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象徴・キャラクター・旗

たぶん現在は更新されていないと思う、ある若者のブログの一記事である。
「社会的象徴」の意味を、「タレントのキャラクター」にたとえて、上手く説明していると思う。天皇の意義に関して私がこれに付け加えるなら「旗」の概念だ。
下記記事の要点の一つは、タレントのキャラクターは仮面だが、実はそれが本人の実体以上の価値と存在意義を持っている、ということである。最近の若者はそのあたりをよく知っていて、「(自分自身の、対外的な)キャラを作る」という表現があったりする。言い換えれば、社会に向けた仮面こそが、社会にとっては「実在」であり、実体には(社会的な)意味はほとんど無い、ということである。まあ、「実在」と「実体」に区別があるわけではないが、言わんとすることは分かるだろう。
そして、無数の社会的象徴の集合がこの社会である以上、重要度の高い社会的象徴が存在しなくなれば、その社会は「別の社会」になるのは理の当然である。象徴天皇制について下記記事が言っているのはそういうことだろう。天皇が日本の象徴であるならば、天皇の存在しない日本とは何だろうか、ということだ。もちろん、今の日本より良い別の国になるかもしれないし、グローバリズムと新自由主義によって根底から変質し、日本的価値観や日本的モラルをすべて喪失した、何か、無機質な、鉄とプラスチックで出来たような国になるのかもしれない。私は後者になるという予感がするのだが。
さて、「旗」の話である。
映画「七人の侍」で、村を救うために集まった侍たちが最初にしたのは何か、覚えておられるだろうか。そう、「旗を作ること」であった。旗とは、全体の意思を象徴する存在であり、この旗を掲げることで、侍たちの「村を救おう」という意思が常に確認されるのである。
私は、天皇というものも、日本国憲法というものも、そういう「旗」だと考えている。象徴天皇制の意味はそういうことだろう。
日本国民を代表する存在が安倍総理なら、私はそれを恥だと思う。その「旗」の下に日本国民であることを嫌悪し、屈辱だと思う。そして、今上天皇が日本国民を代表してくれるなら有難いと思う。そういうことである。そうした「象徴」として生活を律する苦労は、大変なものだろう。私は今上天皇に対しては感謝と賛嘆の気持ちしかない。
念のために言うが、「人間宣言」によって天皇の形骸化が起こったとは私は思わない。大昔から天皇がただの人間であることは誰でも分かっていたのであり、明治政府以降の、特に太平洋戦争にさしかかる頃からの「天皇神格化」こそが異常な事態だったのである。つまり、象徴とは必ずしも「神格化」とイコールではない、ということだ。


(以下引用)

2014-04-16

天皇制と笑っていいともAdd Starcarioswyinouetyoro1210

09:13 | 天皇制と笑っていいとも - eigokunの手記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 天皇制と笑っていいとも - eigokunの手記


象徴天皇制って法的に意味分かんないし天皇制廃止して大統領制にしようぜって言う人たぶん結構いると思うんだけど、僕も合理的に考えるとその通りだと思うんだけど、でもちょっと待って考えてみて欲しいの。


笑っていいとものテレフォンショッキングを終わらせたのは言うまでもなく矢田亜希子だ。矢田亜希子が次の日のゲストの大竹しのぶに対して電話で「はじめまして」って言ってしまったせいで、テレフォンショッキングの「友達の輪」という建前が崩れてしまった。それ以降、テレフォンショッキングは友達云々関係なく次の日のゲストを紹介するようになった。これを進歩と捉える人もいるだろう。しかしそれは間違ってる。確かにテレフォンショッキングのゲストがお友達でもなんでもないことは公然の秘密だった。国民はみんな知っていた。しかし、その建前を崩したことによって何が起こったのかというと、笑っていいともの放送終了だ。つまり、建前を崩してはいけなかったんだ。日本という国を象徴する番組である笑っていいともが建前を崩すことによって消滅してしまった。であるならば、日本という国を象徴する存在である天皇という建前を崩すことによって何が起こるのかというと、日本沈没だ。


笑っていいともの後番組として登場したバイキング。つまり海賊が、沈没した日本のあった場所で跋扈(ばっこ)するであろう。


戦後、天皇は人間宣言をした。これによって天皇という存在が形骸化したことは言うまでもない。同じように、タモリがサングラスを外したらどうなるか。タモリは人間ではなくキャラクターである。そのタモリがサングラスを外したらキャラクターではなく人間としてのタモリになってしまう。もしそういうことが起こった場合、タモリは欽ちゃんのようにタレントとして形骸化するだろう。


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言葉の希薄化した社会

「最近の奴らって簡単に「死ね」って言いすぎじゃね」というスレッドのコメントの一つに同感したので、転載しておく。
言葉の希薄化、言葉への無責任さというものは、現在の「戦争法案」にも見られるし、それ以前の橋下の嘘だらけの発言が何一つ政治的に咎められずに終わってきたことなどにも表れている。いや、小泉のあたりから顕著になってきたようでもある。何しろ政治家が「公約なんて守る必要あるんですか」と言い放って、それで問題視もされなかったのだから。本当なら、これで政治家生命が終わりになっても当然の問題発言だったはずだ。
社会生活は言葉で動いている。(根源的には、思考そのものも、そのほとんどは言葉で動いている。)その言葉を軽視する社会がどのような社会になるかは言うまでもないだろうが、一言で言えば「何も考えていない」社会である。アメーバ的な生で一生を終える無数の人々が蠢くだけの社会だ。何の精神性も無い社会である。この社会では言葉は単に目的を達するための道具、嘘をつくだけの道具であり、したがって「心と心が熱しあう」(ランボー)ことなど起こらない。
念のために言うが、多言を勧めているわけではない。多言はだいたいにおいてむしろ嘘を多分に含むことの結果である。詐欺師ほどぺらぺら喋ることは橋下を見ればよく分かるだろう。




(以下引用)



11. ランチパックのナナシの剣で傷付けたピアノ  2015年06月06日 01:00  ID:l0M3lCiF0
言葉の質が落ちた感じかな。
言葉自体の重み(現実感)が無くなってるから平気で使えるようになってる気がする。
昔なら人に向かって暴言吐くと親や周りの大人からげんこつが飛んできてたけどここ20年位はそんなこと少なくなってるだろうし、止めることも無くなってる。
大人が皆自分の事ばかりで他人に目を向けてない。諫める人間が居ないから必然的に子供達に伝わる言葉の重さが軽くなってる。今の40、50代の人達辺りから異様に覚悟が無くなってるからその辺りじゃないかな。
生きるためにって覚悟が形骸化してるのもその辺りから。今の20代より下はその覚悟が何かわからなくなって彷徨ってる感じ。

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日銀金融緩和と円安・ドル高、日米株価の関係

増田俊男の「時事直言!」から転載。
FRBの利上げによってアメリカが大不況に陥るかどうかは分からないが、現在のアメリカのドル高・株高が日銀の金融緩和から生じたものだという分析は妥当に思える。まあ、妥当も何も、それ以外には無いだろうが、それを指摘した人を彼のほかには知らない。アメリカ全体の経済が回復する要素など(一次産業も二次産業も)他にはほとんど無いのだから、世界からの投資資金の流入だけが原因と考えるしかない、ということだ。で、日本の株高も、日本経済の回復を意味するものではなく、政府資金や外人投資家の投資が株価を押し上げているにすぎず、その資金が止まれば一気に暴落するのではないか。政府は資金を急に引き上げはしないかもしれないが、外人投資家は機を見て一気に引き上げる(売りに転じる)だろう。
株のことなど知らないが、素人目で見るかぎりは、そう見える。


(以下引用)

超円安は暴落の兆し


2013年4月4日、黒田日銀総裁は異次元金融緩の名の下に2013年末のマネタリーベース138兆円の倍に当たる270兆円の緩和を発表。
さらに日銀はFRB(米連邦準備理事会)が第三次緩和(QE3)を止めたその日(2014年10月末)に80兆円規模の追加金融緩和を実行に移した。
日本の度重なる金融緩和と言う名の通貨安政策で国際競争力を付ける日本に対抗して欧州中央銀行もアジアの新興国も利下げと緩和に走った。
その結果アメリカだけが緩和を終了、さらに利上げを予定しているので、資本の原理に従って価値の下がる通貨から価値が上がるドル市場へ世界の資金が一極集中した。
日銀が緩和を続行する限り、対ドル円安は続く。
私は2カ月前「ここ一番!」の読者からの質問に、「対ドルで円はやがて125円になる」と答えた。
ギリシャ問題も未解決、もしギリシャがデフォルト(債務不履行)になればさらにドル高が進行する。
ドルが高いのも、NY株価が高値更新を続けるのも日銀を中心にした緩和続行の為である。
FRBは本年9月に利上げを予定しているようだが、明確な発言は避けている。
おそらく本年6月17日のFOMC(連邦公開市場委員会)で9月からの利上げをかなり明確にするだろう。
9月利上げが決まると、一斉に国債が売られ、金利が上昇に転じる。
ゼロ金利時代、Fiat money(紙切れ通貨)時代の終焉である。
ゼロ金利で自社株買いと社債の買取りで財務状態を好転させてきた企業は金利負担が増幅、とたんに赤字増大。
売れ続けてきた住宅はストップ。
企業利益は下がり始める。
失業率は増加に転じる。
ローソクは消える寸前に輝くが、今がその時である。
6月17日までの運命!

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浜矩子氏の思想

「播州武侯祠遍照院」に、同志社大教授浜矩子氏のインタビューが載っていて、その内容に感心したので抜粋転載しておく。
浜矩子氏は反アベノミクスの論者として著名だが、その考えの根底にはこのようなヒューマニズムがある、ということを知って見直した。いや、見直した、という言い方は失礼だが、私は経済学者や経済評論家という連中のほとんどを信頼していなかったのである。だが、下のインタビューで語られた内容は、立派な思想である。つまり、「経済は人間全体の幸福のためにある」という根本点がしっかりしているのだ。すなわち経済学がただ金の学問ではなく「経世済民」の学になっている。こうした学者なら信頼していいと思う。
彼女の思想の根底には案外、マルキシズム(資本主義の発展に伴う「人間疎外」の現象の指摘など)その他の社会主義的発想(「分かち合い」の思想)があるように思う。


(以下引用)赤字部分は夢人による強調。

近年は資本主義が限界や終焉を迎えているとの指摘もある。

浜:少し前までは、「グローバル資本主義の時代が到来した。国境を越えた資本主義の勢力拡大の力学に人々がのみ込まれてしまう」というような言い方が、結構はやっていましたよね。

ところが、面白いことに、最近は「資本主義の終焉だ」が話題になっています。その認識の変化は重要だと思います。そもそも、資本主義体制というものが実はグローバル化というメカニズムに耐えられない。そのことに世の中が気付きつつあるのだと思います。世の中は、存外に賢い。

今、国境を越えて暴れ回っているのは資本主義ではない。「資本」なのだと思います。いわば資本が野生化して暴走している。

資本主義のメカニズムは、ある意味で、資本を経済的再生産メカニズムの中に封じ込めているわけです。ヒトによるモノづくりのためのカネ回し。この仕組みの中に資本が組み込まれている。

それに対して現在では、カネ回しのためのカネ回しの中でヒトがモノ化する構図が出来上がってしまいつつある。その中で、カネがどんどんヒト化する。例えば、「市場が何々を催促している」とか「市場との対話が足りない」とか、そんなふうに言われる。

その一方で、ヒトはその人格をもみ消されて、モノと化す。それこそ再生産メカニズムの中における原材料や部品と同じ扱いを受けるようになっています。非正規雇用者に対する企業の扱いがヒトのモノ化に拍車を掛ける。そんなことがどんどん進むのは誠に恐ろしいことです。再生産のメカニズムから飛び出して野生化した資本の凶暴性から、人間の営みである経済活動をどう守るのか。そのようなテーマに我々は当面しているのだと思うのです。

資本の暴走のブレーキ役を宗教は果たせるのでしょうか。

浜: 宗教界は経済活動というものをまともに抱き留めているでしょうか。経済活動はお金もうけのことで、宗教や信仰とは別である、そのような発想で経済活動が認識されているのであれば、大きな問題があると思います。

繰り返しになりますが、経済活動は人間の営みです。経済活動を営む生き物は人間だけです。その意味で、経済活動の営みこそが、人間が人間であることの証しだといえるでしょう。

そのようなテーマを、宗教者が抱き留めないのはおかしい。宗教的な倫理性や節度にかなってこそ、経済活動は経済活動の名に値する。人間的まともさに照らして失格であれば、それは経済活動ではない。それを宗教指導者の皆さんには声高に打ち出してほしい。経済と人間は切っても切れない関係にあり、人間を幸せにするためにしか経済活動は存在し得ないのです。

これからの日本はもはや成長を望めない。成熟社会を実現すべきだとも主張しておられる。

浜 まず誤解のないようにしたいのは、成長を望めないから別の道を求めるべきだと言っているわけではありません。経済には成長することが必要な場面や時期があります。極貧状態から食べていけるようなところまで発展していく。その場合には、成長は至高にして唯一の目指すべきテーマです。

人間が生まれて大人になるプロセスの中には、必ず身長が伸びたり、筋肉がついてきたりすることが必要な時期がある。しかし、大人になれば、そこからさらにまた背が伸びたり、骨格が大きくなったりする必然性はない。成長を必要としているのは、未熟さの証しです。成熟の域に達すれば、成長の時代はもう卒業です。

その意味で「もはや成長が望める時代ではなくなった時にどう対応するか」というような言い方にも問題があります。成長することが常に望ましいという感覚が潜んでいるからです。成長が望めないのではなく、成長を卒業した時にどうするかと考えるべきです。

成熟度と洗練度と完成度が高まった日本がまだ成長することを望むのは危険性をはらむ。本当は成長してはいけないものを成長させようとすると、ひょっとすると、領土拡張のために戦争をしたいということになりかねない。「ようやく成長しなくてはならない時代が終わった」と、大人らしい経済の回し方、成熟時代の楽しみ方がどういうものかという感覚で捉えるべきだと思います。

そう考えたとき、おのずと出てくる回答は「分かち合い」だと思います。成長時代を卒業したということはその過程で形成された豊かさを手に入れたということ。その豊かさの果実をいかに分かち合えるか。それが成熟段階の経済活動の勘所だと思います。ところが、今の日本では世界に冠たる成熟と豊かさを誇っているのに、そのただ中に貧困問題がある。これはまともな姿ではありません。だから次のテーマはよりよく豊かさを分かち合うことです。答えはとてもシンプルだと思います。

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「緑の革命」の建て前と現実

「投資一族のブログ」という鼻持ちならない名前のブログから抜粋。
ブログ名とは裏腹に、下記記事は、ロックフェラー財団の後押しした「緑の革命」が、その人道的口上とは逆に、貧困農民の貧困化をさらに拡大した実情を詳しく説明した、「サヨク的」内容の記事である。


(以下引用)


緑の革命 社会構造を考慮に入れない食料増産


貧困を食料の面から解決しようとしたのが「緑の革命」である。発展途上国には絶対的貧困にあえぐ人々がいて、彼らの食糧が不足しているのであれば、豊富な労働力が物を言う労働集約的な農業によって多収穫品種を栽培すれば、飢えから自由になれるのではないだろうか。「緑の革命」はこのような単純明快な考えから発展途上国における食糧危機を克服するため、ロックフェラー財団がはじめたもので、メキシコは小麦・トウモロコシなどの食糧増産に成功して食糧輸入国から輸出国にまで成長した。またアジアにおいてはロックフェラー財団とフォード財団がフィリピンに設立した国際稲作研究所が米の多収穫品種を開発した。このようにして、小麦やコメの新種は北アフリカ諸国から、トルコ、インド、パキスタン、フィリピン、台湾などに至る広範な地域で栽培されるようになり、穀物収穫量を一気に引き上げた。では、「緑の革命」は発展途上国の食糧問題、特に貧しい人々の食糧付属を解決したものだろうか。答えは残念ながら「YES」とはいえず、しかも、もっと悪いことには「緑の革命」は貧富の差を拡大する結果さえもたらしたのである。


コメの多収穫品種は主にインドで栽培されたが、東パンジャブ地方では農民の収入を引き上げるなど驚くほどの成果を上げた。この地方は、インドには珍しく土地の分配が公平であり、水利権なども比較的平等に利用されていた。ところが、インドの他の地方、例えばビハール州では、小農が「緑の革命」から取り残されて土地を手放し、大農はそれを買い占める一方、労働集約的となって一見その必要性が増加したと思われる小作人をおいたてる事件が相次いだ。多収穫品種は、在来種に比べて、収穫は多いけれども病害虫に弱く、肥料など栄養分を大量に必要とし、頻繁に適度な水を与えなければ生育が難しい。発展途上国の気候条件は気ままで雨季と乾季があり、水利の便を整えるのは容易ではなく、多くの場合、水利権=感慨(夢人注:「灌漑」の誤記)を利用できるのは大農に限られているばかりか、除草剤、殺虫剤、肥料など在来種には必要無かったものを購入しなければならない。そのようにカネがかかるものを買えるのはいきおい大農に限られ、小農はただでさえ借金を抱えているために到底無理である。それにこのように資本集約的でもある多収穫品種の栽培は、小農が仮に無理をしてこれらの生産資材を手に入れたとしても、規模の論理がモノを言うため、大農ほどには費用効率が上がらない。そこで、小農は借金せずに従来どおり在来種を耕作しても収穫が上がらず発展から取り残され、また、無理をして借金しても、結局その返済ができずに追いたてを食うほかないのである。大農は小農が手放した土地を安く買い占め、ますます生産を増やして豊かになった収入でトラクターを買うなどして農業を機械化して親子代々雇用してた小作人をクビにし、余った作物は輸出に回せばよいわけである。


このように「緑の革命」は、発展途上国の貧困・飢餓の元凶たる土地問題(土地の分配の公平性)をそのままにして行われたため、貧困・飢餓を解決するどころか、かえって問題を深刻化した。例えば南米では17%の土地所有者が90%の農地を所有しており、農村人口の1/3以上がわずか1%の農地に押し込められている。アフリカでは農村人口の3/4がわずか4%の土地に押し込められている。インドでは東パンジャブ地方のような例外的な場合を除けば、農民の20%は土地を有していない小作または農場労働者で、わずか10%の農民が農地の半分から3/4を所有しており、残りの70%の農民の大部分は貧しい小農で、彼らの所有農地は合計しても農地全体の3~4%にしかならない。インド、フィリピンをはじめとする国々は名目的には農地改革を行ってきたものの実効はまるで上がっていないのが実情である。その上、多国籍企業は、多収穫品種の栽培に欠かせない肥料工場のプラント建設に食指を伸ばし、その建設融資に世銀などが乗り出して、現地でまかなえる材料があるのに海外(多国籍企業)からの原料が使われるなどの例は少なくない。これでは世銀などの融資が多国籍行の後押しのためなのか、世銀に拠出している国の国民はそのために税金を負担しているのかなどという疑問がわいてくる。このようなやり方は多国籍企業を富ませるだけで、世銀からの借款のつけは肥料を買うことなく、その恩恵を受けることも無い貧農の肩にもかかるわけである。このような不合理は、何も肥料工場に限られず、農作物輸出振興の名目で行われる灌漑用設備についてもほぼ同様のことが言えるのである。

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日本人は「永遠のゼロ」か。

「谷間の百合」から抜粋転載。
日本人の忘れっぽさというものは世界的にもかなり特異なものかもしれない。むしろ、それを「潔さ・無欲恬淡」ととらえ、自らの美点と思っている気配すらある。ユダヤ人がしつこくユダヤ人迫害の史実を振り回し、自分たち(特にユダ金)の地位を守り続けているのと正反対だ。


「反省も総括もしないということは、進歩も成長もないということ」


まさにその通りである。
「苦手だから」という理由で苦手なことを避けていては進歩も成長もないというのは個人生活でも社会全体でも同じことである。



(以下引用)


まだ、小泉元総理への人気が根強く残っているそうです。

そういう日本人が小泉進次郎を総理にと願っているのでしょう。

小泉改革という日本破壊政策について、国民は何も知ろうとせず総括もしませんでしたが、いま、どんどん国民の生活が苦しくなってきたのは、すべて小泉改革のときに蒔かれた種が実ってきているということです。

大企業優遇、社会保障費切り捨て、年金減額、非正規雇用の拡大などすべて小泉改革の基本政策です。

国民は戦争を総括(反省)しなかったように、小泉改革がなんだったのかの総括もしませんでした。

国民はすべてを置き去りにして、目の前の新しいものに飛びついていきます。

反省も総括もしないということは、進歩も成長もないということで、そういう人間が求める進歩とはリニア新幹線や新型ロケットやロボットのような目に見えるものだけなのです。

だから、国も国民も成熟するということがなく、同じ過ちを繰り返します。

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歩くこと、走ること、見ること

「in deep」から転載。
様々な有益な情報が満載の記事で、無料で読めるのが有難すぎるくらいだが、逆に、世間に溢れる有料ブログ記事というものに、真に価値のある記事がどれほどあるのだろうか。かつては立派な社会批判をしていたブログが、ある時から有料ブログになったりすると、「結局は商売のための社会批判かよ」と思ってしまう。真に社会改革を目指すならば、できるだけ多くの人の目に止まること、できるだけ拡散されることをこそ願うはずである。そういう意味では、有名ブログの「きっこのブログ」がページの一番上に「無断転載禁止」を目立つ形で書いているのも私には気に入らない。まあ、最近の彼女のブログは、私にはあまり興味の無い話題ばかりで、ほとんど読んでいないのだが。
話が逸れたが、下の記事は、人生そのものが変わるような情報をここから読み取る人もたくさんいるのではないか。そして、そういう情報を与える記事の書ける管理人オカ氏は実に偉大だなあ、と思う。書き方がユーモアに溢れているので、その内容を軽く思う人もいるかと思うが、健康について、人生哲学について、さまざまな有益な情報を含んだ文章である。

昨日、近所のコンビニに買い物に行った帰り、私の横の、道路脇の50センチほどの高さの低いブロック塀の上を幼稚園入園前くらいの女の子が「綱渡り」みたいに歩いて追い越し、それから私の前方を走って去ったが、その走り方が実に軽快で美しく、思わず見惚れたものである。将来は立派なアスリートになるのではないか、と思ったくらいだ。
で、話は、その子はなぜわざわざ「歩く必要のない塀の上を歩き」「走る必要もないのに走った」か、ということだ。言うまでもなく、何を考えてもいなかっただろう。ただ塀の上を歩きたかったから歩き、走りたかったから走ったのだと思う。これが子供というものであり、スポーツの原型の姿だ。誰かに見せるために、あるいは誰かに勝つために歩いたり走ったりしたのではない。体の中に、その運動を求める何かがあり、その動きをすること自体が喜びなのである。
「見ること」も同様だ。あらゆる自然は美しい。あらゆる幼獣は可愛い。それを見ることはこの上無い喜びともなる。だが、それを見ない人は見ないのである。それらを見る代わりにいったい何を見るのだろうか。レタスの葉っぱ一枚に美を見出す人間と、何億円もする絵画に金は出すが自分の周囲の自然には目もくれない人間と、どちらが生きるに値する生を送っているだろうか。

(以下引用)


2015年06月01日


意識の覚醒云々の前に『美しき緑の星』からの影響で、歩いたり走ったり揉んだりの毎日の中で



La-BelleVerte-106.jpg

▲ 『美しき緑の星』より。食事をして洗濯した後は、「運動ばっかり」する宇宙人の日常。



宇宙人たちのフィジカルな生活から学ぶ

友人のジローさんから電話がありました。

ジロー 「この間のオカのブログにあった『美しき緑の星』って面白い?」
わたし 「ジローさんみたいに心が歪んでいて、醜さと卑しさの中に満足を求める人にはつまらないと思う」
ジロー 「オカも人間性は大差ないだろ」
わたし 「まあ、そうだけど」
ジロー 「きれいな映画ってこと?」
わたし 「うーん・・・きれい、とは違うなあ」
ジロー 「ひとことで言うと、どんな映画よ」
わたし 「ひとことでは難しいけれど・・・宇宙人たちが・・・」
ジロー 「宇宙人たちが」
わたし 「運動、運動、また運動ってくらい運動ばっかりする毎日を送っていて、ついには中国雑伎団みたいな技を展開できるようになっちゃう映画なんだよ」
ジロー 「どんな映画だよ」
わたし 「みんな手を使わないで足だけでバク転とかできてる」
ジロー 「他には?」
わたし 「エンドロールもずっと運動」
ジロー 「運動だけの映画かよ」
わたし 「まあ、他にもストーリーはあるけど、そこは説明が難しいや」


というような会話をしていて、いかに人にものの内容を伝えるのが難しいか、あるいは、伝えられたものを受け取ることが難しいのかを学びました。

しかしですね。

ここで言ったことは、ある程度は事実なのですね。

下は『美しき緑の星』の中で、宇宙人の主人公の息子たちが、地球の女の子たちに「その星での生活」を語るシーンです。

『美しき緑の星』より「運動、運動、また運動の日々」



実は、この映画を見る以前から、いろいろな人の本などを読み、少しずつ、「現代の人間の不調(めまいや神経内科的病気も含む)のほとんどは、血流や神経が停滞しまくっていることが原因のような気がする」と考えるようになりまして、つまり、

多くの人びとは日常の運動が圧倒的に不足している。

ということを、まあ感じていまして、それは何より私自身なのですね。

私は根っからの運動嫌いで、そんな生活が 20年も 30年も続いているわけです。

そして、春ころから、いちおう名目は「めまい改善」ということで、ほんの少しずつ運動をするようにしてはいました。

運動といっても、朝のラジオ体操と、1週間に何度かの軽い散歩程度だったのですが、ある時、「ちょっとハードに体を動かすと、その翌日、めまいがないことがある」ということに気づきました。

そして、その後、映画『美しき緑の星』に出てくる宇宙人たちの気の違ったかのような「運動三昧」の生活を見て、

「これだ」

と思ったのです。

彼ら宇宙人の運動の素晴らしいところは、「目的が特にない」ところです。

つまり、「タイムを良くしよう」とか「試合に勝とう」とか、あるいは「健康維持のため」とか、そういうものがどうもない。意味なく運動している。

私の場合は、目的意識がアリアリですけれど、とにかく、『美しき緑の星』を見たすぐ後に、近くの市民体育館のジムに入会しました。ここは「月いくら」とかではなく、市民なら、2時間 400円ですべてのマシンを使うことができます(だから、毎日、ご老人たちで溢れかえっています)。

しかし、ジムは、あくまで雨の日や暑い日の補助で、基本は外を歩く。

最低1時間か、できればそれ以上歩く。

そして、ラジオ体操1と2を朝晩2セット。

スクワットをはじめ、足の筋肉の血流を良くする「動き」を、1日 50回から 100回の間で任意に。

あと、ついでに、これは昔からアメリカなどの医学論文にあるものですが、

「握力を鍛えると血圧が下がり、心臓病のリスクが減る」

という医学誌ランセットの医学論文を思い出し、ハンドグリップで暇な時には握力強化。

grip-strength.gif

▲ 2013年05月13日の Eurek Alert サイエンスニュースより。


昨日の記事にも少し書きましたけれど、口惜しいながら、ガンだけではなく、アメリカの医学は進んでいます。

抗ガン剤や降圧剤を出して終わりという医療ではない「完治医療」がどんどんと提出されています。
上の「握力を鍛えて、血圧と心疾患リスクを下げる」というのもそうです。

実は血圧に関しては、少し昔、私は血圧が高かった( 150~160くらい)のですが、全身の痛い血流ポイントを揉み続けていましたら、あっというまに 30くらい下がったままです。

ですので、別に高血圧ではない上に、最近書いていますが、今はもう血圧の高低に興味がないので、測ることもないのですが、『美しき緑の星』の主人公の人たちの一家はみんな空中ブランコの達人ですから、空中ブランコには握力も必要だろうと(空中ブランコやるつもりかよ!)、

「これも美しき緑の星の教えということで」

ということで、追加しています(いったい、あの映画から何を学んだのだ)。

まあ、空中ブランコはともかくとして、「揉む」のは本当に良いです。

2ヶ月くらいやっていますが、肩こりも頭痛も消え、体で痛み系の不調があるところはどこもなくなりました。

揉むのは、特に、足首のくるぶしの周りから、ふくらはぎ、膝の裏あたりにかけてですが、強く揉むと「ものすごく痛い」ところが必ずあると思います。

人によっては悲鳴を上げるほど痛いと思いますが、そこがポイントだと思って、執念深く揉み続けていれば、いつかは痛みはなくなります。

他にも全身の「関節の周辺」で痛いところも同様です。
ヒジの周辺、腰の周辺、股関節の周辺など、痛いところを揉む。




パニック障害を「1年間揉み続けて」治した現役医師

ちなみに、昭和大学医学部の客員教授の堀泰典さんというお医者さんの『最後は「免疫力」があなたを救う』という本の中に、堀医師自身が、

「若い時に8年間も苦しみ続けた重いパニック障害を治したこと」

について書かれてあります。

それは「自分で揉んで治した」のでした。

部分部分抜粋してみます。


堀泰典『最後は「免疫力」があなたを救う』 私も苦しんだパニック障害 より

実は、私も28歳から35歳までの8年間、パニック障害に悩んだ経験があります。それは本当に辛かった。無気力、イライラ、不安、息苦しさ、激しい動悸やめまい、多量の発汗などとともに絶望感に襲われ、心は暗黒の広い荒野を漂っているようで、頭のなかはいつもどしゃ降りの雨でした。

最悪なときは、些細な音でも心臓を張り裂けんばかりのすごい動悸が襲ってきました。椅子から立ち上がると、いつもめまいに襲われ、俗にいう起立性失調症が起き、何かにつかまらなければ数メートルも歩けませんでした。

しかし、残念ながら現代医学では治すことができませんでした。ですから、私は他人を頼ってはいけないと一大決心をし、自分で治すことにしたのです。(略 / 堀医師は現代医学の基礎をもとに人体の仕組みを勉強し治します)

そして、一見、パニック障害とは関係がなさそうな、筋肉の反射や脳脊髄液の循環作用を勉強していくうちに、静脈孔などを開く方向に噛み合わせのベクトルを掛けることに気付きました。

頚静脈孔という穴は、上顎の奥歯の近くにあり、頚静脈や副交感神経である迷走神経が走っています。その穴が噛み合わせの異常、歯ぎしりやタッピングなどで、狭窄が起こることによって静脈が圧迫されたり、迷走神経が軽い障害を受けたりすることにより、痙攣、呼吸障害、唾液障害、唾液分泌障害、心臓の不整脈、胃腸の機能障害などさまざまな症状が出てきます。

著作ではこのような理論展開がまだ続きますが、これらの勉強の中で堀医師は、

パニック障害は、

・迷走神経の圧迫などによる副交感神経異常
・脳脊髄液の循環の異常


などによるものではないかと考えるようになります。

では、これらの「見識」を、堀医師は実際にどのように自分に適応していったか。

続けます。


私は、まず、自分の気になるところ、凝っているところ、痛いところを探し、もみほぐすことにしました。股関節を痛めていたので、最初に股関節から攻めることにしました。

そしてあるとき、股関節のトリガーポイント(筋肉や筋膜に生じるコリ)があるのを見つけ、それをもみにもみました。痛いの、なんのって、ものすごく痛かったのですが、めげずにもみました。来る日も来る日も痛みに耐えてもみました。

毎日もんで1年が過ぎたころ、ある日、ブチッと音がしました。トリガーがつぶれた瞬間に視界が一瞬で晴れたのです。そのとき、パニック障害が治ったと確信し、実際にそのとおりでした。

ということになったのでした。

つまり、治療法は「揉んで揉んで揉みまくる」と。
しかも1年間も諦めずに続けた。

「副交感神経異常」とか「脳脊髄液循環異常」などの理論は難しいですが、対応法の「揉む」のは理解しやすいです。

この堀医師のパニック障害の、

「何かにつかまらなければ数メートルも歩けない」

というのは、かなり重症で、今なら、普通に神経内科に行けば、大量の薬漬けコースになることは間違いありません。

私も、今は症状はないですが、長くパニック障害でしたので、堀医師の辛さはある程度はわかります。

しかし、その治療法として「痛いところを揉むだけ」というのは、目からウランバートルが落ちる感じです(壮大かよ)。

Ulan-Bator.jpg
Google

いや、ウランバートルの説明はいいから。


ちなみに、この堀医師の本を買ったのはつい最近で(監修が安保徹さんなので買ってみたのでした)、私自身はもう少し前から「揉む」ことで良くなる部分があることを見つけて、やっていました。

ちなみに、堀医師の文章にあるように、普通だと、

> 痛いの、なんのって、ものすごく痛かったのですが

というほど痛いです。

私も、足のくるぶしの周りから、足首にかけての痛さはものすごかったです。

それでも、続けていれば、「ある日、ブチッと音がしました」ということはなくても、次第に痛みが消えていきます。

肩こりがあって、以前は湿布などをすることもあったのですが(湿布も鎮痛消炎剤で、体にとても悪いですので)それをやめるために、いろいろとやってきたのですけれど、ツボや揉むことがこんなに効果的だとは正直思いませんでした。

あとはスポーツ映画(違うって)の『美しき緑の星』からインスパイアを受けた部分も多いです。

アントニオ猪木師も、かつて、

心が歪むのは
肉体自体が不健康だからだ。

という格言を残していて(ソース)、堀医師の言う、「副交感神経異常と脳脊髄循環異常が心の不調を生み出す」という説を補強してくれています。

アントニオ猪木師
inoki.gif


同時に、アントニオ猪木師は、

「迷わずいけよ」と言っても、
俺にも迷う時もある。

ということも言っています(だからどうした)。


・・・ところで一体、私は今回のブログで何を書こうとしていたのだ・・・。


まあ、運動のことはともかくとして、実際には『美しき緑の星』から私たちが学ぶ最大の点は、

「肯定的態度」

であることは最近書いたとおりです。

そして、映画で描かれる「普通の地球の人が覚醒していく最初の準備段階」の描写が、シュタイナーが「秘儀参入の準備」として書いていたことと合致することに気付き、感心したものでした。




医師の奥さんから学ぶこと

少し前の記事、

プレアデスという場所の人も「世界は音によって完全に変えることができる」と言っていたことから改めて思う「周波数と世界の関係」
 2015年05月26日

の中で、


映画『美しき緑の星』の中で、唯一、「自力で覚醒」した人がいまして、その人などの変転は心の支えになりそうです。

冷え切った人間関係と心の中で生きていた女性が、しだいに、自然の世界と、この地球の営みに「美しいもの」だけが見えてくる。

基本的には誰の援助もなく、「1人で」ランチの野菜の美しさに感動し、授乳している母ネコと子ネコたちの姿に感動し、どんどん彼女は変化していきます。場面はどれも大変に短いのでわかりにくいかもしれません。

そして、ついには冷えていた心が解け、旦那さんの産婦人科医を含めて、すべてを美しいものとして受け入れて、人生の再出発が始まるのです。

これを自力で達成した人は、映画では、彼女だけだと思います。

と書きましたが、そのシーンは本当に短いですので、抜粋してみました。

「奥さんの目覚め」と、ちょっと官能的なタイトルをつけてしまいましたが、官能的なものではありません。

『美しき緑の星』より



このように、『美しき緑の星』にはすべての登場人物の中で、唯一、「自力覚醒」を果たした女性がいるわけですが、それらのシーンで感心したのは、シュタイナーが、「神秘学の秘儀参入のための具体的方法」を記した『いかにして高次の世界を認識するか』に書かれている、

神秘学を学ぶための準備段階

で「行うべきこと」から、彼女の行動が始まっているということでした。

それは以下のように記されています。



シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』 準備 より

準備を始めるにあたって、私たちはまず、まわりの世界で起こっている特定の事象に魂の注意を向けなくてはなりません。すなわちそれは芽を吹き、成長し、繁茂する生命と関わる事象と、しぼんだり、枯れたり、死滅したりすることと関わる事象の二つです。

私たちが周囲の世界に目を向けてみると、これらの事象は、いたるところに、同時に存在していることがわかります。そしてこのような事象をとおして、あらゆる場所で、ごく自然に、私たちのなかにさまざまな感情と思考が生み出されます。

ところが私たちが準備を始めるためには、日常的な状況のなかでこれらの感情や思考に身をゆだねているだけでは、まだ不十分です。私たちは日常生活においては、あまりにも早く、ある印象から別の印象へと移行していきます。

しかし準備を始めるためには、私たちは集中的に、完全に意識的に、これらの事象に注意を向けなくてはならないのです。

外界の植物が一定の方法で花を咲かせたり、繁茂したいりするのを知覚するときには、私たちは、それ以外の要素をすべて魂のなかから追い出して、短い時間のあいだ、この「ただ一つの」印象に完全に実をゆだねなくてはなりません。

すると私たちは、以前だったら魂のなかをさっと通り過ぎていったはずの感情が高まり、力強くエネルギッシュなものになるのをすぐ体験できるようになります。




どうやら、シュタイナーのいう「高次の世界を認識するための第一歩」というのは、植物でも動物でも、あるいは、もしかすると、石や土でも、

徹底的に対象を肯定的な態度で見続け、その美しさに没頭することからすべてが始まる

ということのようです。

上の奥さんのような態度に「気づく」ことからすべてが始まるものなのかもしれません。

自分たちの住んでいる地球にあるものを徹底的に心の底からの注意を向ける・・・というようなことは、確かにふだんの生活ではあまりしていませんしね。



あと何十年で奥さんの心境に近づけるのかは

そして、次には、運動、運動、また運動という(そんなこたあ、シュタイナーは言っちゃいない)、あるいは、揉んで揉んで揉み続けるという・・・(そんなことも言ってないやい)、まあ、いろいろと考えることもすることもありますが、何もかも長い目で見ることが必要かもしれません。

とはいえ・・・。

堀医師が揉み続けて自力でパニック障害を治すのに1年。

中村天風さんが、ヨガの修行で悪性の結核を治して悟りを得るまで2年半。

お釈迦様が悟りを得るまでに6年から7年。

そして、これらはみんな、もともとがよくできた人たちですから、私たちのような普通の人は、これらの数倍から数十倍の年月がかかって、

「ある日、ブチッと音がして、視界が開ける」

というようなことも起きるのかもしれないですし、あるいはいつまでも起きないかもしれないです。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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