幾つかの本と並行的に読んでいるマーク・ピーターセンの「英語の壁」の中に、日本語についての面白い疑問が書かれていた。
日本語学習教材で、登校する娘が母親に「行って来ます」と言い、母親が「はい、行っていらっしゃい」と応えるのだが、日本語学習者はそこで不思議に思うらしい。
出かけることを知らせるなら「行きます」で十分なのに、なんで毎回「(行ってから)また来ますよ」と知らせないといけないのだろうか。そしてお母さんにしても、なんでわざわざ「またおいで(いらっしゃい)」まで付ける必要があるのだろう、と思い、自分には自然な日本語は使えそうもないと感じる。
日本人だと小さい時からの習慣でまったく疑問に思わない言葉も、外国人日本語学習者は、それを合理的に考えてしまうため、疑問に思うわけである。
では、これに対して日本人として、どう説明ができるだろうか。
私はこういう「どうでもいい問題」を考えるのが大好きなので、考えてみる。
まず、母親の言葉だが、この「行っていらっしゃい」の「~(して)いらっしゃい」は、「~しなさい」の丁寧表現だろう。本来は「いらっしゃる」は「いる」の敬語だったと思われるが、補助動詞化して「~している」意味になり、その中でも「いらっしゃい」は「~しなさい」「~してきなさい」という婉曲な命令形になったと思われる。店員などがお客に言う「いらっしゃいませ」の中の「いらっしゃい」も本来は「いる」意味であって「来る」ではないと思う。(「ませ」は、丁寧語「ます」の語形変化で、相手の動作や行為を歓迎する意味だろう。)「いらっしゃいませ」は、つまり、この場に客が存在することを歓迎するものだろう。要するに、上記のピーターセン氏の「いらっしゃい」を「またおいで」という解釈は、補助動詞的用法を本動詞と錯覚したものだと思う。
娘の「行ってきます」の「きます」の解釈はもう少し難しい。私の解釈では、これは「行ってからまたここに来ます」ではなく「行っておきます」の「お」の音が脱落して「行ってきます」になったのではないか。つまり、「やっておきます」が「やっときます」になるようなものだと思う。では、なぜ「行っときます」ではなく「行ってきます」になったのか、と言えば、「言っときます」と混同されるからだろう、というのは少々苦しい解釈だろうか。要するに「行きます」ではなく、その行為が「行きっぱなし」ではなく限定された時間だけの不在である、ということを示すのが「行っておきます⇒行ってきます」だろう、というわけである。まあ、屁理屈だ。
日本語学習教材で、登校する娘が母親に「行って来ます」と言い、母親が「はい、行っていらっしゃい」と応えるのだが、日本語学習者はそこで不思議に思うらしい。
出かけることを知らせるなら「行きます」で十分なのに、なんで毎回「(行ってから)また来ますよ」と知らせないといけないのだろうか。そしてお母さんにしても、なんでわざわざ「またおいで(いらっしゃい)」まで付ける必要があるのだろう、と思い、自分には自然な日本語は使えそうもないと感じる。
日本人だと小さい時からの習慣でまったく疑問に思わない言葉も、外国人日本語学習者は、それを合理的に考えてしまうため、疑問に思うわけである。
では、これに対して日本人として、どう説明ができるだろうか。
私はこういう「どうでもいい問題」を考えるのが大好きなので、考えてみる。
まず、母親の言葉だが、この「行っていらっしゃい」の「~(して)いらっしゃい」は、「~しなさい」の丁寧表現だろう。本来は「いらっしゃる」は「いる」の敬語だったと思われるが、補助動詞化して「~している」意味になり、その中でも「いらっしゃい」は「~しなさい」「~してきなさい」という婉曲な命令形になったと思われる。店員などがお客に言う「いらっしゃいませ」の中の「いらっしゃい」も本来は「いる」意味であって「来る」ではないと思う。(「ませ」は、丁寧語「ます」の語形変化で、相手の動作や行為を歓迎する意味だろう。)「いらっしゃいませ」は、つまり、この場に客が存在することを歓迎するものだろう。要するに、上記のピーターセン氏の「いらっしゃい」を「またおいで」という解釈は、補助動詞的用法を本動詞と錯覚したものだと思う。
娘の「行ってきます」の「きます」の解釈はもう少し難しい。私の解釈では、これは「行ってからまたここに来ます」ではなく「行っておきます」の「お」の音が脱落して「行ってきます」になったのではないか。つまり、「やっておきます」が「やっときます」になるようなものだと思う。では、なぜ「行っときます」ではなく「行ってきます」になったのか、と言えば、「言っときます」と混同されるからだろう、というのは少々苦しい解釈だろうか。要するに「行きます」ではなく、その行為が「行きっぱなし」ではなく限定された時間だけの不在である、ということを示すのが「行っておきます⇒行ってきます」だろう、というわけである。まあ、屁理屈だ。
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