図書館から借りてきた10冊の本のうち、小説は軒並みつまらない感じなので、評論の類を読んでいるが、その中に「上野千鶴子が文学を社会学する」という本を気まぐれ的に借りていて、まだ少ししか読んでいない(流し読み、拾い読みしかしていない)が、それがなかなか面白い。
何しろ、上野千鶴子という女性は、男から見ると、近づくと呪われるという「たたり神」みたいな印象で、どうせ男への罵言だらけだろうと思っていたが、そうでもない。もちろん、フェミニズム的立場からの評論と言っていいかと思うが、文章は面白いし、頭がいい。
で、漠然とした印象だが、フェミニズムの最大の問題は、それ自体が女性に不利益を与えている面がかなり大きいのではないか、ということだ。その運動家が「男は女の敵だ」みたいなことばかり言っているという印象が社会的に流布されているせいだろうし、それはまた一面の事実でもあるのではないか。そしてそういう姿勢は(もし、それが事実なら)「男に愛されたい、男を愛したい」という女性をどんどん社会の片隅に追いやることになり、とどのつまりは社会の非婚化と少子化への最大貢献はフェミニズムである、ということになる。(まあ、非婚でも子供を作ることはできるが。)
上野自身が、そういう一面を次のように(「以下引用」部分に)書いている。
*念のために言えば書かれた内容にすべて同感しての引用ではない。たとえば
そして女を二種類に分けることで対立させ、分断支配することこそ、男性支配の定石ではなかったか
というの(女性の二分化と対立)は、むしろ戦闘的フェミニズム運動によって生じ、拡大したものではないか、と私は思っているが、むろんマスコミによる印象操作もあるだろう。
(以下引用)「ゲバルト・ローザ」は革命家ローザ・ルクセンブルグのことかと思う。(注)は夢人による。
反体制運動が、「もうひとつの家父長制」、エリートになりそこねた男たちによる対抗エリート主義にほかならなかったことは、新左翼の男たちが愛した任侠ものの映画にも見ることができる。彼らは、命をかえりみず死地におもむくやくざのヒーローを演ずる高倉健に同一化し、喝采をおくった。そして柱の陰には、男を見送るかれんな藤純子が袖をかみしめて涙をこらえている、という通俗的な構図である。
その時、女にはふたつのオプションがあった。「藤純子」を演ずるか、「ゲバルト・ローザ」になるか、言い換えれば、男に尽くし愛される「かわいい女」になるか、それとも男の価値を内面化して男並みの女になるか。新左翼の多くの女は、この両極にひきさかれた。男に愛されようとすれば、「戦力」にならない「女らしさ」の中に甘んじなければならず、男なみの能力を発揮しょうとすれば「男まさりの女」として、男から愛されることを断念しなければならない。そしてどちらも「男につごうのよい女」という意味では、大塚(注:大塚英志のこと)の言うとおり「かわいい女」ではあったのだ。カリカチュアライズすれば、連合赤軍の「総括」とは、「ゲバルト・ローザ」による「藤純子」の殺害であった。そして女を二種類に分けることで対立させ、分断支配することこそ、男性支配の定石ではなかったか。
(中略)
リブの闘士、田中美津は、「永田洋子はあたしだ」と宣言する。「永田洋子はあたしだ」という、この誤解をまねきやすい言い方で、あいかわらず逆説的に田中が意味するのは、「男に尻尾をふる女」と「ふらない女」とのあいだが、「紙一重」の違いであるという事実である。そこには、すべての女は永田洋子になる可能性を持っているという、女じしんの加害性に対する想像力がある。
何しろ、上野千鶴子という女性は、男から見ると、近づくと呪われるという「たたり神」みたいな印象で、どうせ男への罵言だらけだろうと思っていたが、そうでもない。もちろん、フェミニズム的立場からの評論と言っていいかと思うが、文章は面白いし、頭がいい。
で、漠然とした印象だが、フェミニズムの最大の問題は、それ自体が女性に不利益を与えている面がかなり大きいのではないか、ということだ。その運動家が「男は女の敵だ」みたいなことばかり言っているという印象が社会的に流布されているせいだろうし、それはまた一面の事実でもあるのではないか。そしてそういう姿勢は(もし、それが事実なら)「男に愛されたい、男を愛したい」という女性をどんどん社会の片隅に追いやることになり、とどのつまりは社会の非婚化と少子化への最大貢献はフェミニズムである、ということになる。(まあ、非婚でも子供を作ることはできるが。)
上野自身が、そういう一面を次のように(「以下引用」部分に)書いている。
*念のために言えば書かれた内容にすべて同感しての引用ではない。たとえば
そして女を二種類に分けることで対立させ、分断支配することこそ、男性支配の定石ではなかったか
というの(女性の二分化と対立)は、むしろ戦闘的フェミニズム運動によって生じ、拡大したものではないか、と私は思っているが、むろんマスコミによる印象操作もあるだろう。
(以下引用)「ゲバルト・ローザ」は革命家ローザ・ルクセンブルグのことかと思う。(注)は夢人による。
反体制運動が、「もうひとつの家父長制」、エリートになりそこねた男たちによる対抗エリート主義にほかならなかったことは、新左翼の男たちが愛した任侠ものの映画にも見ることができる。彼らは、命をかえりみず死地におもむくやくざのヒーローを演ずる高倉健に同一化し、喝采をおくった。そして柱の陰には、男を見送るかれんな藤純子が袖をかみしめて涙をこらえている、という通俗的な構図である。
その時、女にはふたつのオプションがあった。「藤純子」を演ずるか、「ゲバルト・ローザ」になるか、言い換えれば、男に尽くし愛される「かわいい女」になるか、それとも男の価値を内面化して男並みの女になるか。新左翼の多くの女は、この両極にひきさかれた。男に愛されようとすれば、「戦力」にならない「女らしさ」の中に甘んじなければならず、男なみの能力を発揮しょうとすれば「男まさりの女」として、男から愛されることを断念しなければならない。そしてどちらも「男につごうのよい女」という意味では、大塚(注:大塚英志のこと)の言うとおり「かわいい女」ではあったのだ。カリカチュアライズすれば、連合赤軍の「総括」とは、「ゲバルト・ローザ」による「藤純子」の殺害であった。そして女を二種類に分けることで対立させ、分断支配することこそ、男性支配の定石ではなかったか。
(中略)
リブの闘士、田中美津は、「永田洋子はあたしだ」と宣言する。「永田洋子はあたしだ」という、この誤解をまねきやすい言い方で、あいかわらず逆説的に田中が意味するのは、「男に尻尾をふる女」と「ふらない女」とのあいだが、「紙一重」の違いであるという事実である。そこには、すべての女は永田洋子になる可能性を持っているという、女じしんの加害性に対する想像力がある。
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