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庶民の間に金が無くて景気が良くなるわけがない

「崖っぷち社長」のツィートまとめが「新自由主義推進論者」のよく使う詭弁を小気味よく粉砕しているので、転載しておく。
誰かが、細部の論点を箇条書きにまとめてくれると非常に助かるのだが、それなら暇なお前がやれ、と言われそうだ。あいにく、そういう官僚的事務処理能力、文章要約能力は、私は持ち合わせていない。
こういう要約を誰かがしておけば、今後、馬鹿な新自由主義者との論争が楽になるのだけどね。
とは言っても、私は現実生活ではまったく論争能力が無い。頭の回転が非常に鈍いのである。相手の言葉を理解しようと考えている間に、話は何歩も先に進んでいるから、論争などできるわけがない。だから社会生活ではまったく無能力なのである。この世は「人前でいかに自己表現できるか」でほとんどが決まるのだから。まあ、それも結局は意志と自己訓練の問題だが。
ついでに言うと、苫米地英人は相手の話を聞いている段階ですでに自分の言うべきことを同時に考えていると言う。つまり「二重思考」である。訓練や慣れ次第でそういう技術も可能になるようだから、これから世に出ようという若い人は身につけるのもいいかもしれない。いや、多少の二重思考は誰でもやってはいるのである。相手の言葉を検討しながら聞くことが既に二重思考なのだ。(相手が喋っている間に、それを聞かないで自分の言うことだけを考えているとかいう、女性の議論とは話が別だよ。いや、これは私の考えではなく、さる女性が言っていたことだ)ただ、苫米地英人の場合は、相手の議論に対する反駁を最低でも三点、相手の言葉を聞いている間に準備するというから凄い。橋下と討論させても簡単に勝てるのは彼くらいではないだろうか。頭の良さも教養も段違いだし。ただし、少々、山師的な風貌もあるけどね。それに政治家というつまらない商売は彼にはデメリットの方が大きいだろう。あまりに自分の時間を取られ過ぎるはずだ。
今日は、引用文の内容解説はほとんどやらないが、読めば崖っぷち社長の明晰な頭脳の影響で、読む人の頭も少しよくなるはずである。(一言だけ言えば、「今の社会の不幸も悲惨もすべて配分の誤り、つまり政治の過ちが原因である」ということだ。)
まったく、こういう人間こそが真の経済学者なのである。
ついでに言えば、政治の土台は経済なのだから、彼は一流の政治家にもなれるだろう。度胸もありそうだし、弁も立ちそうだしね。


(以下引用)

共産主義がダメだと言われたときも「共産主義が中途半端」という話がありましたな。同じことなんでしょうな。 @KKnagomi 「本当の新自由主義じゃないからだ」「新自由主義が中途半端だからだ」って理屈なのかな。昔似たような話が散々あったけども
08-23 00:01
@KKnagomi さんのツイート、いつも参考にさせてもらってるけど、今日の一連の流れがすごいw ちょっとまとめてリツイートさせてもらおう。
08-23 00:02
まだ続きそうだけど、とりあえずいいや。新自由主義者がこういう詭弁を並べて、議論で勝った負けたやってるけど、ぶっちゃけそんなもんはどうでもいい。おいらの立場からすれば、そんな新自由主義的な世界はいやだし、お断りだ、のひと言で終了。それをバラ色のように抜かすのは自由だが所詮は主観。
08-23 00:11
そもそも、既得権益がどうこうって話があるが、憲法に書いてある生存権なんてのも、我々国民が本来なら主張すべき既得権のひとつ。新自由主義的な世の中が進んでなにが起こったって、そんな人間個人個人の既得権すらも捨て去られるようないまの状態だ。そんなもんをおいらは支持も歓迎もしない。
08-23 00:16
ああいう連中が好きなのは、もっともらしいことを抜かして、それが正道であるかのような流れにもっていくこと。おいらから言わせてもらえば、イヤなものはイヤでいい。それのなにが悪い。なにゆえ、自分の得にも利益にもならないものを詭弁で選択しなきゃならんのかって話だろ。
08-23 00:23
もっと主観的に、自分の欲求を主張していいんだよ。あいつらもまた、そんな自分たちの欲望をうまいこと隠して「公益」のように主張してるだけだ。理屈も理由ももっともらしいことも一切不要。イヤなものはイヤだと言っていい。ダメなものはダメだと拒否すればいいだけのことだ。
08-23 00:30
そもそも、新自由主義ってのは、かつての共産主義の亜種で、形を変えた全体主義でしかない。トップがレーニンなのか、ゴールドマン・サックスなのかって程度の違いだ。そのどちらも裏にいる連中はまったく同じ。連中が否定的に持ち出す「ソ連」は、まさにその未来の姿なのだ。
08-23 00:37
寝ようと思ったらこっちにも飛び火かw 99%以上の、資本力に対抗できる手段のない、選択肢すらあるようでない、奴隷化された人になんの自由があると? @mzw_neo それが出来るのも自由が故でしょうね @KKnagomi
08-23 01:22
べつに諦めちゃおらん。現実に、ある程度の新自由主義的な方針が進んだこの日本には、選択肢のない人たちが量産されてるではないか。それをさらに強めようってことだろ。 @mzw_neo 選択肢が(あるようで)無いと諦めるのは何故?
08-23 01:34
1%の人間が握ったら、それは既得権者の固定化にならんのか。選択肢作るには、経済的な足元揃えることが必要なんだよ。それを前提に自由ということならまだ理解できなくはない。景気は、単に日本はゼニのまわりが足らんだけ。給料が上がらない雇用自由化のほうがよほど問題。 @mzw_neo
08-23 01:46

なんとなく、わざと言ってんじゃないかって気がしてくるよね。 @KKnagomi 本気で言ってるのか?冗談なのか?
08-23 01:52
そもそも1%を目指してる人ばかりではないし、1%を目指さなきゃならない理由がない。なぜ1%にこだわる? 実現性はともかく、100%の安定的生活を目指し、その上で上を目指す人間が出てくることはべつに構わんと思うがね。 @mzw_neo 1%が入れ代わる流動性が大事
08-23 01:58
難しいことを言わんでくれw 経済という支配の構造に対抗するには、経済的な安定した立場ってのが必要だって考え方だ。 @mzw_neo それはマクロ経済環境の調整ですね
08-23 02:00
僕も寝てもいいですか?w @KKnagomi そろそろ寝ることにしますw おやすみなさい。
08-23 02:00
アルバイトの給料が上がるとなんになるわけ? その裏で安定的な雇用が大量に失われてるんだけどさ。だから詭弁だって言われるんだよ。多くの人にメリットがあると説得できれば、新自由主義を支持してくれるかもよ。僕はごめんだが。 @mzw_neo
08-23 02:03
そんなわけだから、明日以降にしましょうやw @KKnagomi かわりによろしく…というのは酷ですね。寝ようとしてたのにw @mzw_neo
08-23 02:04
らじゃw 実はまだ試してなかったりしてw @egroegsuoiruc スっぱいライム味らしいです。おやじギャグw とりあえず休んで下さい。 http://t.co/N2yUWZQN
08-23 02:04
了解w でもって、おやすみw @KKnagomi @mzw_neo いや、今日ここまででw
08-23 02:05
終わりにしようってのにw そもそも1%に富が集まったら、必然的にデフレに流れていくんだが。いま中国やアメリカでなにが起きてるかわかってる? 安定なんていらないっていうが、僕は安定こそが最優先と思ってんで、平行線じゃない? @mzw_neo
08-23 02:12
なんでパートで生活しなきゃならんのよ? 少なくとも僕はごめんだ。企業の将来不安は心配するのに、人間の将来不安はどうでもいいわけ? 人それぞれ考え方が違うのはしょうがないし理解するが、たぶん我々話してても平行線だぞ? 寝ようやw @mzw_neo
08-23 02:14
おはよw 起きたら、昨日の人からの「宿題」が山のように入っててビックリしたぜ。先に言っておくが、マジメに答えるのもこれで最後だぞ。そもそも、いったいなんのために新自由主義路線、市場原理主義路線を推進したいのかわからん。逆効果を狙ってわざとやってる気がしなくもないくらい。
08-23 06:01
ご自身で答え言ってるじゃないですか。1%に富が集まってどうやって需要ができるんですか? いまの日本で起こってるように、資本家と金融機関以外でカネが動かなくなるだけ。だからデフレに向かうんですって。 @mzw_neo 1%に集まるからデフレ?インフレ率は貨幣現象と需給関係ですよ?
08-23 06:04
僕が聞いたのは、米中でなにが起きてるか。数字だけ見ててなにになります? カネが一部に溜まってるだけで、一般庶民にまわらずに国内需要が冷えまくり、底辺はデフレと同時に物価高という最悪の状況下にありますよ。 @mzw_neo 日本と違って、両国とも名目で経済成長していますね。
08-23 06:07
起業は選択肢のひとつ。選ぶのは自由だし、昔から起業する人は起業してますよ。僕が言ってるのは社会の安定のための雇用の安定で、個人個人の選択とは無関係。 @mzw_neo 名目成長率が高いと開業率って上がります。つまり、究極に不安定な自営業や起業が増える現実があります。
08-23 06:10
昔からパートもあるじゃないですか。労働スタイルを選ぶのは個人の自由。僕は、安定的な雇用環境、つまり正社員を選択したくてもできないのが問題だって言ってんですよ。 @mzw_neo 労働スタイルの選択肢が増えますよ
08-23 06:14
よって、それは有効需要の問題。つまり、客である一般庶民に、将来不安を考えずに使えるカネがなければ解決しない問題ってことです。 @mzw_neo 企業は人間の将来不安を懸念して、正社員雇用を抑えているんですよ?期待名目成長率が上がらないとどうしようも無い問題です
08-23 06:16
意味がわかりませんw いまよりも規制が強く、公務員利権も山のようにありながら、カネがまわってみんな豊かで、むしろ公務員の給料が安いとバカにされてた時代ではないですか。 @mzw_neo その考え方が、おそらくバブルの頃を知らない0成長世代だからが故だろうと気の毒に思う訳です
08-23 06:18
一応、答えましたけど、なんのために市場原理主義路線を支持していらっしゃるのか、まったくお考えがわかりません。逆に質問しますが、社会や経済、国家について、どのようなビジョンをお持ちなんですか? どのような将来像を考えると、そういう考え方になるのですか? @mzw_neo
08-23 06:27
国がー、公務員がー、官僚がー、と言いたくなるのも、このご時世じゃしょうがない部分もある。単純にカネがまわってりゃ、それらの問題、誰も気にしないのだろうがね。結局、政治家も官僚も、国民食わせてナンボってことだ。
08-23 06:39
原発の問題なんぞを考えれば、そりゃ既得権益に問題がないとは言わん。しかし、TPPなんぞの規制完全撤廃路線にしたらどうなるかと言えば、企業の理論優先となり、やはり原発は止められなくなる。これらの問題はバランスが重要で、透明化を進めて、国民がそれを判断していく以外にないと思うのよな。
08-23 06:42
おいらが重視するのは、国民が「現実に選択可能な選択肢」を持つこと。当然、その選択肢も、どっかの誰かさんの都合で作られたものではなく、国民が主張した選択肢が存在しなければならない。むしろ、この状態のことを自由主義と呼びたい。
08-23 06:51
そうするためには、外資を含めた資本家や政府の横暴に対抗する手段が必要だ。そのためには、まず、経済的な足元を揃えて、最低限度の生活が安定的に行える環境でなくてはならない。そのための所得再分配のシステムも、国民が支持しないものを排除する規制も必要だ。
08-23 06:58
官僚利権や、それに群がる民間資本の行動に目をつぶれと言うつもりはない。ただ、それらをスルーして肥大化させてきたのは我々国民。さっき書いたように国として必要な仕事もあるし、事実、彼らが守り通してきた国益もかなりある。冷静な再評価とその上での国家の再構築が必要なんじゃね。
08-23 07:05
いま騒いでる尖閣とか竹島だが、日本がいつ国際司法裁判所に出ても問題ない状態なのは、官僚やそれと組んで動いていた大学などの研究機関が、過去の資料や文献をまとめていたからではないのかね。どうやって国民の言うことを聞かせるかってことが重要で、頭から全否定するもんじゃねえと思うがね。
08-23 07:12
むしろ官僚悪玉論が、財界などの「国富利権」にありついてる連中を利しているように思えてならんのよね。あいつら、国と組んではおいしい思いして、今度は規制撤廃方向で、国を破壊して国民の上に君臨する算段だろ。どっちに転んでも資本家の利益なのだが、そのへん気づいてる人少ないんじゃないかな。
08-23 07:19
そういうことですが、官僚を活用できる政治を作るために、国民の意識が変わらなきゃならないという意味で書いてます。 @12koku 官僚悪玉論は通りやすいし、あながち間違いでもないとは思いますが、官僚を盾にして悪事を働いている者たちの存在を忘れてはならないということでしょうか。
08-23 07:32
まあそうでしょうね。政治をどうにかするのが官僚改革の一歩ですから、あながち間違いではないですけどね。重要なのは、その政治家を守ることなのですが…。 @yohnoji @12koku 世間一般の人の中には、官僚すら透明の存在で単に「政治家がダメだから」と思っている人も多いですよ。
08-23 07:34
返信繰り返しても話かみ合わないし疲れるんで、最後にひとつだけ。要はカネが世の中にまわってれば、あなたの理想に近づくのでは? それだけなら僕も同じ考えですが、1%にこだわり、民主主義を否定して、多くの人間や企業から自由を奪い取る路線に傾倒する理由がわからんです。 @mzw_neo
08-23 09:47
なにを主張したいのかまるでわからんかったなw まあ、おいらは思想と言論の自由を尊重してるんで。いずれにしても、いまは民主主義なので、多数派にならんと実現は無理よ。頑張って口説いてください、僕は断固お断りだけどw というわけで、終了です、隊長w 報告しときますw @KKnagomi
08-23 09:54

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福島の原発被害者・避難者の惨状

「阿修羅」から転載。
福島の現状、現実については大手マスコミにもほとんど取り上げられないので、想像しているしかなかったが、想像以上に悲惨なようだ。これははっきりと国家による殺人ではないか。原発事故以上に、その後の処遇によって避難者が死に直面しているのである。
補償の問題があるから避難することもできず、仮設住宅に今でも住んでいる人も多いはずだが、その住環境も恐ろしく劣悪なようだ。
ここに書かれた内容には主観や誤解も混じっているかもしれないが、その八割程度が事実だとしても、政府や東電の被害者への非人間的な扱いは慄然とさせられる。
脱原発の第一歩は、福島被災者救済から始めるべきではないだろうか。私は野田総理と反原発活動家の対話内容の詳細は知らないが、その中で原発事故被害者救済の話が出た、ということは聞いていないし、その面談のメンバーに原発被害者代表が含まれていたとも聞いていない。今やるべきことは、原発被害者自身が表に出て、被害者の現状を国民全体に訴えることではないだろうか。そして反原発活動家は、そのアシストをやるのが大事だろう。
記事のコメントの大半は省略し、その中で福島出身の政治家リストその他、重要性のある部分だけを掲載する。


(以下「阿修羅」より引用)

福島よりSOS!マスコミが伝えぬ福島の被災者の声と仕掛けられた罠 「福島では大変なことが、皆さん、本気で立ち上がってく
http://www.asyura2.com/12/genpatu26/msg/632.html
投稿者 石井広国 日時 2012 年 8 月 21 日 22:42:08: lgrsLYVwCYBHY
http://89wonderful.blog71.fc2.com/blog-entry-185.htm

ブログ「ワンダフルわーるど」から
http://www.asyura2.com/bbsup/up.cgi?ban=genpatu26&up=1
.................................................
lワンダフルわーるど
HOME » 原発のこと » Entry
福島より、SOS!
2012.08/18 (Sat)
*記事タイトル変更しました。
 この記事に関するお問い合わせ(支援協力希望など)はメールフォームよりご連絡を
 ください。追って、お知らせいたします。

福島の実状がなかなか伝わってこない中、
以下のメールをいただきました。
読んでいただければわかりますが、やはり、福島では大変なことが起きています。
皆さん、国もメディアもいっさい報道しないこのようなことを許せますか?
私は怒りで震えています。

福島の人を、見殺しにしようとしている国も東電も許せません。
ぜひ、拡散をお願いします。
(このメールのご本人より、実名・電話番号の転載も可、と了承をいただいていますが、
 問い合わせ殺到が予測されるため、それらについては、ここでは伏せます)
以下、転載
***************************************
福島の被災者をこのまま放っておいてはいけない。
皆様は福島の被災者の現実をご存じですか?
 私は昨年の6月から支援活動を始め、
現在は広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、は南相馬(小高、原町、鹿島)の仮設住宅、借り上げ住宅、施設、幼稚園、小学校、中学校、
あわせて100カ所以上の方々に支援品送りをさせて頂いている者です。
一時は川内村、都路、葛尾村にも支援をさせて頂いておりました。
そうした中で、福島県の方々の苦悩を知るにつけ、この苦悩を見て見ぬふりしては
ならないと思うようになりました。どうか、皆様、現実の姿を知って、救いの手を
さしのべていただきたくお願い申し上げます。

 まず、支援品についてです。福島は未だ寝具、衣類、下着、食器、生活消耗品、水、お米、調味料、食品などが不足しており、皆さまの温かいご支援をお願い申し上げます。
 災害当初から支援は宮城、岩手に集中しておりました。福島は、原発への恐れからでしょうか、福島へ支援は入ることなく、宮城、岩手に流れておりました。
支援品があふれて困っているとお聞きした宮城に、福島にお願い出来ないかと問い合わせましたが、他県に入ったものを福島に流すのは無理とのこと、ここでも決まりがあることを知りました。
 私たちの義援金についてお話しさせていただきます。これは日赤の方からうかがった話です。
私たちの義援金はそのまま県に渡し、県から市町村、そして被災者にと委ねたそうです。

海外からの義援金は被災者への家電6点セット、教育支援、体育館、病院修繕費、ソフト事業費に。
日赤としては国から資金をもらうことはなく、以前からの日赤の資金で毛布配りをしたとのことでした。
被災者に義援金のことをたずねると、一家族につき5万円、7万円、30万円と町によって異なっておりました。
それにしても余りにも少ない義援金。私たちの義援金はどこに使われてしまったのでしょう? 被災者にとって悲しかったことは、
国からのお見舞金が何もなかったことです、とおっしゃっていました。

 東電の補償金についてお話しいたします。
東電は賠償金の一部として昨年秋頃、単身者75万円、一家族(2人でも7人でも一様に)100万円支払いました。

しかも申請のためには何ページもの書類を書かせられて。しかし、この賠償金は仮払金なので、
全額返すように言われ、12月頃から被災者は返金させられています。

また、昨年6月から3カ月毎に、精神的損害金が一人10万円ずつ支払われるようになりました。しかし、このお金も仮払い金なので、6月からの3カ月分を返済するように言われ、被災者は自動的に引かれています。
つまり、単身者は105万円、3人家族なら190万円を返金しなければならないのです。人によっては、毎月の10万円で返金することにした、という人もいます。何ということでしょう。お金のない被災者は、どうやって生きて行ったらよいのでしょう?
 国民年金のある人は月6万円で生活しています。光熱費、交通費すべてを6万円で。雪国の会津は灯油代の出費も加わり、食費が無く、食事を抜いている人もいると聞きます。被災者に国は生活保護制度を適用できないものでしょうか?

 国民年金の年齢に及ばない人、住宅ローンの残っている人、仕事が見つからない人は、さらに深刻です。

ある中学校の校長先生から「食事を食べないで来る子もいる。子どもたちはお八つをするチャンスがないので、せめて学校でお八つを食べさせたい。お菓子の支援が欲しい」と頼まれたとき、経済上の深刻さに唖然としました。

 双葉町の町役場の責任者からうかがった話ですが、
3月11日に職員は出張で仙台に行っていたそうです。
それで当日双葉町にいなかったからと言って、

東電はその人に賠償金を出さなかった、とのことです。
かわいそうに、その職員は、家を新築して3月13日に入る予定だったとのこと。
一日も住むことなく、ローンだけが残り、東電からは賠償金ももらえないのです。

 福島の被災者に対する国や東電の対応については、いっさい報道されないために、
地元の人でさえ本当のことが分からず、
「あなた達は東電のお金で楽な生活をしているんでしょう」と言われ、
子どもまでもがいじめにあっています。
周りから白い目で見られている被災者たちは、
お世話になっているからと小さくなって生活し、
家の中にこもりがちになり、孤独とストレスで、鬱病、
パニック症候群になっていく人が多く、
自殺者が絶えなくなりました。死んだ方がまし、死にたい人の気持ちがよくわかる、
とよく耳にします。
実際、また葬式?と思うほど、仮設の自治会長さんはしょっ中、
葬式先から電話を寄こします。
私どもが支援している方のお兄様も自殺されました。
原発で入れない地域のスーパーの店主。生きる希望を失ったようです。

 東北の方は、被災前は何世代も一緒に住む大家族が多いです。肩を寄せ合って生活していました。しかし原発によって、家があっても家に住むことが出来ず、家族はバラバラに引き裂かれ、

年寄りは一人仮設に預けられ、冷蔵庫の使い方もわからない方、
料理作りをしたこともない80代の方が、細々と生活しています。

子どもの声が聞こえない、ひっそりとした仮設で、
部屋にこもって出ようとしない人や精神的におかしくなった人、救急車の世話になる人が多くなったと、自治会長さんも悩んでいます。

 若い夫婦も、夫は仕事を求めて出稼ぎに行き、親子バラバラになり、
精神的に不安定になった妻はアルコール依存症になり、
子どもも不安定になり、家族崩壊状態です、と言って小学校の校長先生は胸を痛めておりました。
 仮設住宅は人間の環境としては考えられないほど最悪です。私にはとうてい我慢できないと思いました。4.5畳という狭い部屋、押し入れは半畳。収納場所がないため、最低限のものしか置けません。周りに品物を置くと空きスペースは寝るのがやっと。手足を十分に伸ばせません。

隣の人の話し声が聞こえるので、小さい声で話したり、テレビも小さい音にして聞いているとのこと。
屋根はトタンなので、今は冷房をしないとサウナ風呂に入ったよう。
窓は一つでベランダもないので、玄関の戸を閉めると、真っ暗で風通しが悪く、
穴蔵に入ったようで、夜は寝られず、熟睡できません、と言います。
2~3人家族は4.5畳2間、プライバシーを守ることもできず、空間がありません。
ある被災者は、「ここにいると息が詰まりそうで頭がおかしくなります」と言いました。

 冬になり暖房をすると結露で床や畳が濡れ、湿気でカビが生えます。また、
仮設は杭にチェーンで止めている所もあり、
大風が吹くと家が揺れて怖いという所もあります。
人間には生活環境が大切で、これでは心身の病気になっていくのは
当たり前と言えないでしょうか? 被災者を一日も早く、この環境から救えないのでしょうか? 本腰を入れてアパート等を作り、被災者を仮設から解放できないのでしょうか?
 
除染について、被災者の声をお伝えします。
「わたしたちの町は、もう住めないことが分かっている。
30年40年帰れないことも分かっている。だのに、住めない所をどうして除染するのか。
お金を捨てているようなものです。それよりも被災者の生活安定に目を向けて欲しい。
別なところに新しい町を作って欲しい。新しい住まいも作って欲しい。
除染ばかりに目を向けず、被災者の生活をまず第一にして欲しい。
汚染された所は仕方がない。そこを廃棄物置き場にしたら良い。ふる里を失うことは辛いです。しかし、前を向かなければならない。
私たちはもう住めないと思っているのですから。しかし、東電と国は除染したがる。そして解除したがる。解除して自宅に帰れると、補償金を出さなくて済むからです。国と東電は一つです」と、ある被災者は言いました。
 最近、驚いていることがあります。
南相馬市小高区は来年の5~7月ごろ除染することになりました。その前に

復興庁は2000万円の予算を出し、
被災者に日当で草刈り、ガレキ処理をさせることになりました。
「雇用の確保に、ということですが、それは放射能を浴びさせることです」と役場の人も言いました。

実際、現場で働く被災者が30分草刈りしたら1.25マイクロシーベルトあった、と言います。彼は担当者に言ったけど無視された、とのこと。
現場には役場の人は来ていません。
被災者はマスク無しで、普段着姿で働いています。弁当も出ません。そして、
5月から働きだして、3カ月過ぎましたが、

今でもお金は出ていません。8月10日過ぎに出ると言われた言葉を信じて、被災者たちは黙々と働いています。
「お金のない我々は農協からお金を借りて生活しています。
8月10日過ぎにお金が入ったら、農協に返金するつもりです。
1日8時間、月~土曜日まで働いています。休みは雨の日と日曜だけです。」
 皆さま、福島の方々は悲しすぎませんか? 全てが人道的に許されることでしょうか?
これは、国をあげての「いじめ」になりませんでしょうか? 
いじめは犯罪行為でもあります。私は国の無関心、対策の先延ばしに、
ナチスのユダヤ人虐殺が重なって感じられます。
どうぞ皆様、被災者を救ってください。
皆様のグループに現地の方をお呼びしてお話を聞いて下さい。
そして物品や義援金のご寄付をお願い申し上げます。
ご協力頂けます方は、よろしくお願い申し上げます。
 
******************************************::
以上。
.............8/18 引用おわり....................................

 
...............以下 8/21 のページ..............................
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ワンダフルわーるど
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続・福島よりSOS!
                         2012.08/21 (Tue)
先日アップした「福島よりSOS」の追記になります。

あの記事の元になる‘お手紙’を書かれたご本人と直接お話しの上、
実名・連絡先を掲載してほしいとのことで、ここでアップさせていただきます。
ご本人より「覚悟のうえですから」とのことです。
この言葉を、どうぞしっかり心に刻んでください。

>>>批判は不要です。<<<
行動が大事です。
ぜひ、行動してください。

お手紙を書かれた方は、福岡百子さんという方。
電話/Fax 047‐346‐8675
携帯 080‐5547‐8675
支援方法や必要なモノについては、直接福岡さんとお話しの上、決めてください。

手紙の中にも書かれているように、
現在、福島で避難生活をされている方々は、経済的にも逼迫しています。
ですから、生活に必要なありとあらゆるものが不足しています。
仮設の近くにスーパーはあっても、「お金が無いから買えない」、のです。
また、蛇口をひねれば水は出ますが、「不安で飲めない」、のです。
また、避難区域が解除されても、解除先の自宅や庭は自分で除染を
しなければならないそうです。雑巾を5~6枚渡され、水も出ない自宅へ戻り、
線量の下がっていない場所で被曝を覚悟でそれぞれが除染をするのです。
しかも、水も出ませんから、トイレにも行けない、お掃除もできない。
皆さん、これが現実です。
テレビで報道されるのはこれとはまったく違う。

私は、とにかく避難をしなければならない、そう思っています。
放射能汚染のあるところで暮らし続けてはいけないからです。
そう思って、毎年、保養や疎開の受け入れをさせていただいています。
ですが、現実はこんなにも厳しい。
飲み水すら、まともに手に入らない。
米や味噌といった、基本的な食材すら手に入らない。

悔しくて悔しくてたまりません。
この国は、いったい何をやっているのか。

ともかく、行動です。
皆さん、本気で立ち上がってください。
時間はありません。

繰り返しますが、 >批判は要りません。<  余計な時間を使わせないでください。
よろしくお願いいたします。

..............8/21..引用おわり......................  

コメント








09. 2012年8月22日 03:50:27 : asrjsvXKos
民主党福島県総支部連合会
〒960-8041 福島県福島市大町7-25 アクティ大町5-4
TEL:024-529-6600 FAX:024-529-6649
民主党福島県第3区総支部
総支部長 玄葉 光一郎
住所 〒962-0832 須賀川市本町3-2
TEL 0248-72-7990 FAX 0248-72-8179
民主党福島県第4区総支部
総支部長 渡部 恒三
住所 〒965-0027 会津若松市花畑東3-34
TEL 0242-32-2220 FAX 0242-32-2244
民主党福島県第5区総支部
総支部長 吉田 泉
住所 〒970-8045 いわき市郷ヶ丘1-47-1
TEL 0246-46-0015 FAX 0246-46-1777
民主党衆議院東北ブロック比例区第3区総支部
総支部長 山口 和之
住所 〒963-8014 郡山市富久町八山田字前林10-4光ビル101
TEL 024-991-6330 FAX 024-991-6331
民主党福島県参議院選挙区第1総支部
総支部長 岡部光規
住所 〒960-8041 福島市大町7-25アクティ大町5F
TEL 024-529-6600 FAX 024-529-6649
民主党福島県参議院選挙区第3総支部
総支部長 増子 輝彦
住所 〒963-8014 郡山市虎丸町9-6
TEL 024-938-1000 FAX 024-938-0111
住所 〒964-0905 二本松市松岡214-1
TEL 0243-22-4500 FAX 0243-22-5533
民主党福島県参議院選挙区第4総支部
総支部長 金子 恵美
住所 〒960-8054 福島県福島市三河北町2-8ココ・メゾン1階
TEL 024-533-5455 FAX 024-536-3105
民主党比例区第79区総支部
総支部長 中村秀樹
住所 〒960-8041 福島市大町7-25アクティ大町5F
TEL 024-529-6600 FAX 024-529-6649
以上の情報は http://www.minshu-fukushima.jp/soushibu/index.html からです。
話を聞く価値があるのかどうか・・・










17. 2012年8月22日 17:39:38 : aVgkCnBWyo
氏名を公表してまで声をあげたの福岡百子さん1人のようだが、こういう
状況の方が他にもおられたのなら、力を合わせてこう言う東電の汚い補償
について、netなどに公表されるべきと思います。
1人ではいかんせん説得力に欠けると思いますが、こう言う「事実」がある
ことが、知れ渡るだけでも東電には痛手になるのではないかと思われます。
同じ状況の方と連絡取れる方法を見つけて協力されることをお薦めします。
 阿修羅などが、その掲示板にでもなればいいんですが、管理者殿 阿修
 羅訪問の皆さんや、被災者同士が相談や連絡出来る専用掲示板の新設 
 ご検討お願いいたします。

ー怪傑









24. evergreen 2012年8月22日 23:43:33 : dfalzZkQMN.IA : pjn9mBHiZQ
この記事を読んで 先日知り合った方(仙台市在住)からお聞きした事と一致し被災地の惨状に心が痛みます。 その方も「政府は何もしてくれない、東電からは 電気製品6点セットがおくられてきただけで何の役にもたたない、自殺者は増える一方で 非常につらい」ということでした。「賠償金をもらうためには 約100ページからなる用紙に記入しなければならなかったのでほとんどの人はあきらめてしまった。最近改正されたけど、結局 60ページはある」とのことでした。私は被災地から遠い四国に住んでいて実際の声を聞いたのはこの時が初めてであり、本当につらく思いました。






30. 2012年8月23日 07:39:13 : Xs0Gj9F23E
29です。実際東電の「仮払金」が、「借払金」扱いなのかに疑問を持って検索してみたら、こんなのがありました。
http://oad.seesaa.net/article/215806874.html
*****以下コピペ*****
>東電 仮払金には領収書が必要
東電が出す仮払金には
重い条件がついているんですね・・・。
1)
東電から 100万円 貰ったが (仮払金) 使えないって
生活必需品 とか 食べ物 とか 東電が 認めた物以外には 使えず
領収書 とか 写真とか 必要  あと 返金させる場合も あるとかで
(仮払金)貰った人 全員 お金 使わないって 話
http://ameblo.jp/kumabe/entry-10922500219.html
~~~~~~~
2)
原発近隣から避難してきた一家に、東電から支払われた仮払金。
払われてからしばらくして一通の東電からの通知が。
「使わなかった仮払金はすみやかに返還すること。尚、使った分は領収書を提出するように」
…って何?
『仮払金』って、東電に頭を下げて「戴く」モノなの?
私は東電が「払わせて戴く」ものだと思ってたけど。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1752384381&owner_id=4270261
~~~~~~~~~~~
3)
住民票は夫の実家に残したままとなっていますが、東電からは「住民票がなければ、仮払金は支払えない」と言われた
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news2/1300644923/
(事実の確認は難しいが、これだと引越直後の人は大変だね。)
~~~~~~~~~~~
4)
東京電力の仮払金100万円の説明があったのですが、 使った分だけ領収書を必要として、余った分は返さなければならない
http://www2.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1303555418/
~~~~~~~~~~~
5)
東電が幼稚園や老人ホーム、診療所への仮払金の支払いを拒否していることが、毎日新聞の入手した文書などで分かった。
http://7ch.viewerd.com/newsplus/1310763561/
(少なくとも診療所はOKにすべきでは?)
*****コピペ終わり*****
どうやら、これは事実のようです・・・。なんとも酷い実態!!


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日韓という仲の悪い親戚も戦争まではしない

「内田樹の研究室」から転載。
内田樹は時々こういう鋭いことを言うから面白い。私が「日本も韓国も米国の属国なんだから、米国がこの両者の戦争を許すわけがない」(徽宗皇帝のブログ)と大雑把な言い方をするところを、実に神経細やかな、説得力のある言い方で言う。しかも、「米韓相互防衛条約」などというものまで証拠として出すのだから、誰でも納得する。
そのあたりが、学者らしいところだ。素人の思いつき垂れ流しの雑文とは違うようである。でも、小田嶋隆はもっと素晴らしい。
あらゆる領土問題をたった3行ほどで片付けてしまったのである。

小田嶋 隆‏@tako_ashi
マンションの壁にだってある程度の厚みは必要なわけだし、国境にグレーゾーンがあるのはむしろ自然な話なんではなかろうか。っていうか、そもそもマンションの壁は「共用部分」で、壁を挟んだどちらの部屋の所有にも属さないケースが普通ですよ。

と。(あんまり感心したので「アンファニズム」にも掲載した。)


(以下「内田樹の研究室」から引用)



竹島はまた違う問題である。
さいわい、この問題は今以上こじれることはない。
「こういう厭な感じ」がいつまでもエンドレスで続くだけである。
あるいはもっと重大な衝突が起きるかもしれないが、軍事的衝突にまでは決してゆかない。
それは私が保証する。
というのは、もし竹島で日韓両軍が交戦状態に入ったら、当然日本政府はアメリカに対して、日米安保条約に基づいて出動を要請するからである。
安保条第五条にはこう書いてある。
「両国の日本における、(日米)いずれか一方に対する攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであるという位置づけを確認し、憲法や手続きに従い共通の危険に対処するように行動することを宣言している。」
領土内への他国の軍隊の侵入は誰がどう言いつくろっても日本の「平和及び安全を危うくする」事態である。
こういうときに発動しないなら、いったい安保条約はどういうときに発動するのか。
他国の軍隊が自国領に侵入したときに、米軍が動かなければ、日本国民の過半は「日米安全保障条約は空文だった」という認識に至るだろう。
それはもう誰にも止められない。
そのような空文のために戦後数十年間膨大な予算を投じ、軍事的属国としての屈辱に耐えてきたということを思い出した日本人は激怒して、日米安保条約の即時廃棄を選択するだろう。
竹島への韓国軍上陸の瞬間に、アメリカは東アジアにおける最も「使い勝手のよい」属国をひとつ、永遠に失うことになる。
それに米韓相互防衛条約というものがあることを忘れてはいけない。
これは「戦時」における作戦統制権は米軍にあると定めている。
だから韓国軍の竹島上陸という「作戦」は在韓米軍司令部の指揮下に実施された軍事作戦なのである。つまり、「韓国軍の竹島上陸」はすでに日米安保条約をアメリカが一方的に破棄した場合にしか実現しないのである。
その場合、日本政府にはもはやアメリカと韓国に対して同時に宣戦を布告するというオプションしか残されていない(その前に憲法改正が必要だが)。
しかし、軍事的に孤立無援となった日本が米韓軍と同時に戦うというこのシナリオをまじめに検討している人は自衛隊内部にさえいないと思う(なにしろ北海道以外のすべての日本国内の米軍基地で戦闘が始まるのである)。
そんなことは誰も望んでいない。
日本人もアメリカ人も韓国人も、誰も望んでいない。とくにアメリカが望んでいない。
小さな島ひとつの所有をめぐっての日韓の意地の張り合いのせいで、アメリカの19世紀からの150年にわたる西太平洋戦略が灰燼に帰してしまうのである。
そんな情けないことをアメリカが許すはずがない。
あらゆる手立てをつくして竹島における戦闘行為の発生を抑止するはずである。
だから、安心してよい、というのもひどい言い方だが、ほんとうなのだから仕方がない。
このことからわかるように、外交についての経験則のひとつは「ステイクホルダーの数が多ければ多いほど、問題解決も破局もいずれも実現する確率が減る」ということである。
日本はあらゆる外交関係において「アメリカというステイクホルダー」を絡めている。
だから、日本がフリーハンドであれば達成できたはずの問題はさっぱり解決しないが、その代わり破局的事態の到来は防がれてもいるのである。
今さら言うほどの話でもないが、たまには思い出した方がよいと思うので、かくは贅言を弄したのである。

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希望の虚妄なること絶望に相同じい……あれっ?

勝手気ままな形而上的妄想作文にうんざりしている人も多いだろうから、少し時事的な話もしておく。
福島県産野菜は安全だとマスコミも政府も口を揃えて言い続けていたが、その後どうなったかというと、……まだ放射能に汚染され続けているのです。(ここで「笑」などと書くと怒られそうだから、書かないが、書いたも同じか)
市場に出ているのは放射能検査を受けた安全な作物だけだと主張するかもしれないが、放射能は目に見えないから、安全性など確信できるもんじゃない。
渡る世間は嘘だらけ、というのは3,11以降に日本人が学んだことである。政府も学者も業者も経済界もマスコミも嘘つきばかりである。
風評被害がどうこう言われても、それ以前にあまりにも騙されすぎたので、少しでも疑わしいのは信じないほうが安全だ、という気持ちに誰もがなっているかと思う。
福島の農水産業は原発事故が起こった時点でもはやほとんど回復不可能な状態になったと考えて、新しい産業を考えるべきだろう。
いつまでもわずかな可能性にしがみついていることで、新生の可能性も無くしてしまうことになるはずだ。


(以下引用)



2012年08月22日15時00分

提供:毎日新聞



. .

 市場に流通しない自家栽培の野菜を食べた福島県の70代男性2人が、比較的高い1万ベクレル超の放射性物質を取り込む内部被ばくをしていたことが、東京大医科学研究所の調査で分かった。うち1人は約2万ベクレルに達したが、これによる被ばく線量は年0.85ミリシーベルトで、国が設けた食品からの被ばく限度(年1ミリシーベルト)は下回った。調べた坪倉正治医師は「健康被害が出るレベルではないが、自家栽培の野菜などを食べる場合は検査してほしい」と話す。

 2人の男性は、同県川俣町と二本松市在住。今年7~8月、内部被ばく量を測定する装置「ホールボディーカウンター」を使い、体内の放射性セシウム(134と137)の量を調べた。その結果、川俣町の男性からは1万9507ベクレル、その妻からは7724ベクレルが検出された。二本松市の男性の内部被ばく量は1万1191ベクレル、妻は6771ベクレルだった。いずれも東京電力福島第1原発事故で放出された放射性セシウムを食品から取り込んだとみられる。

 川俣町の夫婦は、同県浪江町の原木で自家用に栽培したシイタケや自宅近くで採ったタケノコ、干し柿などを毎日食べており、シイタケからは14万ベクレルを超す放射性物質が検出された。二本松市の夫婦は、この夫婦からもらった野菜を食べていたという。【河内敏康】

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価値観について

「般若心経」について書いた昨日の記事に関連して、昔書いた文章を掲載しておく。別ブログ(文書倉庫として使っている)にも載せているが、そちらは訪問者のほとんどいないブログなので、ここに載せたほうが誰かには読んでもらえるだろう。
なぜ前回の記事と関連するかというと、どちらも「心的態度」を扱っているからだ。



価値観について



第1節 社会的価値観と個人的価値観

 人間と動物の相違は、人間には価値の意識があることで、その価値の意識が人生を複雑にも面白くもする。ある意味では、人生の諸問題は価値の意識から来ると言える。

 何を価値があるとし、何を価値が無いとするかは、社会的な合意がある反面、個人的なものでもある。それが「価値観」だ。一般的には、価値観は個人的なものだと思われているようだが、実は

1 社会的に合意された価値観が、個人の価値観の大部分を占めている。

我々が文化生活を享受できるのも、この価値観の共有から来るのである。(ここで、事例を挙げるなら、たとえば、美人・美男子の基準は、時代と社会によってほぼ決定され、個人的な趣味はそれほど決定的な要素ではない、などがそれだ。あるいは、能力のある人間は価値があり、能力のない人間は無価値であるとされるのは、ほぼどの時代、どの社会でも変わらないだろう。そこで、たとえば、「弱さ」を価値あり、とする人間がいたとしても、それは個人的な偏向にしかすぎないとされるのである。)しかし、また、

2 価値観を共有することはこの社会の収奪システムの中に組み込まれることでもある。

我々は、「価値あるもの」を手に入れるために働き、稼いだ金を出してそれを購入する。社会の上位にいる人間は、下の人間のそうした馬車馬的労働の成果を吸い上げ、消費者からは金を巻き上げて、自らの快適な生活を維持していく。かつては王侯貴族が行い、現在では大資本家(及び、その協力者である政治家や官僚)が行っている、これが社会の収奪システムである。(社会の収奪システムは、先進国と後進国との間でも維持されている。後進国がいつまでも後進国であるのは、すべてがシステム化されているからである。)
その収奪システムから逃れる簡単な方法は、自分だけの価値観によって行動することである。つまり、社会が価値ありとするものに背を向けて生きることだが、しかし、完全にそれを行うと、社会の文化的産物をすべて拒否することになり、原始人の生活になる。
 この、「共通価値観」と「個人的価値観」との摺り合わせが、人生を生きていく上での最大のポイントになる。「共通価値観」の肥大した人間は周囲に流され、社会の収奪システムの奴隷となるし、「個人的価値観」が肥大しすぎた人間は、周囲から孤立し、変人扱いされることになる。

第2節 価値観と性格

 離婚の原因として、よく「性格の不一致」という言葉が出るが、性格とは、実は価値観の集合でもある。人生を生きていく上で、何を価値があるとするかという根本が違っていたら、共同生活が成り立つはずはない。一方は都会生活を好み、他方は自然の中の生活を好むとすれば、生活すべき場所すら異なることになる。どちらかに従えば、当然、もう一人は不満を抱えていくことになる。
 そして、「十人十色」とか、「蓼食う虫も好きずき」とか言うように、個人的価値観は多様なものである。たとえば、同じように漫画を好んでいても、その好む漫画の傾向が同じとは限らない。趣味については、片意地な偏食家が多いのである。自分の趣味を絶対的に肯定していない人間は、ほとんどいない。趣味については、誰もみな、自分を精神的貴族だとみなしているのである。

 我々の人生がどのように彩色されるかは、快不快の気持ちによるが、何を快とし、何を不快とするかは価値観に左右されていることが多い。簡単な例では、労働と遊びの相違である。我々は労働を不快な義務と思い、遊びを快楽だと思っている。だが、スポーツは、スポーツ選手にとっては労働であり、観客にとっては遊びだ。ゴルファーにとってゴルフは労働だが、プロ野球選手がシーズン・オフにゴルフをやれば、それは遊びである。このように、同じ行動が苦痛にも快楽にもなる例は多い。その原因は、物事をとらえる姿勢にある。それを価値観と言うのは不適切かもしれないが、ある価値観をもって接するから、あるものを価値があると思ったり、また無価値だと思ったりするのは事実だ。これを価値観と言わないで、「肯定的態度」と「否定的態度」と言ってもいい。
 
我々は通常、快不快を動かしがたい前提条件と考えがちだ。つまり、ある対象とそれへの快不快は密接に関連していると考えている。だが、そうだろうか。我々があるものを肯定したり、否定したりするのは、実はただの習慣にすぎないのではないだろうか。
 もちろん、物事に対する趣味は、我々の性格そのものと言ってもいいくらいに固定的であるのが常だが、しかし、趣味は変わりうるものでもある。つまり、短期間には動かしがたいが、時間をかければ変えうるものだ。趣味と同様に性格も変えられる。つまり、

3 我々が自分の性格としているのは、我々がそれを自ら選んできた結果だ。

「その性格」であるのが我々自身にとって心地よいから我々はその性格を続けているのである。(つまり、快感原則は人生の根本原則だが、何を快とし、何を不快とするかは変えうるのである。)これは外面的な性格演技だけの話ではない。ドストエフスキーの作中には、よく卑屈な小市民が出て、自らを卑下するが、その卑下する自分に、実はある心地よさを感じているのである。たとえ、自分の不甲斐なさのために娘を身売りさせ、自分が最低の父親である、と泣いていても、そのような自分の存在をどこかで肯定しているのである。これが、人間の自己愛である。我々が自分の性格にうんざりしながらも、けっしてそれを変えないのは、実はそれが自分にとって「居心地がいい」性格だからである。
 しかし、繰り返すが、性格は変えがたいものでありながらも、可変的なものでもある。たとえば、ここに内省的な人間がいたとしよう。彼を軍隊の中に放り込んで、一年間も鍛えれば、彼は立派なロボット的兵士になるだろう。それが戦場ならなおさらだ。なぜなら、決められた行動に即座に従わないかぎり、彼の生存は保証されない以上、彼には内省の余地は無いからである。少なくとも、彼は自分の内省癖を、それがゆるされる時間まで棚上げにする習慣を身につけるだろう。そして、やがてはその内省癖そのものがどうでも良いものになっていくはずである。我々の性格も趣味も習慣の問題にすぎない。兵士の中に哲学者がいないとは限らない。だが、勝れた兵士ではありえないだろう。兵士として生き延びるためには、我々は動物的な脊髄反射(通常は「命令~服従」の反射。戦場では「危機~戦闘行為」の反射)で生きるしかないのであり、自らの内面への深い思索などしていては生きてはいけないだろう。

第3節 物の価値

 第1節で「社会的価値観」について述べたが、実は、価値の相場は合理的に形成されるわけではない。
 誰でも、黄金は価値があると思っている。だが、その価値は主として「希少さ」によっているのである。誰かが言っているが、黄金より土が少なかったら、土のほうが価値が出るだろう。希少さとは無関係に、実際に土のほうが価値があるとも言える。なぜなら、黄金の上に作物はできないからだ。我々は土に価値があるなどとは思わない。それは周りに膨大にあるからだ。だが、飢饉が来れば、作物を生やしてくれる土地の価値が、はっきりとわかるはずである。そのとき、黄金が、いかに無価値かもわかるだろう。問題が少し違うが、インカ帝国にもしも黄金がなければ、スペイン人たちはインカ帝国を滅ぼさなかったかもしれない。インカ帝国にとっては、黄金は災いを招く存在であった。インカ人自身にとっても黄金が、価値がそれほどあったとは思われない。なぜなら、スペイン人に略奪されるまでは、彼らにとって黄金はありふれた存在だったからである。そのへんの石ころと同じ比率で黄金があれば、誰が黄金を崇めるだろうか。(このことを敷衍すれば、世界中の人間が美男・美女になった世界では、美男・美女の存在価値は無いことになる。)
 土と同様に、我々がその価値に気付かないものが、空気と水である。我々が生存できるのは、ひとえに空気と水と土のおかげであり、それ以外のものは生きる上では剰余にすぎない。もちろん、文化とはその剰余のことではあるのだが、少なくとも生存上の第一義的なものは、この三者なのである。
 さて、この人間社会では、黄金は価値があるとされている。そこで、黄金を独占した人々は、その相場を自分たちで決めることで、他人の上に立ち、優雅な生活を送ることができるわけである。つまり、社会の構成人員を「黄金は価値がある」と教育(洗脳)すれば、その後はほぼ永遠に富の独占ができるわけである。これが資本主義の起源である。
 いや、黄金はそれ自体価値がある、と異論を述べる人もいるだろう。何しろ、容易に加工できる「美しい」金属で、しかも時の浸食を受けない。だから黄金には絶対的な価値があるのだと。なるほど、それらの美点は確かにある。特に、貨幣を作る上で、黄金はいい原材料だろう。そうした価値を否定はしない。貨幣経済の上に成り立っているこの社会を維持する上で、黄金は重要な要素には違いない。しかし、黄金の持つ価値は、必要以上に吊り上げられているのではないだろうか。他の貴金属や宝石なども同じである。
 では、芸術品の価値はどうだろうか。ゴッホの絵とセザンヌの絵は、どちらがどれくらい上なのだろうか。我々素人からは、その価値の差はわからない。三つ以上の数の数えられない土人同様に、どちらも「たくさん、たくさん」という評価しかできないのである。しかし、現実には、ゴッホの「この絵」は幾ら、セザンヌの「この絵」は幾ら、と評価がちゃんとついている。では、その値段は誰がつけるのか。ここで登場するのが「専門家」である。彼らは専門家同士のギルドを作り、その内部でさまざまな物に値段をつけ、それを素人に売りつける。物の値段、物の価値はこのようにして決まっていくのである。生きている間は1,2枚しか売れなかったゴッホの絵も、誰かが提灯持ちをし、評価をつり上げていった結果、生きていた時のゴッホ自身では絶対に買えないような巨額の値段がついていったわけである。正直言って、私はたとえばセザンヌの絵に価値があるようには思えない。印象派以前の古典派の絵なら、その技術の巧拙だけでも、ある程度の価値判断はできる。だが、その相場として、果たして食事一回分の値段が適当か、それとも庶民の一生の稼ぎに相当する金額が妥当かはわからない。そして、専門家たちは、後者が妥当だと言うのである。
 なるほど、芸術作品に巨万の金を出す人間がいるのは確かだ。だが、それは、彼らにとっての金が、庶民にとっての水や土と同様の安価な物だというに過ぎない。自ら紙幣を印刷できる人間には、紙幣は紙切れと同様だろう。
 問題は、こうして値段がつけられると、その対象品は、それからは庶民の手には決して届かないものになることである。
 我々の住むこの社会では、こうした「価値のピラミッド」が作り上げられている。一着100円のシャツもあれば、一着数千万円の衣服もある。1000円の腕時計もあれば、数百万円の腕時計もある。しかも、後者の方が性能は悪かったりする。
 とすれば、社会的な価値というものは、その大半は幻想的なもの、あるいはもっと端的に言えば、詐術だと言ってもいいのではないだろうか。実は、これがこの文章を通して私が言おうとしていることなのである。
 つまり、社会的価値とは、個人的な主観から出発して、それが社会的な広がりを持つにつれて様々な詐術が加わり、やがて壮大な幻想のピラミッドになったものである。
 もちろん、個人の主観の段階でも、すでに幻想だ、と岸田秀的に言ってもいい。だが、ここで洒落たつもりの言い方をするなら、それ(「価値という幻想」)は「価値ある幻想」かもしれない。幻想には違いないが、幻想が無価値だとは言えない場合もある、ということである。

第4節 生きる価値

 つまり、価値は幻想かもしれないが、それによって我々は人生を生きる価値のあるものにしているのである。我々は自分を取り巻く様々な物に価値づけをすることで、自分の人生を価値あるもので満たすわけだ。たとえば、漫画の好きな人間は、それを価値ありとしている。スポーツ観戦の好きな者は、それを価値ありとしている。周囲に対してそうした価値を感じられなくなった状態が、ニヒリズムである。ニヒリズムとは、つまり価値の喪失なのである。「空なるかな、空なるかな、空の空なるかな、すべて空なり」というわけだ。そうなれば、人生そのものも無価値で、生きるに値しないということになる。
 ここで、最初に戻って、実は価値とは自分が決めるものだ、ということに思い至れば、この人生が価値がない、というのは、実は自分がそう決めたというだけのこととなる。そうしたニヒリズムには一種のロマンチックなイメージもあるから、それに陶酔するのはいいが、それを本気で信じるのは、自分で神様を作り出して、その神様を礼拝するようなものである。
 
 我々は、自分の人生やこの世界を価値ありとすることもできれば、無価値だとすることもできる。一つ一つの事柄に対する価値判断も同様だ。要するに、価値判断にはもともと何の根拠もいらないのである。問題は、そうして下された価値判断が社会的な広がりを持ってきた場合である。価値とは、原則として比較である。絶対評価ではなく、相対評価なのだ。その評価のピラミッドがこの世を一種の地獄にすることもある。つまり、価値の体系の下層に置かれた存在にとって、価値ほど呪わしいものはない、ということになる。
 価値が主観の範囲に納まっていれば、価値は人生の輝きを作る。だが、それが客観のふりを始めると、それは地獄となる。我々は他人の作った価値観の泥沼に足を取られて、やがては自分自身やその周辺の物事を無価値な存在とするようになるのである。だが、価値とは本来、主観から始まったものでしかない。「客観的価値」も誰かの主観が他人を巻き込んでいっただけなのだ。ならば、再び我々は、価値判断を自らの手に取り戻してもいいのではないだろうか。
 
 アメリカン・コミックのポパイの口癖は、「俺は俺さ」である。つまり、他人がどうであれ、俺は自分の考えで行動する、という宣言だ。そのような、自分自身が拠り所である強い自我を持った人間は、現代には少ない。リースマンの言う、「他人志向」型の人間がほとんどだ。いつも、他人がどう思うかを気にして、おどおどと振る舞うのである。
 自分が「価値有り」と思う事柄は、果たして本心からそう思っているのか。それとも他人の価値観に従っているのではないか。もしも、それが本当に自分の心からの考えなら、他人がどう言おうと、「俺は俺さ」と言えるはずだ。
 もちろん、社会の決めた価値観に従って生きるのは楽かもしれないし、安全かもしれない。しかし、人生をトータルして考えた場合、他人の価値観に従った生き方が満足を与えるかどうか、怪しいものである。まして、その「社会的価値観」が、一部の人間の利益のために作られ、維持されてきたものなら、それによって不利益を得ている人間が無数にいるはずである。要するに、社会の底辺にいる人間の不幸の土台には不公正な社会的価値観があるということだ。それは不幸な人々の物質的不利益の原因でもあり、精神的不利益の原因でもある。
 なぜ「足が長い人間はカッコいい」ということになっているのか。「足が短いほうがカッコいい」という考えがなぜ「正しくない」と言えるのか。それは、ただ長い間に形成された「社会的価値観」のためである。欧米人種的な体型や容貌は美しく、アフリカ人やアジア人は美しくないという価値観が、あらゆるメディアを通じて、我々の心に刷り込まれ、植え付けられてきたからである。ならば、我々「醜い人種」は、「足が短く、鼻が低く、平面的な顔のほうが美しい」という主張をしてもいいのである。
金で計る価値にしても同じことであり、我々が既成の価値体系にノーを言い、誰もが贅沢品に無意味な出費を渋るようになれば、企業は安くて良い品を作ることに努力するようになるだろう。
学生の場合なら、「成績」というただ一つの価値観で自分を測るかぎり、その底辺にいる人間は不幸になるしかない。運動能力や芸術の才能があればまだいいが、それも無い場合はどうするか。「そんなのはみんな他人が勝手に作った価値観だ。俺には俺だけの価値がある。他人がどう言おうが関係ない」と思えばいいのである。

4 「I am what I am.」(俺は俺さ。)

 この言葉には、地面にしっかりと足をつけて生きる人間の気迫がある。
 

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この諸法の空相は

私はただの「思いつき」を「思考素材」と堅苦しい言い方をするのだが、我々の思考は無意識の大海の中から浮かび上がる「断片的思考」が機縁となって、後はそれに引き続く連想によってまとまった思考ができてくるものである。で、一番大事なのはそのきっかけとなる思考だから、それをわざわざ「思考素材」と呼んで重視しているわけだ。もちろん、世間的な成功を収めるには、本当に一番大事なのは、思考の継続性と徹底性、正確さではあるのだが、べつに偉大な哲学者や宗教家になりたいのでなく、思考そのものを楽しむのなら、やはり面白い「思考素材」が浮かび上がってくることが一番だ。
そういう意味では私の好きな箴言的な言葉はほとんどが思考素材でもある。そしてそうした特有の好みの思考素材が混じってくることで、思考の方向が私好みの方向になっていくわけだ。だから私はいつも同じような事を言ったり書いたりすることになる。まあ、食べ物の好みと似たようなものである。進歩が無い、と言われればその通りだ。
さて、私の思考素材の一つに「般若心経」がある。「聖書」も好きだが、それは文学として好きなのである。世界の創造主としての神など、私にはお伽話としか思えない。ただし、「我々の内なる神」という考え方なら好きだ。で、私は宗教としての仏教の信者ではないが、哲学としての「般若心経」は非常に面白いと思っている。
少し前の「山科恭介のブログ」でその般若心経についての文章があり、それを面白く読んだのだが、その中で「『空』は『無』の上位概念である」と断定的に、何の説明も無しに書かれていたことが少し引っ掛かった。
そこで、それを思考素材として少し考えてみたい。

私としては、「色即是空、空即是色」に先立つ「是諸法空相……色即是空、空即是色」の「是諸法空相」を問題にすべきではないのか、と思うわけである。つまり、この世界の諸法則(世界の在り方)を「空」という相(フェイズ)に於いて観じる時に、「あらゆる存在は空と見なせ、また空はあらゆる存在でもある」というのが私の解釈だ。つまり、「空」とは「空という見方」である。それを私流にこじつければ、「自分が存在しない場合のこの世界」が「空」なのである。自分がいなければ自分にとっての世界は存在しない。したがって「色即是空」である。「色」とはあらゆる存在、と考えておけばいい。あるいはあらゆる現象、でもいい。そしてまた、常識的に考えても分かるように、私が存在しなくてもこの世界は客観的には存在し続ける。だから「空即是色」なのである。
実に簡単で合理的な解釈ではないだろうか?
そして、これが実はすべての娑婆苦から脱出する道でもある。つまり、この人生のさまざまな不幸に苦しんでいる人間は「自分が最初からこの世界に存在しなかった世界」を思考実験的に考えてみればいい。そして、その世界と、今、あなたが苦しんでいるこの現実世界と比べて、どちらを選ぶだろうか。おそらくほとんどの人は、あらゆる苦難にも関わらず、「自分がこの世に存在する世界」を選ぶだろう。まさしく「生ける犬は死せる獅子に勝る」(聖書)のである。そして、ひとたび生を選んだ以上は、不幸や苦難にめそめそせず、雄々しく人生に立ち向かう意志が生まれるのは当然のことだ。
もちろん、「死に勝る苦しみ」を今現に味わっている人間には、こんなのは寝言かもしれない。そういう人間が自殺を選んだとしても仕方のないことだ、とは思う。それに、私自身、「いざとなれば死ねばいいさ」と、生きることを軽視するかのようなことを少し前に言ってもいるのだが、それは生の軽視ではなく、生にあまりに執着したくない、ということだ。生への過度の執着が多くの人にとって、逆に精神的な不幸や不満の原因になってはいないだろうか。前回書いた、認知症になったら殺処分にする、というのは、私自身が自分自身への処置として強く求めていることなのである。
死は必ずいつかは来るものであるし、死んだ後にどんな世界があるのか(まあ、まったくの虚無である可能性が99%以上だろうが)誰にも分からないのだが、「曲がり角を曲がった先に素晴らしい風景が広がっている」(「赤毛のアン」より)というのは人生だけでなく、死についても成り立つ可能性もある。
要するに、いつでも死ねるということの安らかさ、という考え方もありだ、ということである。死はすべての義務や苦痛からの解放でもあるが、すべての快楽からのお別れでもある。どちらかと言えば生のほうがいいが、生がすべて苦痛のみになれば、あるいは生きていてもしょうがない、という状態になれば、死も一つの選択肢であっていい。
我々はこの世界の下宿人のようなものだが、この世界を自分のイメージを元にして飾り付けることは許されている。そして、すべては我々がいかに考えるかで決まるのである。そういう意味では本当の富とは精神的な富のみである、と或る英語リスニングCDの中で最近聞いたのだが、(まあ、聞き間違いかもしれないが、私が聞いたことが私にとっての現実だ)実際、あらゆる幸も不幸も、根本的には我々の精神的態度で決まるのである。

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変化を恐れ、自ら不幸を選択するという愚かしさ

「マドモワゼル愛」さんの今日の記事(今日の日記)が実にいい内容なので、紹介する。最初と最後だけは別の話題なのでカットしてある。
実は、私が今日の分に掲載しようと思って書いてあった文章があるのだが、その内容と非常に近いものがあるので、それも続けて掲載する。
愛さんのこの文章の中でも特に気に入ったのは


「将来、空気中から、また真空から、有り余る電気が得られたとした、石油のために戦争していた時代は、一体何だったのか、、、と思うようになるだろう。

顔がまずいとか、給料が安いとか、人に遅れをとるとか、、、そういうことで人生を不幸だと思っていたことが、なんと勘違いだったかと、わかるようなものではないか。

そんなところに人間や命の意味があるのではない、もっと大きな仕掛けの中に人は生きている。誰でも。」

という部分だ。
私は、この「フリーエネルギー(無料エネルギー)」は確実に実現する、いや、もしかしたら原理はすでに発見されているのではないかと思っている。映画「スライヴ(「繁栄」か?)」では、そうほのめかしてもいる。
大企業の利益を守るために大事な発見が隠されたり葬られたりしている例は多いはずだ。企業の邪魔になる研究が妨害されるというのはありふれたことで、これは井口博士の新しい記事の中で大学の先生自身が証言している。
ともあれ、フリーエネルギーが出現したら、もはや世界の在り方はまったく変わるはずだ。富の異常な偏在という悪も抑止されるだろう。そして富の偏在から生じる悪もまた消えていくことになり、いわば地上の天国に近づくのである。
そうなった時に、20世紀から21世紀前半の人間が富を争ってお互いに殺し合い、いじめあっていたことが不思議に思われるようになるはずだ。
これが私の言う「人類幼年期の終わり」である。




(以下引用) 


これから色々な変化が起きてくると思いますが、最初は混乱にみえて、実は新たな秩序がそこから生まれているという形になると思う。

とにかく変化を恐れないことです。変化していくものには命が必ず伴うので、本当は心配は不要。

けっきょく、今変化を恐れているのは、これまでの既得権益的なものにしがみつく人がメインであり、多くの人は一見変化を恐れるように見えて、さすがにここまでインチキ社会となれば、もう壊れてしまったほうがいいのでは、、、、と受け入れる気持ちも逆に育っている。

変化の中に身を置くと、そう決めるだけで人生は楽になっていきます。

人生のあらゆる秘密を知っている人がもしいたとすると、私たちが日ごろ抱く不安や恐れが、いかに取るに足らないものかと思うはず。

すべてはよくなるために変化していくのだから、いやなことでも起きてしまった現実は、良い方に向かうための生涯(夢人注:「障害」の誤記だろう)の除去だったり、消失だったりして、次の展開をもたらしてくれる貴重なわざわいであることになる。

これは事実で、不幸な出来事があったとしても、それは決して不幸ではない。不幸とは、しがみつき、変化を恐れることなのだ。

青年期によく読んでいた本に荘子があるが、その中に、ある朝、自分が鳥になっていたら、その時は思い切り鳴いてみよう、、、というような文章がある。

運命の変化を受け入れることを言いたいのだが、荘子のすごさは、ただ受け入れるのではなくて、それを面白がっているところにある。

鳥になるのなら、鳴いてやる、、、、なんでもござれ、なんでも、どんな変化でも、オーケー。どんな運命が自分に訪れようとも、それを見事、楽しんでやるぞ、、、の凄味である。

それによれば、あらゆる不幸が消失してしまう。あくまで不幸にしがみつくのは、心ない田舎者の一部のバカ連中だけになってしまう。本当は不幸などない、、、変化を楽しむことで、こちらにもわからない大きなものが進展いていく、、、、

とんでもなく面白い劇が、まるで神芝居(夢人注:「紙芝居」の誤記だろう)がどんどん進展していってしまう、、、、

一見現実離れしているように見えて、それは事実なのではないか。

将来、空気中から、また真空から、有り余る電気が得られたとした、石油のために戦争していた時代は、一体何だったのか、、、と思うようになるだろう。

顔がまずいとか、給料が安いとか、人に遅れをとるとか、、、そういうことで人生を不幸だと思っていたことが、なんと勘違いだったかと、わかるようなものではないか。

そんなところに人間や命の意味があるのではない、もっと大きな仕掛けの中に人は生きている。誰でも。

それでもなを、自分を不幸だと思いたい人はいると思うし、客観的に見て、確かに大変だ、、、という状況はあるだろう。しかし、変化が重要という大きな原理の前では、私たちが感じる不幸は、やはり趣味程度のものでしかなくなる。

自分を不幸と思う人は、本当は趣味でそう思っているといったら怒られるだろうが、私が青年期の悩みに悩んで、あまりにまじめに悩みすぎた結果、ある日、私は不幸に飽きてしまったことがある。

それはウソでない感覚だった。むしろ不幸がウソだと分かった瞬間、私はそれに飽きてしまったのだ。

本当はこの世に不幸などないのだ。不当なことや、おかしなことや、苦しいことははっきり言ってたくさんあるが、それは不幸とは違う。

不幸は運命ではなくて、選択なのだ。不幸を選択するのも趣味としてはいいが、本気で趣味にしたら、実態が乏しいので、すぐに飽きるはずである。

不幸に飽きない人がいたとしたら、それは不安から不幸にしがみついているのだ。不幸よりも不安の方が怖いからに違いない。


しかし、人生が不安であるわけがない。大きな仕組みがあるからだ。

また人生はそんなに複雑なものでもない。戦争も本当は複雑なものではなく、金儲けや権力維持のために起こる単純な動機を持っている。

ただ、それだとばれてしまので、どうすれば戦争がなくなるのか、、、というようなまことしやかなウソを振りまいて逃げているに過ぎない。

不幸も戦争も単純。それを選択する人がいるというだけの話しなのだ。

なので、あなたは何を今、明日、選択しますか、、、を常に尋ねられているのが人生。よい気持ちで、楽しい気持ちで、変化を受け入れていく。

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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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