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ローマ法王庁の「大審問官」たち

「つれづればな」から記事全文を転載。
バルナバスの福音書を巡る争奪戦、あるいは圧殺への戦いの劇(受難劇)は、まるで「レイダース」シリーズの一つのように面白く、また、法王庁(バチカン=カトリック)からの使者の

「たとえ天からイエスが舞い降りようと、われわれのシステムは変わらない」

という言葉は、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」を思わせる。
だが、「大審問官」には、イエスの思想と権威を簒奪(本来は、「王位」を不当に奪う意味だが、イエスを仮に西洋世界の精神的な意味での「地上の王」としておく)し、自分たちが人民を教導することで、無知な大衆に「家畜としての幸福」を与えてやろうという、一種の「善意」があった。しかし、実際の法王庁にあるのは、はたして何だろうか。
いずれにしても、真のイエスの思想は、現在の「キリスト教」、特にカトリック的思想の中には無い、という点で尾崎文美氏は、私とまったく考えを同じくしている、と思う。



(以下引用)


偽典「バルナバスの福音書」に祝福を与えよ

2013/10/23 20:22 よりわけ: 啓示 かぎ: イスラーム


この世界の価値基準となった「西洋」。その根源に横たわる「キリスト教」。それはある時期に変容をとげ、純粋な「イエスの信仰」からは乖離したものであることを前回・前々回の記事に書いた。
とくに前回、トルコ東部の地下都市に眠る信徒の棺の中で発見されたパピルスの束を解読したところそれは「バルナバスの福音書」であり、イエスの母語であるアラム語で書かれており、イエスとともに生きた者の手で記されたかもしれぬものであり、炭素年代測定の結果がその記述を後押しするものであったこと、そして「イエスは人の子」であるとし、現代までキリスト教徒たちの間で守られてきた「イエスは神の子」という教理にまるで反していることとそれが意味することを記した。
「バルナバスの福音書」の発見以来、それに関わる者たちの身に何かが起こり始める。


―我はキプロスのバルナバス、天空暦48年の終わりに、讃えるべき、この世の創造主より、全ての言葉を預けられし精霊と、マリアの子の救世主イエスから伝え聞いたその通りを、第四の写本として此れに記すなり―


天空暦48年とはおそらくイエスの昇天から数えて48年目ではないかと考えられている。西暦でいうと80年頃、ユダヤ戦争によりユダヤ人がローマ帝国にエルサレムを追われ、またユダヤ人であるイエスの使徒たちとその直弟子たちも散りぢりになってからである。
バルナバスの福音書は細々と守られたが325年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世が召集したニカイア公会議の席で採択された「イエスは神の子(あるいは神そのもの)」とする教理に適い「正典」とされたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の四書の他は炎に投じられ、バルナバスの福音書も例外ではなかった。禁書とされたこの福音書を携えるものは死刑に処されるほどであった。しかし迫害を逃れて密かに写本・翻訳が行われ生き延びたバルナバスの福音書がヴァチカンの法王直属の特別収蔵庫に眠っていた。16世紀の終わりにそこから盗み出されたとされる福音書が18世紀初頭にオーストリアの軍人プリンツ・オイゲンの手に渡りウィーンの図書館に収められ近代になって発見された。それはイタリア語訳本であった。
その英訳版が1907年にイギリスで「The Gospel of Barnabas」という題で出版された。しかしその発売日に何故か市場から姿を消し世に広まることはなかった。一説によればヴァチカンの修道士たちが一般人を装い書店という書店に列を成して買い占め、そうして集めた本を全て処分したという。大英博物館とアメリカ議会図書館に一冊ずつ残るのみとなった「The Gospel of Barnabas」のマイクロフィルムを入手したパキスタンのイスラム教徒が再版をかなえ初版から72年ぶりに日の目を見ることになった。


「The Gospel of Barnabas」の内容は明らかに新約聖書と相容れないものであった。使徒パウロを「騙された者」と呼び、三位一体を完全否定、イエスは神がアブラハムやモーゼ同様に預言者として遣わした「人の子」であり、磔にされる間際に神が天に引き上げ死なずして天国の住人となり、替わりに十字に架けられたのはイスカリオのユダであり…、いずれもカトリックをはじめいかなるキリスト教社会の認めようのない内容であった。さらにその中では預言者ムハンマドが現れることを予示されていた。
あたかもイスラームの教義に平行しているかのような「The Gospel of Barnabas」を教会はイスラム教徒の作為により書かれた「危険な偽書」と認定している。そして議論に上るたびに強硬にその内容を否定するのであった。


「ハッカリ文書(トルコのハッカリで見つかったバルナバスの福音書)」と「The Gospel of Barnabas」は原本と訳本の関係である。が、厳密にはそうとは言えない。アラム語からおそらく古ギリシア語、ラテン語、そしてイタリア語を経て英語に訳される段階でその意味を大きく変えてしまうほどの致命的な誤訳があって不思議ではない上に、訳者の主観と能力が必ず作用して原点から遠ざかることが余儀なくされる。純粋であることが求められる「福音」の翻訳は実は不可能なのである。であるからこそ、この福音書がよりイエスに近い時代にイエスの母語で書かれていることの意味が大きい。

ハムザ・ホジャギリは発見以来このバルナバスの福音書に関わり続ける数々の古代語の研究家として活躍するトルコ人である。ハムザ師曰く、バルナバスの福音書はその記述、その精神、その韻律どれをとってもイスラームの聖典であるクルアーンに共鳴するという。なぜそのようなことが起こりうるかは明白、ユダヤ教もイエスの信仰もそしてイスラームもそれぞれ矛盾することない同じ教えだからである。

ハッカリ文書の写本がゴラン高原に存在することを解読したハムザ師は旧知であっ
たヴィクトリア・ラビン(暗殺されたイスラエルの首相イツハク・ラビンの孫娘)に協力を求めた。イスラエル占領下のこの地ではラビン首相亡き後もその威光は健在であった。程なくバルナバス福音書の「ゴラン写本」を発見、そして解読する。師が解読文を英語で書き下し、それを読んだヴィクトリアはイスラームに帰依してしまった。

世界のどの古代遺跡の調査状況も諜報機関には常に筒抜けである。ましてやモサドのお膝元ともいえるゴラン高原の調査などはすぐにヴァチカン法王庁の知るところとなっていた。ハムザ師の解読が進む中で法王庁からの接触が始まり意見交換がなされていた。バルナバスの福音書とクルアーンが「同じ泉から流れる川」であるとのハムザ師の主張に対し、法王庁から来た枢機卿マルコはそれを否定するかわりにこう述べた。


「たとえ天からイエスが舞い降りようと、われわれのシステムは変わらない」


法王庁からゴラン写本を買い取りたいとの交渉を受けるヴィクトリアだが高額の提示にも断固として応じることはなく、それが禍したか27歳の彼女はモサドの手の者により殺害されてしまう。こうしてゴラン写本は渦中に陥りギリシアのある出版社に二束三文で買い取られてしまう。枢機卿マルコはその後原因不明の死を遂げている。

アンカラの司法裁判所の証拠品倉庫の中で2008年に奇妙な山羊皮製の本が見つかった。これもアラム語を古シリア文字で綴った文書であることが判るとバルナバスの福音書の原本ではないかという期待が持たれ炭素年代測定が行われたが、結果はおよそ1500年前に書かれたものであると判りバルナバスの時代のものではなかった。ハムザ師にその写真が送られると、曰くこの文書は「全く出来の悪い」聖書の一種で、およそ福音を伝えるために守られた本などではあり得ないという。皮の質が悪く書体も幼稚で、何より本の背面に十字架が描かれているなど福音書としてあるまじき姿という理由であった。皮肉なことにこの山羊皮本の出現によりバルナバスの福音書自体がイスラーム誕生後にイスラム教徒によって書かれた偽書であるとの評価がさらに高まった。この山羊皮本は2000年に摘発された古美術品窃盗団から押収されたがそのまま警察で眠っていたという。バルナバスの生地キプロスにその名を冠した聖バルナバス教会があり(バルナバスの墓所として知られているが信憑性は薄い)、実際に1996年に聖バルナバス教会はキプロス軍(トルコ軍の出先機関)の将校によって荒らされている。そしてこの事件を調査していたキプロスの新聞記者は同年何者かに殺害されている。結果を俯瞰すればこの山羊皮本をめぐる一連の事件はバルナバスの福音書を貶めるための謀りごとと考えられる。(トルコ軍の行動は常に不可解であるがイスラエルとの関係が緊密であることを考えれば理解しやすい。)

ハムザ師はバルナバスの福音書の全文を読んだおそらく唯一の生存者ではないかと思われる。そのハムザ師に対してもモサドをはじめその他正体不明の組織からの脅迫が止むことはなかった。研究を放棄することを要求され、従わなければ生命はおろか地位・学歴・職歴・出生証明・国籍の全てを白紙にすることもできると脅された。解読作業に関わる出版社や新聞社の人間が相次いで不慮の事故に遭い、さらに師は2003年ごろから癌を患い現在も闘病中である。イスタンブールの自宅から一歩も出ることなく暮らしているが訪れる取材には応じている。またテレビにも何度か電話を通して出演している。命などは惜しくないが身近な人々に事が及ぶのは耐えられないとする師は、すでにその全容を知りながらも福音書の訳文を発表することなく関連の執筆も一切行わず、取材を通してその内容の断片を語るのみである。


堕落したユダヤ教社会に生まれたイエスが広めたのはユダヤ教の原点に還らんとする教えであり「キリスト教」なるものを広めたというのは間違いである。イエスの昇天の後になって一神教の道から逸れ、ローマ帝国領土内の土着信仰―多神教的偶像崇拝―の鋳型に嵌められたのが「キリスト教」である。その種を撒いた者こそがタルソスのパウロであった。イエスと使徒を激しく迫害したパウロは突然回心し偶像崇拝者たちにイエスの教えを説きはじめる。それまで荘厳な、時には禍々しい姿をした「神々」を信じ、犠牲を捧げてその御心に適えば死後にこの世に生まれ変わると信じていた人々にとり目に見えぬ唯一神というものは想像に及ばぬ存在でしかなく、この世の人生は一度きりで肉体が蘇ることはないとする教えはとても認められるものでなかった。そこでパウロはイエスが「神の子」であるという主張を以って布教を行った。つまりイエスという媒体に神性を憑依させ神を物質化=偶像化したのである。

それによれば、信徒の全ての罪を背負うイエスを十字に架け、父なる神にそれを犠牲として捧げ、イエスの復活は罪が許されたことを意味し、信じるものは同様にこの世に生まれ変わることが出来る―イエスの教えから遠く離れたこのパウロの教えは瞬く間に多くの信徒を得た。論述に長けたパリサイ人であるパウロの影響力は強かった。パウロが使徒たちの中で着実に地位を固める中、それと争おうにも到底敵わぬバルナバスは去ってイエスと過した日々を振り返り「イエスの教え」を書きしたためた。それがバルナバスの福音書であり、逆ににローマ帝国の国教に上り詰めたのがキリスト教という名の「パウロの教え」である。


ヴァチカンのみならず全てのキリスト教会はバルナバスの福音書に光が当たることを望まない。教会の権威に亀裂が走ることは避けられない。亀裂はさらにキリスト教を政治の道具として、社会価値の礎として、イデオロギーの源泉として、非道の方便として利用してきたキリスト教社会つまり「西洋」に及んでその破壊すら招きかねない。二千年来この福音書は西洋の命取りであった。たとえ天からイエスが舞い降りようと変えられないという彼らのシステム、それはヴァチカンの体質などに非ず中世から近代にかけて築いた西洋中心の世界支配体制を指している。そして「西洋」を後ろ盾にするシオニスト、あるいは隠れ蓑に使うユダヤ人がいる。

現代の世界の枠組みの中、イスラームは「仮想敵」として想定されている。文盲、貧困、飢餓、女卑、暴力の先入観を植え付けたこの仮想敵をひたすら批判し攻撃を加えることで自らの正義を貫き、その影で行う搾取により資本主義帝国を築いた西洋としては、炎にくべた素顔のイエスの教えがイスラームに生き写しであり、しかもその預言者の誕生を予示していたことを表沙汰にされては非常にまずい。



さて、「The Gospel of Barnabas」に書かれていた「預言者ムハンマドの予示」は果して「ハッカリ文書」「ゴラン写本」にも存在した。ハムザ師の解読によれば

―我(イエス)の後にもう一人の預言者が続くであろう、それに従う者たちは熟れた麦の穂のごとくになろう―

そう表現されているという。
もとより旧約聖書(申命記)にも新約聖書(マタイ記)にも後に大預言者が現れるであろうということは書かれている。ただしキリスト教側はそれをムハンマドであるとは見ておらず、彼らに言わせれば旧約にあるのはイエスの誕生であり、新約にあるのはイエスの復活がそれに当たるとされている。

「熟れた麦の穂」をどう解することが出来るか、ハムザ師によればそれは繁栄や増殖を示すとされる。しかし僭越ながら筆者が付け加えさせてもらえば、たわわに実り穂をたれて地を覆う熟した麦が一斉に風になびくその様子がイスラム教徒の集団礼拝の光景を暗示していると思えてならない。ハムザ師は文字の世界に生きる人間であるがゆえ視覚からの安易な発想は避けているのかもしれない。凡人である筆者にはわからない。が、イスラーム特有と思われている頭を垂れ額を地につける礼拝の形がユダヤ教の古くからのそれであり、それはイエスと使徒たちに受け継がれ、そして今もアッシリア東方教会やエチオピア・コプト正教会に残ることをここに付け加えておきたい。



日本には縁のない話、と思われる方々も多いはずである。遠い国の昔話に聞こえるかもしれないが、「西洋」に無体を受ける筆頭の国として是非お気に止めていただきたい。神の御心のままに生きていたのでは物質の豊かさの中で歓喜することが許されぬことを知り、神ではなく物質をを礼賛する世界をひそかに築こうと目論んだ西洋は、福音を改竄して偶像つまり手製の神を祀らせたのである。

物質へのその凄ざまじい欲望を原動力に彼らは近代までに世界の大部分を支配下に置く。その後は武力による支配に加えてイデオロギーによる支配がはじまる。
イデオロギーとは疫病である。人はこれに侵されると物質界の価値に盲執し、虐殺が正義に、庇護が差別に、搾取が取引に見えてしまう。そしてよそから借りてきた言葉と脳で主張を始める。別の病人とは意思の疎通が全く出来なくなる。時として胸に涌くいくばくかの疑いも借り物の脳は受け付けない。
何も疑うことなく西洋の価値基準にあわせて自らを作り変えたある国はいま何もかもを吸い尽くされようとしている。それでもまだ西洋の発明したイデオロギーを疑うことができず西洋の政治や制度に規範を見出そうと腐心している。

これもまた西洋がその手で作り上げた神々であり、偶像である。その偶像の御心に沿うため、近づくため、人々は物質と精神を犠牲として捧げ続けている。犠牲の血を吸う土は穢れ、新たな犠牲を生み出す。紀元前から戒められていた偶像は、姿を変えて今も人の世を狂わす。




イスラームはそれまでにこの世に現れた預言者たちをすべて神の使徒であるとし、それぞれに託された預言は対立することはないと、モーゼも、イエスも、ムハンマドも同じ道を歩むものであると断言している。

セルマンは6世紀の終わりにうまれたユダヤ人であり、後にキリスト教に入信しアンティオキア教会で学ぶ。祈りの日々の中、遠い砂漠の国に預言者が現れたという噂を聞き是非会ってみたいと旅に出た。アラビア半島のメディナに至ったセルマンは人買いに囚われ奴隷の身となるが、彼を買い取り解放したのは預言者ムハンマドであった。セルマンはムハンマドの言行に触れ、まさしく神の遣わした預言者であることを認めイスラームの門をくぐる。しかし問わずにはいられなかった。アンティオキアの教会のかつての同胞たちは天国に行けないのだろうか、と。イスラームを知らねば天国も知り得ぬとするムハンマドの答えにセルマンは眠れぬ夜を過ごした。神への感謝と祈りをささげる心優しき同胞たちに救いはないのだろうか、セルマンはふたたび、みたびその問いを投げかけた。するとムハンマドにひとつの預言が降りた。

―疑うなかれイスラームと共にある者、モーゼと、イエスと共にある者、そして偶像を戒めるあらゆる教えと共にある者は、その教えの中で神と審判の日を畏れ、神の名の下に善行に勤しむならば、審判の日に恐怖と悲しみはおとずれぬ(クルアーン 雌牛の章62節)―



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論理的言語と情緒的言語、論理的民族と情緒的民族

「井口博士のブログ」から転載。
井口博士という人は人種差別的な発言が多くて(私も人のことは言えないがw)、そのあたりはあまり感心しないのだが、物の見方が面白いので、愛読するブログの一つである。まあ、人それぞれ癖はある。
さて、前回、詩は論理ではない、と言ったが、下の井口博士の言葉を一部借りれば、(人間の感覚や思考を通して見た)この世界そのものが情緒の世界であり、数学的には記述できない(つまり、論理を超越している)ものだ、と言える。そしてそれは論理を絶対視する西洋的思考では捉え難いものだろう。もちろん、泰西名詩はたくさんあるが、日本人ほど自然ともこの世界のすべてとも一体化した繊細な情緒を持っている民族は稀だろうと思う。それが端的に顕れたのが俳句や短歌という芸術であり、俗化してその本質を失ったとはいえ、華道や茶道もそうだろう。日本語そのものも、論理よりも情緒の表現に向いているのである。

論理というものの本質は「抽象」である。
「抽象」の本質は、その前段階の「捨象」にある。
論理形成に必要な要素以外をすべて捨てる、という作業が「捨象」である。
たとえば、人間というものをただ労働力という部分にだけ還元(「元」つまり「要素」に還すこと。「もと」に還す意味の「還元」ではない)し、それ以外の要素を捨象することで、企業経営が「合理的」になるし、それによって確かに企業は利潤を多く上げることができる。労働者に支払う「労働の対価」、つまり賃金をできるだけ切り下げることで企業利潤を上げるというのも「合理的」なことだ。だが、そうした合理的思考の行き着く先は、労働者にとっての地獄しかないだろう。
それが現在世界中で起こっていることだ。
つまり、新自由主義とは合理主義とエゴイズムの複合体だと言えるだろう。
この世界を非人間的世界にしているのも「論理一辺倒」の思考形態や論理絶対主義ではないだろうか。

話が飛躍したが、この世界を人間的に見れば、その本質は情緒の世界であり、それは「いわく言い難い」ものである。だから、言語だけで物事を説明しようとする西洋人などには理解されにくい。彼ら(の大部分)にとっては言語とは論理の世界であるのだから。そういう低レベルの思考しかできない連中(おっと、私も人種差別的発言をしたw)がこれまで世界を侵略し、その支配の軛(くびき)の下に置いてきたことが世界中の不幸の原因だろうと私は思っている。


ある詩人の言葉を少しアレンジして書こう。
この世界そのものは白い光のようなものだ。その光が、人間というステンドグラスを通してさまざまな色に彩色され、映像を作る。それが芸術であり、すべての人間の営為である。




(以下引用)*色字部分は引用者(夢人)が、見易くするために変えたもの。




岡潔博士は、この宇宙で数学によって表現される世界もあることにはあるが、数学や数式では表せない世界もまた存在する。むしろ、この宇宙の本質はそっちの方にあって、ほとんどは数学では記述できないものなのだ、と考えたのである。

そして、そうしたものを「情緒」だと考えた。

「情緒」の前では、時間も空間も意味はない。だから、この宇宙では、時空間というのは、人間が便宜的に数式や数学に乗せるために使った方便の一種にすぎないよ、と言っていたのである。

言い換えるならば、数学で表わされるものは、何らかの「量的」(距離や重さなど)に表現できる世界であり、数学で表されないもの=「質的」に表現するほかないというような世界も存在するということである。数学で書けた瞬間にそれは「量的世界への射影」に過ぎなくなってしまう、というわけだヨ。

最近、やっと欧米人やこの地球上の他の国々の人たち、や他の民族の人たちにも、ほんのちょっとだけ、我々日本人が伝統的に持っている感性やその感じ方、すなわち、「情緒」について分かりつつあるようである。(もちろん、韓国人にはわからない。しかしどうも本国の北朝鮮人には分かるようである。)

外国人のそんな「無謀な」努力を垣間見せてくれるものがあるようなので、それをここにもメモしておこう。以下のものである。




海外「生まれる国を間違えた」 日本人の独特な美意識に外国人が感心





今回の翻訳元は以前にも何度かお世話になったチャンネルなのですが、
この動画では「日本人の美意識」についての私見を披瀝していらっしゃいます。

投稿者さんは冒頭、「美に対する感覚は人それぞれ」とした上で、
「それでも日本人が一般的に持っている美意識がある」として、
上の写真を示し、日本人の感覚を分かりやすく説明されています。

・通常左側の桜が満開に咲いている状態が好まれるだろうが、
 日本人は今にも芽吹きそうな蕾の状態や、散ってしまった状態を好む。

・すべての日本人があからさまな美しさを愛するわけではなく、
 花開く寸前の桜や、散り始めているがそこにわずかに残る花が内包する美など、
 花開き、そして散りゆくまでのプロセスにも美を見出す。

といった点が説明されています。
17文字という短い言葉で構成される俳句の、その奥に存在する美しさにも触れており
(英訳された俳句を見た時、長文になっていたことに驚いた、という点も)、
改めて、秘められた美を愛でる日本人の特性を指摘していらっしゃいます。

Japanese sense of beauty




(中略)



(あ)まあ、この女性の主張は、

「日本人は表に現れた、あからさまな美(obvious beauty)の他に、その背後にある、隠された美(Hidden beauty)を感じ取る。そういう美意識を持っている。」

という主張ですナ。


(中略)



(い)さて、この話はこの女性が思っている以上に深い問題につながっている。だから、ついでにここにメモしておこう。

この女性のやっていることを見れば、最初に岡潔博士が

「数学で記述できる世界ばかりがこの世界ではないよ」

と言ったという意味が分かるはずである。この女性は、我々日本人が普通に感じている世界を英語に表現しようとしているわけだが、それが実に難しいかよくわかるからである。

つまり、

「英語(欧米語)で表現できる世界だけが世界ではない」

とこの女性は言わんとしているわけである。事実、そうなのである。「日本人の感性」を英語で表現することは不可能である。外人が自ら日本語を学び、日本で生活していくうちに、自ずと理解できるようになる。そういうものである。




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宮澤賢治詩集「春と修羅」序

この前、「独りファシズム」の中の「自分という現象」という言葉は宮澤賢治に由来するものではないか、と書いたが、それを自分の蔵書(今は数十冊しかない)で確認することはできなかった。
しかし、ネット時代は便利なもので、ネットの中にそれがあったので、転載しておく。

詩というものは人生の良き伴侶であり、あらゆる瞬間瞬間に、好きなフレーズを想起することで、平凡な人生も彩色される。だが、学校教育の中で、子供向けに選定されたつまらない詩にしか触れていない人は、詩はつまらないもの、と思い、また文学青年たちが振り回す難解な詩に触れた人は、詩とはわけのわからないもので、自分には詩は分からない、と思うようになる。

詩は、言葉の音楽であり、分析的に、意味的に理解する必要は無い。

宮澤賢治の詩など、意味的に理解しようとすれば難解だろうが、そのシュールなイメージと言葉の音楽を楽しめばいいのである。それは、下記の「春と修羅」序からも分かるだろう。

なお、宮澤賢治の童話も詩的イメージに満ちており、それが彼の作品の魅力である。
小学校の教科書によく載っている「やまなし」など、キラキラした水のイメージと、その中にいる謎の生き物たちの不思議な会話だけである。それを論理などで説明しようとする学校の先生など、ご苦労なものである。「クラムボンは笑ったよ」「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」「なぜ笑った」「知らない」のクラムボンが何か、などを追及させて、それは「泡」である、などと結論するなど、愚の骨頂だろう。しかし、理屈や合理性だけがすべてという学校教育の中では、そういう指導になるしかない。そして、詩や小説は分からない、下らないと思う人々を大量生産していくのである。



(以下引用)*活字の色付け、および一部の行分けは夢人による。








   序

 

  わたくしといふ現象は

  仮定された有機交流電燈の

  ひとつの青い照明です

  (あらゆる透明な幽霊の複合体)

  風景やみんなといつしよに

  せはしくせはしく明滅しながら

  いかにもたしかにともりつづける

  因果交流電燈の

  ひとつの青い照明です

  (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

   

  これらは二十二箇月の

  過去とかんずる方角から

  紙と鉱質インクをつらね

  (すべてわたくしと明滅し

   みんなが同時に感ずるもの)

  ここまでたもちつゞけられた

  かげとひかりのひとくさりづつ

  そのとほりの心象スケツチです

   

  これらについて人や銀河や修羅や海胆は

  宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら

  それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが

  それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

  たゞたしかに記録されたこれらのけしきは

  記録されたそのとほりのこのけしきで

  それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

  ある程度まではみんなに共通いたします

  (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

   みんなのおのおののなかのすべてですから)

   

  けれどもこれら新生代沖積世の

  巨大に明るい時間の集積のなかで

  正しくうつされた筈のこれらのことばが

  わづかその一点にも均しい明暗のうちに

    (あるひは修羅の十億年)

  すでにはやくもその組立や質を変じ

  しかもわたくしも印刷者も

  それを変らないとして感ずることは

  傾向としてはあり得ます


  けだしわれわれがわれわれの感官や

  風景や人物をかんずるやうに

  そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに

  記録や歴史、あるひは地史といふものも

  それのいろいろの論料(データ)といつしよに

  (因果の時空的制約のもとに)

  われわれがかんじてゐるのに過ぎません


  おそらくこれから二千年もたつたころは

  それ相当のちがつた地質学が流用され

  相当した証拠もまた次次過去から現出し

  みんなは二千年ぐらゐ前には

  青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ

  新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層

  きらびやかな氷窒素のあたりから

  すてきな化石を発堀したり

  あるひは白堊紀砂岩の層面に

  透明な人類の巨大な足跡を

  発見するかもしれません

   

  すべてこれらの命題は

  心象や時間それ自身の性質として

  第四次延長のなかで主張されます

 

     大正十三年一月廿日      宮 澤 賢 治









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これからの銀行はどうあるべきか

「耕助のブログ(賀茂川耕助のブログ)」から転載。
「徽宗皇帝のブログ」向きの経済の話題だが、あちらには別記事を載せたので、こちらにしたわけだ。
銀行の仕事は金を預かること、金を貸すことだが、今の民間銀行がその仕事を誠実にやっているようには見えないから、こうした意見が出てくるのだろう。(経済システムの最大の問題である、中央銀行の問題は、また別の話だ。)
ほとんどの中小企業が銀行から借金して経営しているというのが現実だと思うが、銀行側にも「貸した金を取りはぐれる」という問題が常につきまとうから、「担保のある者にしか貸さない」となる。すると最初から担保も資金も無い貧しい人間は永久に浮かび上がれないことになる。
出勤前で時間が無いので、この問題は後日考えたい。



(以下引用)


No. 1048 公共の銀行を
投稿日: 2013年10月1日 投稿者: 耕助



北海道の夕張市が負債総額632億円で財政破綻したのは2006年のことだったが、さる7月、アメリカではミシガン州デトロイト市が1兆8千億円を超す負債総額で財政破綻した。

アメリカでは過去にはカリフォルニア州ストックトン市やアラバマ州ジェファーソン郡などが破産法を申請しているが、デトロイトの負債額はそれらを大きく上回る。夕張市は炭鉱、デトロイト市は自動車と、特定の産業に財政の比重が集中していたことが原因だが、ストックトン市は不動産バブルで投資に走り、それが暴落して立ち上がれなくなった例である。アメリカにはこのような破綻寸前の自治体が数多く存在する。
今デトロイト市が行っている破綻処理は、今後同じような自治体の処理のひな型となるだろう。それは3月にキプロスで破綻した銀行を救済するために預金者のお金が使われたように、市の債権者である銀行を救済するために、公務員の年金が奪われるというスキームである。キプロスもデトロイトも銀行は保護され、その他大勢の人々が犠牲となるのだ。
金融危機の多発する欧米諸国は70年代後半から民営化と規制緩和を推し進め、それによって少数の人がいかがわしいほどの利益を手にするようになり、特に金融分野で顕著である。銀行業務と証券業務の分離を定めたグラス・スティーガル法を廃止し、銀行が預金と貸し出しだけでなく、株やデリバティブなどの売買も行えるようになり、規制が緩和される一方で銀行の救済保護は強化された。
興味深いことに、ブラジル、ロシア、インド、中国などではこれほどの金融危機は起きていない。パブリック・バンキング・インスティテュートのエレン・ブラウンによれば、なぜならそれらの国では銀行は国営で、厳しく規制されているからだという。たしかに、銀行が国営ならウォール街からお金を借りたりデリバティブ商品を買うこともない。
民間銀行からお金を借りる代わりに政府が銀行を作り、そこからお金を借りる。その公共の銀行は政府の資本を信用とし、その信用を税収などで裏打ちして配当として政府に利子を返す。これは中国やロシアの話ではなく、すでにアメリカのノースダコタ州で州有のバンク・オブ・ノースダコタという銀行が州の人々のためにやっていることだ。民間銀行との大きな違いは、利子は銀行の利益として取られるのではなく州に入る。カナダのアルバータにも州政府が設立したATBと呼ばれる金融機関が州民に銀行と同じサービスを提供している。
公共の銀行はとっぴなアイデアではないのだ。日本もゆうちょ銀行を国営のまま残すべきであり、それ以外にも国営銀行を作り、政府はその銀行では株やデリバティブなどは禁じ、預金を100%保証するようにすればよいと思う。
エレン・ブラウンによると、世界の4割の銀行は公共であり、さらに今、アメリカの20の州が公共銀行法案の通過を待っているという。デトロイトに続かないためにも、地方政府が自分自身を守るために自分の銀行を作ることを検討しているという動きがあることを、日本国民も知っておくべきである。





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自分という現象の残響をキャッシュに残す

「独りファシズム」から転載。
文章が読みづらいので「独りファシズム」はあまり読まないのだが、「文殊菩薩」に転載されていた今回の記事は面白く思った。書かれた内容自体はこれまで何度も書かれてきたようなことだが、最後の


いよいよ秘密保全法が国会審議に入り、時代は暴力的転換点に立ち、自由言論は終焉を迎えようとしているのだが、残された時間の中で可能な限りを綴り、そのいくばくかを皆様に共有して頂きつつ、自分という現象の残響をキャッシュに留めておきたいと思う。

バラモンの聖典が教えるように「言葉のなかに全ての創造物が生きる」のであり、言葉だけが未来の手がかりなのだ。


という部分には「白鳥の歌」の響きがあり、哀切さが漂っている。
「自分という現象」は宮澤賢治の詩集の序文に出てきた言葉だと思う。「因果交流電燈の青い光に明滅する自分という現象」とか何とかいう文言だったか。引っ越しのたびに蔵書を捨ててきたので手元に本がまったく残っていないのが残念である。
バラモンの聖典にあるという「言葉のなかに全ての創造物が生きる」という言葉も素晴らしい。まさに私も「言葉だけが未来の手がかりなのだ」という思想に賛同する。
人はなぜ発言し、記録を残すのか。それは自分という現象の残響をこの世にとどめたいからだろう。その因果交流電燈の青い光はやがて未来の「別の自分」を明滅させるのである。





(以下引用)





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考えてみればメチャクチャな話だ。

無軌道な原発行政が破滅的な事故を引き起こし、そこら中が放射能だらけとなり財産権も生存権も破壊されているのだが、賠償を回避したい国家は核による健康被害などないのだと居直り、原発マネーに浸潤された裁判機関は加害者の瑕疵を認めず法体系すら瓦解し、児童の被曝が累積しているにもかかわらず行政はカネがないからと避難を拒絶しつつ、有責者である文科省や経産省の役人は変わらず高額給与が支給されているのであり、ついにそのような欺瞞が隠し切れなくなったことから言論弾圧法を施行するというのである。

ソルジェニーツィンの記録文学「収容所群島」には、当時のソ連で反革命分子という冤罪をでっち上げられた人々が各地の収容所に送られ、どれほど惨い拷問や強制労働の犠牲になったのか克明に記されている。

共産主義体制における市民生活はそのような奴隷階級の生産によって担保されていたのであり、結局のところ古代ローマも市場原理主義が席捲する近代国家も、人間の家財化つまり家畜化によって成立する図式に変わりがないのかもしれない。

ニホンの歴史においては野蛮な奴隷制度など存在しなかったというが、朝貢外交の記録によると献上目録には奴隷が記されているし、平安や鎌倉など中世においては奴婢や下人が公然であるとおり、市場取引されていたことは皆様もご存知だろう。公娼制度が明治に廃止されたというのも建前であり、自分の親類などは60年代頃まで置屋を経営し、さらには四国の貧農世帯から女性を引き受け、その斡旋を生業としていた。

人間の売り買い禁止とはごく近年の民主的獲得物なのであり、奴隷制や従軍慰安婦の存在を認めない者達の頑迷とは「エスノ・セントリズム」(自民族だけが特別に潔白かつ優秀であるという思想)に過ぎない。

人間は普遍本質としてヒエラルキーを欲望し、抑圧衝動を孕む生き物だと捉えなくてはならないのであり、換言するならば我々は自己利益のために‘けだもの化’するのだ。

国家は福島原発の作業員の献身により首の皮一枚で存続している状態なのだが、そのように生命を賭している方々は報われることもなく、低賃金で危険な作業を強いられたうえ医療保障すら適用されず、文字通り使い捨てにされるわけだ。すなわち2万円にも満たない日給が生命の値段であり、ニホンにおける人間の市場価格である。

超絶のブレアクレズム(官僚統制主義)により独裁政治を貫いた旧ソ連ですら、原発事故の直後には千数百台のバスを連ね子供を救出し、疎開地では安全な食物を優先的に供給し、リグビダートル(復旧作業員)には恒久的な医療保障を施したのだから、我々の体系がどれほどの暗黒国家であるのかもはや説明するまでもない。

このように原発事故は生命のデフレをもたらし、人間が限りなく低廉化し市場取引される社会を現出させたのだけれど、未だ国民の99.9%は進行する事態の理解すら覚束ないわけだ。

かつて辺見庸はこのような状況を「イナーシア」(inertia=物理学用語における「慣性」)と表現したのだが、要約すれば「思考作業を代行して、ある現象を観念化し、言語化してやらなければ、大衆は何も理解できない」ということだ。「イナーシア」は怠惰という意味も有するのだけれど、結局のところメディアにより国民知性が根源的に無化され、分析的思考の一切が破壊されているということなのだと思う。

おそらく知性とともに人間の基本感情すら破壊されているのであり、線量バッヂを首からぶら下げ通学する東北の子供たちの写真などが公然と配信されながら、そのような不条理に馬鹿野郎!とも、ふざけるな!とも怒りを言挙げすることもないのであり、もはやタナトロジー(生死を深く考える枠組み)が成立し得ないほど、凄まじい精神劣化が進行しているのではないだろうか。

この時代ほど国家知性が問われる時代はないのだけれど、文学者も哲学者も宗教者も学識者も教育者も一斉に口を閉ざすのであり、むしろ積極的に加害行為へ加担するのであり、それは共謀関係というトポロジー(連関構造)の露呈であり、知識層による壮大な自己検閲と言えるだろう。

結局のところ破滅の回避にむけ必死で情報発信しているのは普通の主婦であり、中小企業のオヤジであり、定年退職者であり、疲れたサラリーマンであり、まったく市井の人々なのであり、つまりニホンの文化資源の全面敗退なのである。

これまでさんざんクロード・レヴィ・ストロースの敬愛者を自称してきた内田樹もまた、児童の被曝という問題については頑なに口を閉ざすのだけれど、そもそもレヴィはホロコースト・サバイバー(ナチ収容所の生き残り)である。

本来的には内田氏のような人物こそ被災地で展開される構造的暴力を論じるべきなのだが、やはり「実利は思想を超越する」のであり、「大人の事情」なのであり、結局彼もまた「メディアの内側にいる人間」であり、それは国家暴力の前において人間知性など全く無力であるという証左なのかもしれない。

この国の「権威」とはマスメディアの露出によって担保されるのだし、反原発だの児童の被曝だのに言及した瞬間からおおよそ全ての媒体から排除され、公演や出版の依頼も激減するだろうし、職すらも奪われるのだから心情的には理解できるのだけれども、そもそも国家が存続しなければカネを得ることすらできないのであり、今声を上げなければ未来永劫に声を上げる機会などないだろう。

いよいよ秘密保全法が国会審議に入り、時代は暴力的転換点に立ち、自由言論は終焉を迎えようとしているのだが、残された時間の中で可能な限りを綴り、そのいくばくかを皆様に共有して頂きつつ、自分という現象の残響をキャッシュに留めておきたいと思う。

バラモンの聖典が教えるように「言葉のなかに全ての創造物が生きる」のであり、言葉だけが未来の手がかりなのだ。



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天災ではなく人災

「陽光堂主人の読書日記」から転載。
台風26号の進路が不可解で、誰かがコントロールしているのではないか、という推測をしているが、べつに伊豆大島を台風に直撃させても誰にもメリットも無いし、また関東を直撃させないためのコントロールだと言うなら、それは「日本のためを思う行為」になってしまい、これまでの「気象兵器」の捉え方を変える必要がでてくるだろう。私は今回の台風26号が気象兵器に操作されていたとは思わないが、それ以上に大きな問題を提起していると思う。
正直言って、台風26号がフクシマを直撃していたら、どういう事が起こったか分からないのだから、確かに関東全体として見たら、台風が逸れてくれたことは幸いだったということになる。
伊豆大島の大被害は、「備えあれば憂い無し」の正反対で、まったく台風への備えができていなかったということだ。もともと火山灰の脆弱な土壌の上に民家を建てること自体が危険な行為であり、日本全国でもそういう危険地域は無数にあるだろう。
毎年のように大雨は振るのに、毎年のように水害が起こり、何人もの人が死んでいくのは、それに対する備えがまったく為されていないということであり、これは天災ではなく人災である。



(以下引用)


台風26号の不可解な動きで大惨事となった伊豆大島



 台風26号による豪雨で、伊豆大島は大規模な土砂崩れに見舞われ、17日午前1時現在で17人が死亡、依然として43人の安否が確認されていません。台風被害としては、近年にない大惨事です。

 伊豆大島は火山島で地盤が脆く、集中豪雨に弱いと言われていますが、何故異様な豪雨となったのか、避難勧告が何故出されなかったのかという点について検証する必要があります。

 近年は集中豪雨・ゲリラ豪雨が発生しやすく、今回もまたかという感じですが、原因はよく判っていません。後知恵で気象庁は気圧や気流などで説明しますが、何故そういう異様な気圧配置ができるのか、不明のままです。

 下の図は、気象庁が発表している台風26号の関東・東北付近の経路図ですが、素人目にも不自然な感じがします。

1326-00.png

 台風26号は、八丈島辺りで急に角度を北に変えて真っ直ぐに進み、三宅島と御蔵島の間で再び右へ急旋回し、房総半島沖を北上してゆきました。島々の間を縫って関東地方を避けるかのような動きを見せています。丸で誰かがコントロールしているが如くです。

 たまたまそういう形になったと気象庁や専門家は説明するでしょうが、納得できるものではありません。気象コントロールしたのではないかという疑念が湧いてきます。もしそうなら、伊豆大島はとばっちりを食った可能性があります。台風が近くでモタモタしていたわけですから。

 大島町長と副町長が揃って不在だったという点も気になります。それぞれ島根県と東京都へ出張していたとのことですが、関東地方への「10年に一度」の台風が接近しているのにのん気なもので、通常なら役所で待機していなければなりません。

 東京都によれば、大島町を災害警戒地区に指定する直前だったということですが、言い訳じみているような感じもします。台風被害が生じ始めた時点で、地元の警察が大島町役場に2度も連絡したとされていますが、何故か役所は動かなかったようです。

 「今更避難勧告を出しても危険を増すだけ」という尤もらしい説明がなされていますが、もう少し対応の仕方があったのではないでしょうか? 全体的に不自然で何かありそうですが、結局天災ということで蓋をされてしまうことでしょう。国や地方自治体などは当てにならず、自分たちの身は自分たちで守るしかないようです。




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人間の使い捨て

「酔いどれギャラリー」から転載。
今日の「徽宗皇帝のブログ」の補完記事として。


(以下引用)



もはや、やる気もない東電では無理だろう、

◆http://blog.goo.ne.jp/chiba20110507/e/7de5a12d113b7ba1ae24917988594054
もう黙ってられない! 原発なくせ! ちばアクション  2013-10-15
◎「福島第一原発、だめだ。」ーー
  福島第一原発に働いている知り合いから連絡がありました


フェースブックから


先ほど、福島第一原発に働いている知り合いから連絡がありましたので紹介します。


・引用開始・


福島第一原発、だめだ。

現場の意識レベルが最近低下して、原発を知っている人が居なくなってきた。

線量計も身に付けさせてもらえず、4時間⇒7時間作業に伸びた。

人が足りてない。 素人ばかりだ。 さらには、自分の被曝量もわからない。

やり方はむちゃくちゃ。 日当もほとんど上がらない。

最近では、会社をクビになったおっさんまできだした。
多分、浮浪者も居なくなってきているのかも。
夏も終わり涼しいが風が強いと 埃が舞って、さらに被曝量が増えている。
俺の靴下に入れているシート型線量計も100ミリシーベルトはこえていた。

あと、二週間前に、同じ作業員が、急性心不全で亡くなった。

そいつは建てや内の作業で、高レベル放射能地区だった。

もう、誰も止められないよ。

どうしよ。このまま福島第一原発は続いていくのか心配。

タンクの汚染水漏れ、ホースのつなぎでの被爆なんて、現場ではわからない。

全てにおいて報道で知る。アルプスも不具合 治しながらだが、除去されている保障がない。

現場にいると、綺麗事なんてない。2年半、なんにもできていないみたいだ。

なんとなく周りに建屋を立てているが、3号機なんて近寄れないし。


事実を報道しない理由はわかる。

報道したら、福島第一原発はチェルノブイリよりタチが悪い。

東電も、毎日何かやっているが、メルトスルーすら、なんにもわかっていないみたいだ。

これから、また、どうなるかわからないが、もう少し働いてみる。

今日の夕方に、嘔吐により病院行ったが緊急入院。 白血球が異常値らしい。

もう、作業員も使い捨てだな。

また、連絡するな。


・引用終わり・



●現場の士気が低下。

なくなっている人もいる。
政府は理解していても東電任せだろう。
なんとかできないのか。。


以下管理人

事態はどんどん進展していますね。
どうすればいいのか・・焦るばかりです。

「限度」は100mSv/5年ですから、
(賃金以外に)最低限でも1mSv当たり20万円程度の補償と、
万全の安全対策・健康管理を実施させねばなりません。

そのうえで、5年以降の継続雇用も保証させることです。朝日の記事も参照

_______________________________________

☆http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131013-00000029-asahi-soci
朝日新聞デジタル 10月13日(日)
◎作業員「線量パンクでポイ捨て」 福島第一、下がる士気


東京電力福島第一原発で9月以降、単純な作業ミスによるトラブルが続いている。
放射線量の高い現場で働き、汚染水まで浴びた作業員もいる。
ミスの背景に何があるのか。

「浴びちゃったな」「きょうも高かったな」

第一原発の出入り口「入退域管理棟」。
その日の仕事を終えた作業員たちが、渡されたレシートのような紙を見てつぶやく。
無言で数字を見つめる人もいる。

記された数字は、被曝(ひばく)量。
1日で2ミリシーベルト近く被曝する作業員もいるという。
一般人の年間被曝限度の2倍近い。

建屋周辺は今も毎時100ミリシーベルト超の場所がざら。
作業ごとに浴びる線量を想定して計画を立てて現場に向かうが、
1年間の被曝限度50ミリシーベルトを超えると、その年は現場では働けなくなる。

「被曝線量がパンクすれば、ポイ捨てされるだけ」。
10年以上、第一原発などの原発で働いてきた30代の男性は、そう自嘲する。

原発作業員が「ポイ捨て」されると語った男性は、
事故前は原子炉建屋内などの作業でチームの責任者も務めた。
事故直後、避難先から志願して戻り、原子炉に水を入れるために建屋にホースを運んだ。
被曝(ひばく)量が1時間で10ミリシーベルトを超え、「死ぬかと思った」こともある。

五輪に沸き返る東京の様子や、消費税増税がメディアをにぎわす一方で、
第一原発の報道はトラブルばかりで、作業員の声はほとんど報じられない。
被災地に著名人が慰問に訪れても、作業員には会わずに帰る。

「今は社会全体で応援してくれる空気が感じられない。
モチベーションがどんどんなくなる」とぼやく。

入退域管理棟で働くベテランの男性は、汚染水絡みのトラブルが相次いだ夏ごろから、
作業員の肌や下着の汚染が増えたと感じる。

防護服に全面マスクを身につけてはいるが、マスクを外す際に
汚れた手袋で首筋に触れる人もいるという。
「事故後にゼネコンが集めた作業員は経験も知識も浅く、防護服も上手に脱げない」

しかも、第一原発は通常の発電所と違い、がれき撤去やタンクの据え付けなどで
少しずつ様子が変わっていく。 事故前の作業経験が通用しない現場もあるという。

_______________________________________



◆http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-10060.html
「日々担々」資料ブログ (日刊ゲンダイ2013/10/16)
◎現代の蟹工船 福島原発作業員の悲惨


今月に入り、福島第1原発で立て続けにトラブルが起きている。
ほとんどが「タンクにゴムパッドを置き忘れた」といった単純ミスだが、
原因は作業員の人手不足と士気の低下だ。

事故の年は3万円近かった日当が今では半分以下に。
なのに、国と東電が「急げ、急げ」とプレッシャーをかけるから、ミスが増えるのも当然だ。

士気の低下はカネのせいだけじゃない。
福利厚生面の待遇悪化が作業員のやる気をそいでいるという指摘がある。

以前は線量オーバーで離職した作業員は、無料で健康診断や人間ドックを受けられたが、
今ではよほどの高線量を被曝しなければ認められないという。

作業員の取材を続けているジャーナリストの布施祐仁氏が言う。
「東電のコストカットで、事故直後は温泉旅館やホテルだった作業員の宿が
プレハブみたいな仮設住宅になりました。しかも個室ではなく相部屋がほとんど。
これではプライベートを保てないし、疲労回復は望めないでしょう」

作業員は床にマットを敷いただけのプレハブ内で雑魚寝をして休憩する。
全面マスクと防護服で包まれた作業員はいつも汗でビッショリ。
そんな男たちが集まれば、異臭もするし食事どころではなくなる。
しかも、以前は新品の下着が毎日支給されていたのに、今は洗濯して再利用するようになった。
他人の臭いが残っている場合があるという。

「作業員が口を揃えて『クサイ』と訴えるのがマスクにこびりついた臭いです。
呼吸口のフィルターは毎回交換しますが、
ヘルメット部分は事故直後から使い回しているものがあるそうです。
かぶった瞬間、ムワッとした男の臭いで息苦しくなるといいます」(布施祐仁氏)

福島原発はただでさえ危険な現場だ。

給料が安いうえ環境が不衛生では、腕のいい働き手が集まらなくなるのは当然といえる。

蟹工船みたいな労働環境の改善は喫緊の課題だ。


※この貴重な媒体を応援しよう!
http://e.gendai.net/
http://bit.ly/LFNwYk



昨日の記事にもあるように、東電の大株主はゴールドマン・サックス。

ここが裏の核心ですよ。  東電の破綻処理、絶対反対だろう。







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酔生夢人
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男性
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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