和田秀樹ブログから一部転載。
現在の義務教育制度では、留年や落第は無いし、不登校の生徒でも卒業はさせる。つまり、まったく義務教育を受けていなくても受けたことにされるのである。実に無責任な話であり、私が常々、日本人の大人で義務教育レベルの知識が身についている人間はほとんどいない、というのはそこである。もちろん、不登校児と大学まで進学したような人間の知識は同レベルではないが、大学進学者でもその知識には膨大な抜けおちがあるものだ。
いい例がこの私で、私は中学レベルの理科の知識がほとんど無い。まったく興味もなかったから覚えることも不可能で、覚えたとしてもテストが終わると同時に忘れてきたのである。それでまがりなりにも大学の歯学部に受かったのだから、義務教育のいい加減さが分かろうというものだ。まあ、歯学部には入ったが、大学を中退したため、歯医者にはならなかった。その代わり人生の敗者になった、というのは冗談。おそらく、私は歯医者にはならなくて正解だったと思う。今の時代、歯医者の収入の低さはひどいもののようだし、仕事としてもたいして面白そうでもない。だが、これはまあ、歯医者になれなかった者の僻みと思ってくれてもいい。
下記記事にある、義務教育での留年というのは、しかし危険性が高い。
というのは、多くの公立中学校では、義務教育の学習内容が理解できない子供で溢れているからである。そういう生徒を留年させると、何年経っても卒業できず、中学中退ということになる。そういう人間が世間に溢れることになる。
それは、「義務教育を全うする能力」が当人に無いのだから仕方がない、と見るべきだろうか。こういう屈辱を味わわせて世間に放り出すことが、教育の役割だろうか。
もちろん、それはまずい。(本当にまずいのは中学校中退が恥であるような社会風潮なのであるが、その話は別の機会にしよう。)
世の中の人間の多くは勉強には向いていない。だが、その中には職人や農民としてなら立派な仕事ができる者がたくさんいる。現代社会の困ったところは、昔なら職人や農民になったはずの人間が、高校や大学まで進むのが当たり前みたいになっていることである。もちろん、その大半は「勉強」に向いていないのである。だから勉強で苦しむことになるし、大学生になれても大学生としての資質はゼロだ。大学にとっても当人にとっても不幸な話である。
まあ、昔のように、学者向きの人間が農民になるように宿命づけられた社会も困るのだが。
いったい、「義務教育」というのはどうあるべきなのか。
そもそも、「義務」というからおかしくなるので、昔は親が子供を学校に行かさずに家の仕事に使うことがよくあったから「義務教育」と言っているのである。つまり親にとっての義務だ。子供から見れば「教育を受ける権利」である。教育する立場からすれば、義務でも権利でもない。ただある程度のサービスを提供すれば、それでいいだけだ。それを「子供を卒業させるのは教育者の義務だ」と思いこむから無駄な苦労をすることになる。
私の考えでは、この問題の解決策は、義務教育に「単位制度」を導入することにある。一つの科目が履修できないからといって留年させるのではなく、進級した上で、その科目を自学自習して再履修すればいいだけだ。三年次なら、「仮卒業」させて、何回か再テストの機会を与えればいい。
で、「履修科目」も柔軟にする。数学や英語が必須科目である必要はない。総計で何単位か取ればそれで卒業資格は満たしたとすればいい。その科目の中には「自動車運転」や「ワープロ技能」や「パソコン技能」など、現代社会で重要性の高い実用技能科目を入れれば、生徒は楽しく真剣に学ぶだろう。いや、たとえば「社交ダンス」や「茶道」や「料理」や「家電修理」などを履修科目に入れてもいい。一生使うことのない英語や数学を学ぶより、人生でははるかに役に立つと断言できる。
たとえば自動車運転教習などをいつまでも運転教習所の独占にさせているのがおかしいのであり、これは警察利権でしかない。まあ、それがいいというのなら、指導教官に警察OBを使って教えさせてもいいわけだ。自動車運転など、中学生でも覚えることはできる単純な技能だ。そして必要性は高い。それこそ「義務教育」の履修内容とする資格がある。
というわけで、私は「単位制義務教育システム」を提案する。
で、中学は3カ年では少ないから5年か6年に延長するのがいい。授業は午前だけで、午後は部活か自由研究にすれば、まさしく子供にとっては天国のような中学時代になるだろう。まあ、同じ顔ぶれと5年も6年も鼻を突き合わすのがいやなら、簡単に転校できるようにすればいい。その際にもこの単位制度が役に立つわけだ。
(以下引用)
同じ大阪で、義務教育の留年制度が検討されているそうだ
私はこれには、反対ではない
できないところを残したまま、学年が上がっていくから、雪だるま式にできなくなる
ただ、小学生で留年というのでは、さすがに精神的にもたなかったりみじめになったりする子も出るだろう
昔の赤点や落第の発想では1科目できない科目があれば、1学年上がれないということだったが、科目単位で留年というのなら、まだみじめさも少しはカバーされるかもしれない
そして、最終学年で、フィンランドのように出遅れ科目を精算するために1年学校に残ってもらう
基礎学力がないまま、社会に出る人や高校に行く人が減れば、たぶん生産性は上がる
大阪の労働力の質がいいという話になれば、また大阪の賃金水準も上がるかもしれない
あるいは、もう少し、その子の自己愛を満たすチャンスを与えてやるとすれば、科目単位で飛び級というのも導入すればいいかもしれない
国語は1学年下の代わりに、算数は1学年上とかいうのなら、かなりメンツが保たれるし、自分の得意科目の自覚もできる
ただ、ちょっと心配なのは格差問題だ
おそらく、この制度が導入されればちょっと金のある家は、塾や家庭教師で留年を避ける
あるいは、留年を嫌がって私立の学校に逃がすかもしれない
そうなると公立は貧乏人の行くところというアメリカや東京の一部の区のようになってしまう
大阪の場合、もともと低学力と失業や貧困の問題がリンクしていた
そこのフォローの体制を考えないと、思ったような結果が出ないのではないかと勝手に考えてしまう
現在の義務教育制度では、留年や落第は無いし、不登校の生徒でも卒業はさせる。つまり、まったく義務教育を受けていなくても受けたことにされるのである。実に無責任な話であり、私が常々、日本人の大人で義務教育レベルの知識が身についている人間はほとんどいない、というのはそこである。もちろん、不登校児と大学まで進学したような人間の知識は同レベルではないが、大学進学者でもその知識には膨大な抜けおちがあるものだ。
いい例がこの私で、私は中学レベルの理科の知識がほとんど無い。まったく興味もなかったから覚えることも不可能で、覚えたとしてもテストが終わると同時に忘れてきたのである。それでまがりなりにも大学の歯学部に受かったのだから、義務教育のいい加減さが分かろうというものだ。まあ、歯学部には入ったが、大学を中退したため、歯医者にはならなかった。その代わり人生の敗者になった、というのは冗談。おそらく、私は歯医者にはならなくて正解だったと思う。今の時代、歯医者の収入の低さはひどいもののようだし、仕事としてもたいして面白そうでもない。だが、これはまあ、歯医者になれなかった者の僻みと思ってくれてもいい。
下記記事にある、義務教育での留年というのは、しかし危険性が高い。
というのは、多くの公立中学校では、義務教育の学習内容が理解できない子供で溢れているからである。そういう生徒を留年させると、何年経っても卒業できず、中学中退ということになる。そういう人間が世間に溢れることになる。
それは、「義務教育を全うする能力」が当人に無いのだから仕方がない、と見るべきだろうか。こういう屈辱を味わわせて世間に放り出すことが、教育の役割だろうか。
もちろん、それはまずい。(本当にまずいのは中学校中退が恥であるような社会風潮なのであるが、その話は別の機会にしよう。)
世の中の人間の多くは勉強には向いていない。だが、その中には職人や農民としてなら立派な仕事ができる者がたくさんいる。現代社会の困ったところは、昔なら職人や農民になったはずの人間が、高校や大学まで進むのが当たり前みたいになっていることである。もちろん、その大半は「勉強」に向いていないのである。だから勉強で苦しむことになるし、大学生になれても大学生としての資質はゼロだ。大学にとっても当人にとっても不幸な話である。
まあ、昔のように、学者向きの人間が農民になるように宿命づけられた社会も困るのだが。
いったい、「義務教育」というのはどうあるべきなのか。
そもそも、「義務」というからおかしくなるので、昔は親が子供を学校に行かさずに家の仕事に使うことがよくあったから「義務教育」と言っているのである。つまり親にとっての義務だ。子供から見れば「教育を受ける権利」である。教育する立場からすれば、義務でも権利でもない。ただある程度のサービスを提供すれば、それでいいだけだ。それを「子供を卒業させるのは教育者の義務だ」と思いこむから無駄な苦労をすることになる。
私の考えでは、この問題の解決策は、義務教育に「単位制度」を導入することにある。一つの科目が履修できないからといって留年させるのではなく、進級した上で、その科目を自学自習して再履修すればいいだけだ。三年次なら、「仮卒業」させて、何回か再テストの機会を与えればいい。
で、「履修科目」も柔軟にする。数学や英語が必須科目である必要はない。総計で何単位か取ればそれで卒業資格は満たしたとすればいい。その科目の中には「自動車運転」や「ワープロ技能」や「パソコン技能」など、現代社会で重要性の高い実用技能科目を入れれば、生徒は楽しく真剣に学ぶだろう。いや、たとえば「社交ダンス」や「茶道」や「料理」や「家電修理」などを履修科目に入れてもいい。一生使うことのない英語や数学を学ぶより、人生でははるかに役に立つと断言できる。
たとえば自動車運転教習などをいつまでも運転教習所の独占にさせているのがおかしいのであり、これは警察利権でしかない。まあ、それがいいというのなら、指導教官に警察OBを使って教えさせてもいいわけだ。自動車運転など、中学生でも覚えることはできる単純な技能だ。そして必要性は高い。それこそ「義務教育」の履修内容とする資格がある。
というわけで、私は「単位制義務教育システム」を提案する。
で、中学は3カ年では少ないから5年か6年に延長するのがいい。授業は午前だけで、午後は部活か自由研究にすれば、まさしく子供にとっては天国のような中学時代になるだろう。まあ、同じ顔ぶれと5年も6年も鼻を突き合わすのがいやなら、簡単に転校できるようにすればいい。その際にもこの単位制度が役に立つわけだ。
(以下引用)
同じ大阪で、義務教育の留年制度が検討されているそうだ
私はこれには、反対ではない
できないところを残したまま、学年が上がっていくから、雪だるま式にできなくなる
ただ、小学生で留年というのでは、さすがに精神的にもたなかったりみじめになったりする子も出るだろう
昔の赤点や落第の発想では1科目できない科目があれば、1学年上がれないということだったが、科目単位で留年というのなら、まだみじめさも少しはカバーされるかもしれない
そして、最終学年で、フィンランドのように出遅れ科目を精算するために1年学校に残ってもらう
基礎学力がないまま、社会に出る人や高校に行く人が減れば、たぶん生産性は上がる
大阪の労働力の質がいいという話になれば、また大阪の賃金水準も上がるかもしれない
あるいは、もう少し、その子の自己愛を満たすチャンスを与えてやるとすれば、科目単位で飛び級というのも導入すればいいかもしれない
国語は1学年下の代わりに、算数は1学年上とかいうのなら、かなりメンツが保たれるし、自分の得意科目の自覚もできる
ただ、ちょっと心配なのは格差問題だ
おそらく、この制度が導入されればちょっと金のある家は、塾や家庭教師で留年を避ける
あるいは、留年を嫌がって私立の学校に逃がすかもしれない
そうなると公立は貧乏人の行くところというアメリカや東京の一部の区のようになってしまう
大阪の場合、もともと低学力と失業や貧困の問題がリンクしていた
そこのフォローの体制を考えないと、思ったような結果が出ないのではないかと勝手に考えてしまう
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