたことになぜ気付けなかったのか」と残念がった。
(引用ここまで)
全国大会の常連校にまで育て上げることこそ大事、そのためなら暴力だって許されるという教育を私は支持できません。(実際、体罰とチーム強化に因果関係があると思えませんし)
「叱られ役」を意図的につくる場合があり、主将がその役になる~こういう見せしめの生け贄を吊し上げるやりかたもチームが強くなるための必要悪だと納得してしまうようでは、残念ながら教育が失敗した事例だといえるでしょう。

生徒は部活を続けたかったら本当は全否定したい暴力の環境を受け入れざるを得ません。ですからそれをなんとか合理的に肯定しようとしてしまいます。
「先生がやってきたことは間違っていない」と教師を擁護する声が卒業生からあがるのは、そうやって自分が置かれていた環境を肯定しないと自分の三年間が否定されてしまいそうになるからだと思います。
で、その鬼のような先生がたまに優しかったりすると益々「ああ、ホントは良い先生なんだ」と先生を肯定する気持ちが強化されます。
これ、典型的なマインドコントロールですよね
そしてその肯定感をいだいたまま、何の疑問もなく暴力をふるう側に回る大人になる卒業生も出てくるでしょう。
こうして世代を超えて悪しき軍隊精神は伝統として継承されていきます。




中村 真美子@MAAMIK0


「先生は間違っていない」“熱血”指導で全国大会常連校にした顧問 桜宮高2自殺(産経新聞) - Y!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130108-… 暴力で支配された者たちは支配されてきたことを間違っていると否定出来ないのです。自己否定に繋がるので認めたくないのです。

2013年1月10日 返信
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ウサギ@nekotausagi


そう言わないと耐えた自分のアイデンティティが崩壊RT @KuroU_Usagi: そう言う卒業生と、現状の認識とのズレは何だろう?〓「先生は間違っていない」“熱血”指導で全国大会常連校にした顧問 桜宮高2自殺(産経新聞) - Y!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130108-…

2013年1月9日 返信
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学校は軍隊であってはなりません。自分の三年間を否定されるかも知れない苦痛と向かい合っても、間違っていると認める勇気を持つところから始めなくてはいけないと思います。
子供達個人個人の人格を尊重し民主的な教育をしなければならないはずのこの日本で、いまだに軍隊的スポ根的なしごきが横行する、そんな「悪しき伝統」はいりません。
以前、日本の企業は体育会出身の学生を好む傾向にあるけど、それは上からの命令に従順な傾向があるからだと書きました。
こんな悪しき伝統が生き延びているのも、日本の社会にニーズがあり、パワハラを許容する土壌があるからでしょう。
学校から体罰をなくすには私たち一人一人が、社会が古き悪しき価値観から脱皮する必要があると思います。
そして、もちろん先生一人一人も、子どもを独立した人格として尊重し、教育とは暴力と恐怖による支配ではないという民主的な価値観、教育観をしっかり学んで欲しいと思います。

ちなみに「このような悲劇を繰り返さないために、自分が学校から体罰を無くします!」とは絶対言わないんですよね、橋下市長は。
そりゃ、言わないでしょう、だって体罰の背景にあるものはまさしく「子どもは所詮、恐怖心でしかコントロールできない」「教育は20000%強制」という橋下氏の教育観なんですから。
軍隊しごき式経営のワタミ社長を教育アドバイザーに打診するようなパワハラ市長が条例でもって直接陣頭指揮をとれるようにしても、体罰問題の解決など絶対に無理なのです。


おまけ




ひまわり(^o^)@meimi0814


「君が代条例」なんて作る位なら、「体罰禁止条例」を作る方がまっとうだろうが!!憲法にも学校教育法にも合致している。

2013年1月10日 返信
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げに。







(引用2)




「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ

朝日新聞デジタル 1月11日(金)20時51分配信



体罰について語る桑田真澄さん=11日午後、東京都新宿区、越田省吾撮影


 【岡雄一郎】体罰問題について、元プロ野球投手の桑田真澄さん(44)が朝日新聞の取材に応じ、「体罰は不要」と訴えた。殴られた経験を踏まえ、「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と指摘した。








 私は中学まで毎日のように練習で殴られていました。小学3年で6年のチームに入り、中学では1年でエースだったので、上級生のやっかみもあったと思います。殴られるのが嫌で仕方なかったし、グラウンドに行きたくありませんでした。今でも思い出したくない記憶です。

 早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしました。

 体罰について尋ねると、「指導者から受けた」は中学で45%、高校で46%。「先輩から受けた」は中学36%、高校51%でした。「意外に少ないな」と思いました。

 ところが、アンケートでは「体罰は必要」「ときとして必要」との回答が83%にのぼりました。「あの指導のおかげで成功した」との思いからかもしれません。でも、肯定派の人に聞きたいのです。指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれない。それでもいいのか、と。

 私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。

 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。

 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。

 「練習中に水を飲むとバテる」と信じられていたので、私はPL学園時代、先輩たちに隠れて便器の水を飲み、渇きをしのいだことがあります。手洗い所の蛇口は針金で縛られていましたから。でも今、適度な水分補給は常識です。スポーツ医学も、道具も、戦術も進化し、指導者だけが立ち遅れていると感じます。

 体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれません。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせないでしょう。
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朝日新聞社








(追記) 以上を一言でまとめた名言を見つけたので、転載する。「笑点」なら「うまい、座布団一枚!」というところだ。これこそ伝統的スポーツ名門校の実態だろう。




殊能将之‏@m_shunou

殴られて指導された奴が殴って指導するんだよなあ






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