「徽宗皇帝のブログ」に掲載した岡山博氏の貴重な論考の一部をここに再掲載しておく。
私が常々考えていたようなことを、端的にまとめている。
頭のいい人の文章はいいものである。概して、理系の人の文章には無駄がなく、論理的で正確だ。私の文章など、次から次へと思いつくままに書いている「連想によるダラダラ文章」なので、読み返すと無駄ばかりだ。前にも書いたが、「出づるかと思えば消え、往いては永遠に帰るを忘る」という「行雲流水的文章」である。これは不正確な引用だが、『吾輩は猫である』中の苦沙弥先生の文章についての評語。
まあ、私はもともと雲が往くのを眺めるのが好きな人間だから、文章が「行雲流水」的であるのも当然か。
「徽宗皇帝のブログ」にも書いたが、パソコンの調子が怪しいので、いつこのブログも終わるか分からない。そこで、ぜひ多くの人に読んでもらいたい岡山博氏の文章を(長いので、ここには一部だけだが)こちらにも転載しておこうというわけである。
すぐれた思想を知る人が、ネットの拡散活動で一人でも増えれば、それは一つの社会的貢献をしたことになる。そのようなネットの機能が、まだまだ十分に生かされていないようだ。
植草教授などが、現在そのあたりを模索しているようだが、岡山博氏あたり、あるいは岩上安身氏あたりと手を結べば、面白いのではないだろうか。もちろん、そのほかにも有能誠実なネット知識人はたくさんいる。
ただし、ネット言論がネット世界内にとどまる限り、それは現実政治を動かす力としては弱すぎる、というのは「徽宗皇帝のブログ」の「明日のために」シリーズで書いてきた通りである。
今日は、別ブログとかなり重複した内容になったが、重複部分は「大事なことなので二度言いました」ということだ。
要するに、下の文章の要点、そして私の常々の主張の要点は、「自由にものが言えない社会が、すべての社会悪の根源である」ということであり、自由闊達な議論のできる風土や気風を作ることが、日本のこれからの最大の課題の一つである、ということである。
(以下引用)
事故経過のまとめ
・行政と電力会社は、原発の設置、拡大、運営、福島原発事故、事故後の対応のどの場面でも、真実を説明せず、議論を抑圧するために、社会と国民に偽りを言って、原発大方針を継続実行し、それまでの失敗を過小評価し隠蔽してきた。
・国民に真実ではなく偽りを言うことが行動様式の基本として現在も続いている。福島では、放射能を心配する言葉を口に出すことも出来ない。恐ろしいほどの言論抑圧社会が現実になっている。
・他人や社会を偽り、異なる発言する人を適し排除しては、原発を健全に運営することも、原発事故を健全・合理的に収束させることはできない。
・再点検し安全取り組みを強化して安全性を確認したと言って大飯原発を再稼動させた。
反対意見を敵視・無視して、偽りの説明をして強行した。
・異論を排除して強行するあり方が福島事故の最大の原因だ。これを改善せずに、原発稼動を安全にすることはありえない。
・津波堤防を数メートルかさ上げするなど見せ掛けの対策をして安全になったと偽りの説明を懲りずに繰り返している。
・福島事故が想定外の災害のために起きたという主張から出る唯一の結論は「想定しきれないことで大事故を生ずるから、想定した対策をしても安全を保障できない」という結論だけだ。
・ここでも、自分でも信じていないごまかしを言って、押し切っておけばかまわないという姿勢が貫かれている。
、
自由に物をいえない日本の人と社会
• 原発大爆発後も、自由に物が言えない社会を改善していない。逆に強化した。
• 物言えぬ日本社会のあり方は、原発事故に限らず、殆どの社会問題と、個人の多くの苦痛の基盤になっている
• 殆どの社会問題や、個人間の問題の解決を妨げる原因だ
• 自由に物が言えない、嘘・偽り・恫喝・侮辱が批判されず横行する社会は不健全で危険だ
過剰適応
• 強者に無条件同調を強要する社会に人々は過剰適応した。異論発言や、自分で判断することを恐れる精神を強めた。
• 考えるということは、「本当にそうか」と異論を考えることから始まる。そして答えが出るまで考え続けることだ。
• 多くの日本人は異論発言を避けて同調することを目指し、自由な発言を控えることを繰り返した。そして自分で検討・判断し発言する、能力・熱意、自覚を後退させた。
• 与えられた情況と選択肢の中から、気分で選ぶだけの言動を日常化した。論理を軽視して気持ちで納得することを繰り返した。作られた状況に流されて判断行動をする体質を身につけた。自分の言葉で発言しないと情況に応じて気持ちはかわる。自分の判断を長期に覚えていることはできない。
• その結果、遅い状況変化は気づかず、状況に流されて判断していることに気づかない。それを問題と理解する能力も失う。
私が常々考えていたようなことを、端的にまとめている。
頭のいい人の文章はいいものである。概して、理系の人の文章には無駄がなく、論理的で正確だ。私の文章など、次から次へと思いつくままに書いている「連想によるダラダラ文章」なので、読み返すと無駄ばかりだ。前にも書いたが、「出づるかと思えば消え、往いては永遠に帰るを忘る」という「行雲流水的文章」である。これは不正確な引用だが、『吾輩は猫である』中の苦沙弥先生の文章についての評語。
まあ、私はもともと雲が往くのを眺めるのが好きな人間だから、文章が「行雲流水」的であるのも当然か。
「徽宗皇帝のブログ」にも書いたが、パソコンの調子が怪しいので、いつこのブログも終わるか分からない。そこで、ぜひ多くの人に読んでもらいたい岡山博氏の文章を(長いので、ここには一部だけだが)こちらにも転載しておこうというわけである。
すぐれた思想を知る人が、ネットの拡散活動で一人でも増えれば、それは一つの社会的貢献をしたことになる。そのようなネットの機能が、まだまだ十分に生かされていないようだ。
植草教授などが、現在そのあたりを模索しているようだが、岡山博氏あたり、あるいは岩上安身氏あたりと手を結べば、面白いのではないだろうか。もちろん、そのほかにも有能誠実なネット知識人はたくさんいる。
ただし、ネット言論がネット世界内にとどまる限り、それは現実政治を動かす力としては弱すぎる、というのは「徽宗皇帝のブログ」の「明日のために」シリーズで書いてきた通りである。
今日は、別ブログとかなり重複した内容になったが、重複部分は「大事なことなので二度言いました」ということだ。
要するに、下の文章の要点、そして私の常々の主張の要点は、「自由にものが言えない社会が、すべての社会悪の根源である」ということであり、自由闊達な議論のできる風土や気風を作ることが、日本のこれからの最大の課題の一つである、ということである。
(以下引用)
事故経過のまとめ
・行政と電力会社は、原発の設置、拡大、運営、福島原発事故、事故後の対応のどの場面でも、真実を説明せず、議論を抑圧するために、社会と国民に偽りを言って、原発大方針を継続実行し、それまでの失敗を過小評価し隠蔽してきた。
・国民に真実ではなく偽りを言うことが行動様式の基本として現在も続いている。福島では、放射能を心配する言葉を口に出すことも出来ない。恐ろしいほどの言論抑圧社会が現実になっている。
・他人や社会を偽り、異なる発言する人を適し排除しては、原発を健全に運営することも、原発事故を健全・合理的に収束させることはできない。
・再点検し安全取り組みを強化して安全性を確認したと言って大飯原発を再稼動させた。
反対意見を敵視・無視して、偽りの説明をして強行した。
・異論を排除して強行するあり方が福島事故の最大の原因だ。これを改善せずに、原発稼動を安全にすることはありえない。
・津波堤防を数メートルかさ上げするなど見せ掛けの対策をして安全になったと偽りの説明を懲りずに繰り返している。
・福島事故が想定外の災害のために起きたという主張から出る唯一の結論は「想定しきれないことで大事故を生ずるから、想定した対策をしても安全を保障できない」という結論だけだ。
・ここでも、自分でも信じていないごまかしを言って、押し切っておけばかまわないという姿勢が貫かれている。
、
自由に物をいえない日本の人と社会
• 原発大爆発後も、自由に物が言えない社会を改善していない。逆に強化した。
• 物言えぬ日本社会のあり方は、原発事故に限らず、殆どの社会問題と、個人の多くの苦痛の基盤になっている
• 殆どの社会問題や、個人間の問題の解決を妨げる原因だ
• 自由に物が言えない、嘘・偽り・恫喝・侮辱が批判されず横行する社会は不健全で危険だ
過剰適応
• 強者に無条件同調を強要する社会に人々は過剰適応した。異論発言や、自分で判断することを恐れる精神を強めた。
• 考えるということは、「本当にそうか」と異論を考えることから始まる。そして答えが出るまで考え続けることだ。
• 多くの日本人は異論発言を避けて同調することを目指し、自由な発言を控えることを繰り返した。そして自分で検討・判断し発言する、能力・熱意、自覚を後退させた。
• 与えられた情況と選択肢の中から、気分で選ぶだけの言動を日常化した。論理を軽視して気持ちで納得することを繰り返した。作られた状況に流されて判断行動をする体質を身につけた。自分の言葉で発言しないと情況に応じて気持ちはかわる。自分の判断を長期に覚えていることはできない。
• その結果、遅い状況変化は気づかず、状況に流されて判断していることに気づかない。それを問題と理解する能力も失う。
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