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今年後半の政治を占う

前の記事を書いて、少々憂鬱になったので、今年後半の日本の政治を易で占ってみた。
出た卦は「地火明夷」の初爻である。
朝日新聞社の文庫版「易経」によれば「夷」は「破れる」意味で、「明夷」は太陽が地面の下に隠れるように「明徳」が「破れる」というなかなか厳しい卦である。「艱難を自覚して苦しみつつ正道を守るときにのみ利益がある」というのは、小沢新党へのアドバイスにも見える。特に、「韜晦し、自らの考えを隠すのがよい」、というのは実践的アドバイスだ。
初爻は「世に容れられず、彷徨しても禄にありつけない。誰かに仕えようとしても、その君主は、お前の理想は現実に合わないといって、非難するであろう。もっとも、世の中が狂っているので、義としてその禄を食うべきではない」というもので、まるで小沢新党を頭に置いて書いたかのような出来過ぎの判詞だ。嘘でない証拠にその箇所を示す。(P47 5行目から7行目)である。
私が占ったのは日本の政治であり、べつに小沢新党には限定してはいなかったのだから、これは一つの解釈にすぎない。しかし、「国民の生活が第一」の議員諸君は、これから艱難に耐える覚悟は持っていたほうがいいだろう。
ついでに、初爻が変化した変爻は「地山謙」で、「初めは運が良くないが、最後には運が開ける」というものだから、心配はいらない。謙譲の徳を守れば、天地鬼神、人心のすべてが味方するだろう、というものだ。要するに、世の中のすべての人が味方になり、報われるということである。

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結局は国民個々の精神レベルですべては決まる

今日の記事は「劇薬」である。読む人に多大な不快感を与える可能性は高い。
というのは、今の日本の政治の唯一の希望である小沢一郎に対する否定的見解が引用記事の中にかなり含まれるからである。しかも、それを書いたのが「阿修羅」の重鎮、というより「阿修羅」を代表する論者である「あっしら」氏であるから、小沢、あっしら二人とも高く評価している私など、大げさに言えば、身を引き裂かれるような思いだ。
しかし、ここに書かれたことは事実に基づいており、その分析は正確だ。

小沢の「国民の生活が第一」に国民的支援をしていくのが現在の政治状況では唯一の理性的選択肢であると思われる今、こうした小沢の過去の負の側面を表に出すのは好ましくない行為になるとも考えられる。
しかし、事実は事実として冷静に思考材料の中に組み入れないと、取り返しのつかないミスにつながりかねない。下に引用する文章は、苦い薬だが、飲む価値はある。

要するに、小沢のヒーロー化はいいし、現在の小沢はそれにふさわしい存在になる可能性は十分にある。ただし、それは検察や官僚からの攻撃を受ける受難者という受け身のヒーローなのであって、彼が自分の政治姿勢を明らかにしたのは離党が決まってからである。それまでは、我々は、あれほどの攻撃を悪党どもから受けるからにはこちらが正義の存在に違いない、という単純な見方で小沢をヒーロー化して見ていたのではないだろうか。
あっしら氏の描く小沢の足跡は芳しいものではない。しかし、小沢はある時期から人間が変わり、本気で国民の生活を守るために立ち上がったと信じたい。
あっしら氏も現在の小沢を否定的に見ているわけではない。ただ、小沢への狂熱や狂信を危ぶんでいるのだろう。それは私も賛成する。小沢が「悪党」だろうが聖人だろうが関係ないのであり、問題は国民全体が冷静で賢明な判断ができるかどうかなのである。
あっしら氏は民主主義に否定的である。だが、正しい情報さえ与えられたなら、民衆は常に正しい判断を下すと私は信じている。3.11や原発事故によって、我欲の虚しさを知った日本人は、精神的に向上もしていると思う。総理官邸前デモに見られるように真剣に主体的に政治に参加する気運も生まれている。ネットによって正しい情報へのアクセスも可能になった。
つまり、民主主義は今こそ本当に機能する条件が生まれてきたのである。
そういう意味では、あっしら氏のペシミスティックな論調に反して、私は日本の未来に希望を持っている。


(以下「阿修羅」より引用)


 あっしらは歳だから思考力が鈍ったと見られてもいるようだが、その通りで、けっこう長い人生を歩んできた。
 子どもの頃から政治好きで、吉田茂、石橋湛山そして鳩山一郎の政治に関してはリアルでの評価はないが、岸信介政権からの日本政局(政治)史はリアルな感覚を伴ってあれこれ語れる。

 また、民主主義者ではないから、民主主義を信じる人々が、自らを困窮や過酷な生活条件に向かわせてしまう“投票行為”を繰り返す現実も、傍目八目ゆえに見えた。

 商店主や農民の投票行動を見ては、何度ダマされても懲りないもんだなあ、社会党や共産党が彼らの選択肢になりにくいのだからしかたがないけどと思っていた。社会党に政権を取らさなくとも、自民党をもっと牽制できる議席を与える意味はあるのにと。
 その一方で、彼らは、ただダマされているわけではなく、直観的に自民党(背後の官僚機構)に頼る“正しさ”を理解しているのだろうとも考えた。

 日米安保条約も、今より昔のほうが、日本を守るためというより、日本が世界に向け商売して経済成長を遂げるためと割り切った考えをしている人が多かったように思う。日米安保条約を認め、米国の意に従っているからこそ、対米輸出が順調に拡大でき経済成長を遂げることもできるという考えだ。

 民主主義的形式を否定するものではないが、民主主義的形式が多数派の願いを実現するために作用するという保証はまったくない。
 政治家に品行方正を求めはしないが、詐欺師は排除したいと思っている。あまり悪く言うのも問題だから、詐欺師と見紛うばかりのゴマカシと雄弁さで国民を裏切る政治家は退場いただきたいと思っている。
 消費税関連でも書いているが、グローバル企業を優遇することが国民多数派のためになると信じているのなら、正々堂々とその説明をして欲しい。財政危機や社会保障をダシに消費税を引き上げるという姑息な手法はおぞましい。

 これまで自民党に裏切られ、そして今回は民主党に裏切られて憤怒に駆られている人も多いと思うが、現状を見ていると、このような悲劇は、これからもたびたび演じられると思わざるをえない。むろん、今は知られていない政党によって裏切られるというケースもあるだろう。

 民主主義の怖さと民主主義の便利さをともに理解しているのが支配層である。

 有象無象とはいっても、選挙の投票については、支配層と同じ重さを持っている。
彼ら(被支配層)が選挙である方向に怒濤のように動けば、現在の支配構造が壊される可能性さえある。
 そうは言いつつも、彼らがそれほど政治や経済のことを考えているわけではないと思っているから、テレビや新聞、そして、所属する企業や組織をうまく動員すれば、ダマして望む方向に引っ張っていけるとも考えている。
 そうやって進めた政策が失敗しても、選択したのは国民(有権者)だと言える。

 何が言いたいかと言えば、政治の世界には仕掛けが溢れかえっているということである。

 今回の消費税増税政局でも、消費税増税に反対という政治勢力でスポットライトを浴びたのは小沢氏やそのグループである。

 しかし、少し考えればわかることだが、小沢Gは、消費税増税に反対でも、消費税に反対でもない。まずはマニフェストに反する政策ということで反対であり、14年と15年というタイミングでの消費税増税に反対なのであり、消費税増税の前にやることがあるという意味で反対なのである。
 みんなの党も、消費税増税や消費税にアプリオリに反対というわけではない。デフレ基調の日本で消費税税率を引き上げることに反対なのである。
 橋下維新の会も、消費税の全面的地方税化を主張しているのであって、消費税そのものに反対というわけではない。

 消費税導入の89年に実施された参議院選挙では、消費税廃止を掲げる当時の社会党が大勝し、参議院で消費税廃止法案が可決される事態にまで至った。
 この参議院選挙では、自民党の獲得議席36に対し社会党の獲得議席が45と大きく上回り、比例区の得票率も、社会党の35%に対し自民党は27%という低水準にまで落ち込んだ。(さすがに選挙区の平均得票率は自民党が上位)
 しかし、消費税廃止ムードが投票行動に大きくつながったのがこの選挙だけで、翌90年に実施された総選挙では、自民党が275議席と定数512の過半数を制した。

 これまた何を言いたいかといえば、小沢Gや鳩山Gそしてみんなの党などの支配層側にある政治勢力に反消費税増税の動きが見えなかったら、消費税増税反対の気分が高まっている国民の政治的受け皿は、はたしてどこになるのかという問題である。

 古い話になるが、連合軍の占領統治時代に「取引高税」が導入された。付加価値税ではなく、売上高を課税ベースに1%の税率をかけるというもので、納税は取引高税印紙を貼り消印することで行われた。

(※ 「取引高税」は、多段階(製造から小売まで)で仕入=前段階の控除がない売上税なので負担が重い税だと思われているが、5%の消費税(付加価値税)は、「(売上-仕入)/売上」の値が20%を超えていれば、税率1%の取引高税より負担が重いのである。多段階とか累積とはまったく無関係で、消費税率5%なら付加価値率20%が取引高税の1%に相当する。消費税率が10%になれば、付加価値率が10%で取引高税の1%に相当する実に重い直接税なのである)

 「取引高税」は、商店や中小企業主から怨嗟とともに大反対の声が上がり、49年の総選挙で「取引高税」廃止を掲げた共産党の議席が4から35へ飛躍的に増大した。
 そして、この選挙結果がトリガーとなり、「取引高税」は1年で廃止されることになる。

 より近い歴史で見れば、大平政権が79年に導入を決定した「一般消費税」である。これも、閣議決定まで至りながら、その年の総選挙の結果、導入が断念されるという経緯を持つ。総選挙では、自民党が過半数割れになる一方で、共産党・革新共同が17から41と議席を大きく増大させた。(41が共産党で最大の代議士数)

 原発問題にしても、福島第一原発の事故以前から脱原発を主張していた政治勢力は、社民党と共産党だけである。
 民主党は、二酸化炭素排出量抑制を盾に、鳩山首相時には電力供給における原発依存度を45%まで高める計画を立てていた。小沢氏もみんなの党の渡辺氏も、3.11までは反原発志向でなかったことは事実である。
 橋下氏も、得意の“つかみ”発言で反原発志向の国民を引きつけながら、再稼働問題では腰折れになった。
 別に、昔はああだったのに今は...と言いたいわけではない。

 ここであげたいわゆる保守的な政治勢力が軒並み原発維持派や原発推進派であれば、どういう政治勢力が大きな注目を浴びることになったか、少し考えただけでわかるだろう。

 原発と消費税、この二つが国民の主要関心事になれば、そのような国民の思いを受け止める政治勢力は社民党と共産党ということになりかねない状況だったのである。

 小沢氏や橋下氏が、自ら意識した上で、日本の統治構造を奇妙な役回りを演じることで支えようとしているのかどうかはわからない。
 わからないが、小沢氏は、そう見られても仕方がない政治的来歴を有している。

 小沢氏は、自民党時代から、「政権交代が可能な二大政党制」を根づかせるために小選挙区制をベースにした選挙制度改革を推し進めた。以前にも書いたが、小選挙区制が日本の今日的政治状況を生み出した元凶の一つだと考えているので、その意味で、小沢氏を政治的A級戦犯だと思っている。

 ちなみに私は、政党幹部の国会支配がより強くなり新陳代謝も行われにくい比例代表制にも反対(小選挙区制よりはましだと思っている)で、中選挙区制を支持している。

 小沢氏は、「政権交代が可能な二大政党制」と言いながら、細川政権の崩壊後に成立した羽田政権では、旧社会党に高い踏み絵を差し出す「院内会派改新騒動」を起こし、旧社会党を自民党にすり寄らせ自民党の早期政権復帰を“サポート”した。

 その後も、新進党の「分党(解党)」騒動、自由党時代の自民党小渕政権との連立劇と連立離脱劇など、「政権交代が可能な二大政党制」論者とは言い難い迷走を見せた。
 それまでの「政権交代が可能な二大政党制」論に反する路線を修正し、それをめざす動きを見せたのが民主党との合併である。

 しかし、それでこの問題をめぐるおかしな動きは打ち止めではなく、「政権交代が可能な二大政党制」の動きに戻ったかに思えた07年に、小沢氏は、民主党代表として自民党福田政権との大連立構想を進めた。
 現在と同じような衆議院と参議院のねじれが要因とは言え、大連立構想は、“政権交代しても代わり映えしない二大政党制”をめざすものでしかない。

 実現したい政策は別だが、大連立を受け容れた(模索した)小沢氏の手法に較べれば、現在の民主党執行部と自民党が行っている見かけは連立ではない“協力合意”のほうがまだましな姿だと言える。

 話は飛ぶが、イタリアでは、長らく政界を牛耳っていたベルルスコーニ前首相が、今は、ユーロからの離脱を唱えている。
 これも、イタリアの現状と今後の見通しを考えたとき、支配層にとって好ましからざる政治勢力が“ユーロ離脱”を掲げて勢力を増大する可能性があることから、それを抑止するための仕掛けと言えなくもない。


 このようにおかしなことを考えながらも、消費税増税阻止と脱原発の早期実現をめざす立場としては、社民党や共産党のみならず、今は同じ政策を掲げている「国民の生活が第一」党、みんなの党などにも期待を寄せている。
 むろん、ダマされることも承知の上である。

 有権者が、政党や政治家に入れ込むのではなく、政党や政治家を利用できるようなレベルにならなければ、日本の政治は変わらないと確信している。
 そして、哀しいことだが、そのようになるためには、何度もダマされる経験をし、その経験を活かしていくことが必要だとも思っている。


 

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金環蝕はずっと続いている

「日の当たらない邦画劇場」という面白い邦画サイトがあるが、その中から石川達三の原作を巨匠山本薩夫が映画化した政治ドラマ「金環蝕」を転載して紹介する。
この粗筋を読むだけで、「えっ、これって今の政治状況のドキュメンタリーじゃないの?」と思う人が多いだろう。
つまり、日本の政治の正体は、大昔から同じだし、大昔からそれが分かる人には分かっていたし、それをちゃんと伝えてもいた、ということである。
しかし、世間のほとんどの人は「あれは小説や映画だから」と思いこんで来たわけだ。
実は、新聞やテレビニュースよりも、こうしたフィクションにこそ真実は描かれてきた、というのが今になれば分かるだろう。
ちょうど今年は金環蝕もあったし、リバイバル上映か、せめてテレビ放映でもしてくれないだろうか。
しかし、石川達三は偉いなあ。山本薩夫も偉い。今はこういう硬骨漢が作り手の中に少なくなった気がする。特に若い連中は趣味の世界に溺れているようだ。



(以下引用)







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金環触

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■公開:1975年
■制作:大映
■監督:山本薩夫
■助監:
■脚本:田坂啓
■原作:石川達三
■撮影:小林節雄
■音楽:佐藤勝
■美術:
■主演:仲代達矢
■寸評:

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 原作本が存在する場合「映画を見る前に原作を読まない」のが筆者の主義。アレコレ想像して舞台も役者もできあがってしまうので、他人のキャスティングにはどうしても違和感を感じてしまい、フィルタがかかる。こういう「頭でっかち」映画にはなぜか新劇畑出身者が大活躍する。理屈っぽいのは映画畑には不向きということか?理屈っぽいのにうそ臭い、その両方を股にかけた仲代達矢ってやっぱスゲー。

 民政党の総裁選挙にからむ、公共工事の汚職事件とその裏で、欲にまみれた大人が時には下世話に、ときにはスマートに他人様のお金(税金)使い放題のバブリーな政治群像劇。

 民政党の総裁選挙、現職・久米明と最大派閥の神田隆は、実弾ビシバシつかって争ったが、官房長官・仲代達矢の貫禄勝ち(か?)で現職が勝利。ところがこの現職は総裁になったとたんに病気になってしまう。仲代は秘書・山本学を闇の金融王・宇野重吉のところへ借金させに行かせるがあっさり断られる。これは、ちびちび金を貸すよりは、業界紙の社長・高橋悦史を派遣して、公共工事の汚職事件の証拠をつかんでエリートどもに吠え面かかせようという宇野の執念。

 九州・福竜川ダム建設工事をお世話になっている土建屋へ血税まわして御礼をしたい電力会社の総裁・永井智雄は、それでもわりかし潔癖(相対評価で)な性質。部下の神山繁も権力大好きっ子なので永井を蹴落としたい。永井には神田隆がバックについたので総裁留任を勝ち取る。神山は仲代達矢に「首相をスキャンダルから守りたければ潔癖症の永井が総裁だとヤバイよ」と持ちかける。仲代は首相夫人・京マチ子の名前を使ってダム建設工事を永井のシンパから取上げ、ライバル会社へ持って行かせようとする。

 永井は京マチ子が「××会社をよろしく」と書いた証拠の名刺を高橋悦史に撮影させる。仲代達矢は業者へ手を回し、神田隆の一派に献金させて篭絡。巨額献金を約束した西村晃は指名を勝ち取り、永井智雄は莫大な退職金とバータで総裁を辞任。仲代達矢が嫌いである宇野重吉が山本学を買収、名刺写真のネガをゲットして揺さぶってくる。

 国会で代議士・三國連太郎に事件を追及されそうになった仲代達矢はエリートだけど卑怯な手口も暴力沙汰も全然平気なので、金と暴力ですべての証拠を隠滅、偉そうなことを言う割に権力に弱いマスコミを大いに活用して久米総裁を守りきる。

 金環触、外側はきらきらと光っているがその中味はドロドロ。国民不在どころの騒ぎじゃない。党利党略のためなら「なんでもする」それが政治の世界だと言い放つ公僕のみなさま、真実を書くのではなく書かれた事が事実になると言わんばかりのマスコミ、事件を摘発するフリをして真相を闇に葬る検察庁、そのパシリが警察庁、税金の二重払いは常識って感じの土建屋業界。

 なんてオッカナイ映画なんでしょうね、映画で良かったですねえ、、、って本当に映画の中だけの事なのかな?

 新聞がウソっぱちだと言う公知の事実はともかく、このオッカナイ映画のトドメは検事総長・加藤嘉の暗躍。そうだよな、コイツだって税金貰って仕事してるという点において代議士とは同業者なわけだ。犯罪捜査で大企業に乗り込む検察庁の職員、一見正義の使途だけど実はマジでヤバイ証拠が外へ出ないようにしているだけだとしたら?

 三権分立なんて学校の教科書だけの話だと、思っちゃうかも。

(1999年09月13日)

【追記】

2003年05月03日:加筆訂正

※本文中敬称略

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■日のあたらない邦画劇場■



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小沢橋下連合案消滅万歳!

本音を言えば、橋下という汚らわしい名前をタイプするのもうんざりである。あの詐欺師が詐欺師であることを自らの言動で証明し、彼の正体が世間に知れるようになってきたから、もう書かなくてもいいかな、とも思うのだが、彼の背後にいる黒幕(ユダ金)はそれほどたやすい存在ではないから、もうしばらくは書いていくしかないだろう。
橋下が自ら墓穴を掘ったかに見られる野田総理へのエールは単純な戦略ミスなのか、あるいはそろそろ正体を明らかにしても大丈夫だという判断なのか、どちらかは分からない。
まあ、9.11のような粗雑極まりない「自作自演テロ」でさえ今でも世間で通用しているくらいだから、橋下の市長就任という既成事実ができた以上、大衆に真実が分かっても大衆の力など大したことはない、と世界支配層は考えているのだろう。
野田にエールを送るということは、橋下は《消費税増税賛成、原発賛成、TPP賛成》、ということである。その三要件にノーを言っている小沢と橋下が組めるわけがない。この連合だけが私は心配だったのだが、橋下が正体を顕してくれたことで、実は安心した。
小沢は老練な政治家だから、理想は理想として、現実の政治手順はまず「政治は数である」という所から始めるだろう。とすれば、マスコミの寵児として大衆的人気(はっきり言えばB層人気だ)を作ってきた橋下との連携をしたいという気持ちもあったと思う。だから、小沢と橋下が手を組むというのが、私の最大の懸念、いや、悪夢だったのである。
これで小沢が橋下と手を組むなら、「国民の生活が第一」の党綱領と正反対の行動になるのであり、もはや私は小沢支持をやめるしかないだろう。そうならないことを祈る。

(以下引用)

2012年07月11日
本澤二郎の「日本の風景」(1096)
<正体をさらけ出した極右・大阪市長>

 あえて記述する価値もないが、橋下大阪市長の昨日の言動には驚いた。それをNHKまでが報道したものだから、その影響は少なくない。極右知事と連携して新党を立ち上げようとしている、との報道もある。既に自民党を離反した「立ち上がれ日本」という極右政党が、永田町に存在している。背後に宗教右派が付いている。石原にも宗教団体がテコ入れしているが、国政での成果は出ていない。ワシントン右派と橋下と一緒になって、隣国との対立抗争に輪をかけようと言うのか。



<野垂れ死・野田を絶賛>
 橋下の言動についての前大阪市長の平松の評価を思い出させる。「マスコミはただ発言を検証もせずに垂れ流しているだけ。それでいいのか」との指摘である。健全なジャーナリズム不在の日本を指摘している深刻な事態を、多くの市民はまだ十分に理解していない。
 騙される市民も悪いが、騙すほうはもっと悪い。メディアと政治家の2人3脚というと、その典型は中曽根とナベツネに見ることが出来る。同じことを橋下とマスコミが共演している。
 これまでは地方自治や役人の腐敗を取り上げて、真っ向から切り捨てた。快刀乱麻の橋下に感動した大阪の府民と市民だった。ことほど自らの自制・抑制に無頓着な地方自治体だった。しかも、経済が右上がりから、右下がり、財政が悪化する中で、こんなことが許されるわけがない。
 そこに橋下は切り込んで、見事に喝さいを浴びた。当たり前のことをしただけである。しかし、その後に、彼の正体が徐々に露わになってきた。「中立の教育」に介入し始めたのだ。石原との連携だ。教育委員会に、おかしな人物が入り込んできている。東京都や神奈川県・横浜市だけではない。埼玉県もそうだ。皇国史観論者がはびこり出している。それが松下政経塾首長の下で推進されていることが、いまや韓国のマスコミでも報道されている。
 政治的には小僧レベルの人気者を、石原はうまく取り込んでしまったのである。東京都・大阪都への構想も、いうなれば黒幕が誰なのかが判明しよう。

 橋下は、昨日とうとう自らの正体をさらけ出した。国民の怒りを買っている野田に、エールを送ったのだ。松下政経塾の軍門に下った大阪市長を、天下に公表したことになる。おわかりだろうか。
 野田沈没目前に手を差し伸べた、と本人は理解しているのだろうが、野田の悪政にいらだつ庶民が、素直に受け入れてくれるだろうか。存外、野田の後釜に座り、野田政策を継続させる、といいたいのだろうか。こんな小僧に大事な国政を任せるお人よしが、この日本にいるのだろうか。
<10%大増税・原発再稼働を評価>
 彼は10%大増税に決着をつけようとする野田に塩を送った。その結果、大量離党へと発展、本日小沢新党が旗揚げすることになっている。小沢と連携している鳩山は昨日、仲間との会合で「党を分断させた者が、国を統治出来るだろうか」と最大級の皮肉のボールを投げつけた。

 橋下は、毎週金曜日の夜に押しかける官邸包囲の平和市民の怒りのデモにも反撃したのである。原発再稼働にも評価してみせたのだから。悪政の実績に100点をくれたのだ。
 原発再稼働に反対して人気を上げた人物だ。いざという場面で方向転換した。そして、遂に野田の原発再稼働を絶賛したのである。君子豹変も際立つ。むろん、君子などではないが。
<TPP強行にも期待>
 野田悪政のもう一つのTPPにも「やれ」とハッパをかけた。
 日本社会にとてつもない悪影響が指摘されているTPPだ。日本のアメリカ化を推進する、という橋下である。これで彼の胸の内が読めた。彼の資金的裏付けのことでもある。
 原発再稼働・10%大増税・TPPの推進勢力は、いうまでもなく財閥と官閥とワシントン・CIAである。なんのことはない、野田も橋下・石原も同じ穴の狢なのだ。
<民意不在の橋下露呈>
 原発再稼働を期待している国民は少数派である。大半が強く反発している。10%消費税に感謝する国民などいないだろう。富裕層と役人だけであろう。
TPPを受け入れることに狂奔しているのは、愚かな官僚と財界人だけである。
 民意は、反原発・反増税・反TPPである。民意は官僚利権のための税制・予算の一大改革によって、大幅な歳出を削減することに期待を寄せている。つまり、バケツの穴を放置して、いくら水を入れてもすぐに漏れてしまう。バケツの穴を閉じよ、それが先決だと訴えている。
 そもそも、民主党はそのことを約束して政権を手にしたものだ。野田は奇代のペテン師・詐欺師なのである。それを絶賛する橋下も同様なのだ。
<発言は見せかけ・人気取り>
 橋下に信念があるだろうか。
 言えることは、庶民感覚でモノを言える。ただそれだけのことであろう。しかも、それは平松がいうように人気取りでしかない。その場限りの放言であろう。信念などひとかけらもない。
 だから簡単に悪に染まるという弱点を抱えている。彼を石原に結びつけた人物を知らないが、極右に取りつかれると言う弱点は、経験不足と周囲に良い人物がいなかったことだろう。「朱に交われば赤くなる」のである。多くの若者の弱点なのだが、本人が気付く時が来るのであろうか。
<黒幕は松下政経塾・元経済官僚>
 ある程度は、予想されてきたことである。というのも、戦前の歴史観に取りつかれている松下政経塾の元首長が、橋下の周囲を取り巻いている。橋下の教育行政への強い関与と無関係ではないはずだ。金と票のPANASONICに魅力を感じる無節操な政治家予備軍は、かなりいるであろう。
 橋下もそんな一人かもしれない。あるいは、松下幸之助との不思議な縁も潜んでいるのかもしれない。
 側近に元経済官僚がいる。財閥・官閥とは深い関係がある。彼も松下幸之助ファンだったのか。
 松下の政治的野望は、自ら70億円を用意して立ち上げた政経塾から、それは容易に推測される。持てる資金で多くの出版物を公表させて、見事に虚像を作り上げ、人々に信じ込ませることに成功した。
 いち早く中国に進出したが、同時並行して幸之助本を数多く翻訳出版させて、誤れる虚像を中国人に押し付けることにも成功した。莫大な広告費でマスコミの幸之助批判・政経塾批判を封じ込めてきた。
 いま本当の幸之助の野望が実現しているのである。この70億円は脱税資金と筆者に断言した元閣僚がいる。国税当局者は真実を語る責任があるだろう。
<ジャーナリストの罪>
 それにしても幸之助の真実を取材出来なかった日本人ジャーナリストについて、筆者を含めて反省するばかりである。
 広告費でもって、ただそれだけで報道しないメディアが、大手の新聞テレビというのも、悲劇である。金に屈するマスコミの日本でいいのであろうか。宇都宮徳馬は「国民に奉仕するジャーナリズム」を叫び続けていた。読売新聞が中曽根内閣に屈した時点で、彼の怒りは頂点に達した。
 彼は戦前の読売で、軍部に楯突く記事を書いていた勇気ある言論人だった。命を守るために仕方なくペンネームを用いたのだが。
 この平和な日本で、多くがペンネームを使っている。実名を出せないのだ。後ろめたいのか、それとも勇気がないのか。自信がないのか。そういえば、表札のないマンション住宅も目立つ。不思議な日本を、今後も続けるのか。
 ジャーナリズムが健全性を取り戻せば、怪しげな人物が地方自治や国政を壟断することなど出来ない。ジャーナリストの奮起を訴えるしかないのか。
2012年7月11日9時10分記

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再掲載「日本と世界の今年を占う」

あまりに早く目が覚めてしまったので、自分のブログの過去記事を読んでいたら、今年の正月に書いた「今年を占う」という記事があり、面白かったので再掲載する。
日本の「地天泰」の卦の通りに小人が追放され、大人が政治の主導権を握ることになれば最高である。これは現在の政治闘争で小沢グループが勝利することの予言だろうか。
そのまま転載するのも芸が無いので、補足追記しておく。
「地天泰」の5爻が変じた変爻は「水天需」で、「需」は「待つ」意味。前方に困難があるが、忍耐強く待てば好結果が得られる。吉。というものだ。これが「地天泰」の後に続く運勢である。つまり、来年は日本の本格的再生の初年度として、困難にもぶつかるが、大丈夫だ、ということである。


(以下自己引用)


日本と世界の今年を占う

私は趣味で易をやっているので、今年度(立春以降に変化は現われてくると思う)の日本と世界の運勢を占ってみた。で、出た卦に驚いたのだが、まさしく現在の世界情勢にぴったりな卦なのである。
最初に安心させておくが、日本の卦は素晴らしい卦であるから、日本人にとっては良い1年になりそうだ。(去年が最悪だから、今年は良くなって当然と思うだろうが、去年より悪化することだってありうるのだ。)だが、世界全体の卦は最悪に近い。

日本の卦は「地天泰」であり、安泰・安心の卦だ。

世界の卦は「山地剥」で、すべてが剥がれ落ちるという卦である。つまり剥奪される卦だ。

詳しく言うと、日本の卦は「地天泰」の五爻で、全体運は「小往き大来る。吉にして亨る。」というもの。日本を駄目にしていた小人物どもは去り、大人物が主導権を握る。吉であり、願いは通る、ということである。つまり、現民主党や官僚の中の泥棒的支配者どもが一掃され、信頼できる指導者(小沢一郎か?)が日本を導いてくれるだろう。五爻は婚姻の卦で吉の卦だが、国家に置き換えれば、日本にとって好ましい国際同盟や友好関係が結ばれるかもしれない。相手はロシアか中国ではないかと思われる。小沢一郎や鈴木宗男が政治の表舞台に復帰すれば、その可能性はある。世界情勢が最悪の中で、おそらく日本と少数の国だけ(南米の反アメリカ政府連合と中国、ロシアくらいか)がその災厄から免れるだろう。あるいは世界的大恐慌の中で、日本だけが安泰となるかもしれない。それには日本の指導者となる人間が毅然としてNWOの世界的侵略に立ち向かうことが必要になる。

世界全体の卦は「山地剥」の4爻で、全体運を簡単にまとめると「往くところあるによろしからず。小人長ずればなり」で、4爻は危険がその身辺近くに迫っている、という卦だ。おそらくIMFや世界銀行による世界収奪が大恐慌を引き起こすということだろう。「剝」は彼らによる富の収奪だろうと思われる。ロックフェラーやロスチャイルドその他の大金持ちたちが強盗のように庶民からなけなしの金を剥ぎとるわけだ。あるいは戦争などもあるかもしれない。
しかし、一方では「剝」は隠していたものが現れる意味もあるから、NWOの正体が世界的に知られることにもなるだろう。NWO対地球市民の全面戦争になるかもしれない。つまり「オキュパイ・ウォールストリート」の世界的運動化だ。マルクスの予言した資本家対プロレタリアートの階級闘争がはっきりと形になるわけだ。
「山地剥」の4爻が変ずれば「火地晋」となり、太陽が地上に出て、物事が好ましい方向に進んでいくような時代が到来することを暗示しているので、この「剥」はむしろ陰謀的な世界支配者の正体が世界全体の目に明らかになることを意味し、本年はその最後の戦いの年になるとも考えられる。もちろん、今年一杯はNWOが暴威を振るうが、その後は彼らの敗北になるわけである。
まあ、そううまく行くかどうか。楽しみに見ることにしよう。

というわけで、まあお遊びと思ってもらえばいいのだが、なかなか面白い卦ではないか。
易というのは、それ自体が予言を与えるというよりは「考えのヒント」になるというのがその一番の利点だと私は思っている。つまり、何も無いところから発想するのは困難だが、易の言葉を手掛かりにすることで考えを発展させることができる。そういう思考のマトリックス(分母・母胎、あるいは順列組み合わせの表)として利用できるのが易の面白さであり、有益なところである。


酔生夢人
2012-01-01 09:03
随想(ノンジャンル)
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地球幼年期の終わり

「内田樹の研究室」から一部転載。
ここで言われている「いじめることはよいことだ」というイデオロギーが、新自由主義的思想であること、競争を社会の原動力とする資本主義の帰結であることは言うまでもないだろう。何度も言うが、「自由主義」とは「(勝つためには)何をやってもいい」というとんでもない思想なのである。
「自由」という美しい言葉に誤魔化されて、それを無条件に良いものと信じている阿呆が世界にはゴマンといる。特にアメリカ人の好きな言葉だが、そのアメリカが今や世界でもっとも悲惨でもっとも自由の欠如した国の一つなのである。アメリカの真似をし続けてきた日本が、橋下らの新自由主義者によってその最悪のイミテーションになる日は、このままだと遠くはないだろう。だから私はずっと前から橋下を、そしてその前は前原を自分のブログで批判し続けてきたのである。
もちろん、競争の無い人間社会は無い。競争は能力を向上させるという事も認めよう。だが、この社会の競争は、人間を疲弊させ、圧殺している。その結果がいじめ社会である、という内田樹の認識に私も賛成する。
いや、内田は競争という言葉は使ってはいないのだが、生産性の評価とは、評価される側を競争させ、その結果を評価するということである。
私がスポーツやスポーツマンが嫌いなのは、彼らがほとんど無意識に持っている勝利至上主義、つまり競争の全肯定という体質が嫌いなのである。会社というものが体育会系の社員を好んで採用するのは「競争と評価」ということを無批判に、むしろ好んで受け入れる彼らの体質が、会社の利益を向上させるからにほかならない。
利益を上げるのが会社の目的であり、存在意義なのだから、それを批判するのはおかしい、と言われるだろう。批判ではない。ただの嫌悪感の表明、つまり感想だ。
自分の利益のために他人を打ち負かすというのは会社もスポーツも同じなのである。敗者に同情し、相手を悲しませるくらいなら、自分が負けよう、という人間にスポーツができないのと同様、他の会社が可哀相だから自分の会社の利益はほどほどにしよう、などという会社は生き残れない。(これはもちろん一般論で、例外はある)
それを批判しているのではない。ただ、会社やスポーツの持つ「自分の勝利のために他人を敗北させる」という当たり前の事実を、もっと見つめた方がいい、ということだ。
センチメンタル? まあ、そうだ。動物だって弱肉強食なんだから、競争して他人を滅ぼし、その死体の山の上に自分の快適な生活を打ち建てるのは当然だ、と思うのもいいだろう。その結果が福島原発事故であろうと、自分の子や孫から奇形児が無数に生まれようと、「俺が一杯の紅茶を飲むためなら、世界が滅んだってかまうものか」と思うのもいい。
だが、人間の文明は、実はそんな動物的闘争などしなくても、世界全体が楽に暮らしていけるだけの段階に達しているはずだ。壺の中に閉じ込められた虫がお互いを食い合うような、そんな社会には、本当はみんなうんざりしているはずだ。
「アセンション(次元上昇)」などというスピリチュアルな言葉は嫌いだ、という人もいるだろうが、我々人類は、動物的闘争の段階を終わる段階に来ているはずである。
それが「地球幼年期の終わり」である。
(追記)
わざわざ書くまでもないことだが、私は「向上心」を否定する者ではない。今の自分自身を乗り越えるためには他者との競争など本当は不要だが、他者との競争は目に見える形の結果がすぐに出るから、それを励みにするのもいい。要するに勝敗の絶対視や「評価システム」の不当性を見つめ直そう、ということだ。言いかえれば、社会全体のこの精神病(勝利至上主義と格付け思想)を何とかしないと、日本人はどんどん不幸になるよ、と言いたいだけだ。



(以下引用)



「いじめ」は個人の邪悪さや暴力性だけに起因するのではありません。それも大きな原因ですが、それ以上に、「いじめることはよいことだ」というイデオロギーがすでに学校に入り込んでいるから起きているのです。

生産性の低い個人に「無能」の烙印を押して、排除すること。そのように冷遇されることは「自己責任だ」というのは、現在の日本の組織の雇用においてはすでに常態です。

「生産性の低いもの、採算のとれない部門のもの」はそれにふさわしい「処罰」を受けるべきだということを政治家もビジネスマンも公言している。

そういう社会環境の中で、「いじめ」は発生し、増殖しています。

教委が今回の「いじめ」を必死で隠蔽しようとしたのは、彼らもまた「業務を適切に履行していない」がゆえに、処罰の対象となり、メディアや政治家からの「いじめ」のターゲットになることを恐れたからです。失態のあったものは「いじめ」を受けて当然だと信じていたからこそ、教委は「いじめ」を隠蔽した。自分たちが「いじめ」の標的になることを恐れたからです。でも、隠蔽できなかった。

ですから、これからあと、メディアと政治家と市民たちから、大津市の教員たちと教委は集中攻撃を受けることでしょう。でも、そのような「できのわるいもの」に対する節度を欠いた他罰的なふるまいそのものが子供たちの「いじめマインド」を強化していることにはもうすこし不安を抱くべきでしょう。

私はだから学校や教委を免罪せよと言っているわけではありません。責任は追及されなければならない。でも、その責任追及が峻厳であればあるほど、仕事ができない人間は罰を受けて当然だという気分が横溢するほど、学校はますます暴力的で攻撃的な場になり、子供たちを市民的成熟に導くという本来の目的からますます逸脱してゆくだろうという陰鬱な見通しを語っているだけです。

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男子サッカーと女子サッカーの待遇

「海を往く者」というブログから転載。
実に気持ちのいい啖呵である。
私は常々、オリンピックに出場する選手よりも役員やら委員やら関係者の数の方が多く、また待遇も多分いいのだろう、ということに違和感を感じていた。役人の天下りにも似た存在が、スポーツの世界の委員とか役員という連中ではないか。
男女差別の件で言えば、「2ちゃんねる」などには、なでしこjapanを嘲笑して高校生男子にも負けるレベルのサッカーじゃないか、などと揶揄する者がいるが、そうした「男尊女卑」思想が今だに世間では横行しているのである。下記記事にも書いてあるように、世界のベスト50にも入れないような男子サッカー代表になぜ好待遇をし、世界一の実績のあるなでしこがなぜエコノミーに乗らないとならないのか。
まあ、実は私はこのブログによってそういう事実があったと知っただけなので、それが本当かどうかは分からないが、それが本当なら、実に失礼かつ傲慢な処置である。
もっとも、今ではオリンピックすらほとんど見ない人間がこんな話題に口を出すのはおかしいのだが、世の不正義や不公正はすべて私の興味の対象であり、批判の対象なのである。


(以下引用)




男女の待遇格差に物申す

<< 作成日時 : 2012/07/10 00:18 >>

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 JFA幹部は揃いも揃って馬鹿の集まりか。


 なでしこをビジネスクラスに出来ないなら出来ないで、せめて別の便にした方が両方にとっての配慮なんじゃないか?なでしこだって内心はエコノミーよりはビジネスで移動出来たらとは思っているだろうし、事実上参加だけしに来た男子が、世界一の女性たちを差し置いて、メダル候補の女子からビジネスクラスを奪ったなどと紳士の国人たちに見られたら男子の肩身がより狭くなるだけだろう。そもそも直接大会に行くわけではないのだし、結果を残していない輩と「世界王者」という結果を残しているいわば女子A代表と同列で考える事自体が不自然なことだ。国際大会で何一つ結果を残していない若手はエコノミーで十分。それが現実だ。 だいたいなでしこが「譲る」という表現をされている時点で、どちらが高待遇にふさわしいと思われているかは言わずもがなだけど。もっといえば国を代表してオリンピックに出場するのだから日本政府が政府専用機を用意すべきである。
 
 男子ってこうやってちやほやされた環境で甘やかされて育ったから、誰とは言わないけどパス受けたら自分で決めに行かないと気が済まなかったり(キープの実力があるなら突っ込んでもいいけど、たいてい囲まれてファウルも貰えずにボールを奪われるだけ)、DFが馬鹿正直に真正面でFWの突破を待っていたらスルッと抜かされて足止めもできなかったりするんじゃないのか。なでしこは今まで期待もされず待遇も悪く、それこそ雑草魂でここまで上り詰めたのだ。未だにプロ契約すらもままならず、働きながらプレーしているのだ。少しは功績を見てやってほしい。クラブチームならともかくサッカー協会は会員からの登録料の収入もあるので、世界王者に好待遇を!という意見がファンの総意ならそうするのに何の問題もない。「競技関係者」や「協会関係者」はエコノミーどころか貨物室で十分だ。どの席に座っても、男子はロンドンでひどい目に遭うのは間違いない。

  ・・・「レディー・ファースト」という言葉を知っているかね?ジェントルマン諸君。

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