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猫の下僕の或る感想

「神州の泉」から転載。
「神州の泉」にたまに載る、あまりお堅くない記事だが、そういう記事にも書き手の鋭い知性と感性が現われていて、私は好きだ。大所高所から世間を叱咤する硬派な政治記事より好きかもしれない。
世間的常識(というより、現在の科学に押し付けられた見解)に囚われない柔軟性が、下の記事にはある。話の内容が複数の猫の眠る姿勢のシンクロという、どうでもいいような話なので、多くの人にスルーされる可能性が高いが、面白い問題である。
もちろん、精神感応(テレパシー)ではなく、ただ、同じ姿勢で寝る方が何となく安心する、という「猫文化」である、という解釈もできるが、そういう一見些細な問題を研究することから人類史を一変させる大発見が生まれる可能性も無いともかぎらないだろう。
まあ、私は猫の眠る姿は好きだし、彼らのシンクロした眠りポーズは、非常に漫画的で面白いので、これは彼らの人間へのサービス行為なのではないか、とすら思っている。彼らが人間の言うことを聞かないのも、あれは犬とは違った形でのサービスだろう。そのうち猫の思考を解読できる時代が来たら、ぜひ、彼らの思考を知りたいものである。
上記タイトルの「猫の下僕」とは、言うまでもなく私(人間)のことである。普段、下僕として扱っている人間に、眠るポーズで面白がらせるくらいのサービスはしてやろう、という有難いお志が、あの眠りポーズではないか、というのが私の推理だ。



(以下引用)




2013年11月 5日 (火)



眠りネコたちの奇妙な相似(ニャンコのシンクロナイズド・スリーピング)について





Photo_3


(画像はhttp://labaq.com/archives/51758746.htmlからお借りした。)




「眠り猫」といえば、日光東照宮にある左甚五郎(ひだり じんごろう)の彫刻作品を思い浮かべる方も多いだろう。
だから何だと言われても、それにちなんだことを書くつもりは全くない。(笑)

自分の飼いネコたちが、いつの間にか冒頭写真のポーズをとって相似形に寝ている光景をしばしば目にしている全国の飼い主さんたちも多いだろう。


さて、2匹のネコが、ほぼ同じ姿勢で寝ることであるが、これは特に珍しいものではない。
神州の泉は子どものころから、多くのネコを飼ってきたが、2匹のネコが同じ姿勢で寝ているところは何回も見てきた。
あるときは3匹のネコが全く同じ姿勢で寝ているのも見ている。

眠りネコたちの不思議な光景を見るたびに、これは何だろうか、どういうことがらがこのネコたちに同時に作用しているのだろうかと考えるのだが、全く分からないし手がかりもない。

同床異夢(どうしょういむ)という言葉はあるが、無邪気に寝入っている2匹のニャンコは同床同形、あるいは同床同期となっている。
このニャンコ・シンクロについては、決して偶然の産物ではなく、世界的にも広く見られ、しかもかなり頻繁な再現性がある。
だから、何らかの科学的な説明があっても然るべきであろう。

神州の泉は寡聞にして、これを的確に説明したものをまだ目にしていない。
この現象をまっとうに説明したものがどこかにあるのだろうか!?

では、不遜にも自分で仮説を立ててみる。

いきなり核心部に入る(笑)が、もしかしたら、ネコ同士には、非言語的なコミュニケーション通路が身体的にできあがっているのではないだろうか。
その通路は睡眠時にも開いていて、2匹(複数)のニャンコの身体が共有された状態にあるのではないだろうか。
こういうニャンコ・スリープのシンクロは、その手の仮説を設定しないと説明がつかない。

これは仲のよい犬とネコの間にも起きているようなので、動物には種を越える、何か共通の連携通路があると考えたほうがいいだろう。
まあ、むずかしく考えずとも、この現象は人間で言えばテレパシー (Telepathy) の一種だろう。
ある人の心の内容が、言語・表情・身振りなどによらずに、直接他人に伝達される。
電話コールを耳にして、ある人物を思い浮かべたとき、当の本人からかかっていたなどということはよくあることだ。
超感覚的知覚 (ESP Extra-Sensory Perception) の一種。

人間界は、自然と乖離した人工環境なので、この原初的な伝達方式は衰えてしまっている。
だからこの手のテレパシックな情報共有を、超自然とか超能力と位置付けてしまっているのだが、案外、動物界では常態的にこの手段を使用している可能性は高い。
だから、スリーピング・ニャンコのシンクロ姿形は、睡眠時無意識の同時的な相互転写(そうごてんしゃ)ではないだろうか。

ネコ同士が眠りの状態を身体的にも共有する事実は、考えてみるとじつに不思議なことだが、動物たちにとってはそれがごく普通の“社会性”なのかもしれないのだ。

大胆なことを言うなら、動物たちは睡眠時に同種同属の動物や他の種類の動物たちとコミュニケーションを取っている可能性がある。
意外と、インターネットが発達するはるかな古代から、動物たちは、世界中に散在する動物たちによって形成された、情報のネットワークを共有していたのかもしれない。
この自然界には、人間が観察しているにもかかわらず、いまだに解明されていないことがかなり多いと思う。

と、以上のような神州の与太話はどうでもいいのだが、話の帰着点として、同じ格好になっているスリーピング・ニャンコはほんとうに可愛い。





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農業工場論再説

「播州武侯祠遍照院」から転載。
私も、日本は第一次産業の工業化で再生する、と考えているので、下記記事は我が意を得たり、である。
ずっと前に、「農業工場」というコンセプトについて書いたことがあるが、それは高層ビルの各フロアを田畑にし、密閉構造にすることで病原菌や害虫や雑草(今なら放射能も)の侵入を防ぎ、農薬不要にする、というアイデアであった。農業基盤を高層ビル化すれば、農地が土地面積や場所によって限定されることもなく、また農業労働自体をビルに付随した機械で半分以上賄うことも可能だろう。もちろん、給水機能や施肥機能はビル自体に付随するわけだ。
しかし、いくら機械化しても人力労働でなければならない部分が残るだろう。だからこそ、そこに雇用も生まれるわけである。
くだらない東京オリンピックなどに使う金があれば、こういう構想を実験的にでも実現してみてはどうかと言いたい。
給与や所得について言えば、学歴年齢性別不問の簡単な肉体労働になるはずだから高給は取れないが、1日4時間程度の労働で月給10万円、1日6時間なら15万円、8時間なら20万円といった相場になるのではないか。これらは基本的には老人でも可能な肉体労働であり、過重な力仕事は機械がやるだろう。あるいは、下記記事にあるように「パワードスーツ」を装着して行う、という未来の労働の姿もありうる。
私も膝が悪いので、パワードスーツは日常の道具としても欲しいところだ。昔なら8マンとか、少し前のロボコップみたいな姿の「スーパー爺さん」になるのは私の夢想の一つでもあった。(笑)



(以下引用)



日本の独立を目指して より

上記文抜粋

・・・・・・・・・・・

「現在の農村生活はごく最先端の科学産業になる」  

マスゴミ、とくにNHKは今の死にかけの老人の、自給自足的あり方をありがたがって見せているが

そんな生き方を、これからの人がするはずが無い

実際の農村はどうか?

ネットと衛星につながった、センサーだらけの科学技術の巣窟である。そもそも、農薬をどんな最先端技術だと思っているのか?

これから、微生物の利用に進んで行くだろう

しかしこれも昔の、保存食、乳酸菌発酵のなれ鮨に戻らない

新しい菌種で新しい、清潔環境で作られるに決まっている。

実際今の酒がそうである。工業生産的にあまりに精度を上げすぎた

ので挫折しているだけである。塩をNACLと勝手に解釈して、99.99%の塩を専売公社は販売して来たが

それが全くまちがいだったので、もう何処にも無いだろう。化学の棚にある試薬特級をのぞいて。

この変化はわずか10年の事だ。

清潔、純粋、という概念が暴走していたわけだ。

ヤンマーは耕耘機を開発し、日本の零細形態の農業を救った

今度は人形ロボットで解決する。

そうなるに決まっている



(画像省略:夢人注)




次の産業革命は農業である

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

>ヤンマーは耕耘機を開発し、日本の零細形態の農業を救った

>今度は人形ロボットで解決する。

>そうなるに決まっている

人形ロボットでなく「パワードスーツ」って奴の方が近い。

そうして、農業の「重労働」も、「パワードスーツ」で軽減化されると思う。

っていうか、そもそも「放射能だらけの原発収束作業」も、このパワードスーツがあれば、かなりなんとかなるのかもしれない。


でも霞が関・企業・東電・自公政権は、それをしない。それで新利権が生まれるとしてもだ。真性のアホはさっさと死んでもらうしかないのだろうか。


お読みいただいてありがとうございます。






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私の「ゴルフ考」

休日の、暇にまかせて書いた「ゴルフ考」である。ゴルフに興味の無い人は、今日の酔生夢人ブログはお休み、と考えればいい。もともと、毎日書くつもりのブログではなかったのだ。
なお、私自身のゴルフ体験は、コースに出たのが10数回程度、練習場に行ったのも同じくらいで、スコアは惨憺たるものであり、私のゴルフ理論はまったくの「机上の空論」である。




私は肉体労働者だが、運動能力はちょっとした身体障害者並みで、年齢的に、身体に無理をさせると故障を起こしがちなので、スポーツとはまったく縁が無い。しかし、スポーツを見たり、スポーツ関連の本を読んだりするのは好きである。政木和三のゴルフ教習書など、面白く読んだ。しかし、その「真理のゴルフ」は、写真や図版と文章内容の関連が今一つ分かりにくいところが欠点である。特に、クラブのスイング軌道とクラブフェースの関連が、私にはあまり理解できなかった。クラブフェースを開いたり閉じたりせず、常にスイング軌道に直角に保つ、というようなことが文章では書いてあるのだが、写真ではそれがよく分からないのである。
「真理のゴルフ」の理論を私の解釈でいい加減にまとめると、

1) 体重は、最初からインパクトまでほとんど左足にかける。(これは通常のゴルフ理論における「バックスイングは右足体重で、インパクト後は左足に体重移動をする」、という説とは正反対。)インパクト後は、ランを稼ぎたいティーアップした球の場合は球を打ち上げる感じで右足に体重が移るが、正確な距離の欲しいアイアンショットや、ボールが逆回転して止まる球が欲しい場合は、左足体重のまま。(ただし、使い分けが面倒なら、下記引用記事のように、すべて左足体重でもいいかと思う。そもそも、左足から右足に体重が移るショットは、あまり格好のいい姿ではない。いわゆる「明治の大砲」か。もっとも、すべて左足体重というのも、あまり格好良くはないと思う。)
2) 構えの姿勢はあまり前傾せず、直立より少し前にかがむ程度。
3) グリップは、左手は親指と人差し指だけ、右手は中指と薬指だけで持ち、その4本の指でほぼ「一点支持」になるようにする。当然、強い握りや締め付けは不可能だろう。要するに、クラブは振り子の支点として、「一点支持」であるわけだ。
4) つまり、クラブを腕力では振らない、ということ。軽いスイングで後ろに持ち上げ、振り子のように戻す。ティーアップしたボールは、そのスイングの最下点を少し過ぎた所で捉え、地面(芝)の上のボールはスイングの最下点(アイアンはわずかに地面に打ち込む感じもあるか)で捉えるようにする。
5) インパクトの瞬間、両脇(両腕)を締め、クラブヘッドを「走らせる」。あるいはグリップ支点(指で掴んだところ)を停止させるイメージ、あるいは、あるプロ(青木功だったか)が言うように、「閉じた扇子をパッと開く」感じか。つまり、腕によるスイングは頑健な人より遅いが、クラブのヘッドスピードは速い、という感じになるだろうか。別の言い方をすれば、「鞭を振る」イメージかと思う。(このあたりは、ほとんど私の想像だ。)
6) クラブフェースはこの間、常にスイング軌道に直角。つまり、手首の返し(外転・内転)は無い。「真理のゴルフ」では、最後までスイング軌道にクラブフェースは直角、と言っている。つまり、インパクト後も手首は返さない、ということだろうが、それが可能かどうか、私には分らない。そうすると、大昔の「パーマー・フィニッシュ」のような感じになるような気もする。あの力感溢れるスイングと、「老人、女性、障害者、非力な人」向け、と私が見ている「真理のゴルフ」がフィニッシュだけは同じであれば、それはそれで面白い。もっとも、「パーマー・フィニッシュ」がどういうものか、私は昔、写真で数回見ただけだから、これもいい加減な感想である。

以上は、かなり私の想像で補完した内容であり、元の「真理のゴルフ」からかけ離れた内容になっている可能性もあるので、真面目に読まなくていい。
もう少し補足すれば、政木氏は、ゴルフは「自分の足元1メートル四方だけ」のゲームだ、とも言っている。
飛ばそうとか、曲げないようにしようと思うあまり、スイングやインパクトの瞬間がおろそかになり、ヘッドアップなどをしたりクラブフェースが不正確に当たったりするのが、ゴルフの基本的な病状・病因であり、そもそもそれは広いゴルフコースや前方の様々なハザード、谷間などに幻惑されているのである。勝負は、ただインパクトの一瞬であり、その一瞬にきちんとクラブフェースが予定された飛行線と直角に、ボールに当たるかどうかだけでボールの方向も、そしておそらくはだいたいの飛距離も決まるのである。
などと分かったようなことを書いているが、私はほとんどゴルフをやらない人間だ。ただ、頭の中で考えるかぎりは、多分こういうことだろう、と思うだけである。
毎度言うが、私は考えることが趣味なので、こういうような「謎解き」自体が楽しいのである。しかも、世間には無数のヘボゴルファーが、「ヘボゴルファーのための究極のゴルフ理論」を探しているだろうと推測できるので、「真理のゴルフ」を足掛かりに、少し私も考えてみたわけだ。
なお、下の記事は、「左足体重」の効果についての実体験談である。ヘボゴルファーは、「政木メソッド」に限らず、いろいろと試してみると良いのではないか。
たとえば、「左手一本でスイングする」という方法もあり、サム・スニードによれば、たいていの素人は、その方が、いい打球が打てる、という。同じサム・スニードの本には「(素人は)ドライバーは、バッグから引き抜き、家に置いてゴルフ場に向かえ」とも書いてある。(笑)中部銀次郎もそれに近いことを書いており、下手なゴルファーは、ハーフセットのほうがスコアメイクには良いはずだ、とも言っている。これからゴルフを始める人は、心に留めておくと良いのではないか。フルセットを持つのは100を切るスコアが普通になってからでいいかと思う。(中部銀次郎によれば、アマチュアゴルファーの大半は、クラブの飛距離などほとんど一定していないのだから、たとえば6番と8番の間に7番アイアンがあっても、ほとんど意味はない、ということらしい。)



(以下引用)





2010年02月23日00:01

カテゴリ
ピヤポン・ゴルフ理論



嫌いと書きながらまたもやゴルフの話題ですが、3月1日にゴルフコンペを

開催する立場なので、知識と情報を身に着ける必要はあります。

こんな広告を見ました。



おいおい、俺の悩みはそれ以前に球が当たらないのだよ!

でも、ピヤポン・ゴルフ理論が世界に通用することがわかりました。

実は私は左足一本打法なのです。

測ってはいませんがアドレスでは左足に体重の70%ぐらいをかけます。

そして打つ瞬間には右足が浮いてしまいます。

この広告とまったく同じことではないのですが、体重を移動させないから軸が

ぶれにくく、力が分散されずに伝わるため飛距離が伸びるというピヤポン

理論が実証されたようです。

だから右半身の感覚がかなり麻痺しており、薬の副作用でいつもシビレがあり

多少右足を引きずって歩いている私でも、200ヤードのショートホールを

アイアンでワンオンし、10メートルのバーディーパットははずすものの、残り

20センチのOKパーがだせるのである。

ただ残念なのはゴルフに熱心でないため、練習にも行かず筋力トレーニング

もしないし、脳にエロ障害があり体力がついていかないため、思い通りの

正確なショットが出来ないのである。

この打法はもう10年以上前のゴルフコンペにて見つかったもので、その

日は調子が最悪でやる気を失くしていた時に、第一打のドライバーショットを

チョロってティーグランドを降りる時に右足を捻挫するという、まさに

"泣きっ面に蜂" 状態になってしまった。

歩くのはもちろん右足に体重をかけられないほど痛くて、あと4ホールを棄権

するか悩んだが、とりあえずそのホールだけはなんとかホールアウトする

ことにした。

刻んでいくしかないと、残り300ヤード以上はあると思っている中、8番

アイアンを持った。

左足に体重のほとんどを乗せ右足は支えている程度で、打つ瞬間は右足を

浮かせた。

何それ?

真っ直ぐ天に向ってギューンと伸びていく、生涯一というぐらいの完璧と思える

ファインショット。

その後もナイスショットは続き、キャディーからは捻挫した方がいいですね

と嫌味を言われるしまい。

だからこれをマスターしていけば80台はいけそうだと思っています。

でも、金と時間と気を使うゴルフには懲りませんよ。

アフターゴルフではなく、エロ一直線にイーグルパットです。



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伝家の宝刀は抜かれるか

「逝きし世の面影」から一部転載。
まさにその通り、

天皇の口から漏れた何気ない『一言』の方が何万倍も政治的な影響力が大きい

これこそが私の言う、「権威」の力なのである。
そして、その「権威」は、「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」ところの「権力」に対する絶妙の抑止力になりうるものだ。そして、世界には(イスラム教の一部の国を除いて)「権威」がこれほどの力を持っている国は無いし、しかもそれが「抜かれない伝家の宝刀」として静かに存在している国はまったく無い。
権力の犬たちが大騒ぎして山本議員バッシングに動いているのも、その鞘の中の刀が自分たちに向けて抜かれることを恐れているからではないか。



(以下引用)



『山本太郎参議院議員の直訴の政治的影響力』

今回の直訴では共産党の志位委員長は、『国会議員が、憲法上の存在である天皇に対して、政治的対応を求める行動をとるというのは、「天皇は、国政に関する権能を有しない」としている憲法を知らない者の行動だと思います』と言う。この大馬鹿者が。
政治家の発言であるとは到底思えない。
志位委員長は自分の演説や共産党の長々として宣言文よりも、天皇の口から漏れた何気ない『一言』の方が何万倍も政治的な影響力が大きいことを知らないだろうか。
情けないが、政治の現実を知らない愚か者の発言である。
政治のイロハを知らない一憲法学者の発言なら納得するが、『政治家』それも共産党のトップの発言であると思うと、あまりの無知(政治オンチ)には戦慄さえ覚える。
そもそも共産党機関紙赤旗が、昔のようにタブーに挑戦していれば山本太郎の直訴文も生まれていない。
『原因』(赤旗を含む挙国一致の隠蔽工作)を無視して、『結果』(天皇への直訴に因るマスコミの悪事の暴露)を逆さまに描くなど、許される限度を超えている。
小児甲状腺がんの爆発的発症などの放射能汚染を産経読売など右翼マスコミと同調して、共産党や赤旗までが一般市民に対して隠蔽の大本営発表を行うから、やむにやまれぬ成り行きで山本議員の直訴が行われたのである。
山本太郎議員を除く他の721人の全国会議員は政治家として怠慢が過ぎる。恥を知れ。







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庶民生活と医療費

「長周新聞」から転載。パソコンの経年劣化か、ウィルスにかかったのか原因は不明だが、ワードの変換機能が最悪で、文章がほとんど書けない状態なので、前説は書かない。
庶民生活における医療状況はこのようなものだという実例である。


(以下引用)







 年金少く衣食住に困る

 下関市内の高齢者のなかでは、年金が引き下げられる一方で、有無をいわさず天引きされる後期高齢者医療保険料や介護保険料は上がり、食料品などの物価も高騰し、そのうえ来年4月からは消費税率が8%に引き上げられることに、「安倍さんたち政治家は、自分たちだけいい暮らしをして“景気回復”といっているが、どこにそんなことがあるのか」と憤りを語っている。そのなかで医療費の負担は大きく、医者に行かない人が増えている。
 70代後半のある婦人は、先日インフルエンザの予防接種(1260円)をし、持病の薬代とあわせて1割負担で約4000円を支払った。その前の肺炎球菌の予防接種でも数千円とられた。高齢者は一つの病院だけではなく、いろいろかけ持ちしているが、「これではとうてい病院にかかることはできない」という。
 その婦人は、「5万円程度の年金では、生活を維持するための衣食住にも困るほどだ。私などもう新しい服は買えない。市営住宅の家賃が払えない人もいる」といい、「昔、池田勇人が“貧乏人は麦を食え”とひどいことをいったが、まだ国民を生かそうとしていた。最近、麻生副総理は“(終末医療で)さっさと死ねるようにせよ”といった。それを実生活で実感している」と語った。
 71歳になる今も2つの仕事をかけもちで働いている婦人は、20年前、同じ建設会社で働いていた夫を亡くしたとき、自身は健康保険をかけておらず、そのためその後は月3万円程度の年金が出るだけ。夫の会社が倒産しても退職金もなにもなく、現在は早朝3時間、弁当屋で働いて2000円を手にし、午後には時給600円程度で建設の下働きに出ている。
 その婦人は、「今は医者に通うために働いているようなもの」という。長年の労働で痛めた足腰は、整形外科に通ってヒヤルロンサンを注射するのと、痛み止めの座薬をもらい、痛みを忘れるようにして仕事をする。咳が止まらず甲状腺が悪いということで、内科にも通っている。歯や目、耳も悪くなっており、窓口負担が1割のうちに歯だけは治したいと思っていた。
 ところが安倍政府は来年度から、70~74歳の負担を1割から2割に引き上げようとしており、「こういうのも2割になったらもう行けない。働くのもおしまいになるから病院もおしまいだ。子どもにも頼れる状況ではない。今はなんともいえない世の中だね」といっている。

 通院我慢し入院費20万

 子どもと子どもを持つ親にとっても、医療費は頭が痛い。
 小学生と中学生の子どもを持つある母親は、身体が丈夫な方ではない。あるときカゼをひいたが、パートを休むわけにはいかず、それに医者にかかれば支払いは5000円を下らないと思って我慢して、市販の風邪薬でごまかして仕事を続けていた。
 ところがカゼをこじらせて肺炎になり、入院。そのうえ小学校の子どもにもカゼをうつしてしまった。
 入院中は夫が仕事から早めに帰って、子どもたちにご飯を食べさせていたという。結局、入院費が20万円もかかってしまい、現在分割払いができるように病院側と話しあっている。

 治る前に病院追い出し

 入院した経験のある人のなかでは、入院が長引くと病院から追い出されたという話も多い。
 2カ所のガンの手術で70代の夫を入院させた婦人は、夫が1度目の手術後に肺炎になったため、2度目の手術が延期され、家に連れて帰っても世話ができないので別の病院を紹介してもらった。そして2度目の手術が終わって2週間たつと看護婦の態度がガラリと変わったという。
 「“病院を早く出てくれ”という雰囲気になった。まだ歩けもしないし、下の世話もしないといけないが、家に連れて帰っても介護できない。紹介してもらった別の病院にもう一度入院させてもらえないかと頼んだが、それもできないという。困ってあちこち探し回って、ようやく次の病院を見つけた。病気が治るまで見てくれるのが病院だと思っていたが、ベッドは空いているのに、入院が長引くともうからないから追い出される」。
 医療関係者は、こうした状況が生まれる要因に、2003年に導入されたDPC(診断群分類包括評価)制度があると指摘する。従来の出来高払い方式では、一つ一つの医療行為ごとに料金を設定し、その合計額が診療報酬として国から支払われていた。この下では、医者が1人1人の患者の状態にあわせて試行錯誤しながら、積極的な医療をおこなうこともできた。
 ところが小泉内閣が「治療費が高くなる病院はムダな治療をしている」と宣伝して導入したDPC制度は、治療の内容にかかわらず、病名などで1日当たりの診療報酬が決められており、それ以上の治療をすれば病院の持ち出しとなり、経営が困難になる。それで病院側は在院日数を短縮化し、ベッドの稼働率を高めて収益をあげることにきゅうきゅうとするようになった。
 病気を治して患者や家族に喜ばれることが医療関係者の喜びだが、もうけ第一でそれに相反する在り方になっていることに、疑問が語られている。






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政木和三という人

「大摩邇」から転載。
政木和三という人物は、自著などに言うその経歴や業績があまりに常人離れをしている上に、その言葉も神秘主義者的なところがあるので、平凡人の私などから見ると、詐欺師か誇大妄想狂ではないか、という疑いもあるのだが、彼の業績が事実ならば、まさしく天才、いや超人だろう。
下の記事は、彼の著作の序文だが、輪廻転生という、私があまり好まない思想を、彼は事実だとしている。もちろん、輪廻転生が事実でない、という証明も存在しないのだから、それはそれでいい。その部分を除けば、彼の言葉は、いろいろと面白い。
彼が科学の全能を疑い、超自然的な力の存在を信じるようになったきっかけの「スプーン曲げ」は、手品でも可能なことから、現在ではほとんどの人が、あれは手品であった、と結論しているが、仮にそれが本当に超自然的な力(と言うよりは、現在の科学では解明されていない力)によるものだとすれば、我々は現代科学の限界と、世界の真の神秘を再考する必要があるだろう。場合によっては、輪廻転生をもこの世界の真実のシステムとして認めざるを得なくなるかもしれない。となれば、道徳も政治も、ひいては社会全体が変わってくるわけだ。だが、やはり輪廻転生が証明されることはほとんど永遠にないだろう。従って、悪はこの世界の強力な要素として永遠に存在する、となりそうだ。
さて、私は政木和三が1週間に三つくらいのペースで無数の発明をしたとか、何の訓練も無しにいきなりピアノの名演奏をしたとか、ほとんど勉強無しにドイツ語が日本語として聞こえたとかいった話が真実かどうかは知らない。しかし、そうした常人離れした話とは別に、彼が下で書いていることの中には、この社会をより良く改変していくためのヒントがある、と思う。そこで、紹介しておくわけである。
なお、下記文中で彼が「生命体」と呼んでいるものは、「輪廻転生する魂」と解釈していいと思う。その「生命体」の声は、欲望を滅却することで脳波がシータ波(仏教で、一般に禅定と言われる状態だろう)という低い周波数になれば聞こえてくる、ということだ。また、脳波を下げるには、呼吸数をうんと減らし、1分間に1呼吸くらいにすると良いらしい。興味を持たれた方は試してみると良いだろう。ただし、政木氏は大阪大学であらゆる科学を学んだからこそ、その「生命体」の声に従うことで無数の発明をしたわけで、そういう「素養」無しには彼のような仕事はできないだろう。まあ、涅槃禅定の状態を本当に知るだけでも大変なことではあるのだが。
蛇足だが、彼の書いたゴルフ書「真理のゴルフ」は、もしかしたら革命的なゴルフ教習書かもしれない。老人や非力な人、ゴルフが一向に上達しない人は、彼のゴルフ理論を試してみるといい。ただし、外見的にはかなりみっともないフォームになるかと思う。私自身はゴルフはやらないが、ゴルフクラブを少し触った程度の経験で言えば、「真理のゴルフ」の理論は合理的だと思われる。特に、素人がプロの真似をしてはいけない、というのは至言だろう。素人とプロでは、クラブを振る回数が圧倒的に違うのだから、プロの技術が素人に可能なはずはない。しかし、ゴルフではそういう勘違い人間が圧倒的に多いようだ。




(以下引用)



2013年10月11日06:37
カテゴリ
mariscoさん
『この世に不可能はない』
著書『この世に不可能はない』 ~ まえがきにかえて ~
mariscoさんのサイトより
http://ameblo.jp/koji-kitano/entry-11613967137.html



<転載開始>
2013-10-10 00:00:00 テーマ:『この世に不可能はない』著者:政木和三



『この世に不可能はない』
~ The Power of Mu ~
生命体の 無限の力
政木和三

まえがきにかえて

● すべてはここから始まった

 私は、常々『この世に不可能はない』と思っている。これは私のこれまでの、八一年の人生を振り返っての実感である。

 『余の辞書に不可能という文字はない』といったのは、かのナポレオンだが、私がいっていることは、他人や他国を権力や武力で押さえつけ、その上に君臨して『不可能はない』といったナポレオンの傲岸(ごうがん)なことばとは、意味内容を異にしている。

 むしろ逆で、『この世に不可能はない』と私が感じるようになったのは、身の回りで起こったいろいろな不思議現象を私が素直に謙虚に認められるようになってからであり、決して私の思い上がりからではない。

 私が思い上がっていたのは、むしろ『不可能はない』などという非科学的なことが、この世にありうるはずがないと、かたくなに信じて疑わなかった時期のことであった。
 それは現代科学と、それに携わっている自分自身への思い上がり以外の何ものでもなかったろう。

 あるとき、その私に転機が訪れたのである。

 私は、大阪大学を拠点に昭和五十七年まで、戦前から含めてほぼ四〇年間、科学者としての生活を送っていた。その後半まで私は、神仏の存在も、超常現象や超能力もいっさい認めようとしない、かなり頑迷な科学一辺倒の人間であった。計測器で測定できるもの以外はこの世に存在しない-------そうかたく信じていたのである。

 いまから二十数年前(現在より約40年近く昔)、超能力者として話題になっていたユリ・ゲラーが来日し、日本中に『スプーン曲げ』ブームがわき起こったときのことは、まだ読者の記憶の中でも古びていないと思うが、あのときも『あんなものは単なる見せ物にすぎない』と、私はブームにむしろ冷淡であった。

 昭和四十七年三月のことである。たまたまテレビのスイッチを入れると、画面は相変わらずスプーン曲げの実演で、いいかげん苦々しく思った私は、たまりかねてテレビ局に抗議の電話を入れた。

 『科学的にいって、念力でスプーンが曲がるなんてことはありえないのです』

 『それならスタジオに来て、それを証明されたらいかがですか』

 私が工学博士であると知って、プロデューサーが逆に私にテレビ出演を求めてきたのである。

 そうなったら後には引けない。科学の正しさを証明するべく、自分で発明した『ストレーンメーター(金属ひずみ計)』を持って、私はテレビ局へ出かけて行った。

 ストレーンメーターは、一〇万分の一ミリのひずみでも検出できる計測器だ。その上に置かれたスプーンがほんのわずかでも曲がれば、そのひずみがたちどころに数値でモニターに表示されるしくみになっている。

 被験者には、スプーンに手を触れることなく、念を送るだけで曲げるという条件がつけられ、いよいよ本番がスタートした。念力でスプーンが曲がるなどという馬鹿げたことは絶対にありえない。そう確信して私は、念を発し続ける被験者をあざ笑うような気持ちで時間の経過を待っていた。

 ところが、『まだ曲がりません』というアナウンサーの声を聞きながら『それ見たことか』と思った、まさにそのときである。ストレーンメーターのモニターに一〇〇〇分の三ミリほどのひずみが表示され、私は一瞬、自分の目を疑った。わずか一〇〇〇分の三ミリとはいえ、スプーンはたしかに曲がったのである。

 想念の力で金属が曲がる。その信じられないような事実を見た瞬間、私は驚愕(きょうがく)し、それまで三十数年間も学んできたことのすべてが、根底からくつがえされていくような感じにとらわれてしまった。科学者としての私が、超常現象に目覚めた、これが最初の出来事であった。

 だが、長年にわたって培われてきたこれまでの科学への信念が、私の中から急激に消え去ってしまったわけではない。

 たとえば昭和四十八年一月に、私はまたしても同じテレビ局の番組に出演し、はたして想念の力で物体は動くか、という実験をしている。私が銅線でつくったヤジロベエに指を差し出し、『近づけ』と念ずるとヤジロベエは指に近づき、『回れ』と念ずると回り出すという実験であった。

 だが、超能力というものを否定したい気持ちがまだ私のどこかに残っていたのだろう。本番でヤジロベエはたしかに念じたとおりに動いたのだが、私は、それは念力によって動いたのではなく、私の体に発生した静電気の力で動いたのだと説明した。その証拠として蛍光ランプの中間をアースすると、それがほんの一瞬ほのかに光ったのである。少なくとも静電気の存在は、それで証明されたと私は思った。

 この放送のすぐ後で開催された日本薬学業会の総会で、講師として招かれていた私は、テレビ局での出来事を得々と披露した。すると、大阪大学のA教授と大阪府立大学のM教授が席を立ち、

 『政木さんの言っていることはおかしい。そんなことは静電気では起こりえない。それは明らかに念によるものである』

 と指摘されたのである。静電気でそんなことが起こりえないというのは、たしかにそうなのだ。私は壇上で答えに窮し、しどろもどろになってしまった。私が根本的に自分の考え方を改めなければならないと思うようになったのは、それからである。また、実際その後、私の身の回りに起こった超常現象の数々は、私の考え方を一八〇度転換させるに充分な出来事ばかりであった。

 私は、それらの出来事を通じて、この世の中には人間の知らないもうひとつの未知のエネルギーが確実に存在するのだということ、そしてこのエネルギーは、実は人間の肉体の内側にも潜んでいて、ある状態のもとにおかれると、それが前面に出てきてとうてい信じられないようなものすごい力を発揮できるようになるのだ、ということなどを知らされたのである(このエネルギーこそが、これから本書に頻繁に出てくる『生命体エネルギー』である)。

 『この世に不可能はない』と私が思うようになったのは、そのときからであった。

 と同時に、私にひとつの強い思いが生まれてきた。超常現象そのものはすばらしいことだが、身の回りにそれがいくら起こったからといって一般の社会の人々に何の幸福も喜びも与えない。むしろ自分の内側に潜むエネルギーを引き出し、その力によって新製品を発明して、多くの人々に喜びを与えるのが自分に課せられた仕事ではないのか。これまで長年学んできた工学や医学や力学の知識も、それによって活かされるだろう。そういう自分の内側からの声が、さながら神の啓示のごとく私の心に響いたのである。

 それ以来、私の発明は、一週間に三件平均で生まれるようになった。戦前からのものを含めてトータルすれば、私の発明は三〇〇〇件にものぼるだろう。その中には、自動炊飯器や瞬間湯沸かし器や自動ドア、あるいは医療の世界で使われているCTスキャンなど、読者に馴染みのものも多いと思う。これらを多くの人々に提供できたということは、私にとって本当に幸せなことであった。

 平成八年六月に、私の八十歳の誕生日を祝する『八十歳記念祝賀講演会』を岡山のシンフォニーホールで盛大に開催していただいたとき、私は尊敬するN和尚からご祝辞を頂戴(ちょうだい)したが、その中でN和尚は次のようなことばを述べてくださった。

「政木先生の学んでこられた工学の『工』という文字は、もとは『巫』という文字からきています。『巫』という字の上の横棒は天、下の横棒は地を表わします。その真ん中の二つの人という字は工に携わる人という意味です。つまり天のすばらしさを地上に下ろし、地に埋もれたすばらしいものを地上に持ち上げ、人々に幸せを与えるのが工に携わる人であるということです。『工』という文字は、そこからきています。政木先生は、まさに文字どおり、無欲になって天のもの地に移し、地のものを持ち上げ、宇宙にある一番すばらしいものを人々に提供してこられ、八十歳の今日を迎えられました」

 これは、私にとって身にあまる非常にありがたいおことばであった。

 一人でも多くの人々に喜びを与えられるということほどこの世に幸せなことはない、と私は思う。

 現代文明は、外面的な豊かさを求める『物質文明』にどっぷりと浸かっている。それによって、人類は地球を住みにくいものにし、自らも破滅の道に一歩踏みこんでいきつつある。その中にあって、いま必要なのは、自然への回帰であり、精神世界の再認識であろう。私たち個々人は、自分さえよければ他人はどうでもいいというエゴイズムを捨て、常に人々に幸せを与えつつ自らの人間性を向上させていくという高い精神をもたなければならない。

 本書で明らかにするように、私たちは肉体だけの存在ではない。私たちの本質は、実は『生命体』だと考えられる。私たちに、ときに信じられないような力を発揮させるのは、この生命体のエネルギーなのである。

 私たちは、これから二十一世紀に向けて、かけがえのない地球を大気汚染や環境破壊から守っていかなければならない。そしてその中で、自らの可能性を目いっぱい花開かせていかなければならない。そのためのキーワードがこの『生命体』である。

 私は、生命体の力によって起こる数々の奇跡を見てきた。また、高められた生命体のエネルギーが発揮されることで、この世に不可能がなくなるという数多くの体験もしてきている。私は本書で、それらの体験のいくつかを読者諸氏に語りたい。

 さらに、この混沌の時代を私たちはどう生きていくべきか。それを読者とともに探っていきたい。

 生命体の力が発揮されれば、この世に不可能はなくなる。それは本当である。私は、どうすればそうなれるのかを読者の皆さんに訴えたい。

 私の思いが、どれだけの強さ確かさで読者の皆さんに伝えられるかはわからないが、少なくとも、この世に不可能はないということを、本書を通じてご理解いただき、それによって読者諸氏の人生の幸福に多少なりとも役立てれば、著者としては望外の幸せというべきであろう。

平成九年六月

政木 和三


初版印刷:1997年7月20日
初版発行:1997年8月5日
著者:政木和三
発行人:枻川恵一
発行所:㈱サンマーク出版
発売元:㈱サンマーク
印刷:共同印刷㈱
製本:㈱若林製本工場
©Kazumi Masaki. 1997
ISBN4-7631-9192-6 C0030




 政木和三先生とのご縁の始まりは、昭和五年生まれの私の実父が小学生時代の頃より電気のイロハを教わり(実際に、電気ギター制作等々、様々な電気技術のご教授を、家族ぐるみのご近所付き合いの中で個人的に無償で賜ったそうです)、その後、御晩年には、政木先生の素晴らしいご発明品の集大成のひとつとして“世のため、人々のため”に御余生をかけ陰徳にご尽力なさいました超強力 神経波磁力線発生器(改名機器、インパルス磁力線、そして、Mリングと、すべての御販売は㈲政木研究所、㈱ケントにて)の製造に至るまで、数々のお仕事をお世話頂き、政木先生がお亡くなりになる最後の最後まで、私も含め家族ぐるみのお付き合いを賜わり、今も尚、心の底よりとても尊敬し、感謝している恩師・師匠です。

 以前に紹介させて頂きました政木先生の御著書『未来への発想法』の約一年後にご発刊なされました御晩年の作品『この世に不可能はない』を、政木先生からのお教えである『目先の欲望を捨て去り、世のため、人々のために尽力せよ!』との仰せを引き続き継承するため、これから毎日少しずつではありますが紹介させて頂きますので、皆様には再度、暫しのお付き合いの程、何卒、宜しくお願い申し上げます。

深謝
m(__)m

<転載終了>

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真っ黒な大ミミズたち

「伊勢白山道」というブログがあって、「rockway express」氏もごひいきのブログらしいが、私には今一つピンと来るものがない。どうも神道系のスピリチュアルなブログのようだが、書かれていることは平凡な道徳論が多いようだ。簡単に言えば「善因善果」「悪因悪果」の因果応報論が大半である、と感じる。まあ、そういう思想は道徳の基本であり、社会秩序を作る上では悪いことではない。良いことをすれば悪い報いがある、と言われて良いことをする者はあまりいないだろうから、「善因善果」を人々が信じれば、この世には善行が満ちるわけである。
だが、プラトンの「国家」の中で、トラシュマコスという男が、「悪いことをやれば、その当人には大きな利益がもたらされるのだから、悪(行)こそが善(すなわち、当人の利益)だ」という理屈を言い、ソクラテスはその反論を試みる話がある。というより、「国家」の大筋は、そのソクラテスの「善(行)こそが善(当人の利益)なのだ」ということの論証なのである。(18歳くらいの頃に、大雑把に読んだ本の記憶なので、確かかどうかは分からない。)
司馬遷の「史記」の序文でも、ある義士の不幸な死の話を書き、その死を、悪の限りを尽くしながら、贅沢に暮らし、平穏に死を迎えた大盗賊などと対比して「天道是か非か」と嘆いていたと思う。
現代人なら、誰でもトラシュマコスの論の方が正しい、と思うのではないか。それを反論する場合は、「今生ではそうかもしれないが、しかし、来世では(あるいはあの世では)その悪の報いがあるのだ」とでも言うしかないだろう。これが多くの宗教の論法だ。だが、来世(生まれ変わり)もあの世(天国や地獄)も存在しなければどうなる?
私としては、悪人は現世でもすでにその悪の報いは受けている、と思っている。それは、その悪にふさわしい、精神的(人格的)に低レベルな人生しか送れない、ということである。言うまでもなく、これは頭の良さや各種の才能とは無関係な話である。
私は、巨万の金を積まれても、石原慎太郎や橋下徹としての人生などまっぴらである。同様に、ロスチャイルドやロックフェラーとしての人生もまっぴらだ。それよりは、浮浪者となってでも、高貴な精神でありたい。(私がそうだと言うのではないが、今でも少なくとも彼らよりはマシな精神だと自負している。)つまり、「天道是か非か」という答えはそこに出ているのである。
私は、ヒトラーは一種の政治的天才だったと思っているが、自分はヒトラーとして生まれたかったという人は多くはないだろう。ヒトラーのような権力を得たい、と願う小ヒトラーは無数にいるが、ヒトラーその人になりたい、とは思わないはずだ。それはその哀れな最後のためだけではない。誰でも、彼のような精神を羨むことは無い、ということだ。
そうはいいながら、現実には悪人こそが権力を手に入れ、高い地位に就き、巨万の富を手に入れ、栄耀栄華を極めた暮らしができることは多い。「天道是か非か」という問いは、そういう事実を目にしての嘆きなのである。やはり、美女をはべらし、酒池肉林の暮らしをしている人間を見ると、通常の人間なら羨望するものだ。私がよく言う「起きて半畳、寝て一畳」などという達観めいた言葉は、怠け者の自己弁護だと言われても、返す言葉は無い。
まあ、これは生得の欲望の容量の問題なのかもしれない。私は、何かが欲しいと思っても、その獲得に要するエネルギーや時間をすぐに計算し、「やらないでもいいや」と考えてしまうのである。旅行なども、それに伴う苦労や面倒がすぐに思い浮かび、ほとんどやったことがない。恋愛なども同様である。そういう人間の言う言葉だから、私の言う言葉は、偉い人(たいていは努力して、功成り、名を遂げた人だ)の道徳論の持つ重みはまったく無いと思う。
要するに、「吾は唯(ただ)、足るを知る」で、この人生は十分だし、何もしなくても無事に生きているだけで十分だ、というのが私の人生観なのである。
数冊の本と少しの音楽、生存に必要な僅かな食物と、できれば毎日少しの酒があれば、この人生には何の不満も無い。私の不満は、ただ、この社会が、もっと全員が幸福になれるのに、一部の人間の不心得のために無数の不幸な人間を作っている、ということだけである。
さて、駄弁が長くなったが、下記記事はなかなか面白い。特に、ある教団の教祖が長さ20センチメートルほどの真黒な大ミミズになって、苦しげにのたうち回っていた、という描写には不気味なリアリティがある。まあ、来世でミミズに生まれなくても、この人生ですでに「(精神的に)詰まらない人生であった」という報いは受けていただろう、と私は思うのだが。他人を騙すだけの人生にまともな満足感や生き甲斐、豊かな幸福感があったとは、私にはとても思えない。
日本から逃亡して中東で優雅な生活をしているという東電の元社長や元会長なども、真黒な大ミミズだと思えばいいのである。
日本の政界や経済界や官界はそういう大ミミズだらけなのだが、ミミズの生き方を羨むには及ばない、ということだ。もっとも、本物のミミズは土壌を豊かにする益虫(ミミズは虫ではないかw)であり、彼らをミミズにたとえたら、ミミズたちが怒るだろう。



(以下引用)


資格が無いのです
2009-03-18 10:50:11 | Weblog




昭和時代の奈良県の天理市近郊に不思議な老女が居たそうです。
近場の大峰山系で修行する祈祷師達が、自分に付く憑き物を落とせなかった場合、最後に泣きつく人物でした。
一般の人々の世情の悩み相談には一切応じず、面会もせず、金銭では無くて食べ物と交換に、有料先生達の霊的垢を落としていました。

私が接触した教祖さん達の中にも、老女に面会した経験を持つ人が2名いました。その老女曰く、
「日本のお土の上で神仏を利用して大金を得た人間が死ぬと、地獄に行く前に必ず私の庭の土中に、ミミズの容姿で21日間を過ごしてから旅立つ決まりに成っている」
と言っていました。

そのミミズは、言えば誰にでも見せて呉れたようです。
庭にひいてある御座を2枚どけますと、大小色々なミミズが動めいていたとの事です。
不思議な事にミミズの種類に統一性がなく、長さ・太さ・色もバラバラな種類が一緒くたに居り、大きいものでは30cm級の小蛇の様なミミズも居たそうです。

老女の家を訪問するちょうど10日ほど前に、X000系の教祖が内密に亡くなっていましたので、故人の名前を言わずに組織名を伝えて、その教団の関係者がこの中に居ないか?
と老女に聞きましたところ、
「ああ、X田と言う物が最近来たよ」
と一匹の大ミミズを指差したそうです。
それは真っ黒な20cmほどの不気味な姿であり、苦しそうに悶えて居たとのことです。
その亡くなった人物の名前は、正にX田だったとの事でした・・・。

私は、この老女と面会した経験がありませんが、住む場所柄としては、昔、国常立太神の御用をしていた巨大な黒龍が降臨した地域ですので、冥界(死後の世界)に関与する大きな存在が老女に関係していたと感じます。

神様とは空気の様に万人に無料で元々与えられている存在です。
人間が空気を個人の持ち物の様に主張して、空気に値段を付けて搾取しては生けないのです。
本当に神界と通じる者は、その世界が「奉仕」と「愛情」に満ちた世界である事が畏れ多いほど身に染みて分かるものです。だから、悩める個人に対しては、可哀そうに感じて無料の奉仕をせざる得ない気持ちに自然と成ります。

無料の霊的相談では生活できない有料先生は、既にその資格が無い証拠です。本当に高次元なエナジーと繋がっている人間は、悩める人々から御金を得なくても、質素な生活ができる環境に成っています。
現実界において、それぐらいの実現力が無ければ、人様を癒す事などは到底無理です。その資格も霊覚もない、真面目な勤務も出来ないただの人に過ぎません。

つまり、御金を取る時点で正しい世界とは100%繋がっていません。
御金を取るどころか、アノ手コノ手のイベントを自演して、雑巾を絞るように困り悩める弱き人々から御金を出させることが出来る本性の人です。
魔界に繋がっている物は、平気で悩める人々から御金を搾取します。御金だけでは無く、神様の名前の下で家庭崩壊をさせてでも金銭と肉体を食べて行きます。
その死後の行き先を思いますと、本当に割が合わない事をするものです。





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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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