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日本の悪習

「2ちゃんねる」の「日本の悪習を挙げる」というスレッドの中の、下のコメントに感心したので、備忘的に転載する。これを書いた人は、相当に頭がいい。他のコメントはほとんどが感情的かつ無知蒙昧なものであるが、中にこのようなものが混じっていたりするから、「2ちゃんねる」も馬鹿にできない。「ネットゲリラ」の存在価値もそこにある。


(以下引用)




95 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/09/18(火) 21:27:26.97 ID:uyzyXvOw0


・法律やぶっても残業当たり前
・死ぬまで働いてようやく人並みの生活
・上に立つ人間ほど理不尽な振る舞いが許される
・エスカレーターで片方に寄るという非効率的ルール
・ホテルの宿泊代が部屋単位で決まってなくて宿泊人数で増えるというガラパゴス料金システム
・世界標準から常識がかけはなれているため色々な人種差別を普段全く意識せず行なっている
・手書きの履歴書
・芸能スポーツ界の人間が平気で選挙に出てきて当選しちゃう
・全体主義的な風潮で個人主義を弾圧するため健全な議論や主張展開ができない
・海外ではゲイ扱いされるようなナヨナヨしたガリ男がなぜかモテる
・海外では売春婦にしか見えない格好を小中高生の女の子がしている
・完全にガラパゴス化している自動車関係の税金・法体系
・責任をとることを極端におそれ、決定を先延ばしする
・中身の無い様式美をビジネスなどにも持ち込みたがる
・指導者に合理的な思考がないため運動部で毎年熱中症で死ぬ子供たちがあとを絶たない
・日本の夏は高温多湿なのに礼儀のためにスーツを着ないといけないという風潮
・冠婚葬祭での異常な価格設定
・ブランド信仰・舶来品信仰
・過剰包装

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金儲け主義の結果は「安全に食べられる物が無い」世界

最近、健康関連の記事を書いていなかったので、今日は「JBプレス」から「牛乳を飲むと癌にかかりやすくなる?」という記事を転載する。
ただし、ここで言う「牛乳」は「成長促進ホルモン」を投与した牛の牛乳である。ま、ほとんどがそうだろうが。
「成長」するなら結構なことではないか、と思うかもしれないが「成長期」が終わった人間に成長促進ホルモンを与えたらどうなるか。当然、細胞の異常増殖、すなわち癌になると予想できる。まあ、牛に与えた成長ホルモンがそのまま人間の体に吸収され、効果を与えるかどうかは分からないが、危険性があることはあるだろう。
つまり、成長途上の子供に牛乳を与えるのはいいが、大人が牛乳を飲むのは、あまりお勧めできない、ということだ。
しかし、話は牛乳だけではない。肉牛にせよ、チキンにせよ、現代の大量飼育動物には成長ホルモンが与えられているはずだ。それらが癌の遠因になっている可能性は高い。
まあ、その他にも、水道水に投与される塩素なども癌との関係が疑われるし、野菜や果物の残留農薬だって危い。さらに昨年からはそこに放射能というニューフェイスがデビューして大活躍だ。要するに、安全な食品など無いのだが、何も食わないわけにもいかないから、少しでも安全「に見える」ものを探すしかないだろう。
私? この年になれば食い物などべつにどうでもいい。まあ、一番望むのは長患いをせず、ある日突然頓死することである。(言うまでもなく「頓死」は「突然死ぬこと」だから「突然頓死する」は畳語であり、文飾としての冗語である)



(以下引用)


牛乳を飲むとガンにかかりやすい、は本当なのか

IGF-1の過剰摂取は膀胱、前立腺、乳ガンなどを引き起こす



2012.09.18(火)

大西 睦子:


MRIC by 医療ガバナンス学会 発行

みなさん、「牛乳を飲むと、がんになりやすい」とか、「ホルモン注射で若返る」なんていう話を聞いたことがありますか?

 こんな話題、アメリカでもよく耳にします。今回は、この議論の真相に迫ります。「それにしても、どうしてこの2つの話題をいっしょにするの?」と不思議に思う方もいると思います。それは、「インスリン様成長因子1:insulin-like growth factor 1:IGF-1」という、共通のホルモンが鍵となっているからです。

 私は、アメリカのスーパーマーケットで、牛乳、ヨーグルトやバターなどの乳製品を買う時、「no artificial growth hormone」、「not treated with rBGH」という表示を探します。これは、「成長ホルモンを使用していない牛からの製品ですよ!」という意味です。

 現在、アメリカの牛の約20%に、遺伝子組み換え牛成長ホルモン(recombinant Bovine Growth Hormone: rBGH)が投与されています。rBGHを投与すると、乳牛の成長が早まり、乳量が約15~25%増加し、乳を出す期間も平均30日ほど長くなります。

 ただし、rBGHを注射した牛は、乳腺炎になりやすいため、抗生物質を投与しています。従って、牛乳に抗生物質や膿汁が混ざる可能性があります。さらに、rBGHを投与した牛から採れた牛乳にはIGF-1が非常に高レベルで含まれています。

 IGF-1は、細胞の成長や分裂の促進、細胞死を抑制し、私たちの健康維持や成長に非常に重要なホルモンです。

 しかし、IGF-1を過剰に摂取すると、異常な細胞増殖、すなわちがん化につながり、膀胱がん、前立腺がん、乳がん、大腸がんの発症リスクとの関与が指摘されています。

 牛乳中のIGF-1の体内への吸収のメカニズムや、がん細胞の増殖への関与は不明ですが、先進国で唯一のrBGH認可国であるアメリカでは、消費者の不安は高まっています。

 日本、EU、カナダ、オーストラリアなどでは、rBGHの使用を禁止しています。しかし残念なことは、rBGHの表示が義務付けられていないため、輸入された乳製品や牛肉の状況は分からないことです。

 実際、食生活の欧米化に伴い、私たちの病気の傾向が変化しています。私は、今後、この問題を慎重に考えていくべきだと思います。

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競争って本当に必要か?

「阿修羅」記事から転載。筆者は河合薫という人らしい。テレビなどにも出ている人のようだが、なかなか考え方がまともだ。つまり、人間らしさがある。

私は競争というものが大嫌いなのだが、それは必ずしも「負けるのがいや」というだけではない。「勝つのもいや」なのである。
私が勝てば、誰かが負ける。その負けた人間の不快な心中を考えると、勝っても嬉しくないのである。いや、勝った経験はほとんど無いけど。
こういう人間が競争社会でまともに生きられるわけはない。受験生を指導している間も、「自分が教えている生徒が合格すれば、その分誰かが落ちるんだよなあ」と考えているから、教えていてもあまり充実感は無かった。つまり、ダメ教師だったのだろう。
もちろん、この世界が本来は弱肉強食の生存競争の社会であることはよく分かっている。しかし、人類の進歩と発展は、人間同士が殺しあったり蹴落としあったりしなくても互助的に生きられるくらいには精神的文化的に向上したのではないだろうか。
仮にそうなっていなくても、そうなれるだけの潜在力はあるのではないか?
ならば、人間同士を競争させ、お互いを蹴落としあわせて、そのエネルギーや成果で発展していく、という在り方は、必ずしも絶対的な成長の条件ではないだろうし、そもそも、「成長信仰」は地球の資源量から言って、過去のものになりつつあるのではないだろうか。
ということで、私は競争が嫌いなのだが、スポーツ観戦は嫌いではない。試験は嫌いだが勉強は嫌いではない。今でも趣味で英語の原書にチャレンジなどしている。テレビなど見るより、昔翻訳で読んだ本を英語で読んだりするほうがよほど面白いのである。
私は今、2×2×3×?歳だが、これまでの人生で知り得た有益なもの、面白いものを、これからはじっくりと味わえるのが老年だと思っている。なにしろ、競争社会の中では、趣味的なものをじっくり味わう心の余裕も無かったのだから。



(以下引用)


 問題は、「集団の名声=自分の価値」「集団の名声=人の価値」となってしまうこと。自分の属する集団の評価が高いだけでしかないのに、あたかもそれが自分の価値だと勘違いした途端に、ややこしいことになる。

 競争に勝った人は、価値ある人。
 競争に負けた人は、価値なき人。
 競争に参加しなかった人も、価値なき人。

 こうした具合に、競争社会ではただ単におカネを稼ぐ能力の違いだけで、人間の価値まで選別されるようになってくる。競争に勝てなかったというだけで、人間的にもダメなように扱われてしまうのだ。

 おまけに人間には、自己の利益を最大限守りたいという欲求もあるため、ひとたび負け組の集団に属することになった人が、二度と自分たちの集団に這い上がってこられないような行動を無意識に取ることがある。

 「今あるものを失うかもしれない」と恐怖を感じた時には、自分が生き残るために人を蹴落とすこともいとわない。それはまさしく、人間の心の奥に潜む、闇の感情が理性を超えて噴出した瞬間である。

 ところが、勝ち組の枠内にいる人たちは、自分たちが自分たちの名声を守るために、下を蹴落としていることに気がつかない。それがまた、競争を激化させる。

 競争を煽れば煽るほど、“競争に勝った人”は自分たちに有利になるように物事を進め、一度でも“競争に負けた人”は「どんなに頑張ったところで勝ち目はないんでしょ? だったら頑張ったって無駄じゃん」と、稼ぐ努力も学ぶ努力も次第に失い、格差がますます広がっていってしまうのである。

 おカネというものがこの世に生まれるまでは、人の生活は公平な分配が基本だった。狩りで捕らえた鹿は、みんなできちんと均一に分配する。人よりも多く取ったり、隠し持ったりした人は、誹謗中傷の的となった。

 ところが、おカネが生まれ、自分の好きなものをゲットする自由を得たことで、公平な分配社会は終焉を迎える。だが、その時の人間には、自分だけが手に入れることへのうしろめたさがあったそうだ。「自分だけがいい思いをしてしまって、申し訳ない」と。



 そして今。そのうしろめたさを、果たしてどれほどの人たちが抱いているだろうか。持つべきものと持たざるべきものの差が、あたかも人間の格差のように扱われてしまう世の中に、どれだけの人たちが心底から疑問を感じているだろうか。


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女子高生妊娠推進法案でも作れば?

「村野瀬玲奈の秘書課広報室」から転載。
いや、まあオトコを全部ひっくるめて否定されるのも困るが、専門家とか学者とか政治家とか評論家とか威張っている連中も、時々その馬鹿さや幼児性を丸出しにしてしまうのは確かだ。つまり、連中が長けているのは「演技力」と「弁舌力」であって、大半の連中はそのへんのオッサンより頭がいいわけでも知識が深いわけでもない。
しかし、この「高校で妊娠した生徒に奨励金」は私も読んで大笑いした発言である。たしか「アンファニズム」にも書いた記憶がある。
昔、受験生相手に小論文指導をした時に、冗談としてこれと似た「ラディカルな少子化対策案」を一部の生徒に見せたことがあったが、茶会屋、じゃない、堺屋太一は本気でこれを考えたのなら、もはやれっきとしたボケ老人だろう。
石原といい、この堺屋といい、若いころから他人に威張ってきた人間は年を取ると人間の屑になるのが相場らしい。
物はついでだから、私が昔書いたその冗談小論文も付録として載せておく。これを読んで、私こそが石原や橋下以上の鬼畜だ、と言われる可能性もあるが、まあ、どう言われようがべつにいい。
後半の新しい教育システムについての提案は「ゆとり教育」で少しは実現したが、その結果として生まれたゆとり世代の「処分法」はさすがに実現されてはいない。もっとも、そのうち「美男美女利用法」は「芸能界への一般人大量採用」で実現した。
これを読みなおして気づいたのだが、「女子高生妊娠奨励金」は実は昔も実際に法案として提出されていたようだ。これも堺屋太一が主導者だった可能性はある。もしそうなら、ボケ老人というより、進歩が無い人間である。


(以下引用)


オトコの経済アタマの思い付き放談大会では、無責任な強者優先主義が全開。 (維新の会討論会)
ジャンル : 政治・経済 スレッドテーマ : 橋下徹
  

「維新八策」を発表して舞い上がっている高揚している大阪維新の会(日本維新の会)の討論会というものが9月9日にありました。応援団の活字産業のひとつである産経が参加者の発言をほとんど逐一起こした記事を出しているので、参考のために「追記を表示」に入れました。

さて、その発言録を一通り読み通して思ったのは、「オトコの経済アタマの思い付き放談大会だなあ。その根底には責任放棄の強者優先主義がはっきり見えるし。」ということでした。

「オトコの経済アタマ」とは、日本経済新聞の社説を読んで私がよく感じることです。以前、次の記事で詳しく書きました。

■オトコの経済アタマの限界 (日本経済新聞2012年元旦社説)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-3115.html
2012-01-11

「オトコの経済アタマ」とは、上から下を見下す視点設定、現実を忘れて自分が颯爽と活躍するヒーローになった気分を全開にする態度、自分が実力だけではなく周囲からのおぜん立てや援助で今の地位にあることを忘れた感謝心の欠如、金銭万能主義信仰、弱肉強食を肯定する過剰な実力主義信仰、権力好きなどの鼻持ちならない性格を一言で表現した私の造語です。まさに、橋下徹とその取り巻きが大集結したこの討論会では、至る所で「オトコの経済アタマ」が全開になっています。

実際、この討論会には女性がほとんど参加していません。まさに「オトコの経済アタマ」のホンネが全開になっていて、たいへんに「興味深い」内容になっています。これからさらに日本をダメにするのはまさに「オトコの経済アタマ」であることを予感させる討論会です。

出された発言の一つ一つは、一般論にとどまっており、その意義や実現の手順などが語られているわけではありません。だから、現時点で一つ一つ取り上げて批判しても、暖簾(のれん)に腕押しという感じで、意味はあまりありません。しかし、これらの発言をしている者たちの「俺たちが日本を変えるのだ」という力みかえった支配欲というかはしゃぎぶりというか「政治ごっこ」に辟易します。

でも、せっかくの機会です。一つだけ、具体的に「オトコの経済アタマ」を象徴する発言を取り出してツッコんでおきましょう。秋原葉月さんの「バカ殿垂れ込み部屋」にコメンテーターの観測霊さんが記録していた部分を、変換ミスを直したうえでこちらにも引用させていただきます。


http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-1036.html#comment9582

2012.09.11 ( Tue ) 22:04:10 | 観測霊

http://bit.ly/NmbWb6
【維新!討論会要旨】
(3)人口減少「高校で子供産んだ人にお金とか」(15:00~16:00)
msn産経ニュース 2012.9.9 19:32 (5/5ページ)

(引用ここから)
 《人口問題を古くから研究してきたという堺屋太一氏は人口増への“秘策”を披露した》

 堺屋氏「(出生率が高い国の理由は)子育てを市場化したから。ベビーシッターがいつでも来てくれる。それと若年出産率が高いからだ。だから若年出産率が高くなるような施策をとればいい。例えば高校で子供を産んだ人に校長がお金を配るとか。そういうことを家庭の問題などと合わせて議論してもらいたい」

 《続いて社会保障が専門の鈴木亘学習院大教授は、内部留保が膨らむ閉鎖的な社会福祉法人の改革案を質問。府市特別顧問の上山信一氏は規制緩和と道州制の関係についてコメントした。討論会はスタートから3時間経過したが、テーマが多岐にわたり、消化不良的な側面も否めない》
(引用ここまで)

…高校生に?子どもを産んだらお金を?校長が?渡すの?ごめんちょっと意味が解らない。
…七生養護学校(当時)を攻撃したような人たちが聞いたら卒倒しそうな提案ですな(笑)
それはさておき、高校に通いながら育児するのに、どれだけ公的なサービスを提供できるつもりなの?全ての学校に託児所と保育士を置く覚悟はある?お金を渡すって言ってもいくら?はした金もらえるから子ども産むとか、ふつう考えませんよ(^_^;)
ツッコミどころが多すぎて、もうなにがなにやら…orz

あと、何気に西成のフィールドワークしてたという鈴木亘学習院大教授が「内部留保が膨らむ閉鎖的な社会福祉法人の改革案を質問」とか言ってますが…。

内部留保がヒドイのは大企業の方やろうが!!

あんたが調査してた西成なんて、その内部留保の犠牲者がゴロゴロおったはずやぞ!この人、ほんまに西成でフィールドワークしてたの?ちょっと信じられません。

(転載ここまで)

「七生養護学校」とは、次の記事などでうちでも取り上げたことのある、おかしな信念にとりつかれた都議会議員にせっかくの重要な教育実践をめちゃめちゃにされた東京の養護学校です。

■七生養護学校「こころとからだの学習裁判」控訴審判決:「都教委は違法」
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-2865.html
2011-10-03

で、この維新討論会の内容に戻ると、この堺屋太一というオッサンは、ベビーシッターがいつでも来てくれる程度のことを「子育てを市場化した」ととらえていて、それが出生率を高めた理由だと言います。それはちょっとずれた見方じゃないかと思うのですが、すごいのがその先。若年出産率を高めるために「例えば高校で子供を産んだ人に校長がお金を配るとか」いうアイデアを真面目に提唱しているのです。

若年層、たとえば高校で子どもを産むことを奨励する政策を採用するとしたら、それって、政策の大転換です。現在の日本の人々の生活状況から完全に離れています。現在の日本人のうち、今10~20~30代である人々の生活の状況をつぶさに観察して言っているとは思えません。

カネさえ支給すれば人々は何でもするという考えをこの堺屋太一氏が持っていることがこの発言に浮き彫りになっています。

そして、高校で子どもを産んだとして、学業との両立とか子育てのための社会支援の方法とか当人のその後の就職とか、何も考えていない思慮の浅さ、つまり、責任感のなさも堺屋氏は露わにしています。

いえ、そもそも、高校で子どもを産ませるためには、中学校3年生あたりから性的な男女交際を子どもたちに始めさせておかなければいけないと思うけど、その現実的な具体案を堺屋太一氏は考えていないと思います。笑

ていうか、こういう支給金、そのうち誰かが「バラマキだ!」などと言い出して廃止してしまうのではないでしょうか?笑

...まるで、この堺屋発言、飲み屋での酔っぱらいの政治談議みたいです。しらふでこのような「アイデア」を恥ずかしげもなく開陳できる堺屋氏の頭、大丈夫でしょうか。

堺屋太一って、この程度の底の浅いオッサンだったんだと笑っていてはいけません。こんな人をブレーンにする大阪維新の会に、日本の一億二千万人を超える個々の人々の生活の中での切実な要求に人々から徴収した税金を配分して応える現実的な社会的政策を構想できるとは思えないのです。

「オトコの経済アタマ」がいかにお粗末なものか、橋下徹・大阪維新の会(日本維新の会)の言動を今後も観察し続ければ、さらによくわかるでしょう、と私は予言します。





<付録>

「少子化問題についてのラジカルな考察」


相変わらず、日本の少子化を心配する人々は多く、今度は女子高生の妊娠にまで「奨励金」を出そうというふざけた法案が国会に提出されているが、ここで日本の少子化問題について、根源的な考察をしてみよう。まず問題を以下のように設定しよう。

① 子供はなぜ必要か。
② なぜ子供を生む(生んだ)のか。
③ 女性は本当に子供を欲しがるか。
④ 男性は子供を欲しがるか。
⑤ 誰が子供を育てるのか。
⑥ 少子化は憂慮すべき問題か。
⑦ 少子化を食い止める有効な方法はあるか。
⑧ 出産・子育てを人びとはなぜしなくなったのか。
⑨ 政府には何ができるか。
⑩ 個人としてどうあるべきか。

だいたい、以上のような内容で考えてみよう。

① 子供はなぜ必要か。

これに対する大方の答えは、「老後の保障になるから」「子供自体が可愛いから」「子供を生んで社会を維持するのは社会人としての義務の一つだから」という三つだろう。
その否定命題は「子供が老後の保障になるとは限らない。また、老後を子供に頼る姿勢はいやらしい」「可愛くない子供の方が圧倒的に多い。子供を可愛いと思うのはその親だけ。可愛がるものが欲しければ、ペットでも飼え」「社会維持の義務なんて、知ったことではない。子供を生むことまで社会から強制されるいわれはない」といったところ。どちらかと言えば、否定派に理がありそうだ。つまり、子供が必要なのは、社会全体(もしくは将来の労働力を求める産業界)であって、個人としては、子供がぜひとも必要という理由はなさそうだ。

② なぜ子供を生む(生んだ)のか。

これに対する父親側の答えは、「できてしまったから」というのが圧倒的に多いはずである。世のほとんどの男性は、妻や恋人が妊娠したと知らされたら、まず呆然とし、次に、子供を生むかどうか頭を悩ませる。しかし、いったんできた胎児を殺すという「殺人」はいやだから、子供を生むことに賛成する、というのが正直なところだろう。子供ができて大喜び、なんてのは、ホームドラマの中だけだ。しかも、その「子供ができて大喜び」というのも、「これで後継ぎができた」とかいう不純な動機があったりする。もっとも、このようにして生んだ子供でも、生まれたら可愛く思うもので、子供への愛情は、妊娠時点でのこの父親の感情とは無関係である。女性がなぜ子供を生む(生んだ)のかは、私は男だから想像しようがない。まあ、可愛い物なら何でも好むのが女性だから、自分だけのための生きたお人形が欲しくて生むというのが一番正解に近いのではないか。

③ 女性は本当に子供を欲しがるか。

 これは事実が示している。女性が本当に子供が欲しければ、少子化問題など起こるはずはない。つまり、子供というのは、女性の人生設計の中の一選択肢に過ぎないのであり、それより優先順位の高いものがあれば、無視して良いという程度のものなのだ。たとえば、仕事の上でのキャリアと子供を生むことと、どちらが優先順位が高いかといえば、現代では前者なのである。それに対して、外部の人間がどうこう言うことはできない。ただし、ここでも、実際に子供が生まれた後では、子供が可愛くてたまらなくなるのが普通だから、子供が、親のこうした(出産以前の)クールな考え方に対して悲しがる必要はない。

④ 男性は子供を欲しがるか。

これは人によりけりだ。子供好きな男性というのもいるにはいるが、20代から40代までの男性の中で、自分の子供が欲しくてたまらないというのは、先にも書いた「後継ぎが欲しい」という連中を除いて、そう多くはないのではないか。つまり、この年代の男性は遊び盛り、働き盛りの年代であって、子育てより優先したいことがいくらでもあるはずなのだ。子供の可愛さがわかるのは、普通は実際に子供を持ってからであり、未婚男性で自分の子供が欲しいなどというのは異常者に属する。

⑤ 誰が子供を育てるのか。

 これも現実が示している。世の男性のほとんどは、子育てなどに協力しないのが現実だ。興味半分で赤ちゃんをあやしたり、子供と遊んだりはしても、子供のために自分が妻に代わって家事をするとか、仕事を犠牲にするとかはけっしてしないものである。つまり、子育ての犠牲はすべて妻がかぶることになる。しかも、それは共働き世帯でさえそうなのだから、女性が子供を生まなくなるのも当然だろう。ここで一つ、大きな答えが出てきた。少子化の根本原因は、働く女性が多くなったことである。働く女性にとって、仕事と子育ての両立はあまりに負担が重い。だから、子供を生まなくなるのである。つまり、少子化を食い止める一番の方法は、女性の就労を禁止することだ、という、極めて乱暴な答えである。女性の就労を促進しながら、少子化に歯止めをかけようというのは、無理な注文だということだ。現代の日本では、専業主婦への厚遇をやめよ、と言いながら、少子化を食い止めようとしている。一方の手で火をつけながら、もう一方の手で水をかけているようなものだ。しかし、仕事と子育てとどちらが楽しいかと言えば、仕事だと答える女性も多いはずだから、女性の就労を禁止するわけにもいかないだろう。(もともと、私は少子化など下らぬ問題だと思っているのだが。)

⑥ 少子化は憂慮すべき問題か。

 この答えは前の項目ですでに答えた。全然憂慮すべき問題ではない、というのがその答えだ。いったい、誰にとって憂慮すべき問題だというのか。子供を持たない夫婦は、それで良いと思っているのだから、彼らにとっての問題であるはずはない。少子化を憂慮しているのは、日本の人口が減ると日本の産業競争力が衰えると思って、日本の未来を憂える心配性の愛国者か、将来の税源を心配する官僚くらいのものだろう。子供が減って納税人口が減るのなら、税額を上げるか歳出を減らせばいいだけのことだ。また、愛国者がどのようにやきもきしようが、国が滅びる時は滅びるのであり、しかも、少子化以前に、日本など政治的に滅んでいるだろう。

⑦ 少子化を食い止める有効な方法はあるか。

 これはある。少子化を食い止める必要などまったく無いが、もしもどうしても食い止めたいなら、子供を持たない夫婦に高額の罰金を課せばいい。そうすれば、旦那が無精子症なら、奥さんは隣家の旦那さんの協力を得てでも子作りに励むだろうし、奥さんが不妊症なら、旦那さんは妾を蓄えて、子供を作るだろう。それがいやなら、子供を誘拐して自分の子供にするという手もある。もちろん、独身の男女の存在などもってのほかで、20歳に達した男女で結婚していない者は、国家が相手を決めて結婚させればいい。その相手がいやだなどとわがままを言う奴は、監獄にぶち込むのである。そうすれば、みんな大慌てで結婚するだろうし、気の早い奴は小学生のうちから子供を作るだろう。

⑧ 出産・子育てを人びとはなぜしなくなったのか。

 これは⑤の中で回答済み。もう一つ真面目に付け加えれば、人びとが、子供がいることの幸福を理解していないということがある。現代のように、親が子を殺し、子供が親を殺す殺伐としたニュースばかりが流される社会で、子供を持つことが幸福であるなどと想像もできない若者が増えても当然である。それに、たいていの若者は自分の嫌な部分をよく理解しているから、自分のような子供なら持つのは嫌だと思うだろう。だが、心配は無用である。どんな嫌な奴でも、赤ちゃんから子供の頃は天使に近い存在だったのであり、親が子供を持つ喜びは、その時期だけでも十分に満たされるのである。しかし、これは体験しないとわからないから、若夫婦は子供を持つことをためらうのである。

⑨ 政府には何ができるか。

 これも⑦で回答済み。しかし、できれば政府には、何もやらないでいただきたい。

⑩ 個人としてどうあるべきか。

 子供を持ってもいいと思えば持てばいいし、持ちたくなければ持たなければいい。子供を作るかどうかは個人的問題であり、社会が少子化少子化と騒ぐ問題ではない。


 以上、少子化問題には答えたが、補足として、少子化や高齢化に伴う日本の産業の競争力低下にどう対処するかを考えてみよう。結論的に言えば、日本が先進国になった以上、労賃の高騰は避けられないことだったし、少子高齢化も不可避である。つまり、これまでのような物作りという点では、日本は長期低落を続けるしかない。しかし、日本人には、アニメや漫画の発達に見られるような繊細なセンスがあり、それを生かして、芸術を産業として作り出す道が考えられる。そのためには、現在のような学校秀才を生産する教育システムをやめ、さまざまな分野で子供の才能の発達を促す新しい教育システムを作り出す必要がある。まあ、簡単に言えば、子供を遊び放題に遊ばせ、子供に好きなことだけやらせるというシステムである。その中から、何パーセントかの天才が現われ、同時に無数の馬鹿が生まれるというシステムだが、これはいかがだろうか? 少なくとも、成人して馬鹿となった無数の連中も、成人するまで遊び放題に遊んだのだから、悔いはないだろう。現在の教育システムでは、馬鹿も秀才も、前半生は勉強、後半生は労働だけで人生を終わるのだから、幸福な子供時代を過ごせるだけでも有意義ではないだろうか。大人が苦労して働いているのに子供だけ遊ぶのはけしからん、とか、小人閑居して不善を為す、とか言う人間は必ず出てくるが、大多数の子供が、不向きな勉強に苦しめられず、幸せに過ごせるなら、それでいいではないか。苦しむのは大人になってからで十分である。馬鹿になった無数の成人をどうするか? まあ、スイフトの顰にならって食料にでもするしかないだろう。筋張った大人を食ってうまいかどうかは問題だが。かつての農業のように単純労働にでも使えれば別だが、現代では機械の方が効率的だから、無能な人間の使い道は無い。美男美女には、また別の使い道もあるが、それは……。


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夕凪の時代

「イランラジオ」から転載。同種の記事はたくさんあるが、冷静な第三者的立場からの報道として、ここから転載することにした。
まあ、放火、破壊されたのがトヨタやパナソニックという「グローバリズム企業」「経団連企業」だから、ざまあみろ、という気分もあるが、これで日本対中国の経済的関係が冷え込むのは確かだろう。経済的関係は政治的友好関係の土台でもあるから、個人的な趣味でだけ発言するのは控えておく。もう言ったけど。
何より、その工場で働いていた中国人労働者たちは働く場所を失ったわけで、常に労働者目線で考える私としては、国籍を超えて、彼らに同情する。
しかし、これによって企業の安易な海外移転が危険であることも分かっただろう。安易な、と限定するのは、そういう「政治リスク」を考慮しても十分にペイする海外進出もあると思うからだ。もともと国民が親日的である上に、さらに親日的なプーチンが大統領であるロシアとの合弁事業は、おおいにメリットがあり、危険性は少ないと私は考えている。もちろん、プーチンが失脚したら、という可能性もあるにはあるが、それはどこの国でも起こり得ることだ。
若くて活力のある人間なら、簡単なロシア語会話でも習ってロシアと日本の架け橋になってはどうか。水面下ではすでに格差社会、身分社会が固定化している日本にいるよりはいい選択かもしれないよ。日本の国土や食料の放射能汚染を考えても、海外脱出は悪くはない案だろう。
まあ、3.11と福島原発事故で、ある意味、小松左京の「日本沈没」が半分実現したようなものだから、これからは日本人海外脱出という、小説後半の話になるわけである。
で、若い人間がいなくなった日本で我々老人たちは優雅にのんびりと死を待つのである。そうなるとマスコミも企業も老人をちゃんと考慮した文化を作るだろうから、本当に優雅な文化が生まれるかもしれないよ。まあ、「夕凪の時代」の到来である。


(以下引用)

2012/09/16(日曜) 21:56
日中の政治対立は、在中国日本企業にとって頭痛の種



中国にある日本のパナソニック社の工場と、トヨタ自動車の販売店が、中国人の抗議者により放火されました。




イスナー通信の報道によりますと、数週間前から尖閣諸島の領有権問題をめぐって、日本と中国政治的な対立が激化しているということです。

また、これにより、中国人が抗議行動に走り、一部は暴徒化して同国にある日本の工場を破壊しました。

最新の事件では、中国人の抗議者らが同国にあるパナソニック社の工場と、トヨタ自動車の販売代理店を襲撃し、その一部に放火しています。

日本の野田総理大臣は、中国政府に対し、中国在留邦人の安全を維持するよう警告しました。

ここ数年、人件費や原材料費が安価であることを理由に、多くの日本企業が、その工場施設の一部を中国に移転させています。

中国は現在、世界最大の自動車市場であり、電気製品の分野でも世界最大の市場に数えられています。

国際金融情報サイト・ブルームバーグの報道によりますと、これ以前に、中国における日本製の自動車の販売業績は、中国での反日デモの高まりを受け、著しく低下していると発表されています。



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常に世界につながっている息苦しさ

「ダイヤモンドオンライン」の香山リカのコラムを転載。
こういう「SNS疲れ」は、絶対に起こると私も思っていたし、実際起こっているようだ。それは当たり前の話で、SNSというのは、ある意味、映画「トゥルーマンショー」の世界、つまり、自分の日常生活の24時間の一挙一動がカメラで写され、世界に向けて放送されているのと似たようなものだからである。(私は映画「トゥルーマンショー」は見ていないが、大筋だけどこかで読んで知っているのである。)
要するに、「常に世界とつながっていて、気が休まる暇がない」ということだ。自分自身をカメラの前に露出することが好きな人間でもトイレや風呂やベッドの中までカメラに映し出されたら、たまったもんではないだろう。
SNSの場合は、自分の意思で世界とつながっているのだし、カメラで自分が映し出され、放映されることもない。写真をアップするのも自分の意思である。
そういう意味で、すべて「自分の意思」なのだが、実はそれは「無意識に強制された『自由意思』」ではないだろうか。
つまり、選択肢は与えられているし、選ぶのは本人の意思だ。しかし、そのメリットについては過大に宣伝され、デメリットはほとんど言われない。デメリットがあるにしても「本人の内向的な性格や、装置やシステムの特性をうまく使いこなせない、能力の欠如の問題だ」となっている。ならば、選ぶものはあらかじめ相手が決めているのである。手品師がカモに「好きなカードを選んでごらん」と言うのと同じで、選ぶカードは手品師が最初から決めたものになるということだ。
現代における選択というのは、実は、それ以外に選びようがない、という「あらかじめ決定済みの『自由な』選択」が大半だ。
たとえば、民主党党首選、自民党党首選で、国民が「選びたい」候補がいるだろうか。
ならば、民主党や自民党の党首に誰がなろうと、次期選挙で勝つのは、そのどちらでもない、「第三極」であるのは決まっている。そして、マスコミが小沢や「国民の生活が第一」についてまったく報道しない以上、その第三極が、マスコミが選べ選べと喚いている「日本維新の会」になるのはもはや決まったようなものである。こういうのを「仕組まれた選択」と言うのである。
SNSの話がとんだところに飛んだが、要するに若者のSNS疲れは、そういう「自分が何かに縛られている」という無意識の悲鳴でもあるのだ。
そして、それは言うまでもなく若者だけのことではない。だから日本全体に「イライラ感」が蔓延しているのである。


(以下引用)



SNSを自在に使いこなす若者が
SNSに傷つき悩んでいる


文脈は無視され単語だけが重視される時代に

 先日、ダボス会議に出席した方と話す機会がありました。この方がそこで感じた「格差」は、「南北格差」でも「民族格差」でもなく、デジタルネイティブとそうでない人との「格差」だというのです。物心ついたときからネットを使いこなし、フェイスブックなどをベースに社会活動を行なっている若きリーダーたちには、話し方に同じような特徴がある、と指摘していました。
 それは、発言が言い切り口調で、ひとつのセンテンスが短いということです。アメリカ在住か中東の人か、男性か女性か、年齢はいくつかなどにはあまり関係ないのだとか。
 私も若い世代の人は、言葉を「文脈」ではなく「単語」で捉える傾向が強くなったような気がします。この傾向が広がっているのだとすれば、単語だけで文意を受け取られるという前提に立って発言しなければならない時代になっていくのかもしれません。
 すると、次のような表現は許されなくなります。
「○○首相を馬鹿というのは言い過ぎですが、決して賢い首相ではないと思います」
 全体の文意を解釈するのではなく、「馬鹿」という単語だけがつかまえられて「○○首相を馬鹿呼ばわりした」と断定されてしまう、といったことがツイッターなどではしばしば起こります。いくら「~というのは言い過ぎですがと言っています」と否定のニュアンスを説明しても、「つまりは馬鹿ということじゃないですか」と解釈されてしまうのです。
 ニュアンスや行間に潜ませた意図を汲んでもらえなければ、電報のような最低限の単語を羅列した言葉しか通用しないことになります。上の表現を相手に誤解なく伝えるためには「○○首相はごく平均的な総理である」となってしまいます。
 これでは、何も言っていないのと同じことにはならないでしょうか。

若者は「SNS疲れ」に悩んでいる

 現代社会は情報があふれている一方、ツイッターをはじめとするソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)というシンプルに表現しなければならないメディアに若い人が集まっています。
 ツイッターなどでは字数の制限があることから、余計な言葉は極限まで削ぎ落し、目に見える形で、しかも理解しやすい表現に整理しなければなりません。この意識が過剰に働くことが、単語重視の言い切り口調に向かっている原因なのかもしれません。しかし、私には微妙なニュアンスを伝える豊かな表現方法が劣化しているようにしか思えないのです。
 その一方で、若い世代には異なる傾向も顕著になりつつあります。
 デジタルネイティブの先頭集団を走る現在の大学生は、ツイッターやフェイスブックやブログなどを自在に使いこなしています。
 ところが、彼らの内面は非常に複雑で揺れているようです。外に向けた表現とは裏腹で、はっきりと白黒つけられないような状態にいるように見えるのです。
 最近、日経ビジネスで「SNS疲れ」という特集が組まれていました。内容としては企業がツイッターなどSNSを使いこなせないという切り口ですが、雑誌の記事とは違った意味合いで、大学生に「SNS疲れ」が現れています。
 ここ数年、大学生に「若者の生きづらさの原因を述べよ」というテーマでレポートを書かせています。レポートを読むと、2人に1人はこう書いています。
「ツイッターやSNSにいちいち反応してしまう自分が苦しい」
 これが現代の学生の「SNS疲れ」です。使いこなせないのではなく、身近になりすぎて逃れられなくなってしまったのです。

他者とのつながりを求める一方で対応に苦慮する

「苦しかったら、一度やめてみたら?」
 学生にそう水を向けても、やめてしまったら自分の知らないところで勝手に悪い噂を流されてしまうのではないかという恐怖があるといいます。彼らは、見ても苦しく、見なくても苦しい自分に悩んでいるのです。
 若い世代は、SNSを介して人とつながることに意味と喜びを見出しています。
 しかし、その裏返しとして、自分がどこまでも監視されているような感覚に陥っているのかもしれません。
 メールを誰かに送った場合、返事がないときは相手が忘れているか、何らかの意図があるのだろうと、ある程度の想像を働かせることができます。ところが、ツイッターでつぶやいて誰も反応してくれなかった場合、それをどう受け止めればいいのかわからないというのです。
 必ずしも反応を返さなくていい「ゆるさ」がツイッターの特徴です。だから反応がないのか、あるいは意図的に無視されているのかがわからない。若者たちは、反応が返ってこない原因について妄想を膨らませ、考え込んでしまうのです。
 現代の若い世代の姿を見ていると、単純明快で絞り込まれた発言をする一方で、こころの中まで合理的に割り切れていないように見えます。
 もちろん、悩みが多いというのはどの時代も若者の傾向ではあります。しかし、それだけでは結論づけられないほど、彼らはソーシャルメディアとの向き合い方で葛藤しています。
 ソーシャルメディアを自在に使いこなし、一見すると軽やかに他者とつながっているように見えますが、若者の実情は必ずしもそうとは言い切れないのかもしれません。

他人と自分の生活を比較して劣等感に苛まれる若者たち

 大学生が書いたレポートには、ツイッターを見ていると劣等感が増幅されるという悩みも登場します。
 ある学生は、ツイッターで誰かが書いているものを見て、その人の1日が組み立てられるといいます。朝早くから起き出し、大学に行って勉強し、授業が終わるとアルバイトに精を出し、夜は仲間と飲みに行って楽しく過ごす。それに比べて自分は朝も起きられなかった、大学にも行かなかった、アルバイトもせず、友だちとも遊ばなかった。今日も1日ダラダラ過ごしてしまったことに、ひどく落ち込んでしまうというのです。
 そんな学生にはこう尋ねてみます。
「あなたは、ツイッターにすべて本当のことを書いているの?」
 学生は、都合の悪いことは書いていないと答えます。ほかの人も同じではないでしょうか。他人の目を惹きそうなことを選んで書き、なかには事実を脚色して書いている人もいるかもしれません。滅多にないアクティブに行動した日のことだけを書いている可能性だってあるのです。
 私たち大人は、そういう書き込みに対して「またぁ、カッコつけちゃって」と色眼鏡で見ることができます。しかし若者は、自分の場合は真実を書いていないのに、他人の記述は真実と思い込んで自分と比較して悩んでいるのです。
 若者には、他者と自分を比較して他者と同じレベルになりたいという同化願望と、他者より少しでも良い状況でありたいという個性化願望があります。
 そのせめぎ合いのなかで、「人と比較するなんてつまらない」「人は関係ない。俺は俺でいいんだ」と考えようとするほど、余計に人のことが気になってしまうという悪循環にはまりこんでいるのかもしれません。
 状況も条件も立場も違うのですから、他人との生活ぶりを比較してもあまり意味はありません。アクティブに行動することがよくて、一日家でダラダラするのが悪いと、言い切れるものではありません。
 ソーシャルメディアによって他者と四六時中つながっていることで、自分の生活を良く見せることを24時間意識しなければならない苦しみがあるような気がします。


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立て板に水よりも、こちらがいい

「横板に雨だれ」というブログから転載。
最近知ったブログだが、筆者は非常に知的で教養の深い人であるように思われる。私は、ブログ筆者のプロフィールなどほとんど読まず、その人の書いた文章だけでその人を判断するので、どういう背景を持った人かは分からないが、中野重治ファンであるようだ。
私は中野重治のような生真面目な左翼系作家(と思われる作家)は苦手な方であるが、彼らのような、庶民の幸福を心から願っていた真摯な人々を日本という国家が圧殺してきた結果が今の日本なのだろう、と思っている。
圧殺してきた、というのは小林多喜二のような本当の惨殺をも含めてはいるが、そのだいたいは「黙殺」および、「経済的圧迫」、「社会的に低い地位に置き続ける」などの手段である。文学者の場合は、人道的内容だから文学的に優れているとも限らないのだが、左翼系作家は概して社会的評価も得られず、経済的にも恵まれていなかった人が多いように思う。
しかし、それはある意味では当然で、社会改革などのテーマは小説などの文学ではなく論文やエッセイで扱うべきものだろう。そういう小説が読んで面白いはずはなく、世間で受けるはずはない。世間に受ける小説でなければ、この資本主義社会で経済的に恵まれるはずはない。まあ、彼らは一種の聖人である。

さて、下記記事は「れっきとした政治的犯罪行為がまったく罰されることがない」という世界の現状を批判した記事である。
私などもこのことについては遠く湾岸戦争の頃から何度も書いている。「9.11」のような明らかな自作自演劇をきっかけとした「テロとの戦い」がいかに欺瞞であり、欧米国家こそが殺人者である、ということも何度も書いてきた。
その過程で「欧米の犯罪」について、藤永茂博士という強力な論証者を知ったのは、私にとっては大きな出来事であった。その藤永茂博士の名は下記記事にも出てくる。
つまり、このネット世界では、同じような魂を持っている人間同士はどこかで邂逅するということだろう。
べつにそういう人々と個人的な知り合いにはならなくとも、そういう人々の書いた文章を読むだけで、「自分の考えは自分だけの思い込みではない」という自信を与えてくれるものである。
ネットはそういう精神的なつながりを通して、やがて世界そのものを変える可能性があると私は思っている。だからこそ、今の世界から利益を得ている人々はネットを恐れ、規制するのに躍起になっているのである。

*ほとんど無意識だったが、今日書いた「徽宗皇帝のブログ」の内容と、昨日書いておいた、この「酔生夢人」のテーマが一致した。まったく意図はしていなかったのだが、9.11関連記事がネット上に多かったために偶然そうなったのだ。
*「酔生夢人」の方では国際政治はあまり扱わないのが基本方針だが、今回の文章は「文学談義」と「ネット規制」というドメスティックな話題も含んでいるのでこちらに掲載した。



(以下引用)



ブッシュとブレアを国際刑事裁判所で裁くべきというツツ元大司教の主張

2003年、米英によるイラク侵攻が始まったときからブッシュとブレアを国際刑事裁判所で裁こうという呼びかけは一部に聞かれたが、米国が国際刑事裁判所規程を批准していないという事情のせいだろう、そういう声はいつしか立ち消えになっていたと思うが、先日、思いがけなく下記のニュースに接した。

「 ツツ元大主教 英元首相との同席拒否
 南アフリカのノーベル平和賞受賞者のツツ元大主教は、アメリカのブッシュ前大統領やイギリスのブレア元首相がイラク戦争を引き起こしたことで、現在の中東の混乱の原因をつくったと批判し、ブレア元首相と共に出席する予定だった国際会議を欠席しました。
 南アフリカのツツ元大主教は、かつて人種隔離政策=アパルトヘイトの撤廃に取り組み、1984年にノーベル平和賞を受賞した平和運動家です。 ツツ元大主教は、先月30日、ヨハネスブルクで世界の各界のリーダーを集めた会議に出席する予定でしたが、イギリスのブレア元首相との同席を拒否して欠席しました。 ツツ元大主教は、2日付けのイギリスの新聞「オブザーバー」に寄稿し、「イラクが大量破壊兵器を保有するといううそに基づいたイラクへの侵攻が、世界を不安定にし分裂させた」と指摘し、アメリカのブッシュ前大統領やイギリスのブレア元首相がイラク戦争を引き起こしたことで現在の中東の混乱の原因をつくり、結果としてシリアやイランを巡る緊張も招いたと批判しました。 これを受けて、ブレア元首相は声明を出し、ツツ元大主教の姿勢を「残念だ」としたうえで、イラク戦争に踏み切った経緯について、「道徳的にも政治的にも容易でない決断だった」と改めて釈明しました。」 (「NHK」9月2日 23時14分)

「 米英両元首脳の訴追求める=イラク開戦の罪で国際刑事裁へ −ツツ元大主教
 1984年にノーベル平和賞を受賞した南アフリカのツツ元大主教は2日付の英紙オブザーバー(電子版)に寄稿し、2003年のイラク戦争開戦の責任を問い、ブレア元英首相とブッシュ前米大統領をオランダ・ハーグの国際刑事裁判所(ICC)に訴追するよう呼び掛けた。「イラクで失われた人命への責任を負う者は、ハーグで現在、責任を問われているアフリカやアジアの指導者らと同じ道を歩むべきだ」と訴えている。 ツツ元大主教は、ブレア、ブッシュ両氏が「大量破壊兵器が存在する」と世界を欺いて開始したイラク戦争が現在の中東不安定化の遠因だと主張。「シリアもイランも今の窮地に世界を追い込んだのはこの二人だ」と批判した。 」(「時事通信」2012/09/03)


「ツツ元大司教」については、藤永茂氏のブログ「私の闇の奥」の『 AK-47 as WMD 』( 2007/02/07 )という記事にも「 南アフリカの大司教デスモンド・トゥトゥ 」との名でその発言が記述されている。アフリカ大陸には1億以上もの小型銃火器が分布し、とりわけコンゴにはそれが溢れていて、その中で数的にダントツなのがAK-47という小銃だそうで、この小銃は「 砂や泥水にまみれても簡単な手入れで直ぐに使え、少年少女にも容易に取り扱えるのだそうです。その「長所」がアフリカの少年少女に大きな悲劇をもたらしています。アフリカでは30万以上の少年少女たちがいたいけな「兵士」に仕立てられて内戦に狩り出され、その結果、4百万人の子供たちが殺され、8百万人が不具者となり、千五百万人が家を失ったというユニセフの報告があります。 」、「 アフリカから何が持ち出され、何がアフリカに持ち込まれているか。このトータルなマクロな収支構造にこそ私たちの視線が凝集されなければなりません。アフリカに関する世界の列強諸国のソロバン勘定は、この200年間、構造的には何も変わってはいないのです。2006年10月のロンドンのタイムズ紙に、南アフリカの大司教デスモンド・トゥトゥ(ノーベル平和賞受賞者)は、アフィリカでの小型銃火器交易の現状を“the modern day slave trade which is out of control”と書いています。彼にすれば、200年ではなく、過去500年間同じことが続いていると言いたいのでしょう。 」

NHKの記事には、ツツ氏がブッシュとブレアを国際司法裁判所に訴追する呼びかけを行なったとは出ていないが、「ロシアの声」にも「 デズモンド・ムピロ・ツツ元大主教は、 英国のブレア元首相と米国のブッシュ前大統領をイラク戦争に対する責任で法廷で裁くことを支持する意向を示唆した」とあるので、「 国際司法裁判所に訴追するよう呼び掛けた 」との時事通信の記事内容に誤りはないと思われる。実際、イラク侵攻の唯一の理由であったはずの「イラクの大量破壊兵器保有」が嘘であったにもかかわらず、攻撃の首謀者たちがその後公的に何の責任も負わず、問われず、平気で平穏な日常生活を送っていられるという法はない。イラクでは彼らの無法な決断によって何万、何十万もの人々がいわれもなく殺され、死んでいかなければならなかった 。現在イラクの街々は上下水道を始めとした各種インフラが破壊され尽くし、清潔な水を手に入れることのできる人は限られているという。その「失われた人命」や平和の破壊に対してブッシュやラムズフェルドやブレアらが実質的に具体的に罪を問われなかったことは、昨年来のリビアやシリア攻撃を見ていると感じずにいられないのだが、米英に一片の反省を促すどころか、「これで通る」という、味を占めさせる結果になっているように思える。リビア、シリアときて、その後にはイラン攻撃が米国の既定路線だという声も聞こえてくる。ツツ氏の「「大量破壊兵器が存在する」と世界を欺いて開始したイラク戦争が現在の中東不安定化の遠因」「シリアもイランも今の窮地に世界を追い込んだのはこの二人」であり、したがって「 ブレア元英首相とブッシュ前米大統領をオランダ・ハーグの国際刑事裁判所(ICC)に訴追する」べきとの今回の主張は時宜にも道理にも叶っているように思う。

米国が国際刑事裁判所規程を批准しなかった理由は、イラク攻撃に至る経緯とその結果を見れば一目瞭然だ。国連憲章などの国際法の規程は米国にとって軍事行動の基準にはならず、たまたまある法が自国の行動を正当化できる場合はその権威を利用するというに過ぎないのだ。イラク攻撃は一方的な言いがかりによる完全に不法、不公正な侵略行為で、その結果、イラクの普通の人々が無惨に殺戮され、国中の何もかもが取り返しのつかないほどに痛めつけられた。そもそも2003年当時、湾岸戦争以降の米国の経済制裁によって、イラクの乳幼児死亡者数は百万人を超え、軍事力はイラクよりはるかに小国であるカタールの十分の一にまで落ちていたという。マデレーン・オルブライトがテレビ出演で、イラク経済制裁ではこれまでに50万人の子どもが死んだと聞いている。それだけの犠牲を払う価値がある行為なのか、と問われて「思うに、それだけの価値はあるのです」と答えたのは、この間の2006年であった。こういう発言をするオルブライトという女性には子どもがいないのかと思ったら、3人の子持ちなのだという。こういう有り様では、英米のイラク攻撃が絶望的な憎悪による新たな多数のテロリストをつくり出し、テロ攻撃をそれ以前の十倍に増やしたという結果に不思議はないだろう。 もっともこのことは開戦前から多くの人が予測、懸命に警告を発していたことだったと記憶するが…。

昨年米欧の空軍はリビアで一万回近く出動し、国内のすべてのインフラを滅茶苦茶に破壊することでカダフィ政権を倒したが、その中核を担った米国と英国はそれぞれ現在自国民に対してリビア訪問を止めるように通達を出しているのだという。「リビヤのカダフィ政権が転覆させられて以来、リビヤは「民主国家」になるどころか、無秩序と暴力が蔓延する国になりつつある。このカダフィ政権転覆を主導した当のアメリカでさえ、国務省がアメリカ人の旅行者に、「リビヤには行くな」と警告を発するほどになっている。」(米国のこの警告はリビア駐在の米国大使および職員が殺害された9月11日の事件の大分前のものである。)、 「英国の外務省の公式な旅行アドバイスを見ても「余程の必要がない限り、リビアは危険だから行くな」と書いてあります。」。リビアをそういう危険きわまりない国にしたのは、一体どこの誰なのだろう?

イラク攻撃の理由、攻撃に至る経緯、攻撃の実態、結果、等々を詳細に徹底的に掘り下げて米国の戦略の実態、その本質を明らかにすることは人類の今後の健全な生存のために不可欠なことではないかと思う。これは米国に理不尽な言いがかりを付けられて攻撃の対象とされる国と人々の救いとなるだけではないと思う。米国と同盟関係を持つ国の政府は米国の思惑に沿うことが何より優先、日本政府などは米国の機嫌を損ねることを怖れて自国民を犠牲の山羊として米国に差し出して恬として恥じないことは沖縄の現状を見れば分かる。その結果、政治家の責任感と良心の磨滅はもとより、思考力、判断力、交渉力、何をとっても時とともにいよいよ低下し、稚拙・低劣になっていく。韓国にも同じことがいえるように思える。ブッシュとブレアを国際刑事裁判所で裁くべきというツツ元大司教の提言がもし国際刑事裁判所の一世一代の英断によって受け容れられるようなことになれば、おそらく世界中のあちらこちらで希望が生まれでるように思う。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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