「最近の奴らって簡単に「死ね」って言いすぎじゃね」というスレッドのコメントの一つに同感したので、転載しておく。
言葉の希薄化、言葉への無責任さというものは、現在の「戦争法案」にも見られるし、それ以前の橋下の嘘だらけの発言が何一つ政治的に咎められずに終わってきたことなどにも表れている。いや、小泉のあたりから顕著になってきたようでもある。何しろ政治家が「公約なんて守る必要あるんですか」と言い放って、それで問題視もされなかったのだから。本当なら、これで政治家生命が終わりになっても当然の問題発言だったはずだ。
社会生活は言葉で動いている。(根源的には、思考そのものも、そのほとんどは言葉で動いている。)その言葉を軽視する社会がどのような社会になるかは言うまでもないだろうが、一言で言えば「何も考えていない」社会である。アメーバ的な生で一生を終える無数の人々が蠢くだけの社会だ。何の精神性も無い社会である。この社会では言葉は単に目的を達するための道具、嘘をつくだけの道具であり、したがって「心と心が熱しあう」(ランボー)ことなど起こらない。
念のために言うが、多言を勧めているわけではない。多言はだいたいにおいてむしろ嘘を多分に含むことの結果である。詐欺師ほどぺらぺら喋ることは橋下を見ればよく分かるだろう。
(以下引用)

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