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紅白歌合戦と正月の遊びのこと

私はノスタルジックなものが好きなので、明治、大正、昭和初期の文化を好ましく思っている。日本の文学、詩歌などもこの頃までのものが好きだ。
現代の文化ではマンガとアニメ以外にはほとんど興味は無い。特にJポップなど、まったく聞く気も起らないから、当然、紅白歌合戦など、ここ20年ほど見ていない。例外は、植木等が出た(最晩年のころだ)回のみで、小林信彦のエッセイによると、植木等をそれまでまったく見たことの無かった、氏の子供が、植木等にもの凄いオーラを感じたようだ。(「輝いて見える」と言ったのだったか。)実際、私にもそう見えた。見たいと思ったが見なかったのが、昨年の丸山明宏(美輪明宏)である。彼の「ヨイトマケの歌」は、日本歌謡史に残る名作で、彼が芸能界には珍しく歯に衣着せぬ発言をする根底には、この「ヨイトマケの歌」的な精神が確固としてあるのだろう。昨年のそのステージも素晴らしいものだったようだ。(昨年だったか、一昨年だったか、紅白自体に興味が無いので不確かだが。いや、今の時点では昨夜の紅白が既に昨年であった。)

さて、下に引用したのは、私の父親より少し上の世代の人の書いた懐古的な記録で、ネット上にあったその記録を保存してあった中から、正月向きの話題を選んで掲載した。これ自体、かなり古い記事なので、今ではそのサイトもあるかどうか不明である。サイトの名前も失念した。まさに往時茫茫である。
私自身は昭和中期に子供時代を送ったが、その頃も正月の子供の遊びのメインは凧揚げと独楽回しだった。後は、子供雑誌の付録に道中すごろくなどもあった気がする。道中すごろくは兄弟で自作して遊んだような記憶もうっすらある。沖縄では百人一首などの優雅な遊びをする家庭は少なかったと思う。トランプ遊びの方が一般的だったか。
今の子供の正月の遊びはたぶんテレビゲームだと思うが、凧揚げや独楽回しのように手先の技術を要する遊びや、トランプ遊びのように他人を相手に頭を使う遊びを子供の頃にやらないで育つと、何かが欠落してしまいそうな気がするのだが、それは取り越し苦労だろうか。テレビゲームでの思考とは要するに「合理的選択」の連続にしかすぎないのであり、そういう思考だけで育った人間は、人間社会を「経済的合理性」だけで判断する人間になりそうな気がするのである。


(以下引用)

 

大正の遊び


正月の遊び


男の子の正月の遊びと言えば、家の中ではいろはかるた、双六、皆でやる福笑いなど


で、姉の友達が華やいだ服装で集まる、正月ならではの百人一首を見ているのも結構面


白かった。


子供たちも入れてくれる、百人一首の坊主めくりで皆で楽しんだものである。


家族合わせというゲームのことを、耳にするが、この体験はない。


「陸軍元帥大山巌の奥さんを頂きたい」と相手に呼びかけて、その相手が持っていれば渡


さなければならない。


「おわいにくでした」と断られてがっかりしたり、それでもなお持っていて断っているのでは


ないかと疑ったりする。一度外れると、同じ職業をのカードを集めかけている人に番が廻


ったとき、根こそぎ持っていかれる。


数多くの職業者の主人、妻、男子、女子、それに召使か何か、五枚組位の家族札わ集め


ると一点獲得となる。


というゲームだそうだが、その体験はない。


外ではメンコと凧揚げが一番の楽しみだった。


いくらでも空き地があり、凧揚げするのに場所探しの苦労はなかった。


高年の男の子は喧嘩凧で、相手の凧を引きずり落として、得意がっていた。


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安倍政治の細目採点

「あいば達也の『世相を斬る』」から転載。
私は根が楽天的なのか、自分のブログで悲憤慷慨しているほどには実は悲観はしていない。私が絶対的に許せない政治的悪行は「戦争」であり、それに準ずるのが「失業者増加」である。
失業は、ほとんどの庶民にとっては「死刑宣告」に等しい。失業者数の増加は自殺者予備軍の増加である。もちろん、仕事があっても収入があまりに低く、まともな生活ができないという人もたくさんいる。そうした人々を救うのが政治の役目であり、それ以外のことはしなくてもいいくらいだ。
さて、下の記事の安倍政治の細目について、それらをどの程度心配するべきか、私自身が直観で判断してみる。もちろん、「右翼思想教育」などは長期的に国民をじわじわと洗脳する危険なものだが、短期的な危険性、という観点で判断してみる。危険性の高い順にA、B、C、Dとしてある。もちろん、Dだろうが、悪政であることに変わりはない。


◇集団的自衛権行使法整備 :危険性B
◇武器輸出の加速 :危険性C
◇原発再稼働及び新設計画 :危険性C(長期的には
◇特定秘密保護法の本格稼働 :危険性B
◇愛国教育の徹底 :危険性C
◇言論介入:危険性C
◇アベノミクスの深化と加速:危険性 D
◇大企業(財閥企業依存)経済の再構築:危険性D
◇TPP参加による自由市場主義の本格導入:危険性A
◇雇用形態のリストラクチャリング、非正規雇用の拡充:危険性A
◇アベノミクス修正補正 ◇税制改革(原則増税)と社会保障(原則縮小):危険性B
◇憲法改正、等々 :危険性C

補足すれば、憲法改正(正しくは改悪)は、実現しないだろう、という予感があるから危険性Cとした。もちろん、憲法改定反対の運動は継続する必要はあるし、油断は禁物だが、日本国民がいくら馬鹿でも、憲法9条を削除するのに賛成するほどのキチガイが国民の過半数を占めるとは思えないのである。むしろ、集団的自衛権(正しくは「権利」ではなく戦争参加「義務」)の法的整備の方が危険だろう。これは、憲法9条と矛盾するから、本来は法律が成立するはずはない、と私は思うのだが、例によって法匪たちが屁理屈をこねて成立させる可能性はある。アベノミクスは、成功したところで国民への恩恵は無いが、成功しようが失敗しようが国民生活とは無関係である、という意味で危険性はDである。(笑)
まあ、TPPさえのらりくらりと躱せば、後は何とかなるのではないか、というのが私の感想だ。(このあたりが私が根が楽天的だと言うゆえんだ。)そして、政府は案外とTPP妥結に(つまり米国政府に)抵抗しているように私には見えるのである。もしそうならば、安部政権を少し見直す必要がありそうだ。
TPP妥結を引き延ばせば、米国政府自体の混乱と騒動が来年には起こる可能性もある。(何しろオバマは任期末期のレームダック状態である上に、上院下院とも民主党は少数派である。)大統領選が近づけば、TPPどころではなくなる。つまり、日本の粘り勝ちだ。ナポレオンのロシア侵攻に対するクツゥーゾフ将軍の後退戦略の見事な換骨奪胎となるだろう。





(以下引用)



 まあそれでも、15年は安倍政治が本格稼働する年になるわけだが、実は非常にタイトな日程で、安倍官邸は「戦後レジュームからの脱却」(戦前回帰)を行うことになる。筆者が記憶にあるものだけ書き連ねても、以下のようなものになる。大袈裟に言えば、政府が自ら、“民意を得たからやっちゃうよ革命”なのである。我々国民にかなり影響が及ぶであろう主なものだけ並べてみたが、戦後の政治シーンで、一つの項目の話題を出すだけでも、内閣が潰れそうな問題を、10個以上も並べ立てているのだか、驚くというか、驚がく的なのだ。しかし、国民の生活の中で、それらの驚愕の目標に敏感に反応している様子は窺えない。

◇集団的自衛権行使法整備
◇武器輸出の加速
◇原発再稼働及び新設計画
◇特定秘密保護法の本格稼働
◇愛国教育の徹底
◇言論介入
◇アベノミクスの深化と加速
◇大企業(財閥企業依存)経済の再構築
◇TPP参加による自由市場主義の本格導入
◇雇用形態のリストラクチャリング、非正規雇用の拡充
◇アベノミクス修正補正 ◇税制改革(原則増税)と社会保障(原則縮小)
◇憲法改正、等々

 昨日のコラムの見出しのように“ボコボコに なるまで待とう”と云う心境でなければ、以上のような国家観の革命的変革を黙って見過ごすことは、本来ありえないような気がする。上記の方向性が本当に実行されると云う事は、「お前たちを“いい所”に連れていくけどイイよね?」と聞かれて、“いい所”ってどこですか?と聞くのが普通だ。数多くの、いい所を例示されるので、記憶の曖昧な国民は、全部合わせると、どういう所に行くのか判らなくなるようだ。

 「TDLだろう、花畑だろう、食べ放題の回転すし、ストリップ劇場だろう、USJだろう、屠殺場だろう、東京オリンピックに、津々浦々の好景気だろう、美しい国だろう、みんなが力を合わせてだろう、誰にも負けないおとぎの国だろう、人類はみんな家族だろ、強いものはもっと強く、弱いものは弱いものらしく、だよね、そうだよね。今君はウンと言ったよ。」

 なんだか判らないけどいい所みたいだね。そんな感じの詐術なのだろうが、安倍内閣の羅列された遣りたいこと一覧表を見ながら、政治日程を考えると、かなりの無理がある事は承知でやっている節がある。統一地方選の時期まで待つとすると、安保関連、原発、TPP関連の問題を1年半と云う期間に集中的に片づけなければならない。憲法改正までは手が届かない段階で、参議院選挙の時期に到達する。来年中には、アベノミクスの副作用が顕著化するだろうから、経済大失政も国民の知るところとなるだろう。多分、ここまでくれば“ボコボコに なるまで待とう”の状況だと思うのだが、どうなのだろう。

 常識的には、ここまでくれば流石に国民も目覚めると思いたいのだが、まだボコボコ状態だと思わない可能性もある。それが、国民保有の1700兆円近い金融資産の蓄積だ。これを食い尽くさない限り、国民が怒らない可能性があるのかも?という不安はよぎる。現在政府は、この1700兆円の略奪方法を色々仕掛けているが、日経が煽るほど人は動いていないようだ。

 そうなると、最後の手段は預金封鎖に至るのだろう。この最悪のシナリオは、安倍政権でなくても起きうる話だ。消費税30%か、預金凍結。消費税30%か年金半額、医療費5割負担。そんな究極の選択時代が日めくりカレンダー程度の速度で動いているのは確実なようだ。もう一つ究極の選択もある。戦争を始めてしまうことで、第二次大戦同様に、お国を“御破算で願いましては”を画策する手も残されている事も頭の片隅には置いておくべきだ。無論、このような悲惨な状況が日本だけで起きるわけではなく、先進諸国全体に起きる可能性が地球規模であることも認識しながら、未来を展望していきたいものである。注:継続テーマなので、各回結論が出るとは限らない。

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村の姿は変わっても井戸は変わることはない

とりあえず、メモとして転載。(「東海アマツィッター」より)
元記事を未読なので、今は何も言えない。

ついでだが、昨日書いた、易で来年の世界を占う、の結果は、あまり良くない。
卦は「水風井」の4爻。表面的には変わっても、大事な部分は変わらず、たとえば井戸の中で釣瓶が行ったり来たりするだけで、そのうちに釣瓶が横壁に当たって壊れるような可能性もある、という卦だ。ただし、上に立つ者が、井戸が人を養うように民を慈しめば吉、である。(世界の中ではプーチンと、後わずかな指導者がそれだろう。)まあ、世界支配層の世界支配はなかなか来年1年くらいでは終わらない、ということだろう。
もっとも、旧態依然の頭で物事を推し進め、井戸の中で釣瓶を壊すのがユダ金やネオコンならば、この卦は実に素晴らしい卦だとも判断できる。(釣瓶が壊れるとは、つまり金融資本主義の崩壊、というわけだ。何しろ、金融資本主義ではカネや証券・債権を「流動性」などと妙な言い方をしてるから、これは井戸の中での水の上下にぴったりだ。で、カネは天下を流通しているように見えながら、実は同じ釣瓶の中にばかりあった。この釣瓶がユダ金だw)
4爻「井、甃す。咎なし」これは井戸が修復され、新たな使用を待つばかりになっている、ということだから、この4爻を考慮すれば、案外、世界の再構築(の下準備)は来年には完成する、とも取れる。それがユダ金によるNWOか、プーチンによる非西側大同盟かは不明だが。
変卦は「沢風大過」で、激変を暗示しており、本格的な世界変動は来年ではなく再来年からか。
何度も言うが、私は霊力はゼロなので、ここに書いたことは単なる考察のヒントやきっかけ程度になればいい、ということである。

なお、「金融資本主義」が壊れた場合、まず庶民生活が滅茶滅茶になる。その後はユダ金による恒常的収奪体制が無くなるから、長期的にはプラスだが、さしあたっては、預貯金が引き出せなくなる、といった事態もありうるから、銀行預金の一部は現金化し、さらに必要物資は「物」として備蓄しておくのが賢明だが、これは言うまでもなく天が壊れて落ちてくるのではないか、という杞の人の憂いにも似た用心である。まあ、この手の「国家破産」「日本デフォルト」話は何度も言われてきたが現実化したためしはない。それでも、銀行をあまり信じすぎないほうがいいというのが私の考えだ。





(以下引用)前説とは無関係な記事である。(笑)

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仮想教室:「ドリトル先生航海記」を読む(その4)

(前回の続き。これで全部終わり!)



生徒B「次行きます。『He knew everybody in Puddlebyand he knew all the dogs and all the cats.』」



生徒C「『彼はパドルビーのすべての人間とすべての犬や猫を知っていた。』」



生徒A「次行きます。『In those times being a catsmeetman was a regular business.』」



生徒B「『その当時、猫肉屋はありふれた商売だった』」



生徒C「次行きます。『And you could see one nearly any day going through the streets with a wooden tray full of pieces of meat stuck on skewers and crying ,“Meat! Meat!”』」



生徒A「『そして、ほとんど毎日のように、その猫肉屋が、木の盆の上に『stuck on skewers』された一杯の肉を手にして『肉! に、い、く、う!』と叫びながら大通りを行くのを見ることができた』」



先生「苦心の訳だな。でも、『skewers』は、多分荷車か何かだな。つまり、木の盆の上にあるものじゃなくて、逆に木の盆が『skewers』に『stuck』されているわけだ。」



生徒C(辞書を引いて)「先生、間違ってます。『skewer』は『串に刺す』ですね」



先生「あれ、そうだっけ? 僕の頭の中には猫肉屋が荷車を引いているイメージがあったんだけどな。じゃあ、そういうことで訳して」



生徒A「『そして、ほとんど毎日のように、その猫肉屋が、木の盆の上に載せた、肉の串刺しを持って『肉! に、い、く、う!!』と叫びながら大通りを行くのを見ることができた』」



 生徒B「次行きますよ。『People paid him to give this meat to their cats and dogs instead of feeding them on dog biscuits or the scraps from the table.』」



 生徒C「『人々は自分たちの猫や犬に犬用のビスケットやテーブルの残飯をやる代わりに、彼に金を払ってその肉を買うのだった。』」



 先生「いい訳だね。『買う』という言葉は原文にはないけど、確かにここでは、それを入れた方が原文の意図を伝えている。『犬用のビスケット』は、現代なら『ペットフード』となるところだけど、時代色を出すためには、『犬用のビスケット』の方がいいね。『scraps』を『残飯』としたのもいい」 



 生徒A「次行きます。段落が変わります。『My third great friend was the Luke the Hermit.』」



 生徒B「『私の三人目の友達は、ルーク・ザ・ハーミットであった。』……先生、『Hermit』って何ですか?」



 先生「さあ、何だろう。辞書を引いてみようか。『隠遁者、隠者』とあるな。『隠者のルーク』とでもしておくか」



 生徒C「先生、隠者って何ですか?」



 先生「世を逃れて孤独に住んでいる人間だ」



 生徒C「乞食ではないんですね?」



 先生「乞食は生活の手段だから、関係ないね。まあ、隠者が乞食をすることもあるだろうけどね」



生徒C「段落が変わります。『I did not go to schoolbecause my father was not rich enough to send me.』」



生徒A「『私は学校には行っていなかった。なぜなら、私の父は、私を学校にやるほど金持ちではなかったからだ。』」



生徒B「先生、この話はいつ頃の話なんですか?」



先生「さあ、19世紀の終わり頃じゃないかな。つまり、シャーロック・ホームズと同じ頃だ。20世紀初め頃かもしれない」



生徒B「イギリスでは義務教育制度はなかったんですかね」



先生「まあ、そうかもしれないね。後進国の日本が義務教育制度を実施したのは英断だったと思うよ。そのおかげで日本は20世紀に先進国の仲間入りできたんだ。それより、もう少し進めておこうか」



生徒B「『But Ⅰ was extremely fond of animals.』」



生徒C「『しかし私は特別に動物が好きだった。』…うーん、あまりいい訳じゃないな。」



先生「悪くはないさ。『でも、私はとても動物が好きだった』とすれば口語的な自然な感じにはなるけどね」



生徒A「『So Ⅰ used to spend my time collecting birds egg and butterflies , fishing in the river , rambling through the countryside after blackberries and mushrooms and helping the musselman mend his nets .』」



生徒B「『だから私はいつも鳥の卵や蝶々を集めたり、川で釣りをしたり、田舎でブラックベリーやマッシュルームを探してぶらぶらしたり、貝掘りが彼の網を修繕するのを手伝っては時間を過ごしていた。』」



先生「いいところとわるいところがあるね。全体的にはこなれた訳だけど、『countryside』を田舎とするのはおかしいだろう。子供の足でいきなり町から田舎に行くのは変だから、ここは『町のひなびたところ』くらいがいいんじゃないかな」



生徒B「『ひなびた』ってどういう意味ですか?」



先生「田舎じみたところってことさ」



生徒B「うーん、あまり変わらないような気がするけど……」



先生「そうかい? まあ、じゃあ今日はここまでにしておこう」


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仮想教室:「ドリトル先生航海記」を読む (その3)

(前回の続き。全3回ではなく全4回になりそうです。)




第二回目の授業 (第一章の続き)



 



先生「じゃあ、前回の続きを行こうか。前回は、語り手の少年、トミー・スタビンスが、



見たことのない世界にあこがれていた、という所までだったね。例によって、A君、B君、Cさんの順に、一文ずつ読んで、訳してもらおうか」



生徒A「『Three great friends I had in Puddleby in those days.』」



生徒B「『三人の偉大な友人を、その当時私はパドルビィの町で持っていた。』?」



先生「『great』は、『偉大な』ではなく、『大人の』か、『大きな』がいいだろうね。後でわかるけど、その三人のうち二人はまったくの貧民だからね。英語の『great』には、我々が思うほどの賛嘆の気持ちは無いようだよ。プラターズの歌にも、『great pritender』ってのがあるけど、これも『偉大な嘘つき』とすると変だしね.次行こうか」



生徒C「『One was Joe ,the musselman ,who lived in a tiny hut by the edge of the water under the bridge.』」



生徒A「『そのうちの一人はジョーで、彼は『mussel-man』で、川沿いの、例の橋の下の小さな『hut』に住んでいた。』」



先生「A君、『hut』は何だと思う?」



生徒A「小屋でしょうね。橋の下にあるんだから」



先生「多分ね。『mussel-man』は私も分からない。ええと、辞書では『mussel』しかないけど、『イガイ科二枚貝の総称』となっている。わけがわからないね。しゃくだけど、本の後ろの注釈に頼ろう。ええと、『貝を掘る男』だって。なあんだ。でも、なあんだ、と言っちゃあ、本当はいけない。「解体新書」の「フルッヘンド」の話にもあるように、初めて翻訳する時は、意外な、単純なところに苦労するものだし、後から来た人間がそうした先人の苦労の遺産の有難味を忘れてはいけないんだ。おっと、次に行こう」



生徒B「『This old man was simply marvellous at making things.』」



生徒C「先生、この『simply』は、『単純に』と訳していいんですか?」



先生「よくないだろうね。次の『marvellous』と矛盾する。これは強調の副詞だろうから、『とても』とでもすれば?」



生徒C「『この老人は物を作ることにかけてはとても素晴らしかった。』」



先生「OK、次」



生徒A「『I never saw a man so clever with his hands.』」



生徒B「『手仕事については、これほど優れた人間を私はかつて見たことがない』」



先生「いいね。『clever』を『賢い』としなかったところは偉い。多くの生徒の欠点は、自分が知っている訳語にこだわって、文脈をまったく考えない訳をしてしまうことだ.『hands』を『手仕事』としたのもいい」



生徒C「『He used to mend my toy ships for me which I sailed upon the river ;he built windmills out of packingcases and barrelstaves ; and he could make the most wonderful kites from old umbrellas.』」



生徒A「『彼は私のために、私が川の上を走らせるためのおもちゃの船をいつも修繕してくれたし、荷箱や『barrelstaves』から風車を作ってくれたし、古い傘から最高に素晴らしい凧を作ってくれた』」



先生「『stave』は『樽板』だと辞書にはあるね。まあ、『barrel』が樽だということくらいは分かっていただろうけど。ここで、“out of”を『~から』としたのはいいね。まあ、常識だろうけど、“of”自体が、“out”を起源としているという説があるね。つまり、その物が何から出て来たかを表す前置詞だ。“チーズは牛乳から出来る”とかね。だから、ある人間の出身地や、帰属する集団なども“何とかof何々”というように表すね。……これは脱線だな。次いこうか」



生徒B「段落が変わります。『Another friend I had was Matthew Muggthe catsmeetman.』」



生徒C「『catsmeetman』の訳は『猫肉屋』でいいんですね?」



先生「それしかないね。井伏先生の名訳だからね。これを『ペットフード屋』としちゃあ、この話の雰囲気が変わってしまう」 



生徒C「『私の持っていたもう一人の友人は、猫肉屋のマシュー・マグであった。』」



生徒A「続けますよ。『He was a funny old person with a bad squint.』」



生徒B「『彼は『bad squint』な面白い老人だった』」



先生「辞書では、『squint』は斜視、やぶにらみの事だな。それに、ここでのoldは、語り手のトミーから見ての話だから、『老人』とするよりは『大人』とするほうがいい」



生徒B「『彼は、ひどいやぶにらみの面白い大人だった』」



生徒C「続けます。『He looked rather awful but he was really quite nice to talk to.』」



生徒A「『rather』は『やや』ですか、『かなり』ですか?」



先生「困ったな。辞書には両方出ている。『やや』と『かなり』は正反対だのに、二つとも『rather』の訳になるってのが問題だよな。こうしたことから英語が嫌いになる生徒も多いんだけどね。まあ、『ひどい斜視だ』とあるから、『かなりawfulだ』にしておこう」



生徒A「『彼はかなり恐ろしい顔をしていたが、話してみるととても素敵な人間だった』それとも『話すには素敵な人間だった』がいいですかね」



先生「どっちかな。まあ、どっちでもいいさ。それより、『nice』を『素敵』とするのはどうかな。どうも女性的な感じの表現だから、『感じのいい』くらいがいいかもしれない」



生徒B「先生、『nice』には、『愉快な』という訳もありますよ」



先生「えっ、そうなの? なら、マシュー・マグのキャラクターなら、そっちがいいな」



生徒A「『彼はかなり恐ろしい顔をしていたが、話すととても愉快な人間だった。』」





 

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仮想教室:「ドリトル先生航海記」を読む(その2)

(前回の続き。全部で3回の予定です。)




生徒A「『Sailing ships came up this river from the sea and anchored near the bridge.』」



生徒B「『Sailing ship』は帆船でいいんですか?」



先生「いいんじゃない?」



生徒B「『帆船がこの川を海から遡ってきては、この橋の近くに錨を下ろすのだった。』」



先生「いいねえ。『おろした』ではなく、『おろすのだった。』というところがいい。――日本語の困るのは複数表現がしにくいところだな。『帆船』を『帆船たち』とするわけにはいかないからねえ。もっとも、最近では、物にも『何々たち』という言い方をする表現者も多いようだけど、まだ日本語としては熟していない表現だな。次行こう」



生徒C「『I would sit on the riverwall with my feet dangling over the water and watch the sailors unloading the ships and listen to their songs until I too could sing them by heart.』」



生徒A「このwouldは習慣を表すのですね?」



先生「まあ、そうだろうね」



生徒A「『私はその川の壁に……』先生、川の壁って何ですか」



先生「堤だけど、挿絵で見ると、ブロック造りの、文字通りの壁だな。でも、どう訳そう。そのまま『川壁』としておいて。井伏先生だって、後に出てくる『catsmeetman』を『猫肉屋』と訳していたからね」



生徒A「『私はその川壁に座って、足を水の上で『danglimg』させながら,水夫たちが船を『unloading』しながら歌うのを、それを私自身も覚えてしまうまで聞いていた。』」



先生「ここは辞書に頼らないで考えてみようか。こういうのも翻訳の楽しみだからね。A君、『dangling』はどういう動作だと思う?」



生徒A「挿絵から見て、『ぶらぶらさせる』ですかね」



先生「そうだろうね。挿絵のある本は、こういう時、本当に助かる。もっとも『川壁』に座って、足のできる動作と言えば、ぶらぶらさせるしかないけどね。でも、英訳の際に、その程度の頭さえも使わない生徒は結構いるよ。じゃあ、『unloading』は?」



生徒A「『荷下ろし』ですかね。loadigが『負担する』とか『負荷する』だし、それに否定の『un-』がついているわけだから」



先生「いいねえ。頭ってのは、そういう具合に使うんだ。ゲームをする人間なら、『now loading』という表示はおなじみだけど、そういう身近な英語も、ちゃんと意味を調べる生徒は少ないよ。これでこの段落は終わりだ。じゃあ、次の段落に行こう」



生徒B「『When they set sail again I longed to go with them and would sit dreaming of the wonderful lands I had never seen.』」



生徒C「『その船たちが再び出帆する時は、私は彼らと一緒に行きたいと心から願い、そして、私のまだ見たことのない素晴らしい世界を夢見ながら座っていたものだった。』」



先生「おっと、『物―たち』表現で来たね。まあ、それほど違和感もないからいいか。『wonderful』は、まあ、『素晴らしい』が一般的な訳だろうけど、ここは文字通り『wonderful』な、つまり、驚異に満ちた世界のイメージだろうね」



生徒A「次行きますよ」



先生「ちょっと待って。この段落は、この一文だけで一段落だ。つまり、ここでのトミー・スタビンスのこの述懐が、『ドリトル先生航海記』の、素晴らしい、『wonderful』な航海を予告していることに注意しておこうか。おっと、だいぶ、時間もたった。今日はここまでにしておこう。じゃあまた」









 



 



 



 


 


 

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仮想教室:「ドリトル先生航海記」を読む

古いフラッシュメモリーの中で、内容が無事に保存されているものが少々見つかり、それをこの前から読んでいるのだが、中には我ながら面白いと思うものもある。下の文章は例によって三日坊主に終わった試みの一つであるが、今読んでも結構面白く、続けなかったのが悔やまれる。と言っても、京都への引っ越しの際に英語の原書は処分したので、今さら再開もできない。しかし、せっかく書いたのを死蔵し、誰も知らないまま消え去らせるのも空しいから、ここに公開しておく。自分が高校生くらいの頃に、こんな形で英語の勉強をしたかったと思う。






   仮想教室:「ドリトル先生航海記」を読む   2006年3月12日開始



 





 



 私の夢は、英語の原書をすらすら読めるようになることであるが、これはまさしく夢であり、ろくに勉強もしていないのだから、その夢は50歳を過ぎた今でも実現していない。兼好法師は、「齢40になるまでに物にならない技芸は捨てよ」と言っているから、そろそろあきらめてもいい頃ではある。それに、ほとんどの本は日本語訳で読めるのだから、無理して今さら英語の勉強をする必要も、本当は無いのである。しかし、今でも「英語で」読むこと自体は嫌いではないから、楽しみのための勉強(「勉強」とは、「勉め、強いる」ことだから、これは矛盾だが)として英語の本を読むことは少しはやっている。古本屋に行けば、面白そうな英語の本が良く見つかるから、それを少しずつ読むのが私の趣味の一つだ。そうした本の一つにヒュー・ロフティングの「ドリトル先生航海記」があった。



 この「ドリトル先生航海記」は、おそらく現在の大人の多くが、子供の頃に夢中になって読んだ本の一つだろう。動物と会話が出来る人間の話というアイデアも素晴らしいが、ストーリーの細部に見られるドリトル先生の温かな人間性の魅力は、凡百の児童文学には見られないものである。もう一つ、この作品が日本で迎えられたのは、井伏鱒二の名訳のおかげもあると思う。これは石井桃子が戦争中に、井伏鱒二に頼み込んでやらせた仕事らしい。私の考えでは、井伏鱒二の仕事の中で、一番長い生命を持つのは、「山椒魚」以外では、この翻訳ではないかと思う。



 さて、これから私がやろうとしているのは、この「ドリトル先生航海記」を教材とした架空授業である。授業というよりは、セミナーというか、雑談形式あるいは、輪読のような感じで、原書を読み解いていこうという趣向だ。それを架空授業の形で文章化していけば、私自身が飽きないでできるのではないかという狙いである。原書を読みながら、私自身が疑問に思ったことを記録し、それを後で井伏鱒二の訳と対照すれば、私は井伏鱒二から英訳の授業を習うという、素晴らしい体験ができることになる。これは英語の学習法としても、相当に面白い趣向ではないだろうか。もちろん、私の英語の学力は高卒レベルだから、とんでもない間違いを人前にさらすことになるが、この年になれば、恥をさらすことへの恐れはあまり無い。それが年をとることの一つのメリットだ。では、始めよう。



  



第一回目の授業  ( 第一章 The cobblers son )



 



 先生「まず、第一章の題名からして、分からないね。Cobbler って何だろう。辞書を引いてごらん」



 生徒A「靴の修繕屋ですね。靴直し。ついでに言うと、Cobbleには舗道の丸い敷石の意味があります」



 先生「そういえば、確か、サイモンとガーファンクルの歌の何かに、cobble stoneってのが出てきたな。第一章の題名は、そうすると、『靴屋の息子』かな」



生徒A「『靴屋』と『靴の修繕屋』は違うでしょう。靴の修繕屋の方が、より貧しい感じではないですか?」



先生「そうだな。井伏先生がどう訳しているかは後で見ることにして、ここは『靴直しの息子』にしよう。では、とりあえず本文を、一文ずつ読んでいこうか。B君、読んでごらん」



生徒B「First of all I must tell you something about myself.」



先生「特に問題は無いね。A君、訳してごらん」



生徒A「『まず最初に、私は自分自身について何かを言わねばならない。』」



先生「うーん、間違いじゃないけど、硬いね。いちいち、原文に忠実に訳すと、かえって原文のニュアンスが失われてしまうこともあると思うよ。このmustは、それほど重々しい感じは無いと思う。単に、語り手が読み手に、物語の進行のために必要な情報を語っておこう、というだけだろう。B君、訳し直して」



生徒B「『まずはじめに、私は自分自身のことを語っておこう。』くらいのものですかね」



先生「『まず』と『はじめに』は同じ意味だから、いわゆる『馬から落馬した』式の重言になるけど、これは日常的によくでてくる言い方だし、細かいことにこだわりすぎても話が長くなるから、あまり細かいことは言わないで先に進もう。Cさん、次を読んで」



生徒CMy name is Tommy Stabbinsson of Jacob Stabbinsthe cobbler of PuddlebyontheMarshand I was nine and a half years old when I first met the famous Doctor Dolittle.」



先生「A君、訳してごらん」



生徒A「ええと、『私の名前はトミー・スタビンス、パドルビー・オン・ザ・マーシュという町の、ジェイコブ・スタビンスの息子で、あの有名なドリトル先生に最初に会った時は九歳半であった。』」



先生「なかなかいいね。井伏先生はこの町の名前を『沼の上のパドルビー』と訳していたけど、Marshを一応調べてみようか。Cさん、辞書を引いてごらん」



生徒C「『低湿地、沼地』とありますね」



先生「じゃあ、やはり『沼の上のパドルビー』だ。でも、ここで『上』というのは、『ほとり』の意味だから気をつけてね。それから、トミーの父親の名前は、ジェイコブでもいいけど、ヤコブと読めば、この家族が多分ユダヤ系だということがわかりやすい。ユダヤ人というと、我々は、ロスチャイルドみたいな金持ちを想像しがちだけど、一般のユダヤ人は、この家族のような貧しい人々が多かったのではないかと思われるね。ここで第一段落は終わりだ。では、第二段落の第一文をB君、読んでごらん」



生徒C「先生、ちょっといいですか」



先生「何かな、Cさん」



生徒C「セミコロンにはどういう意味があるんですか。コンマやコロンとの違いが良く分からないんですけど」



先生「難しいことを聞くなあ。ぼくがそんなの知ってるわけはないでしょう。とりあえず、推測で言うけど、コンマは短い句を並列する場合、セミコロンは、長めの句を並列する場合って感じじゃない? コロンは文章の区切り目というよりは、時刻の時と分の区切り目とか、算数の比の何対何の対の記号に使うんじゃないのかな」



生徒C「……」(疑惑の眼差し)



先生「先に行こう。B君、読んで」



生徒BAt that time Puddleby was only quite a small town.」



先生「問題ないな。『その当時、パドルビィはただの、とても小さな町だった。』。A君、次を読んで」



生徒A「A river ran through the middle of it ; and over this river there was a very old stone bridgecalled Kingsbridge.」



先生「Cさん、訳してごらん」



生徒C「『一本の川がその間を流れていた。そして、その川の上にはとても古い石の橋がかかっており、それはキングスブリッジと呼ばれていた。』」



先生「いいね。でも、『その間を』というところは、『町の中を』としたほうがいいかもしれない」



生徒C「先生、私、やっぱりセミコロンが気になるんですけど、ここ、2文に分けていいんでしょうか」



先生「いいんじゃないの。まあ、1文でも訳せそうだけどね。細かいことは気にせず、次にいこう。次は第三段落だな。面倒だから、もう、いちいち指示はしないよ。A君B君Cさんの順に一文ずつ読んで訳してもらおうか。次はA君が読んで、B君が訳す番だ」


 

 


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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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